生きていると理不尽な暴力や暴言を目にする。
教室内でいじめる男子、相澤、三木谷、女子、三森が坂口という女子生徒に執拗に絡む姿。坂口への暴言が、クラスに響いている。
関わりたくないとそれを横目に足速に教室を出る。
もしも正しい行いというものがこの世にあるなら、この学校にあるというのなら、なぜ教師はこのいじめの現場を止めないのだろうか。
このクラスの誰かが教師に告げて、聞いた教師が対応する。
しかし、クラスメイトも僕もそれをしない。
目撃しただけだ。関わりたくはない。
関わることで面倒ごとを増やしたくない。きっとみんな同じだ。
あの芋っぽい女子生徒のことを誰が守ろうか。
メガネをかけて、ボサボサの髪の毛で眉も整えないような女子生徒。
ルックスの良い相澤にとってクラスにこんな芋女がいたら邪魔に思うだろう。
女子生徒も自分も彼女のようにいじめられたくないと無視を決め込むのだろう。
だが、クラスのみんなでその三人を追い払うことはできると思う。可能な範囲だろうが、それをしないのは度胸がないから。
髪の毛を引っ張られ、痛いから立ち上がる坂口を突き飛ばす三森。
こんないじめがこの小さな箱の中で行われている。逃げ場はどこにもない。
学校と家を行き来するだけの学生に救いの場はない。
もしかしたら、大人が入る余地なんてないのかもしれない。
「洋馬、帰ろうぜ」
廊下を歩いていると同じクラスで同じ部活の男子、牧田にあった。
眉は整っていて、髪の毛のケアもしている。僕と同じだ。似たところが多く部活に行かなくなった僕にもいまだに関わってくれる相手。
「おう、帰ろうか」
「いやいや、部活は?」
帰ろうと言ったくせに、部活の話をしてくるのはどうかと思う。
「帰るよ」
「一丁前に帰宅部になりやがって」
なんだか楽しそうに彼は言った。
帰宅部なんて部活はどこにもないが、部活にも行かずただ帰るだけの人をそんなふうに呼んだりする。これは学校全体であることで一般的なのかもしれない。
サッカー部の僕は、一年生の新人戦のあった冬から二年生に上がった今も部活に参加していない。
「行くなら、行けば?副顧問にでも開いに行けば?」
ぶっきらぼうに吐き捨てる。
牧田は副顧問に会う予定が月に何回かあるようで思いの外忙しいらしい。次期部長になるかもしれない。
「一日くらいサボってもいいだろ。スタバ、新作出たってよ」
部活に行くのか帰るのかわからない牧田はスマホの画面に載っている情報を見せてくる。
「いくか」
彼に便乗するとすぐに駅に向かう。
あの美味しいドリンクを毎月提供するのだから、神と崇めたい。
名古屋市内の地下鉄に乗って二駅、栄えた街に向かう。僕と牧田は、同じ学校の生徒に放課後に会いたくないと少し離れた場所に行くことが多い。
スタバに行くだけだし、近くにもたくさんあるけれど、同じ学校の生徒がたくさんくるので僕らは行かないのだ。
面倒ごとは関わらない。学校の人たちに会うメリットがない以上、このスタンスになってしまうのは仕方がないと自分に言い聞かせる。
交通費を考えると高校生にとって二百円前後はまぁまぁ高い。往復代でもう一回スタバに行ける。コーヒーくらいは頼める。
定期券があるのでその心配をしたことなんてないけれど、牧田は定期券がないと聞いているので少し気を遣う。
「お前、このままサッカー部来ないつもり?」
「推薦で入ったわけじゃないし、牧田とは違う」
「まぁ、そうだけどさ。推薦の奴らより上手いわけだし」
「いても、いなくても変わんない」
施設の中に入ると冷房が効いていた。エスカレーターで八階を目指す。
「そんなことは」
「じゃあ、なんであの試合中、僕にパスが回ってこなかった?」
一年生の新人戦があった時、レギュラーメンバーに選ばれプレイをしたが俺にパスをしたのは牧田だけ。
後に、僕が嫌われていると知った。
レギュラーメンバーから落ちた推薦の男子の代わりだったというだけ。
スポーツは実力主義だ。サッカーももちろん実力だ。強さだけが評価される。
推薦で入った男子は僕より弱かっただけのはず。
しかし、この学校は県内でも唯一のサッカー強豪校で部活動推薦を選んでまで入りたいという生徒がいる。
親しい部員が多かった人の代打になってしまい、結果、全くパスが回ってこなかった。
推薦で入った人の方が強いという先入観があるのかもしれない。推薦で入ったプライドがあるのかもしれない。独りになった。
今はもう僕には縁のない話。関係のない話。
新人戦は、一回戦敗退という結果を出した。
強豪校が初戦敗退というゴシップはすぐ他校にも広まった。
中学の友達から連絡をもらうほどに大きな出来事だった。
当時二年生の先輩たちはひどく叱責した。見にきてくれていた部長は、推薦で入った部員たちの練習メニューを増やした。
先輩に怒られた怒りの矛先は僕に向けられ、居場所を無くした。
そして、今こうやって帰宅部をしている。
「それは、まぁ」
「大事な時にパスも出せないチームなんていらないだろ」
「部長は帰ってきて欲しそうだったよ」
「いらないって。あのチームでうまく行くと思っているから僕が邪魔なんだろ」
「部長にはそう言っておこうか?」
「勝手にしろ」
「顧問にも」
「勝手にしろって!」
憤りを彼にぶつけてしまった。
強く睨みつけると彼は笑った。
「糖分がたりてないぞぉ!スタバへ、レッツゴー!」
甘党の僕と彼。いつどのタイミングで仲良くなったかなんて覚えていない。
部活がある時はカロリーの高い飲料、炭酸飲料をやめるように言われていたが、今となっては炭酸水をたくさん飲むようになってカバンにストックを入れるほどだ。
八階のスタバに到着するといつもの男子二人組だと言わんばかりに慣れた挨拶をしてくれる女子店員。
大学生くらいの若い女性で高校生とは違う大人らしさみたいなものを感じる。
「新作が飲みたくて」
子供みたいな言い方をする牧田。
引っ叩きたくなる欲を抑える。
「あるよ。二人とも同じでいい?」
「お願いします!」
一つ結びにした髪が会計に向かう流れで揺れる。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。バニラの香水だ。
「良い匂いするよね、あの店員さん」
「やめろ、うるさい」
女性の店員に惚れるなんて馬鹿なこと、この僕がするわけない。
会計を済ませ、レシートを受け取ると彼女は営業スマイルを見せてくれる。
しっかり仕事をする女性だなと尊敬する。
この先バイトをすることがあるなら、見習いたい。
「ここでバイトしようかな」
「やめとけ、変態」
「嘘だよ。掛け持ちはごめんだね」
「……え?」
バイトしている事実を知らなかったせいで、変な声が出た。
「コンビニで夜バイトしてんの」
「だから、いつも学校で寝てんのか」
「赤点は取ったことないので」
毎月、新作を飲めるのはそんな理由があったのかと思い知らされる。
なら、親から小遣いをもらっている僕よりもお金はあるのではないだろうか。
一回くらい奢ってもらえる可能性も?
チラッと見やる。目があった。
「奢らんけど」
「なんで、バレてんの」
「いつもそうだろ。奢ってもらおうとする魂胆が見え透いている」
いつも使っている席が空いていたので、そこにカバンを置いて座る。
「バレるなら、お前の顔見なきゃよかった」
「金蔓じゃねえぞ?」
「はいはい」
「奢ってほしけりゃ、あの店員の連絡先聞いてこい」
「失礼にも程がある」
これだから童貞は、と言いかけてやめた。
人のこと言えないからだ。
そもそも目の前に座るこいつが童貞かもわからない。
ため息をつく。紙ストローの包装紙を破いて取り出す。
牧田の動作がないので、顔を見てみれば、焦るようにカバンとスタバの新作をとる。
「どうした?」
僕が悠長に見えたのか、焦りを目線だけで訴えてくる。
彼の視界の先に誰がいるのか。目を向ければ、そこには里中部長がレジで会計をしているところだった。しかも一つ結びの女性店員と親しげだ。
焦った僕らは、急いで逃げようとするが、時すでに遅し。
声をかけられた僕らは、挨拶をする以外の選択肢がなかった。
ドリンク待ちの部長が僕らの元に来る。
どうしてここにいるのか考える時間が欲しかった。
「お前ら、どうして部活来ないんだ?」
口を摘む僕らに証拠と言わんばかりにスマホの画面を見せてくる部長。
そこには以前僕らが来た時、部活の文句でも言っているであろう姿の写真。
画角的に店員のいるあたりから撮られている。
「もしかして、あの店員と親しげなのって」
「友達だし。まぁ、大学生だけど」
やっぱり大学生だったのかと予想が当たりガッツを決める。
「で、二人はなんで部活に来ないの?牧田は今日来ないの知ってたけど」
伝えてたのかよ。
「病院だって聞いてたけど」
仮病かよ。
「スタバ、奢るので」
「そういうのいいから」
なんだか思っていたより、部長の態度が悪い。冷たいというべきか。
牧田を牽制すると、部長は僕に目を向けた。
「来れない理由が、あいつらなら俺から伝えるけど」
「別にいいです。学生の本分は学問なんで。部活はやめます」
口を開いた時、一つ結びの女性店員に声をかけられた彼は戻っていった。どうやらドリンクを取りに行くらしい。
「逃げるぞ」
牧田に言うと急いでエスカレーターへ向かう。
せっかくの放課後をあの女性店員の告げ口で最悪なものに変化してしまった。
許せないことだ。
しかし、その先にいたのは部活の先輩たち。
逃がすつもりは一切ないらしい。
後ろから部長の足音が聞こえる。
「そうすると思って、二人連れてきた。正解だったね」
「先読みするなんて」
「二人のサッカーのプレイスタイルと同じだよ、衰えちゃった?」
ゴールを決めるために先読みするのは当たり前だろうに。
「そうですね、衰えたので、やめます」
何いっても止める方向に舵を切る僕に諦めたのか、彼は一度ため息をついた。
「まぁ、いいや。とりあえず、座って話そう」
逃げ場がない。無理やり逃げて、騒がしくして学校にクレームが入るのはよろしくない。
指示に従うことが一番正しいような気がした。
席に着くと、部長は口を開いた。
「牧田は、大目に見るから今日は帰ってもらえる?」
一対一で話したいみたいで、それがストレスだった。
「明日は部活行くので!」
後輩のような弟のような雰囲気を見せる彼は、ボソッと耳打ちした。
「あの女性店員の連絡先、頼んだ!」
彼が言った後で、ため息をつく。
「どうした?」
隠す気もないので、部長に伝える。
「いや、牧田があの女性店員の連絡先が知りたいそうで」
「これ?」
部長のスマホの画面には女性店員のアイコンらしきものがあった。
「多分、それ」
「やるから教えろ」
「勝手に人の連絡先教えるのってどうなんですか?」
「元々、言われてたことだし問題ない」
話が見えなくて、チラッと彼女を見てみれば目があった。
あぁ、そういう?え、ん?
スマホに連絡先が送られてきた。勝手にスマホを取り上げられて、勝手にスタンプを送られる。
これで、連絡先は繋がったわけだし、やり取りもできる。望んでないぞ。
挙句、部長は女性店員にグッドサインを見せていた。
アカウントの名は、真波。
「じゃ、こっちはお前の望み叶えたんだし、教えてくれよ」
「別に交換したかったわけじゃないです。これ、強要ですよね」
「まぁ、いいじゃないか」
「よくないですけど」
「少しくらい力になれたらって思ってる。洋馬は、戦力だ」
「その戦力が迫害を受けたので。いらない馬は切るべきじゃないですか?推薦じゃないし」
「切られた馬が、他でいい仕事ができると思うのか?馬刺しになんてなれないぞ」
「じゃあ、捨てればいいと思います」
「……他人事みたいに」
「そんなことないです。もう十分理解したと思っているだけなので」
不思議そうな顔をする部長。
深く聞きたいのか、先輩二人を帰るように告げた。
なんだかこの際言ってしまったほうが楽な気がした。
後に思えば、この選択は間違いだったと知るのだが。
「正しくないじゃないですか。部活も学校もこの先も全部。実力があっても正当に評価されても、チームは成り立たない。感情を優先させてチームの足を引っ張る。僕がいない方が上手く行ったと言わんばかりに、みんな距離を置く。強豪校が負けたゴシップは、もう一生残る。僕のいない部活の方が楽しそうじゃないですか」
足の痛みを訴え病院へ行くために部活を休んだ日。親の車で病院から帰る道中に見えた部活の練習風景。
負けたばかりなのに、みんな楽しそうに練習していた。メニューが増えたはずなのに悔しそうな顔一つ見せずいつも通り。
あの時、悟ったのだ。僕のいない部活動は僕の望んだ部活動だった。
僕は、邪魔だ。
「いらないんですよ。今、必要だって言うやつどこにいます?県大会も勝手に頑張ってくれって思いますけどね」
「……今のままじゃ、また初戦敗退だ。いや、県大会まで行けないかもな。このままじゃ、強豪校の名に泥を塗る。それだけは」
「塗ればいいじゃないですか」
部長の言葉に被せた。気持ちが溢れているようで、それは自分にも理解できた。
「こんな部活終わってしまえばいい。他に強い部活あるじゃないですか。その名が広がれば良くないですか?」
「それは」
「部長だって気づいてますよね。今年入った一年も強くない。見てればわかる。サッカー部は事実上、強豪校ではなくなったって」
「……」
スタバのドリンクを飲む。甘ったるくて、自分で選んだはずなのにイラッとした。
「もういいですか?」
カバンをとり、席を立つ。エスカレーターのある方向へ歩を進める。
「ここから巻き返せるって、思わないか?洋馬がいれば」
「僕がいたら、また部活は荒れますよ」
振り返って部長を睨みつける。
彼は僕と目が合うよりも先に目を伏せた。
「学校なんて、正しいやつから消されるんですよ」
体の向きを戻すと、帰路についた。
部長に投げ捨てた言葉を後になって反芻する。
正しいやつが残るにはどうしたらいいのか。
間違ったやつが消されるにはどうしたらいいのか。
正しい人が生きてなきゃおかしい。僕は、自分を守るために部活をやめた。生きるためだ。
間違ってる奴らにこの人生狂わされてたまるかと。
この先、間違った人が生き続けたらどうだろう。
ただ一生懸命に生きている人が詰られ、心も体も殺されたら胸糞悪くないだろうか。
正しい人間が、間違った人間に殺される。それはあってはならないことだろう。
ふと、思いだす。クラスでいじめられている女子生徒。あの子はどんな間違いをしたのだろう。
間違えたから、いじめられているのだろうか。
正しさに嫉妬して、八つ当たりから始まったのか。
もし後者なら、彼女は僕と一緒だ。
面倒は避けたいが、一度くらい話を聞いても良いのではないだろうか。
翌日、僕が学校に行くと坂口が席に座っている。まだいじめられていなかった。
いじめっ子の彼らは登校が遅いから仕方がない。
「ちょっと、いい?」
行動するなら、早い方がいい。
確認して、彼女が正しい側なら助けるべきだ。間違っている側ならそのままでいい。気にしなくていい。
「ごめん、無理」
「……」
話が進まないなぁと、ため息をつきそうになる。
呆気に取られてしまうが、彼女なりに角を立てることだけは避けたいのかもしれない。
「そっか、ごめん。また昼に聞くね」
出鼻をくじかれた気分だ。
こんなやつ、いじめられて当然だ!と言うほどの気持ちにはなれなかったけれど。
なんだか、まぁ仕方ないか、くらい。
四限の社会の授業が終わり、昼を牧田と一緒にした。
世界大戦がどうとか、よくわからない歴史の話はまるで呪文のようだった。
その歴史がどうして、今もなお繰り返されるのか。
考えたところで、答えは出ないのだろう。いつも結果が出ないと理解できないのだから。
何十万の人間を殺すこと。それが、悪だと言い切らないのは、この国もまたそれだけの犠牲を作ったからなのか。
ならば、少数の人間が犠牲になったとしよう。
その人間を殺したのが一人ならきっとその人は悪だ。
何十万と何十万のぶつかり合いはもはや人として扱っていないのかもしれない。
少人数ならば、人として扱える。だけど、戦争は違う。
だから、歴史の一つとして残しておくだけなのかもしれない。考えれば考えるほど、頭がおかしくなるから。
飯も終わり、逃げそうない坂口を捕まえる。
「何度も何?もう来ないで?」
「まだ二回目」
廊下に出ていった彼女の前に立ち、進路を阻む。
「じゃあ、単刀直入に聞くよ。なんでいじめられてるの?」
「……」
唇をかむ彼女。あんなにも人として扱われない女子生徒がいじめられていないと言い切るのは無理がある。
「そんなことない」
小さくか弱くつぶやく。
「認めたくないとか?」
「デリカシーがないね。そんなこと直接聞くなんて」
「それは認める。だけど」
だけど、なんだろうか。
部長の意見もまともに取り合わなかった僕が、彼女の言葉を汲んだ上で何が言えるだろう。
「いや、やっぱりいいや。人のこと言えないし」
「……え?」
メガネの奥でありえないと言わんばかりに疑いの目をかけてくる。
「見た通りだろ。部活サボって、牧田とスタバ行って、部長にあって、スタバの女性店員のLINEを登録させられるなんてさ」
スマホをぷらぷらと摘んで揺らす。
「……部長って」
「里中部長だよ。あのクソ部長が、わざわざ部活来いってスタバにまで来たんだぜ?」
「その部長、私の幼馴染」
「…………」
やけに通るその声が、脳に届く。
スマホを落としたことなんて忘れて、呆けた。
「え、まじ?」
「まじ」
「……」
今しがたクソ部長と言ったわけだけど。
「その店員さん、真波ちゃんって言うなら、小学生の頃から仲良くしてくれてて」
早口で喋るこいつにイライラしながらも相槌を打つ。
「もう大学生だからほとんど会ってなくて」
それなら、ちょうどいいのではないだろうか。
「明日にでも一緒に行くか?」
「え?でも、あそこキラキラした人が行く場所じゃない。私みたいなオタクは」
「誰でも行くだろ。ほら、牧田とよく行くし。確かに、大学生みたいな人が多いなとは思うけど」
「大学生以上の人向けだよ!あんな高い場所よく行けるね」
「このあたりだと高校生多くて、バレるから」
「甘党なのが?」
「……」
部活サボってスタバに行っているなんて、バレたらまずいだろと大声で言いそうになる。
「なんとなく、そう思ってたよ。昼、購買で買ってるの菓子パンよりも甘いスイーツじゃない」
「人の姿をよく見てらっしゃる」
話がズレた気がするけれど、都合がいいと思い続ける。
「あ!その言い方もう一回!今見てるアニメの」
「あぁうるさい!」
彼女の頬をパシっと叩き、タコの口をさせる。
その拍子にずれた眼鏡の奥の瞳が予想外にも綺麗だった。
「痛い……。あ、でもその後ね女の子のキャラが後ろからハグするんだよ」
「どうやら、君はアニメオタクでそれが奴らの鼻についたわけだな」
手を離すと彼女はクイっとメガネをあげた。
必死に顔を隠そうとする彼女。図星だと思った。
「そうだと思う……」
「だろうな。オタクってキモいし」
「……」
「早口なのに何いってるかわかんないし、受け答えでもできない奴らばっか。あと、臭い」
「ひどいね」
「クラスにもまだいるだろ。けど、どうして君だけがそんな扱いを」
「……それは」
口を閉ざしてしまった。
言いたくないことは誰にでもある。
無理に言わせる必要もない。
「まぁ、どっかのタイミングで教えてよ」
こんなオタクと仲良くなりたいとは思わないけど、仲良くなりたいと言っておくべきだろうか。
「待って。まだ、名前で呼んでもらってない」
「……は?」
「は?じゃなくて。名前」
「あぁ、えっと」
名前呼んでもらってないだけでそこまで気にするかね。
「坂口、ちょっとこいつ借りていい?」
肩に手を置かれて、悪寒が走る。
「雄大……」
雄大は、確か里中の名前だ。
「どうして、部長が」
「借りるね」
グイッと引っ張られて強制的に連れていかれる。
それを目撃した牧田がフューフューと茶化してくる。
後で絶対ぶん殴ると誓った。
廊下の隅、階段のある端。
「坂口とも仲がよかったのか、洋馬」
「……今日話したばかりです」
「なんだよ、マジかよ。それで、今日は部活くるか?」
聞かれたくないことを聞かれてしまい、話を逸らすことにした。
「坂口、クラスでいじめられてますよ。僕と同じですね、扱いが」
話の腰を折ると彼は、目を見開いた。
「本当か?」
一重の目が、僕を鋭く見つめる。
「本当です。幼馴染なら助けてあげては?」
「…………お前、正しさって言ったよな」
考えた挙句、昨日の発言に関して言いたいらしい。
相槌を打つと彼は小さく笑みを浮かべた気がした。
「正しさってさ、訴えていくものじゃないのか?大人にでも」
「……」
そこにあったはずの空気が変わったように思う。
そこら中の喧騒が聞こえなかった。
「洋馬は正しいよ。レギュラーメンバーに選ばれるために努力した正しさ。朝から晩まで。その努力を認めた顧問の正しさ。自分が間違っていないと思うなら、その意思をぶつけないと」
窓の外に目をやる部長。
「正しくないやつと関わらないのは、正しくないですか」
「……それも正しいよ」
「生きるためには、逃げる必要もあると思います」
「……壮大だな」
「自分が死んだら元も子もない。坂口、あいつはどうして逃げないんでしょう。いじめられているのに、なぜ、立ち向かうこともしないのでしょうか」
「……自分が死んだら、か。部活に行かないのも、生きるためなら正しいか」
「僕は、そう思います。自分が死ぬくらいなら、相手に死んでもらいたい」
「……」
驚いた表情を隠すこともしなかった。
「死んで欲しいんです。部長、殺してください。あの部活の二年は、誰も正しくない」
なんてね、とおどけて見せた。
「こんなの、主観的ですよ。客観的に見たら間違いだ」
感情的に物事を言ってしまうのはよくない。物騒なことを言ってしまう。
「主観的でいいんじゃない?洋馬が、生きたいように生きれば、それは生きていることになるだろう」
部長の言葉が、スッと頭に入ってくる。
何か今までにあった価値観に変化を与えられた気がした。
自分らしく生きるためなら主観的でいい。
人に死ねと思うことも、自分らしさ。
客観的に考えてしまって、己を否定するのはよくない。
彼には、そう教えられた気がしたのだ。
「……坂口にもそうやって生きて欲しいですね」
本心だった。
「それで、部活は」
せっかく逸らしたのに意味がなかった。部長はしつこいらしい。
「行きません」
彼は、諦めが悪いのかまた来ると言って帰っていった。
LINEの通知にスマホを開く。
本来学校でスマホを見ることは禁止されているけれど、気にしていてはスマホは見れない。
昨日繋がった真波からだ。
連絡が来るとは思っていなかったから返す言葉も思いつかない。
『今日、来てくれる?』
こういう文面は、夜職とかそういう人が使っていそうな言葉をなぜ彼女が使うのか。
いつどこで僕が彼女を惚れさせたと言うのか。
勘違いだ。そんなわけない。自惚れるな。
坂口とも知り合いなのか確かめるか。
「部活ないし、行こうかな」
『ほんと!?』
既読がつく。早いな。暇かな。
「坂口って知ってる?」
『坂口真里奈なら知ってるよー。小学生の頃から仲良いからー』
「じゃあ、その女子も連れてくるー」
『えー?』
もしかして、ちょっと嫌そう?
だが、しかし、英国紳士の僕は気を遣うプロだ。
「坂口、会いたがってるみたいでさ」
『わかったー、待ってるー』
どうやら、なんとかなったらしい。
サンリオのハートを持ったスタンプが送られてきた。
可愛らしいスタンプを女子大生が使うのかと意外に思う。
大学生になったからといって、大人というわけではないらしい。高校生の僕からみれば、大学生は大人だと思っていたけれど。
放課後、坂口を連れてスタバに向かう。
その道中、彼女が隣にいるのはひどくストレスだった。
やっぱり連れてこなければよかった。
嬉々とした表情、隣を歩く距離が近い、喋ればマシンガントーク。
僕の問いはほぼ無視。
こいつまじで人と喋れないんだなと実感する。
なんだかいじめられても仕方ない気がしてきた。
施設に入る直前、彼女は僕の袖を掴んだ。
「ちょっと待って。ここ?ほんとに入るの?」
一人で入る人もいるし、別に躊躇うことじゃない。
「入るよ」
「え、やっぱ無理だよ。ここは流石に」
「じゃあ、美容院でも行けば?それか、メイク用品とか。そしたら、ハードルも下がるよ」
「……」
ほれみろ。まただんまりだ。
「なんで、そう言うこと言うかな」
「はいはい。いくぞ」
本気にするなよとため息をついた。
真波にそろそろ着くと連絡を送る。
すぐにスタンプが返ってくる。
「ちょっと、やっぱり」
躊躇う彼女に舌打ちをして腕を引っ張る。
まるで、幼稚園に行きたくない園児のよう。
「ねぇ、痛い!強いって!」
「サッカー部なめんなよ。早く来いって。真波に会いたくないのか?」
「会いたいけど」
力が緩んだ隙に強引に連れていく。
「都会に生まれたこと後悔しとけ」
「来世は田舎がいい」
八階まで連れていくと、真波と目が合う。
小さく手を振る彼女はまるで小動物のようで可愛らしい。
背の低い女子はいいな。
「ねぇ!痛いんだけど!」
坂口も背が小さいが、これはノーカウント。
「あ、真里奈。久しぶり」
接客時と似たような笑み。営業スマイルとほとんど変わらないスタイルで接客する裏表のなさに尊敬した。
この人、接客プロだ。直感が働く。
もし接客のバイトをする時は彼女を見習おう。
「久しぶり。ここで働くなんてすごいね。私には無理だよ」
会ってすぐに、ネガティブで皮肉めいたこと言うなんてすごいね、と言ってやりたかったがやめた。
きっと、自虐で笑いを取ろうとしたのだと思う。
「そうかな。楽しいよ」
真波は気にしていない様子。自虐は失敗した模様。
「二駅離れただけなのに、都会な感じしますよね」
適当に話題を振ってみる。
「大学生はここ来ないけどねぇ」
てっきり大学生だと思っていたから、
「大学生じゃないんですか?」
と、質問した。
「専門学校通ってる。今一年」
この辺に大学はないのかと意外に思う。
「ちなみにどんな?」
「秘密?」
なら、仕方がない。不敵な笑みを浮かべる彼女の虜になりそう。
ドンっと二の腕を叩かれたので、振り向くと坂口が睨んでいた。なぜだ。
「せっかくきてくれたし、奢らせてよ」
「いえ、自分で」
「いいの!?」
坂口は、遠慮することを知らないらしい。
「いいよ。久々にあったわけだし。直人くんは?」
「どうして僕の名前を」
「LINEの名前にしてたじゃん」
「……確かに」
「ふふ。なにそれ、かわいい」
「あ、いや、でも」
「いいの、誘ったの私だよ?」
なんて言い返そうか悩む。しかし、次来る時のお金ができるわけだからここは有難く奢られておこうか。
おいで、と手招きをされてレジに向かう。
ぴょんぴょん歩く彼女。見惚れてしまう。
また坂口に二の腕をドンッと叩かれたので、舌打ちした。今、いいところじゃないか。
じゃあ、これをと指を差すと彼女は笑みを浮かべている。営業スマイルなのか普段の笑みなのかどちらだろうか。
それとも坂口とのやりとりに笑みを浮かべているのか。大人の笑みに見えてしまう。
坂口とはそう言う関係じゃないし、ただ連れてきただけなのに。
思っている以上に、ストレスなので邪魔だしこの先、誘うことはないだろうと思う。
僕にも真波とキャッキャウフフな未来が待っているかもしれない。そのためには坂口が邪魔だ。
我ながら、汚い高校生だ。死刑でいい。
「甘党だよね。いっつもそれ」
「バレてるんですね、隠す気ないけど」
真波は、いつも通りの営業スマイルを見せてくれる。
誰にでもこの表情を見せるのなら、客はイチコロなんじゃないだろうか。
スタバ二人分を会計してくれて、ドリンクを待つことになった。
「真波ちゃん、ボブじゃなくなってる」
「……ん?」
ボソッとつぶやく坂口に僕は、視線を向けた。
その視線に気づいた彼女は口を開く。
「私が中学生の頃までは、ボブカットだったから。変わったなぁって」
「髪、切る時間ないんじゃない?」
「女の子がそんなことでやめると思う?」
「気分転換とかあるでしょ。いちいち気にしてたら負け」
「とか言って、気になってるくせに」
「それ、自分のこと言ってるでしょ」
「バレた?」
可愛くもないくせに、てへっと頭を叩くこいつをマジで叩きたくなった。
「じゃあさ、坂口のロングがボブに変わったら誰か気にすんの?」
「それは」
「気にしないでしょ。いちいち人の変化を勘繰ってたら嫌われるよ」
「……そうだよね」
顔が暗くなっていくことに気づく。いじめられていることを忘れてしまっていた。
彼女の気持ちを考えれば、触れるべきではなかったのかもしれない。
「いや、でも好きな人なら気になるでしょ」
「……」
とんでもないカウンターを食らってしまって言い返す余地がない。
少しでも彼女の気持ちを考えてしまった時間を返してほしい。
「ほら!」
「うるさいな。黙っとけ」
「図星なんだ。へー、バレたからツンツンしてんだー」
教室とはまるで違う反応しやがって許せない。
静かにしておけばいいものをなぜこうもうるさく突っかかるのか。
そうこうしているうちに頼んだドリンクが出来上がった。
いつも使うカウンターに近い席に座る。
目の前には女子。普段、牧田を見ているせいで違和感がある。
牧田が女子になれば解決なのではないだろうか。
「どうかした?」
「……メガネ、外さないの?」
「え?」
「さっき、メガネがずれたときに見えたんだよ。メガネない方が良くねって思ってさ」
「……」
「コンタクトとか」
「やめよ。そういうの。求めてない」
「……ごめん」
自分が外見を気にするからと言って、坂口が気にしているとは限らない。
それが、彼女を傷つけるならやめるべきか。
「私が、メガネ外しても、私にメリットがないよ」
「……」
あまり理解ができず、次を促す。
「みんなが求めてるわけじゃない。私もそれを求めてない」
彼女の心情の奥になにがあるのか気になる。
全く見えてこない心の傷は、深いところで眠っているのだろうか。蓋をして、隠して、バレないように、話を逸らすように。
「僕は、よく求められるけど。顔とか性格とか。全部捻じ曲げてる」
だから、坂口もそうしろなんて言うつもりはなくて。
「元から捻くれてそうなのに?」
「余計なこと言うなよ」
茶化す彼女に笑って返す。
「もっと言いたいことがあるの?」
そのくせ、真面目な顔で聞いてくるから。
「あるよ……」
素直になってしまう。
「もっと言いたいね。お前は間違ってるとか、僕が正しいとか」
女子に愛想よく話しかけるとか、求められた答えを返すとか。
上下関係気にせず間違ってることは間違ってると言いたい。
勝手に作られた優劣に従いたくなんかない。
「僕が、部活サボっていること知ってる?」
「……聞いちゃいけないと思ってた」
どうやら、知っているらしい。
「部員はみんな、推薦で入った男子が新人選に選ばれると思ってた。でも、その枠に僕が入った。推薦じゃない僕が。そしたら、本番になってパスは回ってこないし、まるでいない人のように扱われた」
「……」
「先輩や副顧問には求められたよ。強豪の名を背負って行けって。でも、チームは求めてくれなかった。みんながみんな求めてくれるわけじゃない」
それは。
「坂口と一緒だよな。求められても、応えたいと思わない。応えてしまえば、誰かが角を立てて石を投げてくる。当てられた痛みに血が滲むなんて嫌だよな」
辛い思いをしたいわけじゃないから。
いつからか面倒を言い訳に、避けてしまう。目を逸らしてしまう。
それが、いつの間にか当たり前になってしまう。
「とっくに怖くなってる。また戻った先で今まで通りの僕を演じられるのかどうか」
伏せていた目を彼女に向ける。目が合うと恥ずかしくなって下を向く。
「演じてるだけだよ。誰もが関わりやすいような僕を、演じてる」
「やめないの……?」
「やめてるんだよ。部活に行ってないし、部長にはあんな態度だし。それでも牧田は関わってくるけれど」
「優しいんだね」
「優しいね、牧田」
「牧田もだけど」
「……」
「あなたも」
目が合う。綺麗な瞳が僕を捉える。
「坂口だって、今のままでいいと思えるなら、そのままでいいと思う。変なこと言ってごめん」
席を立つ。
長く居座るつもりもないので、電車に向かう。
坂口と家の最寄りまでは違うけれど、方面が同じなので同じ電車に乗る。
彼女は僕の最寄りの三駅手前で降りるらしい。
降りかけの彼女は僕にいう。
「今のままでいいなんて、全く思ってない」
咳を立つ前に言った僕の言葉への答え。
「じゃあね」
小さく手を振り電車から降りた彼女は、弱く見えた。
素直に何かを口にするのは難しい。
彼女が僕に本音を伝える必要なんてどこにもない。
だけど、告げたその言葉は本心だと思う。
なんだか胸が苦しかった。
似たような環境の中、逃げることもできないあの空間で彼女はどんな思いを抱きながら生活しているのだろう。
彼女の拠り所がオタク活動ならば、住処があるのならば、それで問題ないのだろうか。
僕にはまだわからないことばかりだった。
しかし、考えが纏まらないままその時はやってきた。
もう後には戻れない出来事が訪れようとしていた。
教室内でいじめる男子、相澤、三木谷、女子、三森が坂口という女子生徒に執拗に絡む姿。坂口への暴言が、クラスに響いている。
関わりたくないとそれを横目に足速に教室を出る。
もしも正しい行いというものがこの世にあるなら、この学校にあるというのなら、なぜ教師はこのいじめの現場を止めないのだろうか。
このクラスの誰かが教師に告げて、聞いた教師が対応する。
しかし、クラスメイトも僕もそれをしない。
目撃しただけだ。関わりたくはない。
関わることで面倒ごとを増やしたくない。きっとみんな同じだ。
あの芋っぽい女子生徒のことを誰が守ろうか。
メガネをかけて、ボサボサの髪の毛で眉も整えないような女子生徒。
ルックスの良い相澤にとってクラスにこんな芋女がいたら邪魔に思うだろう。
女子生徒も自分も彼女のようにいじめられたくないと無視を決め込むのだろう。
だが、クラスのみんなでその三人を追い払うことはできると思う。可能な範囲だろうが、それをしないのは度胸がないから。
髪の毛を引っ張られ、痛いから立ち上がる坂口を突き飛ばす三森。
こんないじめがこの小さな箱の中で行われている。逃げ場はどこにもない。
学校と家を行き来するだけの学生に救いの場はない。
もしかしたら、大人が入る余地なんてないのかもしれない。
「洋馬、帰ろうぜ」
廊下を歩いていると同じクラスで同じ部活の男子、牧田にあった。
眉は整っていて、髪の毛のケアもしている。僕と同じだ。似たところが多く部活に行かなくなった僕にもいまだに関わってくれる相手。
「おう、帰ろうか」
「いやいや、部活は?」
帰ろうと言ったくせに、部活の話をしてくるのはどうかと思う。
「帰るよ」
「一丁前に帰宅部になりやがって」
なんだか楽しそうに彼は言った。
帰宅部なんて部活はどこにもないが、部活にも行かずただ帰るだけの人をそんなふうに呼んだりする。これは学校全体であることで一般的なのかもしれない。
サッカー部の僕は、一年生の新人戦のあった冬から二年生に上がった今も部活に参加していない。
「行くなら、行けば?副顧問にでも開いに行けば?」
ぶっきらぼうに吐き捨てる。
牧田は副顧問に会う予定が月に何回かあるようで思いの外忙しいらしい。次期部長になるかもしれない。
「一日くらいサボってもいいだろ。スタバ、新作出たってよ」
部活に行くのか帰るのかわからない牧田はスマホの画面に載っている情報を見せてくる。
「いくか」
彼に便乗するとすぐに駅に向かう。
あの美味しいドリンクを毎月提供するのだから、神と崇めたい。
名古屋市内の地下鉄に乗って二駅、栄えた街に向かう。僕と牧田は、同じ学校の生徒に放課後に会いたくないと少し離れた場所に行くことが多い。
スタバに行くだけだし、近くにもたくさんあるけれど、同じ学校の生徒がたくさんくるので僕らは行かないのだ。
面倒ごとは関わらない。学校の人たちに会うメリットがない以上、このスタンスになってしまうのは仕方がないと自分に言い聞かせる。
交通費を考えると高校生にとって二百円前後はまぁまぁ高い。往復代でもう一回スタバに行ける。コーヒーくらいは頼める。
定期券があるのでその心配をしたことなんてないけれど、牧田は定期券がないと聞いているので少し気を遣う。
「お前、このままサッカー部来ないつもり?」
「推薦で入ったわけじゃないし、牧田とは違う」
「まぁ、そうだけどさ。推薦の奴らより上手いわけだし」
「いても、いなくても変わんない」
施設の中に入ると冷房が効いていた。エスカレーターで八階を目指す。
「そんなことは」
「じゃあ、なんであの試合中、僕にパスが回ってこなかった?」
一年生の新人戦があった時、レギュラーメンバーに選ばれプレイをしたが俺にパスをしたのは牧田だけ。
後に、僕が嫌われていると知った。
レギュラーメンバーから落ちた推薦の男子の代わりだったというだけ。
スポーツは実力主義だ。サッカーももちろん実力だ。強さだけが評価される。
推薦で入った男子は僕より弱かっただけのはず。
しかし、この学校は県内でも唯一のサッカー強豪校で部活動推薦を選んでまで入りたいという生徒がいる。
親しい部員が多かった人の代打になってしまい、結果、全くパスが回ってこなかった。
推薦で入った人の方が強いという先入観があるのかもしれない。推薦で入ったプライドがあるのかもしれない。独りになった。
今はもう僕には縁のない話。関係のない話。
新人戦は、一回戦敗退という結果を出した。
強豪校が初戦敗退というゴシップはすぐ他校にも広まった。
中学の友達から連絡をもらうほどに大きな出来事だった。
当時二年生の先輩たちはひどく叱責した。見にきてくれていた部長は、推薦で入った部員たちの練習メニューを増やした。
先輩に怒られた怒りの矛先は僕に向けられ、居場所を無くした。
そして、今こうやって帰宅部をしている。
「それは、まぁ」
「大事な時にパスも出せないチームなんていらないだろ」
「部長は帰ってきて欲しそうだったよ」
「いらないって。あのチームでうまく行くと思っているから僕が邪魔なんだろ」
「部長にはそう言っておこうか?」
「勝手にしろ」
「顧問にも」
「勝手にしろって!」
憤りを彼にぶつけてしまった。
強く睨みつけると彼は笑った。
「糖分がたりてないぞぉ!スタバへ、レッツゴー!」
甘党の僕と彼。いつどのタイミングで仲良くなったかなんて覚えていない。
部活がある時はカロリーの高い飲料、炭酸飲料をやめるように言われていたが、今となっては炭酸水をたくさん飲むようになってカバンにストックを入れるほどだ。
八階のスタバに到着するといつもの男子二人組だと言わんばかりに慣れた挨拶をしてくれる女子店員。
大学生くらいの若い女性で高校生とは違う大人らしさみたいなものを感じる。
「新作が飲みたくて」
子供みたいな言い方をする牧田。
引っ叩きたくなる欲を抑える。
「あるよ。二人とも同じでいい?」
「お願いします!」
一つ結びにした髪が会計に向かう流れで揺れる。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。バニラの香水だ。
「良い匂いするよね、あの店員さん」
「やめろ、うるさい」
女性の店員に惚れるなんて馬鹿なこと、この僕がするわけない。
会計を済ませ、レシートを受け取ると彼女は営業スマイルを見せてくれる。
しっかり仕事をする女性だなと尊敬する。
この先バイトをすることがあるなら、見習いたい。
「ここでバイトしようかな」
「やめとけ、変態」
「嘘だよ。掛け持ちはごめんだね」
「……え?」
バイトしている事実を知らなかったせいで、変な声が出た。
「コンビニで夜バイトしてんの」
「だから、いつも学校で寝てんのか」
「赤点は取ったことないので」
毎月、新作を飲めるのはそんな理由があったのかと思い知らされる。
なら、親から小遣いをもらっている僕よりもお金はあるのではないだろうか。
一回くらい奢ってもらえる可能性も?
チラッと見やる。目があった。
「奢らんけど」
「なんで、バレてんの」
「いつもそうだろ。奢ってもらおうとする魂胆が見え透いている」
いつも使っている席が空いていたので、そこにカバンを置いて座る。
「バレるなら、お前の顔見なきゃよかった」
「金蔓じゃねえぞ?」
「はいはい」
「奢ってほしけりゃ、あの店員の連絡先聞いてこい」
「失礼にも程がある」
これだから童貞は、と言いかけてやめた。
人のこと言えないからだ。
そもそも目の前に座るこいつが童貞かもわからない。
ため息をつく。紙ストローの包装紙を破いて取り出す。
牧田の動作がないので、顔を見てみれば、焦るようにカバンとスタバの新作をとる。
「どうした?」
僕が悠長に見えたのか、焦りを目線だけで訴えてくる。
彼の視界の先に誰がいるのか。目を向ければ、そこには里中部長がレジで会計をしているところだった。しかも一つ結びの女性店員と親しげだ。
焦った僕らは、急いで逃げようとするが、時すでに遅し。
声をかけられた僕らは、挨拶をする以外の選択肢がなかった。
ドリンク待ちの部長が僕らの元に来る。
どうしてここにいるのか考える時間が欲しかった。
「お前ら、どうして部活来ないんだ?」
口を摘む僕らに証拠と言わんばかりにスマホの画面を見せてくる部長。
そこには以前僕らが来た時、部活の文句でも言っているであろう姿の写真。
画角的に店員のいるあたりから撮られている。
「もしかして、あの店員と親しげなのって」
「友達だし。まぁ、大学生だけど」
やっぱり大学生だったのかと予想が当たりガッツを決める。
「で、二人はなんで部活に来ないの?牧田は今日来ないの知ってたけど」
伝えてたのかよ。
「病院だって聞いてたけど」
仮病かよ。
「スタバ、奢るので」
「そういうのいいから」
なんだか思っていたより、部長の態度が悪い。冷たいというべきか。
牧田を牽制すると、部長は僕に目を向けた。
「来れない理由が、あいつらなら俺から伝えるけど」
「別にいいです。学生の本分は学問なんで。部活はやめます」
口を開いた時、一つ結びの女性店員に声をかけられた彼は戻っていった。どうやらドリンクを取りに行くらしい。
「逃げるぞ」
牧田に言うと急いでエスカレーターへ向かう。
せっかくの放課後をあの女性店員の告げ口で最悪なものに変化してしまった。
許せないことだ。
しかし、その先にいたのは部活の先輩たち。
逃がすつもりは一切ないらしい。
後ろから部長の足音が聞こえる。
「そうすると思って、二人連れてきた。正解だったね」
「先読みするなんて」
「二人のサッカーのプレイスタイルと同じだよ、衰えちゃった?」
ゴールを決めるために先読みするのは当たり前だろうに。
「そうですね、衰えたので、やめます」
何いっても止める方向に舵を切る僕に諦めたのか、彼は一度ため息をついた。
「まぁ、いいや。とりあえず、座って話そう」
逃げ場がない。無理やり逃げて、騒がしくして学校にクレームが入るのはよろしくない。
指示に従うことが一番正しいような気がした。
席に着くと、部長は口を開いた。
「牧田は、大目に見るから今日は帰ってもらえる?」
一対一で話したいみたいで、それがストレスだった。
「明日は部活行くので!」
後輩のような弟のような雰囲気を見せる彼は、ボソッと耳打ちした。
「あの女性店員の連絡先、頼んだ!」
彼が言った後で、ため息をつく。
「どうした?」
隠す気もないので、部長に伝える。
「いや、牧田があの女性店員の連絡先が知りたいそうで」
「これ?」
部長のスマホの画面には女性店員のアイコンらしきものがあった。
「多分、それ」
「やるから教えろ」
「勝手に人の連絡先教えるのってどうなんですか?」
「元々、言われてたことだし問題ない」
話が見えなくて、チラッと彼女を見てみれば目があった。
あぁ、そういう?え、ん?
スマホに連絡先が送られてきた。勝手にスマホを取り上げられて、勝手にスタンプを送られる。
これで、連絡先は繋がったわけだし、やり取りもできる。望んでないぞ。
挙句、部長は女性店員にグッドサインを見せていた。
アカウントの名は、真波。
「じゃ、こっちはお前の望み叶えたんだし、教えてくれよ」
「別に交換したかったわけじゃないです。これ、強要ですよね」
「まぁ、いいじゃないか」
「よくないですけど」
「少しくらい力になれたらって思ってる。洋馬は、戦力だ」
「その戦力が迫害を受けたので。いらない馬は切るべきじゃないですか?推薦じゃないし」
「切られた馬が、他でいい仕事ができると思うのか?馬刺しになんてなれないぞ」
「じゃあ、捨てればいいと思います」
「……他人事みたいに」
「そんなことないです。もう十分理解したと思っているだけなので」
不思議そうな顔をする部長。
深く聞きたいのか、先輩二人を帰るように告げた。
なんだかこの際言ってしまったほうが楽な気がした。
後に思えば、この選択は間違いだったと知るのだが。
「正しくないじゃないですか。部活も学校もこの先も全部。実力があっても正当に評価されても、チームは成り立たない。感情を優先させてチームの足を引っ張る。僕がいない方が上手く行ったと言わんばかりに、みんな距離を置く。強豪校が負けたゴシップは、もう一生残る。僕のいない部活の方が楽しそうじゃないですか」
足の痛みを訴え病院へ行くために部活を休んだ日。親の車で病院から帰る道中に見えた部活の練習風景。
負けたばかりなのに、みんな楽しそうに練習していた。メニューが増えたはずなのに悔しそうな顔一つ見せずいつも通り。
あの時、悟ったのだ。僕のいない部活動は僕の望んだ部活動だった。
僕は、邪魔だ。
「いらないんですよ。今、必要だって言うやつどこにいます?県大会も勝手に頑張ってくれって思いますけどね」
「……今のままじゃ、また初戦敗退だ。いや、県大会まで行けないかもな。このままじゃ、強豪校の名に泥を塗る。それだけは」
「塗ればいいじゃないですか」
部長の言葉に被せた。気持ちが溢れているようで、それは自分にも理解できた。
「こんな部活終わってしまえばいい。他に強い部活あるじゃないですか。その名が広がれば良くないですか?」
「それは」
「部長だって気づいてますよね。今年入った一年も強くない。見てればわかる。サッカー部は事実上、強豪校ではなくなったって」
「……」
スタバのドリンクを飲む。甘ったるくて、自分で選んだはずなのにイラッとした。
「もういいですか?」
カバンをとり、席を立つ。エスカレーターのある方向へ歩を進める。
「ここから巻き返せるって、思わないか?洋馬がいれば」
「僕がいたら、また部活は荒れますよ」
振り返って部長を睨みつける。
彼は僕と目が合うよりも先に目を伏せた。
「学校なんて、正しいやつから消されるんですよ」
体の向きを戻すと、帰路についた。
部長に投げ捨てた言葉を後になって反芻する。
正しいやつが残るにはどうしたらいいのか。
間違ったやつが消されるにはどうしたらいいのか。
正しい人が生きてなきゃおかしい。僕は、自分を守るために部活をやめた。生きるためだ。
間違ってる奴らにこの人生狂わされてたまるかと。
この先、間違った人が生き続けたらどうだろう。
ただ一生懸命に生きている人が詰られ、心も体も殺されたら胸糞悪くないだろうか。
正しい人間が、間違った人間に殺される。それはあってはならないことだろう。
ふと、思いだす。クラスでいじめられている女子生徒。あの子はどんな間違いをしたのだろう。
間違えたから、いじめられているのだろうか。
正しさに嫉妬して、八つ当たりから始まったのか。
もし後者なら、彼女は僕と一緒だ。
面倒は避けたいが、一度くらい話を聞いても良いのではないだろうか。
翌日、僕が学校に行くと坂口が席に座っている。まだいじめられていなかった。
いじめっ子の彼らは登校が遅いから仕方がない。
「ちょっと、いい?」
行動するなら、早い方がいい。
確認して、彼女が正しい側なら助けるべきだ。間違っている側ならそのままでいい。気にしなくていい。
「ごめん、無理」
「……」
話が進まないなぁと、ため息をつきそうになる。
呆気に取られてしまうが、彼女なりに角を立てることだけは避けたいのかもしれない。
「そっか、ごめん。また昼に聞くね」
出鼻をくじかれた気分だ。
こんなやつ、いじめられて当然だ!と言うほどの気持ちにはなれなかったけれど。
なんだか、まぁ仕方ないか、くらい。
四限の社会の授業が終わり、昼を牧田と一緒にした。
世界大戦がどうとか、よくわからない歴史の話はまるで呪文のようだった。
その歴史がどうして、今もなお繰り返されるのか。
考えたところで、答えは出ないのだろう。いつも結果が出ないと理解できないのだから。
何十万の人間を殺すこと。それが、悪だと言い切らないのは、この国もまたそれだけの犠牲を作ったからなのか。
ならば、少数の人間が犠牲になったとしよう。
その人間を殺したのが一人ならきっとその人は悪だ。
何十万と何十万のぶつかり合いはもはや人として扱っていないのかもしれない。
少人数ならば、人として扱える。だけど、戦争は違う。
だから、歴史の一つとして残しておくだけなのかもしれない。考えれば考えるほど、頭がおかしくなるから。
飯も終わり、逃げそうない坂口を捕まえる。
「何度も何?もう来ないで?」
「まだ二回目」
廊下に出ていった彼女の前に立ち、進路を阻む。
「じゃあ、単刀直入に聞くよ。なんでいじめられてるの?」
「……」
唇をかむ彼女。あんなにも人として扱われない女子生徒がいじめられていないと言い切るのは無理がある。
「そんなことない」
小さくか弱くつぶやく。
「認めたくないとか?」
「デリカシーがないね。そんなこと直接聞くなんて」
「それは認める。だけど」
だけど、なんだろうか。
部長の意見もまともに取り合わなかった僕が、彼女の言葉を汲んだ上で何が言えるだろう。
「いや、やっぱりいいや。人のこと言えないし」
「……え?」
メガネの奥でありえないと言わんばかりに疑いの目をかけてくる。
「見た通りだろ。部活サボって、牧田とスタバ行って、部長にあって、スタバの女性店員のLINEを登録させられるなんてさ」
スマホをぷらぷらと摘んで揺らす。
「……部長って」
「里中部長だよ。あのクソ部長が、わざわざ部活来いってスタバにまで来たんだぜ?」
「その部長、私の幼馴染」
「…………」
やけに通るその声が、脳に届く。
スマホを落としたことなんて忘れて、呆けた。
「え、まじ?」
「まじ」
「……」
今しがたクソ部長と言ったわけだけど。
「その店員さん、真波ちゃんって言うなら、小学生の頃から仲良くしてくれてて」
早口で喋るこいつにイライラしながらも相槌を打つ。
「もう大学生だからほとんど会ってなくて」
それなら、ちょうどいいのではないだろうか。
「明日にでも一緒に行くか?」
「え?でも、あそこキラキラした人が行く場所じゃない。私みたいなオタクは」
「誰でも行くだろ。ほら、牧田とよく行くし。確かに、大学生みたいな人が多いなとは思うけど」
「大学生以上の人向けだよ!あんな高い場所よく行けるね」
「このあたりだと高校生多くて、バレるから」
「甘党なのが?」
「……」
部活サボってスタバに行っているなんて、バレたらまずいだろと大声で言いそうになる。
「なんとなく、そう思ってたよ。昼、購買で買ってるの菓子パンよりも甘いスイーツじゃない」
「人の姿をよく見てらっしゃる」
話がズレた気がするけれど、都合がいいと思い続ける。
「あ!その言い方もう一回!今見てるアニメの」
「あぁうるさい!」
彼女の頬をパシっと叩き、タコの口をさせる。
その拍子にずれた眼鏡の奥の瞳が予想外にも綺麗だった。
「痛い……。あ、でもその後ね女の子のキャラが後ろからハグするんだよ」
「どうやら、君はアニメオタクでそれが奴らの鼻についたわけだな」
手を離すと彼女はクイっとメガネをあげた。
必死に顔を隠そうとする彼女。図星だと思った。
「そうだと思う……」
「だろうな。オタクってキモいし」
「……」
「早口なのに何いってるかわかんないし、受け答えでもできない奴らばっか。あと、臭い」
「ひどいね」
「クラスにもまだいるだろ。けど、どうして君だけがそんな扱いを」
「……それは」
口を閉ざしてしまった。
言いたくないことは誰にでもある。
無理に言わせる必要もない。
「まぁ、どっかのタイミングで教えてよ」
こんなオタクと仲良くなりたいとは思わないけど、仲良くなりたいと言っておくべきだろうか。
「待って。まだ、名前で呼んでもらってない」
「……は?」
「は?じゃなくて。名前」
「あぁ、えっと」
名前呼んでもらってないだけでそこまで気にするかね。
「坂口、ちょっとこいつ借りていい?」
肩に手を置かれて、悪寒が走る。
「雄大……」
雄大は、確か里中の名前だ。
「どうして、部長が」
「借りるね」
グイッと引っ張られて強制的に連れていかれる。
それを目撃した牧田がフューフューと茶化してくる。
後で絶対ぶん殴ると誓った。
廊下の隅、階段のある端。
「坂口とも仲がよかったのか、洋馬」
「……今日話したばかりです」
「なんだよ、マジかよ。それで、今日は部活くるか?」
聞かれたくないことを聞かれてしまい、話を逸らすことにした。
「坂口、クラスでいじめられてますよ。僕と同じですね、扱いが」
話の腰を折ると彼は、目を見開いた。
「本当か?」
一重の目が、僕を鋭く見つめる。
「本当です。幼馴染なら助けてあげては?」
「…………お前、正しさって言ったよな」
考えた挙句、昨日の発言に関して言いたいらしい。
相槌を打つと彼は小さく笑みを浮かべた気がした。
「正しさってさ、訴えていくものじゃないのか?大人にでも」
「……」
そこにあったはずの空気が変わったように思う。
そこら中の喧騒が聞こえなかった。
「洋馬は正しいよ。レギュラーメンバーに選ばれるために努力した正しさ。朝から晩まで。その努力を認めた顧問の正しさ。自分が間違っていないと思うなら、その意思をぶつけないと」
窓の外に目をやる部長。
「正しくないやつと関わらないのは、正しくないですか」
「……それも正しいよ」
「生きるためには、逃げる必要もあると思います」
「……壮大だな」
「自分が死んだら元も子もない。坂口、あいつはどうして逃げないんでしょう。いじめられているのに、なぜ、立ち向かうこともしないのでしょうか」
「……自分が死んだら、か。部活に行かないのも、生きるためなら正しいか」
「僕は、そう思います。自分が死ぬくらいなら、相手に死んでもらいたい」
「……」
驚いた表情を隠すこともしなかった。
「死んで欲しいんです。部長、殺してください。あの部活の二年は、誰も正しくない」
なんてね、とおどけて見せた。
「こんなの、主観的ですよ。客観的に見たら間違いだ」
感情的に物事を言ってしまうのはよくない。物騒なことを言ってしまう。
「主観的でいいんじゃない?洋馬が、生きたいように生きれば、それは生きていることになるだろう」
部長の言葉が、スッと頭に入ってくる。
何か今までにあった価値観に変化を与えられた気がした。
自分らしく生きるためなら主観的でいい。
人に死ねと思うことも、自分らしさ。
客観的に考えてしまって、己を否定するのはよくない。
彼には、そう教えられた気がしたのだ。
「……坂口にもそうやって生きて欲しいですね」
本心だった。
「それで、部活は」
せっかく逸らしたのに意味がなかった。部長はしつこいらしい。
「行きません」
彼は、諦めが悪いのかまた来ると言って帰っていった。
LINEの通知にスマホを開く。
本来学校でスマホを見ることは禁止されているけれど、気にしていてはスマホは見れない。
昨日繋がった真波からだ。
連絡が来るとは思っていなかったから返す言葉も思いつかない。
『今日、来てくれる?』
こういう文面は、夜職とかそういう人が使っていそうな言葉をなぜ彼女が使うのか。
いつどこで僕が彼女を惚れさせたと言うのか。
勘違いだ。そんなわけない。自惚れるな。
坂口とも知り合いなのか確かめるか。
「部活ないし、行こうかな」
『ほんと!?』
既読がつく。早いな。暇かな。
「坂口って知ってる?」
『坂口真里奈なら知ってるよー。小学生の頃から仲良いからー』
「じゃあ、その女子も連れてくるー」
『えー?』
もしかして、ちょっと嫌そう?
だが、しかし、英国紳士の僕は気を遣うプロだ。
「坂口、会いたがってるみたいでさ」
『わかったー、待ってるー』
どうやら、なんとかなったらしい。
サンリオのハートを持ったスタンプが送られてきた。
可愛らしいスタンプを女子大生が使うのかと意外に思う。
大学生になったからといって、大人というわけではないらしい。高校生の僕からみれば、大学生は大人だと思っていたけれど。
放課後、坂口を連れてスタバに向かう。
その道中、彼女が隣にいるのはひどくストレスだった。
やっぱり連れてこなければよかった。
嬉々とした表情、隣を歩く距離が近い、喋ればマシンガントーク。
僕の問いはほぼ無視。
こいつまじで人と喋れないんだなと実感する。
なんだかいじめられても仕方ない気がしてきた。
施設に入る直前、彼女は僕の袖を掴んだ。
「ちょっと待って。ここ?ほんとに入るの?」
一人で入る人もいるし、別に躊躇うことじゃない。
「入るよ」
「え、やっぱ無理だよ。ここは流石に」
「じゃあ、美容院でも行けば?それか、メイク用品とか。そしたら、ハードルも下がるよ」
「……」
ほれみろ。まただんまりだ。
「なんで、そう言うこと言うかな」
「はいはい。いくぞ」
本気にするなよとため息をついた。
真波にそろそろ着くと連絡を送る。
すぐにスタンプが返ってくる。
「ちょっと、やっぱり」
躊躇う彼女に舌打ちをして腕を引っ張る。
まるで、幼稚園に行きたくない園児のよう。
「ねぇ、痛い!強いって!」
「サッカー部なめんなよ。早く来いって。真波に会いたくないのか?」
「会いたいけど」
力が緩んだ隙に強引に連れていく。
「都会に生まれたこと後悔しとけ」
「来世は田舎がいい」
八階まで連れていくと、真波と目が合う。
小さく手を振る彼女はまるで小動物のようで可愛らしい。
背の低い女子はいいな。
「ねぇ!痛いんだけど!」
坂口も背が小さいが、これはノーカウント。
「あ、真里奈。久しぶり」
接客時と似たような笑み。営業スマイルとほとんど変わらないスタイルで接客する裏表のなさに尊敬した。
この人、接客プロだ。直感が働く。
もし接客のバイトをする時は彼女を見習おう。
「久しぶり。ここで働くなんてすごいね。私には無理だよ」
会ってすぐに、ネガティブで皮肉めいたこと言うなんてすごいね、と言ってやりたかったがやめた。
きっと、自虐で笑いを取ろうとしたのだと思う。
「そうかな。楽しいよ」
真波は気にしていない様子。自虐は失敗した模様。
「二駅離れただけなのに、都会な感じしますよね」
適当に話題を振ってみる。
「大学生はここ来ないけどねぇ」
てっきり大学生だと思っていたから、
「大学生じゃないんですか?」
と、質問した。
「専門学校通ってる。今一年」
この辺に大学はないのかと意外に思う。
「ちなみにどんな?」
「秘密?」
なら、仕方がない。不敵な笑みを浮かべる彼女の虜になりそう。
ドンっと二の腕を叩かれたので、振り向くと坂口が睨んでいた。なぜだ。
「せっかくきてくれたし、奢らせてよ」
「いえ、自分で」
「いいの!?」
坂口は、遠慮することを知らないらしい。
「いいよ。久々にあったわけだし。直人くんは?」
「どうして僕の名前を」
「LINEの名前にしてたじゃん」
「……確かに」
「ふふ。なにそれ、かわいい」
「あ、いや、でも」
「いいの、誘ったの私だよ?」
なんて言い返そうか悩む。しかし、次来る時のお金ができるわけだからここは有難く奢られておこうか。
おいで、と手招きをされてレジに向かう。
ぴょんぴょん歩く彼女。見惚れてしまう。
また坂口に二の腕をドンッと叩かれたので、舌打ちした。今、いいところじゃないか。
じゃあ、これをと指を差すと彼女は笑みを浮かべている。営業スマイルなのか普段の笑みなのかどちらだろうか。
それとも坂口とのやりとりに笑みを浮かべているのか。大人の笑みに見えてしまう。
坂口とはそう言う関係じゃないし、ただ連れてきただけなのに。
思っている以上に、ストレスなので邪魔だしこの先、誘うことはないだろうと思う。
僕にも真波とキャッキャウフフな未来が待っているかもしれない。そのためには坂口が邪魔だ。
我ながら、汚い高校生だ。死刑でいい。
「甘党だよね。いっつもそれ」
「バレてるんですね、隠す気ないけど」
真波は、いつも通りの営業スマイルを見せてくれる。
誰にでもこの表情を見せるのなら、客はイチコロなんじゃないだろうか。
スタバ二人分を会計してくれて、ドリンクを待つことになった。
「真波ちゃん、ボブじゃなくなってる」
「……ん?」
ボソッとつぶやく坂口に僕は、視線を向けた。
その視線に気づいた彼女は口を開く。
「私が中学生の頃までは、ボブカットだったから。変わったなぁって」
「髪、切る時間ないんじゃない?」
「女の子がそんなことでやめると思う?」
「気分転換とかあるでしょ。いちいち気にしてたら負け」
「とか言って、気になってるくせに」
「それ、自分のこと言ってるでしょ」
「バレた?」
可愛くもないくせに、てへっと頭を叩くこいつをマジで叩きたくなった。
「じゃあさ、坂口のロングがボブに変わったら誰か気にすんの?」
「それは」
「気にしないでしょ。いちいち人の変化を勘繰ってたら嫌われるよ」
「……そうだよね」
顔が暗くなっていくことに気づく。いじめられていることを忘れてしまっていた。
彼女の気持ちを考えれば、触れるべきではなかったのかもしれない。
「いや、でも好きな人なら気になるでしょ」
「……」
とんでもないカウンターを食らってしまって言い返す余地がない。
少しでも彼女の気持ちを考えてしまった時間を返してほしい。
「ほら!」
「うるさいな。黙っとけ」
「図星なんだ。へー、バレたからツンツンしてんだー」
教室とはまるで違う反応しやがって許せない。
静かにしておけばいいものをなぜこうもうるさく突っかかるのか。
そうこうしているうちに頼んだドリンクが出来上がった。
いつも使うカウンターに近い席に座る。
目の前には女子。普段、牧田を見ているせいで違和感がある。
牧田が女子になれば解決なのではないだろうか。
「どうかした?」
「……メガネ、外さないの?」
「え?」
「さっき、メガネがずれたときに見えたんだよ。メガネない方が良くねって思ってさ」
「……」
「コンタクトとか」
「やめよ。そういうの。求めてない」
「……ごめん」
自分が外見を気にするからと言って、坂口が気にしているとは限らない。
それが、彼女を傷つけるならやめるべきか。
「私が、メガネ外しても、私にメリットがないよ」
「……」
あまり理解ができず、次を促す。
「みんなが求めてるわけじゃない。私もそれを求めてない」
彼女の心情の奥になにがあるのか気になる。
全く見えてこない心の傷は、深いところで眠っているのだろうか。蓋をして、隠して、バレないように、話を逸らすように。
「僕は、よく求められるけど。顔とか性格とか。全部捻じ曲げてる」
だから、坂口もそうしろなんて言うつもりはなくて。
「元から捻くれてそうなのに?」
「余計なこと言うなよ」
茶化す彼女に笑って返す。
「もっと言いたいことがあるの?」
そのくせ、真面目な顔で聞いてくるから。
「あるよ……」
素直になってしまう。
「もっと言いたいね。お前は間違ってるとか、僕が正しいとか」
女子に愛想よく話しかけるとか、求められた答えを返すとか。
上下関係気にせず間違ってることは間違ってると言いたい。
勝手に作られた優劣に従いたくなんかない。
「僕が、部活サボっていること知ってる?」
「……聞いちゃいけないと思ってた」
どうやら、知っているらしい。
「部員はみんな、推薦で入った男子が新人選に選ばれると思ってた。でも、その枠に僕が入った。推薦じゃない僕が。そしたら、本番になってパスは回ってこないし、まるでいない人のように扱われた」
「……」
「先輩や副顧問には求められたよ。強豪の名を背負って行けって。でも、チームは求めてくれなかった。みんながみんな求めてくれるわけじゃない」
それは。
「坂口と一緒だよな。求められても、応えたいと思わない。応えてしまえば、誰かが角を立てて石を投げてくる。当てられた痛みに血が滲むなんて嫌だよな」
辛い思いをしたいわけじゃないから。
いつからか面倒を言い訳に、避けてしまう。目を逸らしてしまう。
それが、いつの間にか当たり前になってしまう。
「とっくに怖くなってる。また戻った先で今まで通りの僕を演じられるのかどうか」
伏せていた目を彼女に向ける。目が合うと恥ずかしくなって下を向く。
「演じてるだけだよ。誰もが関わりやすいような僕を、演じてる」
「やめないの……?」
「やめてるんだよ。部活に行ってないし、部長にはあんな態度だし。それでも牧田は関わってくるけれど」
「優しいんだね」
「優しいね、牧田」
「牧田もだけど」
「……」
「あなたも」
目が合う。綺麗な瞳が僕を捉える。
「坂口だって、今のままでいいと思えるなら、そのままでいいと思う。変なこと言ってごめん」
席を立つ。
長く居座るつもりもないので、電車に向かう。
坂口と家の最寄りまでは違うけれど、方面が同じなので同じ電車に乗る。
彼女は僕の最寄りの三駅手前で降りるらしい。
降りかけの彼女は僕にいう。
「今のままでいいなんて、全く思ってない」
咳を立つ前に言った僕の言葉への答え。
「じゃあね」
小さく手を振り電車から降りた彼女は、弱く見えた。
素直に何かを口にするのは難しい。
彼女が僕に本音を伝える必要なんてどこにもない。
だけど、告げたその言葉は本心だと思う。
なんだか胸が苦しかった。
似たような環境の中、逃げることもできないあの空間で彼女はどんな思いを抱きながら生活しているのだろう。
彼女の拠り所がオタク活動ならば、住処があるのならば、それで問題ないのだろうか。
僕にはまだわからないことばかりだった。
しかし、考えが纏まらないままその時はやってきた。
もう後には戻れない出来事が訪れようとしていた。