いじめる悪魔が死んで得られた自由は束の間で、今ある時間は地獄そのもの。
ただ平穏に生きていたかった。
どうして目をつけられたのだろう。
蓄積された殴られる痛みに比べたら、彼らは死んでも足りないだろう。
しかし、現状は違う。僕が悪魔で彼らは被害者。
いじめはいじめられる奴が悪いといつしかの僕は言った。
立ち向かう牙を持てば、そこに広がるのは生死を分けた戦い。弱肉強食、食物連鎖の動物と同義。
人は、法のもとで裁かれる。
僕にその法は通じるだろうか。悪魔の僕にそんなもの通じない。
やるだけやってやる。
もういっそのこと全部ぶっ壊してやる。
そして、全部やり直そう。
できる限りのものを消してしまおう。
次は誰を殺そうか。
里中にしようか。
あいつは、部活のことでいちいちうるさかった。
あんな邪魔者もは消しても無駄にならない。
殺してやる。
パトカーと救急車の音が聞こえる。
警察に捕まったらまずい。
音のしない方へ全力で走る。
この辺にまで巡回の音が来ているのか。
指名手配犯として名がテレビで出てしまいそうだ。
これではちゃんと犯罪者で悪いやつだ。
それはそれでいい。面白い。
どこまで逃げキレるか勝負しようじゃないか。
どれも全部無駄に終わるのなら、楽しもうじゃないか。
この窮地を切り抜けて、僕の平穏を安寧を築きあげる。
牧田から連絡が入った。
そうだ、彼にも僕の思想を話してみようか。
きっと理解してくれる。僕が部活に参加しなくなった今も仲良くしてくれる唯一の相手だ。
たとえ、人を殺した事実を知っていたとしてもそれ以降も関係は保たれ続くのだろう。
大丈夫。間違ったことなんかしていないと伝えるだけなんだ。
誰も助けてくれなかった僕の隣でただ一緒にいてくれたのは君だけだ。
今の僕の気持ち、受け入れてくれる。
場所を決めて、そこで落ち合う。
僕がその場所に来る頃には彼はその場所で待っていた。
「こんな公園に呼び出すなんて、意外だね」
「……人が多いから。疑われなくて済むかなって」
「疑ってるって知ってたんだ」
「そりゃあ、そうだろ。人を殺したかもしれないっていう容疑については里中部長から聞いてる」
「部長が?」
「だから、来たんだよ。二人を殺した事実が本当かどうか知りたくて」
「……なるほど。じゃあ、今、牧田は僕を信じてないわけだ」
噴水の音を掻き消すほどの静寂。今にも始まりそうな一騎打ち。
お互いの心理を探るような展開になんだか胸が躍る。
これがワクワクする気持ちだ。
高校生になって得られるとは思わなかった。
「信じるために勝手に呼び出したんだよ。警察に捕まってからだと洋馬は絶対に何も話してくれないだろうと思って」
風に髪が靡く。
それが気持ちよくて深呼吸をした。空気が美味しい。
「どうして、疑われるようなことをしたんだ。里中部長は今、お前を探してる。坂口も信じまいと他の生徒に聞き込みしてる」
「……」
「みんな、お前を思って動いてる。このまま逃げ続けたら容疑を認めたことになるかもしれない」
「容疑を、認めたくないから逃げてる可能性もあるだろう?」
「それなら、誰かに訴えればいい」
「誰も信じてくれないかもしれない」
「一人くらい信じてくれる。俺じゃなくても、俺以外の誰かが」
「お前だけは信じてるよ」
本音だった。やはり部活に参加しなくなってあの場所に僕の居場所がないと知ってからも彼だけはいたから。
「ありがたいよ。でもさ、それならなんで俺と一緒にいることを許さなかったんだよ。あいつらにいじめられてから洋馬は俺から距離を置いた。俺、あれ結構きつかったんだぜ」
「……あれは」
「信じてるなら、教えてくれよ」
「あれは、お前を守りたかった。牧田が僕を守って、クラスに居場所がなくなるなんて許せないから。同じ目にあって欲しくないから」
「だったら」
「これでも守りきれたって思ってるんだぜ?あいつらは死んでしまったけれど、不可抗力だ。少なくともお前の教室での地位は変わってないだろ?」
「俺を守るために三森も相澤も殺したのか?」
「結果的にはそうなるのかな」
同じ仲間がいると思えるとそれはとても嬉しかった。
僕は独りよがりの正義を貫いたわけじゃない。
この人たちを守るために自分を犠牲にしたんだと思える。
「ふざけるなよ、頼んでねぇよ」
乾いた笑みに顔が歪みそうになる。
僕を信じているなら、僕を守ってくれてもいいじゃないか。
頼んでないだなんて、聞いてない。
「僕のこと馬鹿にしてるのか……?」
頭が冷静ではないことに自分でも気づいていた。
なのに、変えられない心境に思いのまま体を動かしてしまいたくなる。そんな衝動を押さえ込む。
「馬鹿にしてない。頼んでないだけ、俺は、お前にそんなことして欲しくなかった。そうだろう?洋馬はそんなことしない。誰もお前がそんなことすると思ってない。あの頃みたいに部活に一所懸命で真剣に打ち込んでた日々を……、豹変するとみんな思ってないんだよ……。なぁ、昨日お前はどこにいたんだ。三森を追いかけて殺したって本当なのか?」
「何を根拠にそんなこと」
「坂口が聞いてただろ。あれ、坂口が見てたらしい。騒がしくてバレないように追いかけたら屋上に繋がる階段で二人が言い合いになってるところを階段下で聞いてたって」
「……やっぱり、何一つ信用してないじゃないか」
「ちが」
「そうやって、他の人の言葉ばかり信用して僕の言葉を誰も聞かない。誰も信じない。勝手に作り上げて勝手に盛り上がって……。憶測で楽しめる馬鹿な頭じゃなくて本当に良かった。牧田、僕はもう君を友達だとは思わない」
「……そんな」
「はっきりしたよ。目が覚めた。頭が冷えた。牧田、お前のために何かした僕が間違いだった」
決別だった。
これ以上牧田なんかと関わるつもりはない。
公園とはいえ、きっと他の誰かが僕に視線をくれている。
誰かに見られている気配を感じていたが、そもそも公園は見晴らしがいい。
お互いにとっても信用を得るためには、公園というは場所はメリットが多い。
信用を得るためにはどうしたらいいのか、否、僕を騙すためにはどうしたらいいのか、牧田は考えたのだ。
この短い時間でよくもまぁ、騙そうと思ったものだ。
少しでも牧田を信じた僕が悪かった。改めよう。
「僕を警察に引き渡すならやってみろ。僕は、牧田を殺しても何も感じないだろう」
それに。
「牧田は僕が殺したと信じて疑ってないだろう?よく伝わるよ。ほら、見てみろ。この公園、やたらスーツの人間が多いじゃないか」
顔を顰める彼。図星だったらしい。
気持ちが昂る。
やはりこのピンチを切り抜けるには、目の前にいる牧田に重傷を負わせるだけでいい。警察は牧田を優先する。最悪殺してしまおう。こんなやつに構う必要はない。
もはや人を殺すことに躊躇いはない。
「洋馬、俺は……、お前を止める!何があっても!」
「ほう?向かってくるか!」
右拳を振り上げる彼の左脇腹を蹴り上げる。
拳が緩んだ隙に左頬を殴る。
「ほら、どうしたどうした?」
左拳で脇腹を殴るフェイントをかけて、もう一度左頬を殴る。
容赦無用、情け無用、その命が消えるまで殴るのをやめない。
「牧田が泣いたって、僕は殴るのをやめないぞ。逃げた方が、お前の命は助かるぞ」
「人の命の心配をするのかよ、この悪魔が!」
右足の蹴りに気づけなかった。左太ももに当たり立ってられず地面に膝をついた。
立ち上がるよりも先に右足の蹴りが顔面をつく。よろけて倒れた僕にまたがる牧田。
スーツ姿の輩が、こちらへ向かってくる。
やはり警察だったわけだ。奥の手を使おう。
「おいおい、僕の動きを拘束できたと思っているのか?無駄だぞ!この口が動く限りお前の精神を崩壊させることなんぞ簡単だ!」
「その口を黙らせて、警察に引き渡してやる」
「やってみろ!ゴミカスの猿どもが!」
「せいぜい煽るだけ煽っとけ!」
右頬、左頬と交互に殴られる。
痛みにやられたふりをして、右ポケットに忍ばせていたカッターを取り出す。
「そんなもんか!女の暴力より弱いじゃあないか!」
「下手な煽りに惑わされると思うなよ!もう警察が来たらお前に逃げ場はない!」
カッターの刃を出して、左足の靱帯を思いっきり切る。
「あああああああ!」
「引っかかったな!お前はこの後、何をした!と言う!」
「何をした!……は!?」
左手で彼の頸を抑え、その刃で首を刺す。
どこかで聞いたことあるようなセリフに乗っかるだなんて愚の骨頂だ。
バカな男で助かった。
「知ってるか?フェイントっていうのは、最後の最後までその存在を気づかせないことにあるんだ。これ、相澤にもやった手法さ」
要領は違えど三森にもやったことだが。
「洋馬…………、お前……」
「止められなくて残念だったな」
カッターを首から離すと同時に左側に押し倒す。
涙を浮かべ動かない彼の腹を蹴る。
口から血を吐く彼の姿は滑稽だった。
「大馬鹿な男だな」
「俺は……、止めたかった…………。友達だから…………、だから、信じたくなかったのに…………悪魔…………絶対、止めてやる……」
いつか聞いたことがある言葉。
そうか、それでも牧田は僕を友達だと思っていたのか。
最後まで。
「バカなやつだ」
たった一つ、嘘を吐こう。
「僕は、お前みたいな奴が一番大嫌いだ」
涙をこぼす彼の姿。視線を逸らす。
まだ、終わりじゃない。
警察の大群が迫っている。
「置き土産だ」
カッターを地面に投げ捨てて、公園を出る。
覆面パトカーが両サイドにある。
目の前は車が通る道がある。
右側から警察が三人、やってきた。
両手をあげて降伏の意を示す。
安心したのか歩を緩める彼ら。
手錠を取り出した隙をついて細かなステップで警察の視界から逸れて走り出す。
待てと怒声が聞こえるが気にしない。
初めて見た手錠。
あんなものに拘束されてたまるか。
ここまできたんだ。
逃げ切ってやる。
彼ら警察を撒くとそこにあるビルの中に飛び込む。
古びたビルで撤去作業が始まりそうなほどに埃をかぶっていた。
流石にここに逃げ込むとは思わないだろう。
それなりに公園から距離があるので、探す範囲も拡大しているはず。
灯台下暗しのように意外と近くにいることを頭の固い大人がわかるわけもない。
部長から連絡が来ている。
着信も何件か来ていたが、無視を決め込んだ。
どうせ誰も僕を守ってくれない。
ならば自分で守るしかない。
いじめによって死を感じたあの日から生きるか死ぬかのどちらかを意識するようになった。
そして、その生に縋ろうとすればするほど邪魔が増えた。
生きていたいのだ。
この先も山場を超えたその先も。
死にたくなんかないのだ。
僕を殺そうとする者に死がどんなものなのかを理解させる。
殺さなければならない相手はいたんだ。
三木谷も三森も相澤も何も知り得ない彼らは僕をいじめた。
僕が彼らに何をするでもなくいじめは発生する。
突発的に突然変異的にその刃は向けられる。
いじめを許さない正義感の強い生徒がもしこのクラスにいたのならきっとその生徒はいじめられていた。
結果的には良かったのだ。
ここまでしないといじめは消えない。
いじめをする人間が死なない限りいじめられる人は増えていく一方だ。
正しかった。そう思うことが、今の僕を正常にさせる。
頑張って生きるとは本来こういうことなのではないだろうか。
動物だってそうだ。弱肉強食の世界で喰われないように逃げて、生きるために食らう。それは殺すこと。
人間だって動物だ。
殺さなきゃいけない時がどこかできっとあるのだ。
それが今じゃないのなら、その先の未来で。
僕にはそれが今だっただけ。
みんな自分が好きなんだ。
好きな自分を守るために誰かを陥れたり、省いたりする。
僕にはそれが殺すことだけだった。
なんの間違いもない。
正しさゆえに天使である。
人は僕を悪魔だと罵る。
だが、実際はこの先殺されるはずの死者を救った救世主だ。
きっとヒーローだと祭られる。
神にもなる存在さ。
屋上につながるドアをこじ開ける。
気持ちの良い風が、僕の考えを肯定してくれている。
夕方の日差しが応援してくれている。
僕は正しい。
乾いた声が漏れる。
笑っているはずなのに、どこか悲しい。
泣いてないはずなのに、どこか寂しい。
生きているはずなのに、どこか苦しい。
「どこで……」
言いかけてやめた。
貫き通さねばならないのだ。
この生き方が間違いじゃないのだと今苦しい人たちに伝えるのだ。
事件のニュースを見た人たちが、いじめられている人たちが、今を泣くほど辛い人も、泣くことさえできなくなった助けるべき人たちに。
自分が正しいと胸を張れ、そう伝えるために。
間違いさえひっくり返るほどの正しさへ。
それなのにどうして、罪の意識が脳を支配するのだろう。
階段を降りる。
もっと遠くに行こう。
正しいと肯定してくれる人たちの元へ行きたい。
誰か僕を見て。
助けて。
生きていていいって教えて。
二度目のスマホの通知に画面をタップする。仕事中の父親がうちに向かっているらしい。
母親の職場に警察が来て、仕事を早退して家に帰ったそうだ。
庭を掘り返す許可を得るべく父親も同行して欲しいらしい。
それはつまり三木谷の死体を掘り返すということだった。
全てが詰んでいく。
やはり諦め時なのだろうか。
警察に捕まった後の将来なんて不安で仕方がないというのに。
それ以上に人の死後の方が不安で怖くて仕方ないと思うのだろうか。
人をいじめるクソ野郎にはそれが一番の罰だと思うのは僕だけなのか。
僕まで死ななければならないの?
悪魔にしたのは誰だよ、誰一人助けてくれなかったのに、部活にいられなくなったのは、お前らのせいなのに。
どうして僕ばかり悪くなるのだ。
それならもういっそのこと、不安であろうが怖かろうが死んでしまおうか……。
死んでしまえば、楽になる。
悪魔が死ねば、みんな喜ぶかな。
みんな僕に死んでほしくて、いじめてたのかな。
あぁ、それなら僕はもう生きているべきじゃない。
死ぬことがいじめられる人間の唯一の救いなら、到底受け入れられないはずなのに。
それがいいのだと、誰かが囁く。
外に出ると目の前に坂口がいた。
「……」
警察より先に見つけ出すなんて。
「警察むいてるよ」
「……洋馬」
「捕まえに来たのか?それとも殺しに来た?」
「本当かどうか確かめにきたの」
「……全部、本当だ。警察でも呼べばいい」
「そんな嘘、誰が信じるの」
「坂口が、真っ先に聞きに来ただろう。三森を殺したのは僕だ」
「……」
驚く表情も見せない彼女に僕は驚いた。
「何も思わないのか?」
「思わないわけないじゃない」
「警察、呼ばないの?」
「呼ぶよ、けど、本当かどうかは全部確かめたい」
「確かめさせないって言ったらどうするの」
「無理だよ。あなたに逃げ場なんてないでしょ?」
「あるよ」
上に指を指す。
「屋上」
「死ぬ気?」
「どうだろうね」
ニッと笑みを浮かべると急いで階段を駆け上がる。
なんだか階段ばかり走っているような気がする。
足音をガンガン鳴らして追いかけてくる彼女。
オタクがあんなにも早く走れるだなんて想定外だった。
かといって、追いつかれることもなく屋上に到着する。
逃げ場はもうこの先の柵を越えるだけ。
「逃げるな卑怯者!」
すぐに追いついた坂口が怒鳴る。
「オタクも怒ると怖いんだな」
嘲笑う。
本気で怒ってる彼女に対し火に油だろう。
それでも良かった。
もう疲れた。
全部終わらせるのだ。
柵を軽々と越える。
話をする気はない。
「逃げるなって言ってるだろ、卑怯者が!」
一歩一歩近づいていてくる彼女。
「おい、それ以上近づくと僕はここから飛び降りるぞ」
「全部認めるの?だから、そこから飛び降りるの?」
ぴたりと足を止めた彼女はそんなわかりきったことを問う。
「お前と関わらなきゃ良かったな」
いちいち問いに答える必要なんかない。どうせ間違っていて正しくなんかないのだから。
「牧田まで殺そうとするなんてあり得ない」
「あり得ないことばかり繰り返してる。今更遅いんだよ」
「私のせい?私がいじめられて、それを庇ったから」
「あぁ、そうだよ。なんでお前なんか庇ったんだろうな」
庇うとかそんな話じゃなかった。
どこかで坂口と出かけているところを見られて、それをあの三人に伝えられた。
誰かが伝えなければ、こんなことにはならなかった。
いじめも先延ばしにされただろうし、そのまま消滅させることも可能だったかもしれない。
その誰かが憎い。
アニメの話になると全く会話にならない目の前の阿呆を相手にするべきじゃなかった。
「坂口と僕はもともと関わらない相手だったはず。突拍子もない判断がこの無様な結末を選んだわけだ。子供っていうのは滑稽だな。大人に見えていた高校生は、大人なんかじゃなくて、手と手を取り合うべき学生」
サッカーと同じだ。
僕は、手を取り合わなかった。
救いの手を退け払って、一人で生きようとした。
大人なんかじゃない。それでも、一人でやっていけると思った。
高校生の僕は、考えが甘かった。
なのに、人の優しささえ嫌った。
部活もいじめも逃げ続ければ良かった。
実際は目を逸らしただけで根本的な解決は何一つ得られていない。
真波とうまくやっていけると思ったのは、目を逸らしたからだ。
本当は、何もしっくり来ていなかったし、恋愛感情の一つもなかった。ただ寄り添えるならって浮ついた心がそうさせた。
今度こそ逃げ切ると決めてた。
しかし、もう無理なことはわかってる。
地面を見やるとそこにはパトカーが数台止まっていた。
やめ時だ。
「もう逃げないで。手と手を取り合うべきだって思うなら」
「……無理だよ」
「あなたは、間違えた。だけど、やり直せる」
「人殺しにかける言葉じゃないぞ。こんな悪魔、殺すべきだ」
「悪魔って何?あなたが勝手に言い出したの?それとも誰かに言われたの?」
私は、と目力を強くする彼女。
「あなたが救ってくれた天使だよ。悪魔なんかじゃない」
「……バカなことを」
納得できなければ理解もできなかった。
「自分を悪く言わないで。罪と向き合って。それで、また助けに来てよ、救世主なんだから」
「……」
少ない言葉の掛け合い。
心が揺らぐのはどうしてだろう。
新人戦で僕を見てくれる人はいなかった。ボールのパスは一切来なかった。邪魔だと嫌う部員たち。
教室でいじめられて、教材室に連れて行かれた時さえ無視を決め込んだクラスメイト。
今、目の前にいる坂口は正面から僕を見ている。
罪の意識があるからだろうか。
そんなもの抱えなくていいというのに。
扉を乱暴に蹴破る音が思考を現実に戻す。
警察が三人、銃を構えて近づいてくる。
連続殺人鬼を殺すかどうか考えているのか。
この悪魔を殺すというのだろう。
それでもいい。終わりにしてくれるのなら。
日の暮れたこの地面に目をやると何かが敷かれていることに気づいた。
パトカーのライトにそれが見える。
どうやら誰も殺す気はないらしい。
死ぬための逃げ道を奪われた。
思えば、どうして気づかなかったのだろう。その一瞬一瞬を逃げただけで完全犯罪を成功させてわけでもない。大勢の大人相手に子供一人が勝てるわけないのだ。
手を取り合える大人と人の道を踏み外したバカな子供。
それでも殺さないのはなぜ。
「洋馬……」
彼女のか弱い声に諦めがついた。
柵を飛び越えて、両手を上げる。
銃を構える一人の警察。手錠をかけられると背を押し連れて行かれる。
刹那、背中をドスっと衝撃がくる。優しく包むような温かさを感じる。
「これ、やりたかったから」
拘束された今、できると思ったのか。
「あのアニメの続き、やっとできた」
「お前さ」
「ちゃんと罪償っておいで。待ってるから」
「……」
彼女の表情は見えない。
彼女もまた僕の表情は見えない。
もう会えないかもしれない。それでもいい気がした。
警察の声に歩を進める。
階段を下りきってビルから出ると部長がそこには立っていた。
「牧田は搬送先の病院で死亡が確認された。真波さんは何針か縫う怪我でおさまった。洋馬お前……」
首元を刺したら流石に死ぬ。仕方ないか。
頭を下げてパトカーに向かう。
「俺は知らなかった、お前がいじめられている事実を」
「……」
「どうして伝えてくれなかった。お前の悩みの一つや二つ、何度だって聞くのに」
パトカーに乗ると警察が両サイドに座る。
逃げる気なんてないけれど、パトカーが音を鳴らして進むと流石に罪の重さを実感し始める。
三木谷を殺した。教材室の鍵を持っていて、勘付かれたから三森を殺した。
相澤に連絡していなければ、相澤は生きていたかもしれない。
恋愛なんかに手を出さなければ、真波を怪我させなかったかもしれない。
人を死なせずに、より良い解決策はあったのだろうか。
誰かを頼ることができたなら。
もう今となってはわからない。
この先の未来は司法に委ねよう。
過程なんか誰も気にしてない。結果だけが残るこの世界。
人を殺した事実だけが、この世に残るのだろう。
いじめにまともな刑罰はないのだから。
僕だけが悪い世界で生きていく。そんな気がした。
ただ平穏に生きていたかった。
どうして目をつけられたのだろう。
蓄積された殴られる痛みに比べたら、彼らは死んでも足りないだろう。
しかし、現状は違う。僕が悪魔で彼らは被害者。
いじめはいじめられる奴が悪いといつしかの僕は言った。
立ち向かう牙を持てば、そこに広がるのは生死を分けた戦い。弱肉強食、食物連鎖の動物と同義。
人は、法のもとで裁かれる。
僕にその法は通じるだろうか。悪魔の僕にそんなもの通じない。
やるだけやってやる。
もういっそのこと全部ぶっ壊してやる。
そして、全部やり直そう。
できる限りのものを消してしまおう。
次は誰を殺そうか。
里中にしようか。
あいつは、部活のことでいちいちうるさかった。
あんな邪魔者もは消しても無駄にならない。
殺してやる。
パトカーと救急車の音が聞こえる。
警察に捕まったらまずい。
音のしない方へ全力で走る。
この辺にまで巡回の音が来ているのか。
指名手配犯として名がテレビで出てしまいそうだ。
これではちゃんと犯罪者で悪いやつだ。
それはそれでいい。面白い。
どこまで逃げキレるか勝負しようじゃないか。
どれも全部無駄に終わるのなら、楽しもうじゃないか。
この窮地を切り抜けて、僕の平穏を安寧を築きあげる。
牧田から連絡が入った。
そうだ、彼にも僕の思想を話してみようか。
きっと理解してくれる。僕が部活に参加しなくなった今も仲良くしてくれる唯一の相手だ。
たとえ、人を殺した事実を知っていたとしてもそれ以降も関係は保たれ続くのだろう。
大丈夫。間違ったことなんかしていないと伝えるだけなんだ。
誰も助けてくれなかった僕の隣でただ一緒にいてくれたのは君だけだ。
今の僕の気持ち、受け入れてくれる。
場所を決めて、そこで落ち合う。
僕がその場所に来る頃には彼はその場所で待っていた。
「こんな公園に呼び出すなんて、意外だね」
「……人が多いから。疑われなくて済むかなって」
「疑ってるって知ってたんだ」
「そりゃあ、そうだろ。人を殺したかもしれないっていう容疑については里中部長から聞いてる」
「部長が?」
「だから、来たんだよ。二人を殺した事実が本当かどうか知りたくて」
「……なるほど。じゃあ、今、牧田は僕を信じてないわけだ」
噴水の音を掻き消すほどの静寂。今にも始まりそうな一騎打ち。
お互いの心理を探るような展開になんだか胸が躍る。
これがワクワクする気持ちだ。
高校生になって得られるとは思わなかった。
「信じるために勝手に呼び出したんだよ。警察に捕まってからだと洋馬は絶対に何も話してくれないだろうと思って」
風に髪が靡く。
それが気持ちよくて深呼吸をした。空気が美味しい。
「どうして、疑われるようなことをしたんだ。里中部長は今、お前を探してる。坂口も信じまいと他の生徒に聞き込みしてる」
「……」
「みんな、お前を思って動いてる。このまま逃げ続けたら容疑を認めたことになるかもしれない」
「容疑を、認めたくないから逃げてる可能性もあるだろう?」
「それなら、誰かに訴えればいい」
「誰も信じてくれないかもしれない」
「一人くらい信じてくれる。俺じゃなくても、俺以外の誰かが」
「お前だけは信じてるよ」
本音だった。やはり部活に参加しなくなってあの場所に僕の居場所がないと知ってからも彼だけはいたから。
「ありがたいよ。でもさ、それならなんで俺と一緒にいることを許さなかったんだよ。あいつらにいじめられてから洋馬は俺から距離を置いた。俺、あれ結構きつかったんだぜ」
「……あれは」
「信じてるなら、教えてくれよ」
「あれは、お前を守りたかった。牧田が僕を守って、クラスに居場所がなくなるなんて許せないから。同じ目にあって欲しくないから」
「だったら」
「これでも守りきれたって思ってるんだぜ?あいつらは死んでしまったけれど、不可抗力だ。少なくともお前の教室での地位は変わってないだろ?」
「俺を守るために三森も相澤も殺したのか?」
「結果的にはそうなるのかな」
同じ仲間がいると思えるとそれはとても嬉しかった。
僕は独りよがりの正義を貫いたわけじゃない。
この人たちを守るために自分を犠牲にしたんだと思える。
「ふざけるなよ、頼んでねぇよ」
乾いた笑みに顔が歪みそうになる。
僕を信じているなら、僕を守ってくれてもいいじゃないか。
頼んでないだなんて、聞いてない。
「僕のこと馬鹿にしてるのか……?」
頭が冷静ではないことに自分でも気づいていた。
なのに、変えられない心境に思いのまま体を動かしてしまいたくなる。そんな衝動を押さえ込む。
「馬鹿にしてない。頼んでないだけ、俺は、お前にそんなことして欲しくなかった。そうだろう?洋馬はそんなことしない。誰もお前がそんなことすると思ってない。あの頃みたいに部活に一所懸命で真剣に打ち込んでた日々を……、豹変するとみんな思ってないんだよ……。なぁ、昨日お前はどこにいたんだ。三森を追いかけて殺したって本当なのか?」
「何を根拠にそんなこと」
「坂口が聞いてただろ。あれ、坂口が見てたらしい。騒がしくてバレないように追いかけたら屋上に繋がる階段で二人が言い合いになってるところを階段下で聞いてたって」
「……やっぱり、何一つ信用してないじゃないか」
「ちが」
「そうやって、他の人の言葉ばかり信用して僕の言葉を誰も聞かない。誰も信じない。勝手に作り上げて勝手に盛り上がって……。憶測で楽しめる馬鹿な頭じゃなくて本当に良かった。牧田、僕はもう君を友達だとは思わない」
「……そんな」
「はっきりしたよ。目が覚めた。頭が冷えた。牧田、お前のために何かした僕が間違いだった」
決別だった。
これ以上牧田なんかと関わるつもりはない。
公園とはいえ、きっと他の誰かが僕に視線をくれている。
誰かに見られている気配を感じていたが、そもそも公園は見晴らしがいい。
お互いにとっても信用を得るためには、公園というは場所はメリットが多い。
信用を得るためにはどうしたらいいのか、否、僕を騙すためにはどうしたらいいのか、牧田は考えたのだ。
この短い時間でよくもまぁ、騙そうと思ったものだ。
少しでも牧田を信じた僕が悪かった。改めよう。
「僕を警察に引き渡すならやってみろ。僕は、牧田を殺しても何も感じないだろう」
それに。
「牧田は僕が殺したと信じて疑ってないだろう?よく伝わるよ。ほら、見てみろ。この公園、やたらスーツの人間が多いじゃないか」
顔を顰める彼。図星だったらしい。
気持ちが昂る。
やはりこのピンチを切り抜けるには、目の前にいる牧田に重傷を負わせるだけでいい。警察は牧田を優先する。最悪殺してしまおう。こんなやつに構う必要はない。
もはや人を殺すことに躊躇いはない。
「洋馬、俺は……、お前を止める!何があっても!」
「ほう?向かってくるか!」
右拳を振り上げる彼の左脇腹を蹴り上げる。
拳が緩んだ隙に左頬を殴る。
「ほら、どうしたどうした?」
左拳で脇腹を殴るフェイントをかけて、もう一度左頬を殴る。
容赦無用、情け無用、その命が消えるまで殴るのをやめない。
「牧田が泣いたって、僕は殴るのをやめないぞ。逃げた方が、お前の命は助かるぞ」
「人の命の心配をするのかよ、この悪魔が!」
右足の蹴りに気づけなかった。左太ももに当たり立ってられず地面に膝をついた。
立ち上がるよりも先に右足の蹴りが顔面をつく。よろけて倒れた僕にまたがる牧田。
スーツ姿の輩が、こちらへ向かってくる。
やはり警察だったわけだ。奥の手を使おう。
「おいおい、僕の動きを拘束できたと思っているのか?無駄だぞ!この口が動く限りお前の精神を崩壊させることなんぞ簡単だ!」
「その口を黙らせて、警察に引き渡してやる」
「やってみろ!ゴミカスの猿どもが!」
「せいぜい煽るだけ煽っとけ!」
右頬、左頬と交互に殴られる。
痛みにやられたふりをして、右ポケットに忍ばせていたカッターを取り出す。
「そんなもんか!女の暴力より弱いじゃあないか!」
「下手な煽りに惑わされると思うなよ!もう警察が来たらお前に逃げ場はない!」
カッターの刃を出して、左足の靱帯を思いっきり切る。
「あああああああ!」
「引っかかったな!お前はこの後、何をした!と言う!」
「何をした!……は!?」
左手で彼の頸を抑え、その刃で首を刺す。
どこかで聞いたことあるようなセリフに乗っかるだなんて愚の骨頂だ。
バカな男で助かった。
「知ってるか?フェイントっていうのは、最後の最後までその存在を気づかせないことにあるんだ。これ、相澤にもやった手法さ」
要領は違えど三森にもやったことだが。
「洋馬…………、お前……」
「止められなくて残念だったな」
カッターを首から離すと同時に左側に押し倒す。
涙を浮かべ動かない彼の腹を蹴る。
口から血を吐く彼の姿は滑稽だった。
「大馬鹿な男だな」
「俺は……、止めたかった…………。友達だから…………、だから、信じたくなかったのに…………悪魔…………絶対、止めてやる……」
いつか聞いたことがある言葉。
そうか、それでも牧田は僕を友達だと思っていたのか。
最後まで。
「バカなやつだ」
たった一つ、嘘を吐こう。
「僕は、お前みたいな奴が一番大嫌いだ」
涙をこぼす彼の姿。視線を逸らす。
まだ、終わりじゃない。
警察の大群が迫っている。
「置き土産だ」
カッターを地面に投げ捨てて、公園を出る。
覆面パトカーが両サイドにある。
目の前は車が通る道がある。
右側から警察が三人、やってきた。
両手をあげて降伏の意を示す。
安心したのか歩を緩める彼ら。
手錠を取り出した隙をついて細かなステップで警察の視界から逸れて走り出す。
待てと怒声が聞こえるが気にしない。
初めて見た手錠。
あんなものに拘束されてたまるか。
ここまできたんだ。
逃げ切ってやる。
彼ら警察を撒くとそこにあるビルの中に飛び込む。
古びたビルで撤去作業が始まりそうなほどに埃をかぶっていた。
流石にここに逃げ込むとは思わないだろう。
それなりに公園から距離があるので、探す範囲も拡大しているはず。
灯台下暗しのように意外と近くにいることを頭の固い大人がわかるわけもない。
部長から連絡が来ている。
着信も何件か来ていたが、無視を決め込んだ。
どうせ誰も僕を守ってくれない。
ならば自分で守るしかない。
いじめによって死を感じたあの日から生きるか死ぬかのどちらかを意識するようになった。
そして、その生に縋ろうとすればするほど邪魔が増えた。
生きていたいのだ。
この先も山場を超えたその先も。
死にたくなんかないのだ。
僕を殺そうとする者に死がどんなものなのかを理解させる。
殺さなければならない相手はいたんだ。
三木谷も三森も相澤も何も知り得ない彼らは僕をいじめた。
僕が彼らに何をするでもなくいじめは発生する。
突発的に突然変異的にその刃は向けられる。
いじめを許さない正義感の強い生徒がもしこのクラスにいたのならきっとその生徒はいじめられていた。
結果的には良かったのだ。
ここまでしないといじめは消えない。
いじめをする人間が死なない限りいじめられる人は増えていく一方だ。
正しかった。そう思うことが、今の僕を正常にさせる。
頑張って生きるとは本来こういうことなのではないだろうか。
動物だってそうだ。弱肉強食の世界で喰われないように逃げて、生きるために食らう。それは殺すこと。
人間だって動物だ。
殺さなきゃいけない時がどこかできっとあるのだ。
それが今じゃないのなら、その先の未来で。
僕にはそれが今だっただけ。
みんな自分が好きなんだ。
好きな自分を守るために誰かを陥れたり、省いたりする。
僕にはそれが殺すことだけだった。
なんの間違いもない。
正しさゆえに天使である。
人は僕を悪魔だと罵る。
だが、実際はこの先殺されるはずの死者を救った救世主だ。
きっとヒーローだと祭られる。
神にもなる存在さ。
屋上につながるドアをこじ開ける。
気持ちの良い風が、僕の考えを肯定してくれている。
夕方の日差しが応援してくれている。
僕は正しい。
乾いた声が漏れる。
笑っているはずなのに、どこか悲しい。
泣いてないはずなのに、どこか寂しい。
生きているはずなのに、どこか苦しい。
「どこで……」
言いかけてやめた。
貫き通さねばならないのだ。
この生き方が間違いじゃないのだと今苦しい人たちに伝えるのだ。
事件のニュースを見た人たちが、いじめられている人たちが、今を泣くほど辛い人も、泣くことさえできなくなった助けるべき人たちに。
自分が正しいと胸を張れ、そう伝えるために。
間違いさえひっくり返るほどの正しさへ。
それなのにどうして、罪の意識が脳を支配するのだろう。
階段を降りる。
もっと遠くに行こう。
正しいと肯定してくれる人たちの元へ行きたい。
誰か僕を見て。
助けて。
生きていていいって教えて。
二度目のスマホの通知に画面をタップする。仕事中の父親がうちに向かっているらしい。
母親の職場に警察が来て、仕事を早退して家に帰ったそうだ。
庭を掘り返す許可を得るべく父親も同行して欲しいらしい。
それはつまり三木谷の死体を掘り返すということだった。
全てが詰んでいく。
やはり諦め時なのだろうか。
警察に捕まった後の将来なんて不安で仕方がないというのに。
それ以上に人の死後の方が不安で怖くて仕方ないと思うのだろうか。
人をいじめるクソ野郎にはそれが一番の罰だと思うのは僕だけなのか。
僕まで死ななければならないの?
悪魔にしたのは誰だよ、誰一人助けてくれなかったのに、部活にいられなくなったのは、お前らのせいなのに。
どうして僕ばかり悪くなるのだ。
それならもういっそのこと、不安であろうが怖かろうが死んでしまおうか……。
死んでしまえば、楽になる。
悪魔が死ねば、みんな喜ぶかな。
みんな僕に死んでほしくて、いじめてたのかな。
あぁ、それなら僕はもう生きているべきじゃない。
死ぬことがいじめられる人間の唯一の救いなら、到底受け入れられないはずなのに。
それがいいのだと、誰かが囁く。
外に出ると目の前に坂口がいた。
「……」
警察より先に見つけ出すなんて。
「警察むいてるよ」
「……洋馬」
「捕まえに来たのか?それとも殺しに来た?」
「本当かどうか確かめにきたの」
「……全部、本当だ。警察でも呼べばいい」
「そんな嘘、誰が信じるの」
「坂口が、真っ先に聞きに来ただろう。三森を殺したのは僕だ」
「……」
驚く表情も見せない彼女に僕は驚いた。
「何も思わないのか?」
「思わないわけないじゃない」
「警察、呼ばないの?」
「呼ぶよ、けど、本当かどうかは全部確かめたい」
「確かめさせないって言ったらどうするの」
「無理だよ。あなたに逃げ場なんてないでしょ?」
「あるよ」
上に指を指す。
「屋上」
「死ぬ気?」
「どうだろうね」
ニッと笑みを浮かべると急いで階段を駆け上がる。
なんだか階段ばかり走っているような気がする。
足音をガンガン鳴らして追いかけてくる彼女。
オタクがあんなにも早く走れるだなんて想定外だった。
かといって、追いつかれることもなく屋上に到着する。
逃げ場はもうこの先の柵を越えるだけ。
「逃げるな卑怯者!」
すぐに追いついた坂口が怒鳴る。
「オタクも怒ると怖いんだな」
嘲笑う。
本気で怒ってる彼女に対し火に油だろう。
それでも良かった。
もう疲れた。
全部終わらせるのだ。
柵を軽々と越える。
話をする気はない。
「逃げるなって言ってるだろ、卑怯者が!」
一歩一歩近づいていてくる彼女。
「おい、それ以上近づくと僕はここから飛び降りるぞ」
「全部認めるの?だから、そこから飛び降りるの?」
ぴたりと足を止めた彼女はそんなわかりきったことを問う。
「お前と関わらなきゃ良かったな」
いちいち問いに答える必要なんかない。どうせ間違っていて正しくなんかないのだから。
「牧田まで殺そうとするなんてあり得ない」
「あり得ないことばかり繰り返してる。今更遅いんだよ」
「私のせい?私がいじめられて、それを庇ったから」
「あぁ、そうだよ。なんでお前なんか庇ったんだろうな」
庇うとかそんな話じゃなかった。
どこかで坂口と出かけているところを見られて、それをあの三人に伝えられた。
誰かが伝えなければ、こんなことにはならなかった。
いじめも先延ばしにされただろうし、そのまま消滅させることも可能だったかもしれない。
その誰かが憎い。
アニメの話になると全く会話にならない目の前の阿呆を相手にするべきじゃなかった。
「坂口と僕はもともと関わらない相手だったはず。突拍子もない判断がこの無様な結末を選んだわけだ。子供っていうのは滑稽だな。大人に見えていた高校生は、大人なんかじゃなくて、手と手を取り合うべき学生」
サッカーと同じだ。
僕は、手を取り合わなかった。
救いの手を退け払って、一人で生きようとした。
大人なんかじゃない。それでも、一人でやっていけると思った。
高校生の僕は、考えが甘かった。
なのに、人の優しささえ嫌った。
部活もいじめも逃げ続ければ良かった。
実際は目を逸らしただけで根本的な解決は何一つ得られていない。
真波とうまくやっていけると思ったのは、目を逸らしたからだ。
本当は、何もしっくり来ていなかったし、恋愛感情の一つもなかった。ただ寄り添えるならって浮ついた心がそうさせた。
今度こそ逃げ切ると決めてた。
しかし、もう無理なことはわかってる。
地面を見やるとそこにはパトカーが数台止まっていた。
やめ時だ。
「もう逃げないで。手と手を取り合うべきだって思うなら」
「……無理だよ」
「あなたは、間違えた。だけど、やり直せる」
「人殺しにかける言葉じゃないぞ。こんな悪魔、殺すべきだ」
「悪魔って何?あなたが勝手に言い出したの?それとも誰かに言われたの?」
私は、と目力を強くする彼女。
「あなたが救ってくれた天使だよ。悪魔なんかじゃない」
「……バカなことを」
納得できなければ理解もできなかった。
「自分を悪く言わないで。罪と向き合って。それで、また助けに来てよ、救世主なんだから」
「……」
少ない言葉の掛け合い。
心が揺らぐのはどうしてだろう。
新人戦で僕を見てくれる人はいなかった。ボールのパスは一切来なかった。邪魔だと嫌う部員たち。
教室でいじめられて、教材室に連れて行かれた時さえ無視を決め込んだクラスメイト。
今、目の前にいる坂口は正面から僕を見ている。
罪の意識があるからだろうか。
そんなもの抱えなくていいというのに。
扉を乱暴に蹴破る音が思考を現実に戻す。
警察が三人、銃を構えて近づいてくる。
連続殺人鬼を殺すかどうか考えているのか。
この悪魔を殺すというのだろう。
それでもいい。終わりにしてくれるのなら。
日の暮れたこの地面に目をやると何かが敷かれていることに気づいた。
パトカーのライトにそれが見える。
どうやら誰も殺す気はないらしい。
死ぬための逃げ道を奪われた。
思えば、どうして気づかなかったのだろう。その一瞬一瞬を逃げただけで完全犯罪を成功させてわけでもない。大勢の大人相手に子供一人が勝てるわけないのだ。
手を取り合える大人と人の道を踏み外したバカな子供。
それでも殺さないのはなぜ。
「洋馬……」
彼女のか弱い声に諦めがついた。
柵を飛び越えて、両手を上げる。
銃を構える一人の警察。手錠をかけられると背を押し連れて行かれる。
刹那、背中をドスっと衝撃がくる。優しく包むような温かさを感じる。
「これ、やりたかったから」
拘束された今、できると思ったのか。
「あのアニメの続き、やっとできた」
「お前さ」
「ちゃんと罪償っておいで。待ってるから」
「……」
彼女の表情は見えない。
彼女もまた僕の表情は見えない。
もう会えないかもしれない。それでもいい気がした。
警察の声に歩を進める。
階段を下りきってビルから出ると部長がそこには立っていた。
「牧田は搬送先の病院で死亡が確認された。真波さんは何針か縫う怪我でおさまった。洋馬お前……」
首元を刺したら流石に死ぬ。仕方ないか。
頭を下げてパトカーに向かう。
「俺は知らなかった、お前がいじめられている事実を」
「……」
「どうして伝えてくれなかった。お前の悩みの一つや二つ、何度だって聞くのに」
パトカーに乗ると警察が両サイドに座る。
逃げる気なんてないけれど、パトカーが音を鳴らして進むと流石に罪の重さを実感し始める。
三木谷を殺した。教材室の鍵を持っていて、勘付かれたから三森を殺した。
相澤に連絡していなければ、相澤は生きていたかもしれない。
恋愛なんかに手を出さなければ、真波を怪我させなかったかもしれない。
人を死なせずに、より良い解決策はあったのだろうか。
誰かを頼ることができたなら。
もう今となってはわからない。
この先の未来は司法に委ねよう。
過程なんか誰も気にしてない。結果だけが残るこの世界。
人を殺した事実だけが、この世に残るのだろう。
いじめにまともな刑罰はないのだから。
僕だけが悪い世界で生きていく。そんな気がした。