生きていると理不尽な暴力や暴言を目にする。
 教室内で、いじめをする男女の生徒がいじめられている女子に執拗に絡む姿。男二人、女一人。暴言が、クラスに響いている。
 関わりたくないとそれを横目に足速に教室を出る。
 もしも正しい行いというものがこの世にあるなら、この学校にあるというのなら、なぜ教師はこのいじめの現場を止めないのだろうか。
 このクラスの誰かが教師に告げて、聞いた教師が対応する。
 しかし、クラスメイトも僕もそれをしない。
 目撃しただけだ。関わりたくはない。
 関わることで面倒ごとを増やしたくない。きっとみんな同じだ。
 あの芋っぽい女子生徒のことを誰が守ろうか。
 メガネをかけて、ボサボサの髪の毛で眉も整えないような女子生徒。
 ルックスの良い男子生徒はクラスにこんな芋女がいたら邪魔に思うだろう。女子生徒も自分も彼女のようにいじめられたくないと一緒になるのだろう。
 クラスのみんなでその三人を追い払うことはできると思う。可能な範囲だろう。
 だが、それをしないのは度胸がないから。
 髪の毛を引っ張られ、痛いから立ち上がる女子生徒を突き飛ばす女子。
 名前までいちいち覚えていない。覚える気にもなれない。
 こんな現場がこの小さな箱の中で行われている。逃げ場はどこにもない。
 学校と家を行き来するだけの学生に救いの場はない。
「洋馬、帰ろうぜ」
 廊下を歩いていると同じクラスの男子、牧田にあった。
 眉は整っていて、髪の毛のケアもしている。僕と同じだ。思えば、僕らはいつ容姿に気を使うようになったのだろう。
「おう、帰ろうか」
「いやいや、部活は?」
 帰ろうと言ったくせに、部活の話をしてくるのはどうかと思う。
「帰るよ」
「一丁前に帰宅部になりやがって」
 帰宅部なんて部活はどこにもないが、部活にも行かずに帰るだけの人をそんなふうに呼んだりする。
 サッカー部の僕は、一年生の冬から二年生に上がった今も部活に参加していない。
「行くなら、行けば?」
 ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「一日くらいサボってもいいだろ。スタバ、新作出たってよ」
「いくか」
 あの美味しいドリンクを毎月提供するのだから、神と崇めたい。
 名古屋市内の地下鉄に乗って二駅、栄えた街に向かう。僕と牧田は同じ学校の生徒に放課後にまで会いたくないと少し離れた場所によく行くことが多い。
 スタバに行くだけだし、近くにもたくさんあるけれど、同じ学校の生徒がたくさんくるので僕らは行かないのだ。
 面倒ごとは関わらない。学校の人たちに会うメリットがない以上、このスタンスになってしまうのは仕方がないと自分に言い聞かせる。
 交通費を考えると高校生にとって二百円前後はまぁまぁ高い。往復代でもう一回スタバに行ける。コーヒーくらいは頼めるだろう。
 定期券があるのでその心配をしたことなんてないけれど、牧田はそういうわけではないので少し気を遣う。
「お前、このままサッカー部来ないつもり?」
「推薦で入ったわけじゃないし、牧田とは違う」
「まぁ、そうだけどさ。推薦の奴らより上手いわけだし」
「いても、いなくても変わんない」
 施設の中に入ると冷房が効いていた。エスカレーターで八階を目指す。
「そんなことは」
「じゃあ、なんであの試合中、僕にパスが回ってこなかった?」
 一年生の新人試合があった時、レギュラーメンバーに選ばれプレイをしたが、俺にパスが回ってきたのは牧田だけ。
 後に、僕が嫌われていると知った。
 レギュラーメンバーから落ちた推薦の男子の代わりだったというだけ。
 サッカー以外にもスポーツは実力主義だ。
 強さだけが評価される。
 推薦で入った男子は僕より弱かっただけ。
 それだけならよかった。
 この学校は県内でも唯一のサッカー強豪校で部活動推薦を選んでまで入りたい生徒がいる。
 部活内でも親しい奴らが多かった人の代わりになり、結果、全くパスが回ってこなかった。
 推薦で入った人の方が強いという先入観があるのかもしれない。推薦で入ったプライドがあるのかもしれない。
 どのみち、僕にはもう縁のない話。
 新人選は、一回戦敗退という結果を出した。
 強豪校が初戦敗退というゴシップはすぐに他校にも広まった。
 中学の友達も連絡をくれるほどに大きな出来事だった。
 当時二年生の先輩たちはひどく叱責した。見にきてくれていた部長は、推薦で入った部員たちをひどく軽蔑した。
 先輩に怒られた怒りの矛先は僕に向けられ、居場所を無くした。孤立した。
 そして、今こうやって帰宅部になっているわけだ。
「それは、まぁ」
「大事な時にパスも出せないチームなんていらないだろ」
「部長は帰ってきて欲しそうだったよ」
「いらないって。あのチームでうまく行くと思っているから僕が邪魔なんだろ」
「部長にはそう言っておこうか?」
「勝手にしろ」
「顧問にも」
「勝手にしろって!」
 憤りを彼にぶつけてしまった。
 強く睨みつけると彼は笑った。
「糖分がたりてないぞぉ!スタバへ、レッツゴー!」
 甘党の僕と彼。いつどのタイミングで仲良くなったかなんて覚えていない。
 八階のスタバに到着するといつもの男子二人組だと言わんばかりに挨拶してくれる女子店員。
 大学生くらいの若い女性で高校生とは違う大人らしさみたいなものを感じる。
「新作が飲みたくて」
 子供みたいな言い方をする牧田。
 引っ叩きたくなる欲を抑える。
「あるよ。二人とも同じでいい?」
「お願いします!」
 一つ結びにした髪が会計に向かう流れで揺れる。
 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。バニラの香水だ。
「良い匂いするよね、あの店員さん」
「やめろ、うるさい」
 女性の店員に惚れるなんて馬鹿なこと、この僕がするわけない。
 会計を済ませ、レシートを受け取ると彼女は営業スマイルを見せてくれる。
 しっかり仕事をする女性だなと尊敬する。
 このさきバイトをすることがあるなら、見習いたい。
「ここでバイトしようかな」
「やめとけ、変態」
「嘘だよ。掛け持ちはごめんだね」
「……え?」
 バイトしている事実を知らなかったせいで、変な声が出た。
「コンビニで夜バイトしてんの」
「だから、いつも学校で寝てんのか」
「赤点は取ったことないので」
 毎月、新作を飲めるのはそんな理由があったのかと思い知らされる。
 なら、親から小遣いをもらっている僕よりもお金はあるのではないだろうか。
 一回くらい奢ってもらえる可能性も?
 チラッと見やる。目があった。
「奢らんけど」
「なんで、バレてんの」
「いつもそうだろ。奢ってもらおうとする魂胆が見え透いている」
 いつも使っている席が空いていたので、そこにカバンを置いて座る。
「バレるなら、お前の顔見なきゃよかった」
「金蔓じゃねえぞ?」
「はいはい」
「奢ってほしけりゃ、あの店員の連絡先聞いてこい」
「失礼にも程がある」
 これだから童貞は、と言いかけてやめた。
 人のこと言えないからだ。
 ため息をつく。紙ストローの包装紙を破いて取り出す。
 牧田の動作がないので、顔を見てみれば、焦るようにカバンとスタバの新作をとる。
「どうした?」
 僕が悠長に見えたのか、焦りを目線だけで訴えてくる。
 彼の視界の先に、誰がいるのか。見てみれば、そこには部長がスタバで会計をしているところだった。
 焦った僕らは、急いで逃げようとするが、時すでに遅し。
 声をかけられた僕らは、挨拶をするほかなかった。
 ドリンク待ちの部長が僕らの元に来る。
 どうしてここにいるのか。考える時間が欲しかった。
「お前ら、どうして部活来ないんだ?」
 口を摘む僕らに証拠と言わんばかりにスマホの画面を見せてくる部長。
 そこには以前僕らが来た時、部活の文句でも言っているであろう姿の写真。
 画角的に店員のいるあたりから撮られている。
「もしかして、あの店員と仲がいいのって」
「友達だし。大学生だけど」
 やっぱり大学生だったのかと予想が当たりガッツを決める。
「で、二人はなんで部活に来ないの?牧田は今日来ないの知ってたけど」
 伝えてたのかよ。
「病院だって聞いてたけど」
 仮病かよ。
「スタバ、奢るので」
「そういうのいいから」
 牧田を牽制すると、僕に目を向けた。
「これない理由が、あいつらなら俺から伝えるけど」
「別にいいです。学生の本文は学問なんで。部活はやめます」
 口を開いた時、一つ結びの女性店員に声をかけられた彼は戻っていった。どうやらドリンクを取りに行くらしい。
「逃げるぞ」
 牧田に言うと急いでエスカレーターへ向かう。
 せっかくの放課後をあの女性店員の告げ口で最悪なものに変化してしまった。
 許せないことだ。
 しかし、その先にいたのは部活の先輩たち。
 逃がすつもりは一切ないらしい。
 後ろから部長の足音が聞こえる。
「そうすると思って、二人連れてきた。正解だったね」
「先読みするなんて」
「二人のサッカーのプレイスタイルと同じだよ、衰えちゃった?」
 ゴールを決めるために先読みするのは当たり前だろうに。
「そうですね、衰えたので、やめます」
 何いっても止める方向に舵を切る僕に諦めたのか、彼は一度ため息をついた。
「まぁ、いいや。とりあえず、座って話そう」
 逃げ場がない。無理逃げて学校にクレームが入ってもよろしくない。
 指示に従うことが今は一番正しいような気がした。
 席に着くと、部長は口を開いた。
「牧田は、大目に見るから今日は帰ってもらえる?」
 一対一で話したいみたいで、それがストレスだった。
「明日は部活行くので!」
 後輩のような弟のような雰囲気を見せる彼は、ボソッと耳打ちした。
「あの女性店員の連絡先、頼んだ!」
 彼が言った後で、ため息をつく。
「どうした?」
 隠す気もないので、部長に伝える。
「いや、牧田があの女性店員の連絡先が知りたいそうで」
「これ?」
 部長のスマホの画面には女性店員のアイコンらしきものがあった。
「多分、それ」
「やるから教えろ」
「勝手に人の連絡先教えるのってどうなんですか?」
「元々、言われてたことだし問題ない」
 話が見えなくて、チラッと彼女を見てみれば目があった。
 あぁ、そういう?え、ん?
 スマホに連絡先が送られてきた。勝手にスマホを取り上げられて、勝手にスタンプを送られた。
 これで、連絡先は繋がったわけだし、やり取りもできる。
 挙句、部長は女性店員にグッドサインを見せていた。
 アイコンの名は、真波。
「じゃ、こっちはお前の望み叶えたんだし、教えてくれよ」
「別に交換したかったわけじゃないですし。これ、強要ですよね」
「まぁ、いいじゃないか」
「よくないですけど」
「少しくらい力になれたらって思ってる。洋馬は、戦力だ」
「その戦力が迫害を受けたので。いらない馬は切るべきじゃないですか?推薦じゃないし」
「切られた馬が、他でいい仕事ができると思うのか?馬刺しになんてなれないぞ」
「じゃあ、捨てればいいと思います」
「……他人事みたいに」
「そんなことないです。もう十分理解したと思っているだけなので」
 不思議そうな顔をする部長。
 深く聞きたいのか、先輩二人を帰るように告げた。
 なんだかこの際言ってしまったほうが楽な気がした。
 後に思えば、この選択は間違いだったと知るのだが。
「正しくないじゃないですか。部活も学校もこの先も全部。実力があっても正当に評価されても、チームは成り立たない。感情を優先させてチームの足を引っ張る。僕がいない方が上手く行ったと言わんばかりに、みんな距離を置く。強豪校が負けたゴシップは、もう一生残る。僕のいない部活の方が楽しそうじゃないですか」
 足の痛みを訴え病院へ行くために部活を休んだ日。親の車で病院から帰る道中に見えた部活の練習風景。
 負けたばかりなのに、みんな楽しそうに練習していた。悔しそうな顔一つ見せないでいつも通り練習していた。
 あの時、悟ったのだ。僕のいない部活は僕の望んだ部活動だった。
 僕は、邪魔だ。
「いらないですよ。今、必要だって言うやつどこにいます?県大会も勝手に頑張ってくれって思いますけどね」
「……今のままじゃ、また初戦敗退だ。いや、県大会まで行けないかもな。このままじゃ、強豪校の名に泥を塗る。そればかりは」
「塗ればいいじゃないですか」
 部長の言葉に被せた。気持ちが溢れているようで、それは自分にも理解できた。
「こんな部活終わってしまえばいい。他に強い部活いるじゃないですか。そこの名が広がれば良くないですか?」
「それは」
「部長だって気づいてますよね。今年入った一年も強くない。見てればわかる。サッカー部は事実上、強豪校ではなくなったって」
「……」
 スタバのドリンクを飲む。甘ったるくて、イラッとした。
「もういいですか?」
 カバンをとり、席を立つ。エスカレーターのある方向へ歩を進める。
「ここから巻き返せるって、思わないか?洋馬がいれば」
「僕がいたら、また部活は荒れますよ」
 振り返って部長を睨みつける。
 彼は僕と目が合うよりも先に目を伏せた。
「学校なんて、正しいやつから消されるんですよ」
 体の向きを戻すと、帰路についた。
 部長に投げ捨てた言葉を後になって反芻する。
 正しいやつが残るにはどうしたらいいのか。
 間違ったやつが消されるにはどうしたらいいのか。
 正しい人が生きてなきゃおかしい。僕は、自分を守るために部活をやめた。生きるためだ。
 間違ってる奴らにこの人生狂わされてたまるかと。
 この先、間違った人が生き続けたらどうだろう。
 ただ一生懸命に生きている人が詰られ、心も体も殺されたら胸糞悪くないだろうか。
 正しい人間が、間違った人間に殺される。あってはならないこと。
 ふと、思いだす。クラスでいじめられている女子生徒。あの子はどんな間違いをしたのだろう。
 間違えたから、いじめられているのだろうか。
 正しさに嫉妬して、八つ当たりから始まったのか。
 もしも仮にそうだとしたら、彼女は僕と一緒だ。
 面倒は避けたいが、一度話を聞くぐらい良いのではないだろうか。

 翌日、僕が学校に行くと彼女はまだいじめられていなかった。
 いじめっ子の彼らは登校が遅いから仕方がないか。
「ちょっと、いい?」
 行動するなら、早い方がいい。
 確認して、彼女が正しい側なら助けるべきだ。間違っている側ならそのままでいい。気にしなくていい。
「ごめん、無理」
「……」
 話、進まないなぁと、ため息をつきそうになる。
 呆気に取られてしまうが、角を立てるようなことを避けたいのかもしれない。
「そっか、ごめん。また昼に聞くね」
 出鼻をくじかれた気分だ。
 こんなやつ、いじめられて当然だ!と言うほどの気持ちにはなれなかったけれど。
 なんだか、まぁ仕方ないか、くらい。
 四限の社会の授業が終わり、昼を牧田と一緒にした。
 世界大戦がどうとか、よくわからない歴史の話はまるで呪文のようだった。
 その歴史がどうして、今もなお繰り返されるのか。
 考えたところで、答えは出ないのだろう。いつも結果が出ないと理解できないのだから。
 何十万の人間を殺すこと。それが、悪だと言い切らないのは、この国もまたそれだけの犠牲を作ったからなのか。
 ならば、少数の人間が犠牲になったとしよう。
 その人間を殺したのが一人ならきっとその人は悪だ。
 何十万と何十万のぶつかり合いはもはや人として扱っていないのかもしれない。
 少人数ならば、人として扱える。だけど、戦争は違う。
 だから、歴史の一つとして残しておくだけなのかもしれない。考えれば考えるほど、頭がおかしくなるから。
 飯も終わり、逃げそうないじめれている女子生徒を捕まえる。
「何度も何?もう来ないで?」
「まだ二回目」
 廊下に出ていった彼女の前に立ち、進路を阻む。
「じゃあ、単刀直入に聞くよ。なんでいじめられてるの?」
「……」
 唇をかむ彼女。あんなにも人として扱われない女子生徒がいじめられていないと言い切るのは無理がある。
「そんなことない」
 小さくか弱くつぶやく。
「認めたくないとか?」
「非常識だね。そんなこと直接聞くなんて」
「それは認める。だけど」
 だけど、なんだろうか。
 部長の意見もまともに取り合わなかった僕が、彼女の言葉を汲んだ上で何が言えるだろう。
「いや、やっぱりいいや。人のこと言えないし」
「……え?」
 メガネの奥でありえないと言わんばかりに疑いの目をかけてくる。
「見た通りだろ。部活サボって、牧田とスタバ行って、部長にあって、スタバの女性店員のLINEを登録させられるなんてさ」
 スマホをぷらぷらと摘んで揺らす。
「……部長って」
「里中部長だよ。あのクソ部長が、わざわざ部活来いってスタバにまで来たんだぜ?」
「その部長、私の幼馴染」
「…………」
 やけに通るその声が、脳に届く。
 スマホを落としたことなんて忘れて、呆けた。
「え、まじ?」
「まじ」
「……」
 今しがたクソ部長と言ったわけだけど。
「その店員さん、真波ちゃんって言うなら、小学生の頃から仲良くしてくれてて」
 早口で喋るこいつにイライラしながらも相槌を打つ。
「もう大学生だからほとんど会ってなくて」
 それなら、ちょうどいいのではないだろうか。
「明日にでも一緒に行くか?」
「え?でも、あそこキラキラした人が行く場所じゃない。私みたいなオタクは」
「誰でも行くだろ。ほら、牧田とよく行くし。確かに、大学生みたいな人が多いなとは思うけど」
「大学生以上の人向けだよ!あんな高い場所よく行けるね」
「このあたりだと高校生多くて、バレるから」
「甘党なのが?」
「……」
 部活サボってスタバに行っているなんて、バレたらまずいだろと大声で言いそうになる。
「なんとなく、そう思ってたよ。昼、購買で買ってるのパンとかよりも甘いスイーツ系じゃない」
「人の姿をよく見てらっしゃる」
 話がズレた気がするけれど、都合がいいと思い続ける。
「あ!その言い方もう一回!今見てるアニメの」
「あぁうるさい!」
 彼女の頬をパシっと叩き、タコの口をさせる。
 その拍子にずれた眼鏡の奥の瞳が予想外にも綺麗だった。
「痛い……」
「どうやら、君はアニメオタクでそれが奴らの鼻についたわけだな」
 手を離すと彼女はクイっとメガネをあげた。
 必死に顔を隠そうとする彼女。図星だと思った。
「そうだと思う……」
「だろうな。オタクってキモいし」
「……」
「早口なのに何いってるかわかんないし、受け答えでもできない奴らばっかで、臭い」
「ひどいね」
「クラスにもまだいるだろ。けど、どうして君だけがそんな扱いを」
「……それは」
 口を閉ざしてしまった。
 言いたくないことは誰にでもある。
 無理に言わせる必要もない。
「まぁ、どっかのタイミングで教えてよ」
 こんなオタクと仲良くなりたいとは思わないけど、仲良くなりたいと言っておくべきだろうか。
「待って。まだ、名前で呼んでもらってない」
「……は?」
「は?じゃなくて。名前」
「あぁ、えっと」
 覚えてないし、そもそも知らない。
 誰だお前は。
「坂口、ちょっとこいつ借りていい?」
 肩に手を置かれて、悪寒が走る。
「雄大……」
 雄大は、確か里中の名前だ。
「どうして、部長が」
「借りるね」
 グイッと引っ張られて強制的に連れていかれる。
 それを目撃した牧田がフューフューと茶化してくる。
 後で絶対ぶん殴ると誓った。
 廊下の隅、階段のある端。
「坂口とも仲がよかったのか、洋馬」
「……あいつ、坂口って言うんですね」
「俺の幼馴染の名前知らなかったのか」
「部長の近辺全部知ってるわけないじゃないですか」
「まぁ、そうだな。それで、今日は部活くるか?」
「坂口、クラスでいじめられてますよ。僕と同じですね、扱いが」
 話の腰を折ると彼は、目を見開いた。
「本当か?」
 一重の目が、僕を鋭く見つめる。
「本当です。幼馴染なら助けてあげては?」
「…………お前、正しさって言ったよな」
 昨日の発言を覚えているらしい。あくまで部活の話を続けるそうだ。
 相槌を打つと彼は微笑した。
「正しさってさ、訴えていくものじゃないのか?」
「……」
 そこにあったはずの空気が変わったように思う。
 そこら中の喧騒が聞こえなかった。
「洋馬は正しいよ。レギュラーメンバーに選ばれるために努力した正しさ。その努力を認めた顧問の正しさ。自分が間違っていないと思うなら、その意志をぶつけないと」
 窓の外に目をやる部長。
「正しくないやつと関わらないのは、正しくないですか」
「……正しいよ」
「生きるためには、逃げる必要もあると思います」
「……壮大だな」
「自分が死んだら元も子もない。坂口、あいつはどうして逃げないんでしょう。いじめられているのに、なぜ、立ち向かうこともしないのでしょうか」
「……自分が死んだら、か。部活に行かないのも、生きるためならば正しいか」
「僕は、そう思います。自分が死ぬくらいなら、相手に死んでもらいたい」
「……」
 驚いた表情を隠すこともなかった。
「死んで欲しいんです。部長、殺してください。あの部活の二年は、誰も正しくない」
 なんてね、とおどけて見せた。
「こんなの、主観的ですよ。客観的に見たら間違いだ」
 感情的に物事を言ってしまうのはよくない。物騒なことを言ってしまう。
「主観的でいいんじゃない?洋馬が、生きたいように生きれば、それは生きていることになるだろう」
 部長の言葉が、スッと頭に入ってくる。
 何か今までにあった価値観に変化を与えられた気がした。
 自分らしく生きるためなら主観的でいい。
 人に死ねと思うことも、自分らしさ。
 客観的に考えてしまって、己を否定するのはよくない。
 彼には、そう教えられた気がしたのだ。
「……坂口にもそうやって生きて欲しいですね」
 本心だった。
「それで、部活は」
「行きません」
 彼は、また来ると言って帰っていった。
 LINEの通知にスマホを開く。
 本来学校でスマホを見ることは禁止されているけれど、気にしていてはスマホは見れない。
 昨日繋がった真波からだ。
 連絡が来るとは思っていなかったから返す言葉も思いつかない。
『今日、来てくれる?』
 こういう文面は、夜職とかそういう人が使っていればいいものをなぜ彼女が使うのか。
 いつどこで僕が彼女を惚れさせたと言うのか。
 勘違いだ。そんなわけない。
 坂口とも知り合いなのか確かめるか。
「部活ないし、行こうかな」
『ほんと!?』
 既読がつく。早いな。暇かな。
「坂口って知ってる?」
『坂口真里奈なら知ってるよー。小学生の頃から仲良いからー』
「じゃあ、その女子も連れてくるー」
『えー?』
 もしかして、ちょっと嫌そう?
 だが、しかし、英国紳士の僕は気を遣うプロだ。
「坂口、会いたがってるみたいでさ」
『わかったー、待ってるー』
 どうやら、なんとかなったらしい。
 サンリオのハートを持ったスタンプが送られてきた。
 可愛らしいスタンプを女子大生が使うのかと意外に思う。
 大学生になったからといって、そう簡単に趣味や興味は変わらないのかもしれない。
 なんだか、少し自分の人生が変わっていく感じがした。
 それが、よくない方向へと向かうだなんてこの時は思いもしなかった。