坂下通りにあるキタハシ美容室は、美容師である父の成幸と、雑用を任されている祐介の二人で成り立っている。
 壁や床など、白で統一された空間の美容室は小さいが、地元の小さな雑誌に掲載されたことがある。
 店主の北橋成幸と、高校二年生の息子である祐介の二人の写真も、「お店の方のコメント」と一緒に載せてもらった。
 祐介はその時の雑誌を今でも部屋の本棚に置いている。
 今日も今日とて、開店の十五分前に祐介が顔を覗かせると、見知った人物がおり、思わず本音が出てしまった。

「げっ、浮田」

 祐介は成幸の隣にもじもじと立っている、クラスメイトの浮田薫を見て顔を歪めた。
 もさもさのぼさぼさ頭で地味な男。
 なんでこいつなんだよ。
 そんな思いが顔に出てしまい、成幸に頭を軽く叩かれる。
 己の右腕に巻かれている包帯が恨めしく、祐介は無意識に舌打ちをした。
 歓迎していない祐介の態度に、薫は目を泳がせる。
 薫が二人の前に姿を現すきっかけになったのは、ほんの三日前のことだ。


 キタハシ美容室で、祐介は毎日手伝いをしている。
 一階が美容室、二階と三階が二人で暮らす家であるため、暇さえあれば店に立っていた。
 態々家を出てアルバイトへ行かなくても、一階に下りればそこが成幸の職場であるため、祐介は小遣い稼ぎとして雑用をこなす日々。
 しかし夏休みに入る前日に、祐介は右腕を骨折した。全治三か月と医者に告げられ、その間は安静にしなければならない。成幸は骨折した祐介の代わりを見つけるため、三日前にアルバイトの募集をかけた。
 そうしてやってきたのが、薫だった。


 祐介は眉間にしわを寄せ、薫をつま先から頭までじっくり眺める。
 クラスメイトである薫のことを詳しく知っているわけではない。しかし、いつも一人でいて目立たない薫を根暗なやつだと決めつけるのに、時間はかからなかった。
 家が美容室ということもあり、祐介は他人の髪型に敏感だった。
 薫の髪はもさもさで、毛量が多く長い。顔周りの髪で目は隠れているし、どんな骨格をしているのかさえ分からない。
 何か月もカットしていないだろうということはすぐに分かる。
 クラスの男子の中で、一番髪に頓着がない奴。それに加えて根暗。その要素が祐介にマイナスの印象を与えた。
 祐介は将来、美容師になろうとは思っていないが薫の髪を見ると、その髪を引っ張って切り落としてやりたい衝動に駆られる。髪を切ったところで根暗が治るわけではない。
 教室の隅でぽつんと座っている薫の姿を思い出す。
 同類の根暗クラスメイトと固まることなく、ただ座っている。
 祐介はクラスでも目立つ方で、明るいクラスメイトたちと毎日騒がしくして過ごしている。
 毎日一人で過ごし、地味だと揶揄されている薫とは関りがない。
 自分とは対極的な薫に苦手意識どころか、少なからず嫌っていた。

「何で応募したんだよ」
「ぼ、募集してたから」

 そりゃそうだ。
 三日前、店の扉にアルバイト募集の張り紙を出したのだ。
 こんな小さな美容室が最低賃金の時給、交通費なしの条件でアルバイトを期間限定で募ったところで応募なんてこないだろう。そう思っていたが、予想を裏切り薫がやってきた。

「じゃ、祐介、教えてやってくれよ」

 成幸がそう言うと、タイミングよく扉が開いた。

「あのぉ、十時に予約してた日下部です」

 四十代くらいの女性が入店し、成幸が接客する。祐介は店の隅に薫を連れて行き、ペンとメモ帳を渡す。

「これでメモれ」
「あ、持ってきてる」
「あっそ」

 差し出したペンとメモ帳を近くのテーブルに投げ置く。

「じゃあメモれ」
「は、はい」

 薫は急いでポケットからメモ帳とペンを取り出す。

「うち、完全予約制だから予約してない客は受け付けない。美容師は親父一人で、普段は俺が雑用やって手伝ってんの。んで、今日からお前が俺の代わりの雑用係。親父一人だから、同じ時間に客を二人も受け入れられない。予約受けるときはそれに気をつけろ」
「予約を受けるって、どうやって……」
「は? 電話だよ電話。ネット予約なんてできないし」
「そ、そうだよね」
「見りゃ分かるだろ。こんなに狭い美容室だぞ」

 キタハシ美容室は、街にあるようなきらびやかな美容室ではない。
 美容師が一人しかいない美容室だ。規模が小さくなくては、やっていけない。
 祐介は一通り店のことを伝え、どんな雑用をするのかをざっくりと説明した。説明を聞くよりも、やった方が早い。
 そう思った祐介は細かく教えなかった。というのもあるが、本音は長く薫と会話をしたくなかった。
 嫌いな相手とは、一分一秒でも離れたい。
 祐介は「まっ、そんな感じ」とまとめ、成幸の傍に行くように指示した。薫はペンとメモ帳をポケットにしまい込み、祐介に言われたとおり、成幸の後ろに控えた。
 教室での様子や、あの見た目からして、仕事ができなさそうな奴だ。
 祐介は棒立ちになっている薫に失笑した。
 きっと今回が初めてのアルバイトだろう。男一人で切り盛りしている小さな美容室なら、自分でも働けると思ったのかもしれない。美容師が一人だから客は少ないはずだ、と思って応募してきたのだと推測した。
 間違いではない。完全予約制なので、飛び入りの客はいないし、成幸の都合で店内にいる客は常に一人だ。一応、客四人を同時に接客できるよう、四人分のスペースはある。だが客が四人同時に、店内にいたことはない。そんな小さな美容室ではあるが、「自分でもここなら働けそうだ」と下に見るような考えでやって来たことは腹が立つ。
 まるで監督のように、祐介は椅子に座って薫を監視する。

「浮田くん、電話に出てくれる?」

 店内の電話が鳴り、薫は恐る恐る電話に出る。その仕草さえ祐介は苛立つ。

「はい、キタハシ美容室です。はい、はい。はい、確認しますのでお待ちください」

 おどおどしながら電話に出るのかと思いきや、意外としっかりした声で対応する薫に、祐介は驚いた。
 電話の内容を聞くための祐介は薫の元へ行く。

「何、予約?」
「う、うん」
「そこのパソコンで予約表作ってるから」

 薫はパソコンを操作して表を確認し、電話に戻る。

「お待たせいたしました。その時間でしたら空いております。予約内容はどのようなものでしょうか?……カットとカラーですね、承知しました。それではお待ちしております」

 慣れたような対応に、祐介は目を見開く。
 電話を切った薫は何かを思い出したように、「あっ」と声を上げた。

「あの、カットとカラーということは、時間がかかるってことだから、この方の後に予約が入ってる方と時間が少し被ったり……」

 しまった、という顔で祐介を見る。
 祐介は予約を確認し、「こんくらいなら平気」と返した。
 薫は胸をなでおろす。
 その後、客が帰っていくと切った髪を掃除したりと、薫はきびきび働いた。
 その働きぶりは成幸も感心し、時折「ほう」と感嘆した。祐介はそれが面白くなく、むすっとした表情で薫を睨みつける。
 店が閉店すると、成幸は満面の笑みで薫を褒めた。
 この調子で明日も頼むよ、と声を上げながら笑っている。
 薫も満更ではない様子で頬を掻く。打ち解けている二人が気に食わない祐介は二人の間に立った。

「思ったよりは動けるみたいだけど、まだ初日だからな」
「お前は何でそんなに偉そうなんだ? 薫くん、気にしないでくれ」
「か、薫くんだと?」

 今日一日、浮田くんと呼んでいたのがいつの間にか薫くん呼びに変わっている。
 どうやら成幸は薫を気に入ったらしい。
 気に入らない薫に鋭い視線を送ると、薫はびくりと反応した。機嫌を窺うような眼差しを向けられ、祐介の眉は吊り上がっていく。

「薫くん。ここ座って」

 成幸が薫に座るよう促す。
 薫は言われるがまま座ると、成幸は薫の髪を切るべく準備を進める。

「お、親父」

 まさか無料で髪を切ってやるのか。祐介は成幸を止めようとするが、成幸は無遠慮に薫の髪を触る。

「少しだけ短くして、梳こうか」
「え、あ、はい」

 薫は抵抗することなく、慌てながらも大人しくされるがままだ。

「親父、何してんだよ」
「薫くん、長い間美容室に行ってないだろ。この暑さだから、切った方がいいんじゃないかと思って」
「だからって」
「駄目だったかな、薫くん」

 祐介を無視し、成幸は鏡に映る薫を見つめてにこやかに笑う。
 薫は首を振り、「お願いします」と小さく呟いた。

「おいお前、図々しいだろ」

 祐介がそう言うと薫が焦ったように振り向き、成幸と目を合わせる。

「今日から働いてもらうんだからこれくらいさせてもらわないと。それに」

 成幸はちらっと薫の顔を見た後、にっこり笑いながら言った。

「さすがにこの頭で接客は駄目だったな、ここは美容室なんだから」

 薫の心にぐさっと棘が刺さった。

「一理あるな。その頭はダサすぎ。根暗を根暗にしてる原因の一つだ」

 祐介は同調するように頷く。
 薫は耳を真っ赤にし、視線が下がっていく。

「短髪にはしないから。そうだな、こんな感じ」

 成幸は雑誌を取り出し、薫に見せた。
 その長さならば許容範囲である。薫は三回頷いた。
 シャキシャキという音と共に薫の黒髪がはらはらと床に落ちる。
 鏡で進捗を確認するのは気恥ずかしく、終わってから鏡を見ようと、薫の視線は下がったままだった。
 三十分が経過すると、成幸が「できた」と楽しそうな声を上げてタオルとカットクロスを外す。
 祐介は鏡に映る薫を目にし、息をするのも忘れて魅入っていた。
 髪の毛量が多かったため、今まで顔の造形が分からなかった。顔よりも髪に目がいき、どんな顔をしているかなんて、気にも留めていなかった。

「わぁ、すっきりしました。ありがとうございます」

 薫は鏡で髪を確認すると、成幸に礼を言った。
 成幸は「薫くん、イケメンだったんだなー」と笑い、二人の間に和やかな空気が流れる。

「いやいやいや、おい!」

 祐介は薫の肩を掴み、顔を自分の方へ向けさせる。
 突然の出来事に薫は「ひゃっ」と声を上げた。

「これが俺!? みたいな反応しろよ! どう見たってイケメンに仕上がってんだろ!」
「えっ、あ、うん。綺麗な髪型にしてもらって……」
「じゃなくて、めっちゃ美形じゃん! イケメンじゃん! 髪型変えただけで顔まで変わるかよ、意味分かんね」

 薫の顔を穴が開く程見つめていると、薫は恥ずかしさのあまり手で顔を覆った。祐介はその両手を片手で容赦なく掴み、上にあげる。薫の綺麗な顔に顔を近づけ、じっくり眺める。

「ちょ、北橋くん」
「うっわ、肌真っ白じゃん。お前、モデルか何かやった方がいいぞ」

 薫への苛立ちはどこかへ飛んでいき、今、祐介の心を占めているのは薫の綺麗な顔だけである。
 睫毛は長く、瞳の色素が薄い。髭は綺麗に剃っているのか、元々生えにくいのか、毛穴すら見当たらない。鼻筋はすっと通っていて、顔の造形、パーツ、すべてが整っている。
 こんな美人を見たのは初めてだ。
 思い返せば、毛量が多かった時も、鼻や顎の形は綺麗だった。

「お、親父。眉毛も整えてやれよ」
「そうだな」

 薫は大人しく二人に従い、成幸に眉毛を任せた。
 視界の端にいる祐介をちらっと盗み見る。
 薫から目を離さない。薫だけを見ている。
 祐介から向けられる視線を意識すると、顔に熱が集まった。

 成幸に眉毛を整えてもらったが、薫にはその良さがいまいち分からなかった。
 最初よりは綺麗な眉毛になっているが、毛が短くなったくらいである。よく見ると、形も先程よりは整っているような気もするが、どうなのだろう。

「眉毛の形を綺麗にするなら、サロンの方がいいかもね」
「さろん、ですか?」

 成幸から発せられた聞きなれない言葉に薫が訊き返すと、祐介は「そんなことも知らないのか」と失笑した。
 成幸は「こら」と軽く叱り、薫に笑みを向ける。

「うちはカット程度しかできないから、しっかり整えたいならサロンで施術してもらうのがいいよ。人の顔っていうのは、眉毛で印象が変わるからね」
「へぇ、そうなんですね」

 薫が感心していると祐介が「ふん」と口角を上げて近寄る。

「サロンだと料金がうちの倍以上になるからな。あと、ハズれのサロンに行くと変な眉毛になって無駄金になるから覚えとけよ。最近多いんだよな、そういうところ」

 自分の知識をひけらかすように言うが、薫はまったく気にせず「そうなんだ、教えてくれてありがとう」と真面目な表情で礼を言った。
 その反応が面白くなく、祐介は舌打ちをする。
 こいつ、嫌味とか通じない奴だな。祐介はそう確信した。
 祐介は薫との会話が終わった後も、無意識に薫をじっと見つめていた。
 正面からも横からも、どこから見ても綺麗としか言いようのない容姿であるため、視線を逸らすことができなかった。
 薫はそんな祐介からの視線に耐え切れず、立ち上がる。

「きょ、今日はありがとうございました。か、帰ります」

 いそいそと帰る支度を始める。成幸が「気を付けて帰れよ」と声をかけると、薫は深く一礼をして逃げるように店を出た。

「なんだあいつ、感じ悪いな」

 薫がいなくなると、祐介はそうこぼした。
 顔を顰めている祐介に、成幸はにやにやしながら声をかけた。

「薫くんの顔が気に入ったのか? 薫くんが可哀想になるくらい、見つめてたもんな」
「は、はぁ?」
「分かるぞ。ものすごい綺麗な顔だからな」
「そんなんじゃねーし!」

 祐介は怒りや羞恥で顔を赤く染め、二階へ上がった。
 どすどすと足音で感情を表す祐介に、成幸は小さく微笑んでいた。