本屋から家に帰る道、土手沿いの道を歩く。その河川敷の橋の下、小さな階段があって腰をおろすのにちょうどいい。俺は待ちきれなかった。高揚感を落ち着かせたい気持ちもあった。すぐに家に帰る気にはならなかった。早く読んで早く彼女には届けたい、なんていう気持ちがないといったら嘘になる。

 橋のおかげで日は避けられる。俺はそこに腰を据え、さっき買ったばかりの本を袋から出した。

 本を近づけてすーっと大きく息を吸った。この匂いが好き。新刊のこの匂い。図書館や中古からではしない匂い。

 そしてゆっくりとページをめくる。なるほど、噂通りである。こちらが読むことを努力しなくても一行、一行、地の文が脳にこびりついてくる。勝手に脳内に映像が広がり、字を読むというよりも映像を見る、そんな気分になった。俺は夢中でページをめくった。

 しばらくすると読みづらい、そこで初めてそんな感覚があった。視線を上げる、気がつくと日はすっかり落ちていた。もう外で読むには限界だった。俺は本を閉じ家路につく。

 しかし河川敷の読書はかなりよかった。テレビの音や雑音は読書を妨げる。特に読書にあまり慣れていない俺は集中力を妨げられる。だから明日もあの河川敷で読もう。
 川の音は邪魔しなかった、むしろ読書のバッググラウンドミュージックに最適だった。集中して何時間でも読み耽ることができた。

 俺は翌日も河川敷に行った。川の向こうから吹くぬるい風が頬を撫でる、それがとても心地よかった。

 あの本『いつもとおなじ私だけがいない明日』はとっくに読み終わっていた。切ない話だった。ヒロインの子は自分がいなくなってもいつもとおなじ明日が始まるだけと思っていた。だけど恋を知り、彼にとっては自分だけがいないだけ、“たったそれだけの明日”にはならないことを知る。実は後半ページをめくる手が止まらなかったんだけど、このままだと外で泣くことになりそうだからラストは家に帰って部屋に閉じこもって読んだ。

 明日泉水ちゃんに渡そうと思う。買った時と同じ袋に入れてテープで止める。汚れはないか、特に髪の毛なんて挟まっていないかを何度も何度も確認した。

 そして翌日、あの書店へ向かった。

「あっ」

 目が合うと泉水ちゃんはニコッと笑い頭を下げた。どうやら覚えてくれていたらしい。嬉しい。泉水ちゃんはしゃがんでふんふわとした素材のもので本を撫でるように拭いていた。本のホコリを取っているようだ。

 直後すぐ後ろの人に話しかけられたので俺も何かいい本はないかと本棚へ向かう。その時、泉水ちゃんは後ろから来た人に話しかけられた。なにやら困った様子なので近づいた。

「だから、『夢の国の楽園』てやつ、読書感想文でいちばん人気なんだって! 小学生が読むやつ、有名だと思うんだけどなー、お姉ちゃんわからないかー」

 孫に頼まれたのか白髪混じりに少し恰幅のいい男性が困ったように頭を掻いた。

「すみません、すぐ他の者を呼んできます」

 顔を強ばらせ両手を前に組みひたすら頭を下げていた。

「夢の国の楽園? 作者誰だろう?」

 そしてスマホを取り出して探そうとしたが、すぐに気づいた。さすが今小学生にいちばん人気というだけあって平積みされてあったのだ。目の前に、しかも大きな字でポップも出ていた。

「あ、これではないですか?」

 俺が声をかけると男性は「おお」と感嘆の声を上げた。「これだこれだ、目の前にあったな」ぐははと照れ隠しのように笑いそれを一冊手に取ってレジに向かった。

「すみません、ありがとうございました」

 泉水ちゃんは申し訳なさそうに謝った。

「全然、目の前にあるのって逆に見えないんですよね、俺も冷蔵庫の中にあるマヨネーズよく見落として母親に半ギレで言われるんですよ『目の前にあるでしょ!』って、あー、ほんとだ、奥の方見てたなーって」

 そう言うと泉水ちゃんはふっと緊張が取れたかのように相好を崩した。

「泉水ちゃん、そろそろ上がっていいわよ」

 ベテランの店員さんにそう言われ泉水ちゃんはハッとして「じゃあ」と俺に会釈をした。

 え? 帰るの?
 いや、待ってほしい。

「あの」
「はい?」
「この前の本、読み終わったからどうかなって、もうすぐ終わるなら外で待ってます」

 そう言うと泉水ちゃんは少し戸惑ったような顔をした。

 あー、やっちまった。俺はすごく後悔した。社交辞令を真に受けて泉水ちゃんを困らせてなにやってるんだって。こんなの下心見え見えだし、じゃあいつ返してとか感想教えてとかそんな感じで連絡先聞こうとしてるのバレバレ。

「えっと」
「ごめんなさい、俺、先走っちゃうようなとこあって」
「あ、いえ、そんなこと……」
「これ、返さなくてもいいし感想いらないしただ暇な時あったら、よかったらどうぞ! プレゼント」

 そう言って半ば押し付けるような形で本を渡した。泉水ちゃんは相変わらず戸惑っていたけど押し付けられた本を受け取るしかなかったようで両手で本を抱きとめた。