真波と行為をしたあの日から僕は連絡する回数を減らした。
 一週間と少し、今日もまた彼女からの連絡に既読をつけずスマホを閉じる。
 学校ではいじめられ、もうどこにも居場所がないような気がした。
 一体、どこに居場所があるのだろう。考えてみても思い当たる場所はなかった。
 テスト勉強のために少し離れた図書館に向かった。
 数学の範囲の問題を真っ白のノートに書き写し、解いていく。
 解き終えてはまた何度も解き直し、間違えたところを把握するためチェックをつける。
 理解していけばいくほどに、答えがあることを恨む。
 必死になって解いているはずなのに、頭の中にこびりついて離れないあの日の出来事。
 忘れられないキスの味。離れない言葉。
 彼女の気持ちにも答えがあったなら、僕は正解を選べるだろうか。
 シャーペンの芯が折れる。集中力が切れる。
 ペンを机に置いて、スマホで時間を確認する。二時間ほどが経ち、夕方の七時が過ぎようとしていた。
 もう少し勉強しようと考えたけれど、集中できない気がして、腕を伸ばして筋肉をほぐす。
 次のテストも高得点を出して進路への不安を解消しておきたい。
 大学に行こうが就職しようが学力は大事なのだから。
 荷物を片付けていると着信がなった。
 仕事中の親がわざわざ連絡してくるとは思えない。スマホの画面を伏せておく。
 しかし、もう一度着信が来てしまって、イライラと共に電話を切る。
 連絡の相手は、真波だった。
 行為をしてから彼女とはどうやって接したらいいのかわからない。
 いつも通りに話したいのに、いつも通りがわからない。
 僕は、真波が好きだったのか。好きでもないのにしてしまったのか。
 なぜ彼女を拒もうとしたのか。なぜ恐怖にも似たドロッとした感情を抱くのか。なぜキスを思い出すたびため息をついてしまうのか。
 電話を諦めたのかLINEの通知がくる。
『あいたい。あってはなしたいよー、ねぇ。ねねね』
 通知を切って乱暴にスマホをポケットにしまう。
 彼女に怒りを感じているのか。
 愛のない行為に不満を感じているのか。
 彼女は一体、誰のことを考えてあんな言葉を発して、誰の面影を寄せながら僕を抱いたのか。
 根拠もなく否定し続ける僕はきっと阿呆だ。馬鹿を見るよりも先に彼女との関係を切ってしまった方が、愚かな自分を受け入れなくて済む。それなのにどうして、彼女のことを今も考えてしまうのだろう。僕は関係を切りたいのだろうか。
「阿呆か……」
 ボソッとつぶやく。答えは出ない。
 人の少ない図書館を見渡す。
 帰ろう。さっさと寝よう。
 カバンを肩にかけて、歩をすすめた。

 家に帰ると牧田から連絡が来ていた。連絡ばかりが多くてイライラする。
『まだ犯人わかんないわ』
 二週間近く前、坂口とスタバに行った話を相澤たちが知っていた。
 相澤に告げ口したのは誰か探ってほしいと彼に頼んだのだ。続けて連絡が来る。
『そもそもさ、坂口ってなんでいじめられてんの?』
 僕も感じていた疑問だ。予想はできるが、事実を知らない。嘘を広めるつもりはないので、牧田に答えることはしなかった。
 相澤本人から直接聞きたいが、いじめられている分際でどの口が聞けようか。ぶん殴られてしまいだ。
「それも知りたいけどなぁ」
『てか、俺らがクラスで話さないようにする必要ある?話しかけにいっていい?』
「無理だろ。いじめられるぞ」
『変な心配すんなよ』
「どうせ、部活もちゃんとやってないし」
『気にすんなよ』
「気にするだろ」
 それ以上、既読はつけずにスマホを閉じた。
 学生なんて勉強だけしておけばいいのだ。
 恋愛なんかに時間をかけないで勉強したらいいのだ。
 いじめも恋愛もみんなして暇なのか。
 学生ならば、勉強だ。頭の悪い僕が勉強している。みんなも勉強しようよ。ウッ、アタマが……!
 机に教材を置き、ペンを取る。
 脳裏をよぎったのは、真波のか弱い声。
 あの時、どんな思いでハグをして、キスをして、行為に及んだのだろう。また同じことをぐるぐると考えている。
 コップに入った水を飲み、悩みも一緒に胃のなかに流し込む。
 それでも忘れられるはずもない。集中なんてもっとできなかった。
 彼女のことを考えるとどうしても声が聞こえてくる。
 電気を消して、ベッドに潜り込む。
 なかなか寝付けなかったせいで、三時間も眠れなかった。
 学校に向かう。
 スマホに着信がある。
 無視して、ポケットにスマホを突っ込む。
 こんなモヤモヤを抱えたままではいけない気がするのに、対処法が思い浮かばない。
 学校の最寄駅に到着する。重い足を前に進める。
 こんな思いをしてまでなぜ学校に行かなければならないのだろうか。
 他のいじめられている学生もこんな思いの中学校生活を送っているのだろうか。
 そもそもいじめなんてものは、正しいのだろうか。
 そんなもの正しいわけがない。許されていいわけがない。
 なのに、どうしていじめが許されているのだろう。許されるというかなぜ見て見ぬ振りをするのか。
 気が滅入る。誰か、助けてほしい。
 そんな思いを坂口もしていたのだろうか。
 なんだか彼女が僕と話して楽しそうにしていた理由がわかった気がする。
 どうせ、気のせいだろうけど……。
 勘違いしているだけだ。本当のところは何も知らない。
 教室に到着するとすぐ席に着いた。
 席の前に三森が立った。
「ねぇ、あんたなんでまだ坂口と仲良くするわけ?」
 一体どんな理由があってそんなことを聞くのだろう。
 いじめる人間は、彼女たちだけじゃない。
 それをよく知っているのは、自分自身だった。
 クラスメイトは、今の光景を見て見ぬふりをする。そのくせ、好奇心で聞き耳を立てる。
 この空気が異常だと言うことをいじめられてから知るなんて、馬鹿同然だ。前までは面倒ごとだと避けてたのに。
 坂口には何も言えない。否、謝ること以外にできない。許されるように努め続けることだけが、救いなのかもしれない。
 そう思うことは、甘えだろうと切り捨てる。
「仲良くないけど」
「嘘が下手なのね」
「そうかもしれない」
「何その態度、うざ。モテないよ?くそ童貞が」
 真波に抱かれたばかりだと言うのに、ひどい言いがかりだと思った。
「じゃあ、三森は違うのかよ」
「は?女子にそう言うこと聞くとか最低」
 なんて理不尽な返答だろうか。これが社会人ならセクハラか?もっと理不尽だろう。女子が聞くのは良くて男子はダメか?ご都合主義も大概だな。
 苛立ちが込み上げていく。舌打ちしたい気持ちを抑え、呼吸を整える。
 最初から最後まで何が言いたいのかわからないまま、彼女は席に戻った。
 どうせすぐに相澤たちに告げ口するのだろう。
 ふと牧田と目が合う。どうして、こうなってしまったのかと、苛立っているようにも見えた。貧乏ゆすりが目立つ。
 だけどそれも僕にだけで、クラスの中で言えばモブだ。
 相澤らの目に留まることはないだろう。
 おいと、どすの利いた声が教室に響く。
 誰かの机を蹴り、僕の机の位置を乱す三木谷。
「お前、立場弁えようや。なあ?なんで、お前が三森に何か言える立場だと思ったんだよ」
 目の前にくると、胸ぐらを掴み席を立たさせる。
 近くにいた生徒は少し距離をとった。
 坂口の時もずっとこんな様子だったな。
 三森がちょっと言えば、三木谷が机を蹴って威嚇する。女子にも容赦がなかった三木谷だ。流れは読めてる。
 次に来るのは、右ストレートのパンチから壁に突き飛ばす行為。
 予想通りに僕はやられた。
 やり返したところで勝てないことを知っている僕は、やられっぱなしだった。このままじゃ死んじゃいそうだ。
 髪を掴み、壁に頭をぶつけ威嚇する三木谷。こんなこともあるので最近はヘアセットはしていない。
 その中、相澤が登校してきた。
「三木谷、お前もう始めてんのかよ」
 笑うでも呆れるでもない彼の声に苛立ちが募る。
 歯を食いしばることしかできない僕に彼が何か言うことはなかった。
「こいつ、調子乗ってるから」
「まぁ……」
「サッカー部でサボってる雑魚だぜ。何したっていいよなぁ?」
 クラス内のサッカー部に圧をかける。
 彼らを見やると目を伏せるだけだった。
「おっけ。許可取れたんで、何発か行きまーす」
 髪を引っ張り距離が近づく。ガシッと両肩を掴み、膝蹴りをくらった。
 坂口にしなかったことをされて予想できるわけもなく、痛みに声を上げる。
 容赦無く二発目を食らわす彼の膝が腹のミゾに当たり、痛みで動けなくなったところに右拳のアッパーが腹に振るわれる。
 部活をサボり運動神経も鈍くなっているせいで、受け身を取れなかった。そもそも殴るのが早いせいで受け身を取る時間がない。
 必死に呼吸をする。蹌踉めく体が、壁を伝って床に倒れる。
 このままだと本気で殺される。
 死んでしまう。
 死にたくない。
 今はまだ死ねない。
 ……なぜ?
 わからない。
 だけど、死にたくない。
 でもこいつは、目の前にいる悪魔は殺しにくる。
 戦わないと……。逃げるだけじゃ、追ってくる……。なら、今戦わないといけないのに、体は動かない。
 死に瀕した生き物はこんな恐怖を抱きながら死にゆくのだろうか。
 ……死にたくない。
 三木谷の右足が、振り上がった。
 あぁ、頭を踵落としするんだ。膝をつく僕にはやりやすいのだろう。それを見た二人が笑うのかもしれない。
 こんな時に察したくなかった。
 学生の間に殺されるなんて、想像してなかった刹那。
「担任きたぞ」
 牧田の声だ。切迫感のある声が、三木谷の足が止まる。
 三木谷が、圧をかけようとするが、相澤とアイコンタクトをしたのか席に戻った。
 震えた体はまだ、死を感じていた。
 もし、このまま蹴り落とされていたら、死んでいたかもしれない。
 人の死をこいつらは笑うかもしれない。
 僕はまだ死にたくない。
 頭はまだフリーズしていない。逃げられないなら戦うしかないと頭が訴える。
 こいつらは、殺さないと。
 そう思うくせに、今すぐできるわけもなく席に着くだけだった。

 放課後、部長に捕まった。
 せっかく、相澤らから逃げてきたのに、これでは捕まってしまう可能性があるではないか。
 焦っていることに気づいたのか、心配の声をかける部長。人当たりがいいのはわかっているけれど、だったらさっさと帰らせてくれと苛立つ。
 帰って勉強して、その後はもう学校に行かなくてもいいとさえ思う。
 それまでは我慢できるだろうか。
 後一週間と少し。
 一年も我慢するわけじゃない。できる。
 後ろから急足でやってくる靴音に悪寒が走り、部長も気にせず走り出す。
 しかし、それに気づいた部長は腕をがっしりと掴んで離さない。
「ひどい!私の足音で逃げるなんて!」
 その声は坂口のものだった。
 クラスでいじめられていると部長に知れたら居場所がなくなる。誰にもバレたくない。
「お前、坂口嫌いなのか?」
 部長が、手を離した。とても不思議そうな顔をしている。
「アニメでしか見たことないよ、こんなの」と、坂口。
「か、帰ります」
「え、やっぱ私のこと嫌いじゃん」
「違うけど」
「違うの!?ほんと?嬉しい!」
 パッと表情を変える彼女に舌打ちしたくなる思いを堪える。
「坂口と仲良くしてくれて嬉しいよ。どうだ、部活でもしていかないか?」
 その流れで誘うのは無理がある。
 部長にまた捕まえられたくないので、一歩距離を置く。
「いかないです。やめたんで」
「顧問に言ったって、何度も聞いてるけど」
「顧問が話を聞かないんで、部長から言っておいてもらえますか」
「いやぁ、それは……」
 苦虫を噛むような顔。
 僕らの会話に坂口が閃いたように人差し指を上に向けた。
「公園でサッカーしようよ」
「は?」
「いいね」と、部長。
「いや、部活」
「今日はないよ」
 と、返答されてため息をついた。部活は毎度の如く誘っているだけか。
 ここぞとばかりになぜサッカーをやりたがるのか。
 帰る。テストだってあるのだ。
 遊んでいる暇などない。
「よし、じゃあ行きましょ!」
「いかない。帰る。二人でサッカーデートでもしててください」
 では、と言い残しスタスタと靴を履き替える。
 目の前には、私服姿の女性の姿。
 全ての人間に無視を決め込んで早歩きをする。
「ねぇ」
 袖を掴まれて、何事かと振り返る。
 たった今、自分で作った無視という掟を破った。そこにいたのは、真波だ。
「真波さん!?」
 部長が、駆け寄っていく。
「久しぶり」
「なんで、ここに?」
「ちょっとね……。二人してくれる?」
「僕は一人で帰るので」
「そんなこと言わないで……」
 ウルウルと目に光が宿る彼女。泣くかもしれない。それはよくない。
「なんで連絡返してくれないの?」
 え、なに修羅場?と言いたげな部長と坂口。
「避けないでよ」
「避けてないです。勉強が忙しくて」
「そっか、テスト近いよね」
「なので、帰ります。またの機会に」
 歩を進めれば、手首をしっかり掴んでくる。
 今日は、行先を止められがちだ。許せない。
「やっぱ……、避けてるじゃん……。そんなに嫌だった?私としたこと」
「……」
「「え!?」」
 二人は、勘づいたのか僕と真波を交互に見ていた。
「洋馬、お前」
「黙れ!!」
 堪忍袋の尾が切れる。部長を怒鳴りつけて睨みを効かす。
 呆気に取られた彼を見ていると自分が何をしたのか、気付かされる。
 真波としたのは不可抗力だ。あんなのしたくてしたわけじゃなくて。
「あ、ごめん」
 部長に謝らせてしまった結果にまた苛立ちが募る。
 不平も不満も吐き捨ててやりたかった。だけど。
「帰ります」
 自分を落ち着かせるべく、言い聞かせるべく、そう言った。
「直人君!」
 早歩きで帰る僕の隣にきた真波。
「しつこいですね」
「そんなに嫌だった?ねぇ」
「……」
「謝るから……!」
 目の前に立ち憚られてしまい、動きを止めた。
「なんなんですか……」
 ため息と共に吐き捨てる。苛立ちを隠す気力も無くなっていた。
「あれは、もう……忘れましょうよ……」
「嫌だ」
「なんで」
「だって」
「……」
「気になってたから、あなたのこと。私のこと好きだから、してくれたんじゃないの?」
 求めるような目をされた。
 よく見る目だ。みんなそうやって僕を見て、僕を求めて。そういうのが嫌で、女子との関わりを減らしているというのに。
 僕は間違えた。
 あの場所で出会って、少し気になって、でもそれ以上を求めてはいなくて。
 一線を超えたあの日から、なんだかもう純すいな恋とかそんなものできないような気がした。
 だって、みんな付き合ってから一線を越えるのだから。
 高校を卒業したら、付き合うこともしなくなるのだろうか。
 付き合わずに一線をこえて。
 彼女もどこかで付き合わずにしたことがあるのだろうか。
 考えたくもない。
 ただ一つわかるのは、僕はもう彼女と同じ側の人間だということ。
 付き合わずともできてしまう。そんなこと知りたくなかった。
 ほら、どっかで映画デートとかして、その後カフェ行ったり。その次のデートとかで家行ったり、連れてきたり。
 段階ってあるはずなのに。
「気になっていたのは……、本当だけど……」
 彼女のように段階を踏まないなんてこと、あるとは思わなかった。
 カラオケがデートの範囲だったら、デートをして、その後家に行っているわけだから。だとしても、初デートでキスまですることあるだろうか。
「私のこと、好きじゃなかったの?ねぇ……」
「それは……」
「んじゃ、散歩しよ!」
「え?」
「今日、答え出してよ。いくらでも待つから」
「バイトは?」
「ないよ。ないから来れた」
 そこまでしてこようと僕は思わない。
 彼女にそんな思いをさせていたことに気づかなかった。
「返信も来ないし。心配してた」
 また、隣に並んで肩をペシペシ叩く。
 行こうとでも言われてるみたいで、歩くことにした。
 これでは彼女のペースになってしまっている。また流されるように動いてしまう。
 どこかで切り込んで伝えるべきだ。帰ります、と。
「連絡くらいくれてもよかったのに」
「テスト期間なんで」
「真面目だね」
「こう見えても」
「元々、真面目なんじゃないかなって思ってたけど」
「……」
「真面目だから、正しいことをするんじゃないかなって」
「……」
「ほら、店来た時も礼を言ってくれるから。真面目だなって」
「そんなんで、真面目ならみんな真面目ですよ」
「でも、手とか触ろうとしないじゃん?」
「当たり前じゃないですか」
「それが、当たり前でもないんですよ」
 なぜ、敬語?
「中には、いるんだよー?しれっと触ってくる人」
「……」
「……ねぇ、そんなに嫌だ?私と話すの」
 数歩行った先で彼女が止まっていたことに気づいた。
 電車に乗り帰るだけだというのに、今日はやけに時間がかかる。
 僕らは付き合っているわけじゃない。
 彼女もまた付き合いたいと思っているわけじゃないだろう。
「なんか、違うじゃん……。あの時からちょっと変だよ」
 それはあなたの方ではと、思ったけれど。
「おかしいかもしれないですね」
 恋愛における常識なんてわからなかったから返す言葉もない。
「ほら、今も」
 もしも彼女が本気で僕を好きなら告白とかしてくれるはず。そう思うことは、甘いのだろうか。高校を卒業したら恋愛観は変わっていくのだろうか。
 体を重ね合わせるだけの関係は、付き合うということになるのだろうか。
「もう、いいですか?帰ります」
「え、ねぇ、待って!」
 電車に乗りこむ。向かいの電車が彼女の家の最寄りであり、まだ来ていないから時間があると思ったのだろう。
 彼女は、気づけなかったみたいで電車の扉が閉まる。彼女の表情は見ないことにした。
 ギリギリを狙って改札を通ったのがよかったのかもしれない。
 一体ここまでして何になるというのだろうか。
 問題を先送りにしただけ。
 彼女は、またバイトがなければ学校に来るかもしれない。
 そうなれば、今度はいじめの現場を目撃するかもしれない。
 考えれば考えるほど、苛立ちと焦りが募る。
 この感情、どこにどう吐き出せばいいというのだろうか。
 今まで恋愛をちゃんとやってこなかったせいか。
 こんな恋愛ってアリだろうか。これが恋愛なのか……?
 それに、いじめなんて受けてこなかったから気持ちが滅入る。
 あの暴力の数々に死を感じる。
 何か一つ解決できたら……。
 明日、脅しの道具としてナイフを持っていこうか。
 いじめないでほしいと頭を下げて、それでもダメならナイフで脅す。
 脅すだけだ。殺すわけじゃない。
 まず一つ、解決しないと。焦りがよくない方向へ進むとこの時は思っていなかった。
 最寄り駅のすぐ近くにある百均でナイフを買った。

 相澤と三木谷が朝から騒がしくしている。
 教室の隅で、坂口が静かに席に座っていたが、僕を見るなり駆け寄ってくる。
「昨日、真波ちゃんから連絡あったよ。逃げたんだって?」
「逃げてない」
「電車に乗るために、真波ちゃんを捨てたって」
「言いがかりだ。あり得ない」
 捨てたってなんでそんな物みたいなこと言うのだ。
「必死にならないで。また後で真波ちゃんに連絡してあげてよ。悲しそうだったし、寂しそうだったから」
 舌打ちする気もなくなって、席に深く座り込む。
 そこにやってきたのは、牧田だった。
「あのさ」
「何」
「部長が放課後、ちゃんと話したいって」
 あいつもあいつでいつまでも邪魔くさいなぁと苛立つ。舌打ちをすると牧田ではなく坂口が睨みを効かせた。なぜだ。
「部長も心配してくれてるんだから、少しは本音を言ったらどう?」
「そうだよ。いろんな人に心配かけすぎ。人を頼ろうよ」
 と、坂口。
 何が、人を頼ろうだ。誰も助けになんかならないだろうが。
 言い返す気もなくなった。
 逃げるよりも戦う。そう思っていたくせに坂口たちから逃げていた。
 こんなんだから、いじめに遭うのだろうか。
 昼休みになり昼食を取る前にその時はやってきた。
 三木谷が絡んでくる。
 机を蹴って、髪の毛を引っ張る
「おい、ちょっと来いよ」
 廊下に連れ出される前、咄嗟にカバンを抱き抱えた。
 カバンの中には昨日買ったナイフがある。
 ナイフがあるだけで、気の持ちようは違った。
 少し強くなったようなそんな錯覚に陥る。
 この武器は、ただ脅すためだけの道具。殺しはしない。
 ナイフだけがバレなければいいのだ。
 逃げることはしなかった。
 連れて行かれるままに教材室に到着する。ドアを開け、背中を蹴られて前に手のひらをつく。
 うまく受け身を取れて立ったままだったけれど、三木谷は関係なく拳を顔面に振るった。脳が揺れる。
「イライラしてんだ。いいよな?」
 胸ぐらを掴み脅す彼。
「……ぼ、僕が何をしたっていうんだ!」
「何ってムカつくなぁ」
 応じる気は無いのか、それとも元々理由がないのかのどちらかだった。
「坂口をいじめてた理由は?」
 必死に抵抗しながら、問う。
「坂口?あぁ、あれ、俺のせいじゃねぇから」
「は?」
「は?って口答えすんなよ、サボり野郎」
 拳が腹に当たり、吐き気がした。
 いつもと何倍も強い暴力に屈してしまいそうだった。
「邪魔クセェな、このカバン」
 右側へぶん投げられたカバンの中からナイフの柄がチラッと見える。カバンのチャックを開けてすぐに脅せるようにしていたせいだ。これがバレたら今の暴力だけじゃ済まなくなる。
 バレないように気を逸らさないと。瞬間的に頭をフル回転させた。
「部活か?三木谷のストレスは部活なのか?そんなんで僕を殴るんじゃない!」
「だから!口答えしてんじゃあねぇ!」
 左拳が頬に当たり、鈍い痛みが身体中に伝う。
「部活でうまく行かなければ人に当たっていいなんてルールはない!僕を殴るんじゃあない!」
「お前みたいなサボりに俺の気持ちなんざわからねぇ!死ねぇ!」
 まともに取り合う気のない彼は、思うままに拳を振るってくる。
 このままじゃいけないと彼の肩を掴み、突き放す。
 つまづいて床に倒れそうな彼の腹を蹴り、すぐに立ち上がる。
「もう……僕のことをいじめるな!」
「調子に乗りやがって!殺してやる!」
「坂口のこともいじめるんじゃあない!」
「ウルセェ!どいつもこいつも殺してやる!」
「部活でうまく行ってない理由は自分にあるんじゃないのか!自分のせいだろう!」
「部活に行っていないお前に何がわかるっていうんだ!」
 立ち上がると、右拳を振り上げる彼。
「僕だって部活くらい行きたかった!でも、もう無理だ!お前とは違う!」
 右拳を交わすと左足で蹴りのフェイントを入れて、右足で回し蹴りを一発喰らわす。脇腹に命中した。
 脇腹を抑える三木谷を執拗にタックルする。力任せだった。
 木でできた物置の出っ張った四角柱に彼の体を何度もぶつけさせる。
 ガツっと鈍い音がする。
 それでも構わず何度もタックルした。
 これ以上、彼にいじめられないために。
 これ以上、いじめの被害者が出ないために。
 これ以上、僕が殺されないために。
 息が切れて床にしゃがみ込む。
「もう……、やめてくれ……。お願いします……」
 返事がない。不思議に思って、目の前の彼を見る。
 後頭部に黒い何かが流れている。教材室の小さい窓から照らされる光がそれを血だと知らせる。
 重い荷物の落とした時のような音を立ててうつ伏せで床に倒れる。
「……え?」
 思わず出た声に自分で正気を失いそうになる。
 僕は、彼を殺した?
 あの鈍い音は、角に頭がのめり込んだ時のものだった。
 護身用のナイフは、後ろにある。
 殺すための道具じゃない。脅すための道具だ。脅すために持ってきた。
 頭ではわかっているのに、うつ伏せに倒れる三木谷がまた襲うかもしれない恐怖が僕の体を突き動かす。
 カバンからナイフを取り出す。
 彼の体を仰向けにして、上にまたがり、左胸の鼓動を感じ取る。
 まだ、生きてる。
 殺せ、こいつが、襲ってくる前に心臓を止めろ。生かしたらまた僕はいじめられる。不登校になって親に心配かけさせたくない。
 呼吸が乱れる。
 整える暇もなく、彼の目がうっすらと開く。
 焦りと恐怖は、自分の意思の範疇を超えて左胸にナイフを振り下ろした。
 彼の表情を確認する。
 まだ、目が開いている。睨みつけるようで。
 もう一度、もう一度、何度もナイフを突き刺す。
 返り血なんて関係なかった。
 こいつの目が、声が、言葉が、命が消えることを願った。
 いらぬ命もあるということを僕が信じればいい。
 このいじめっ子の命は要らない。
 きっとどこかで命は取捨選択される。
 それが今だっただけだ。
 僕は、正しい。正しかった。
 何度も自分に言い聞かせる。
 深呼吸をする。どれくらいの時間をかけただろう。
 片付けをしなければと体を動かすにはどれくらい時間がかかっただろう。
 彼の片付けは、まずこのカバンに入る大きさに切るところから始まった。