三

 楸矢の容体はすぐに回復し退院した。

「楸矢さん、良かった……」
「小夜ちゃん、クレーイス、渡したね」
 楸矢が森の方を見ながら言った。

 楸矢の言葉の意味が分かったらしく柊矢が小夜を見た。

「申し訳ありません! でも、歌うの()めて欲しくて……」
 小夜が二人に深く頭を下げた。

「お前にやったものだ。お前がどうしようと自由だ」
「俺は取引したわけじゃないから封印のムーシカ吹くよ」
「俺もだ」
「それは向こうも最初から分かってるはずですから」

 柊矢や楸矢を止めるという約束はしていない。
 二人が封印のムーシカを奏でれば他のムーソポイオスが歌うだろう。
 小夜が歌わなくても森は封印されるはずだ。

 柊矢と楸矢は家に帰るなり音楽室へ入って封印のムーシカを奏で始めた。

 他のムーソポイオスが歌い始める。
 華やかなメゾソプラノから始まり、それに優しいアルトの斉唱、透き通るソプラノの重唱が加わる。
 更に椿矢の甘いテノールが重なった。

 しかしムーシカが終わっても森は消えなかった。

「なんでっ!」
 楸矢が森を見ながら言った。
「クレーイスさえあれば俺達の妨害は効かないってわけか」
「くそ! 俺のせいで!」
 楸矢が左手で壁を殴った。

「楸矢さんのせいじゃありません。クレーイスを渡したのは私です。私が悪かったんです。すみません!」
 小夜は頭を下げた。
「俺のためにやってくれたんでしょ。小夜ちゃんは悪くないよ。ムーシケーの意志に背くのがどれだけ(つら)かったか分かってるから」
「……っ!」
 小夜の目から涙が(あふ)れた。

 勝手にクレーイスを渡してしまった自分にそんな優しい言葉を掛けてもらう資格なんてないのに。

 二人のお祖父様の形見なのに……。

 柊矢がそっと小夜の肩を抱いた。

「椿矢に連絡を取ろう」
 柊矢はスマホを取りだした。

「消えないね」
 椿矢は喫茶店の窓から見える森を見ながら言った。
「あんたの弟も()んでるんだろ。何か分からないの?」
 楸矢が()れたように言った。

「いっそ、帰還派はこのままムーシケーに行かせちゃったら? で、行ったら二度と地球と繋がらない様にして帰ってこられなくするってのはどう?」
 椿矢が本気とも冗談とも付かない口調で言った。

「確かに魅力的な案ではあるが……」
 沙陽達が二度と自分達と顔を合わせないところに行ってくれるのは有難い。
「でも、それはムーシケーの意志に反します」
 小夜が言った。

「なんでそこまで拒むのかなぁ」
 椿矢が首を傾げた。
「関係あるのか分かりませんけど……」
 小夜は病院で見たムーシケーの話をした。

「隕石ねぇ。けど、火球にしろ隕石にしろ地球にだって降ってきてるわけでしょ。その程度のことで帰還を拒むかねぇ」
 椿矢が当然の疑問を口にした。
「まぁ、何にしろ、封印のムーシカで森が消えないなら、これ以上君達に危害を加える心配はないと思うけど。クレーイスも取られちゃったことだし、このまま連中を向こうへ行かせたら?」
 椿矢は他人事(ひとごと)の様に言った。

「あとは森が、ムーシケーが、溶けるのを待つだけだな」
 晋太郎が言った。
「それだけじゃダメよ。クレーイス・エコーがこの先どんな邪魔をしてくるか分からないじゃない」
 沙陽が低い声で言った。

「向こうに帰ってしまえばクレーイス・エコーに邪魔なんか……」
「されてから後悔しても遅いでしょ。あの三人は始末するべきよ」
 小夜の言葉にその場にいた者達はみな黙り込んだ。
 ここにいるのは全員ムーシコスだ。ムーシカで沙陽達の三角関係のことは知っていた。

「いいんじゃない? 後顧(こうこ)(うれ)いは絶っておくに越したことはないと思うよ」
 榎矢が賛同した。柊矢には消えてほしかった。沙陽の未練を断つために。

 榎矢の言葉に他のメンバー達も顔を見合わせて頷いた。
 小夜達がいなくなれば新たにクレーイス・エコーが選び直される。
 沙陽が再び選ばれるかは分からないが別のムーシコスがなったとしても邪魔さえしてこなければ問題ない。

 小夜達は家に戻ると何となく台所に集まった。小夜がコーヒーを入れクッキーを皿に載せて出した。

「収穫はなかったな」
 柊矢が言った。
「あのムーシカ、小夜ちゃんにも聴こえてたんだよね」
「はい」
「それなのに小夜ちゃんは大丈夫だったってことは俺も能力(ちから)が強ければあんなムーシカなんかで無様な姿を晒さずにすんだんだよね」
 楸矢が悔しそうに言った。

「何もなかったのは、私に向けられたものじゃなかったからですよ」
 小夜が慰めた。
「ありがと、小夜ちゃん」
 楸矢が無理に笑顔を作って言った。

「見つけた!」
 楸矢が中央公園で叫んだ。
「また見つけられた! って、また僕のこと捜してたの?」
 椿矢は中央公園のベンチでムーシカを歌っているところだった。
 聴衆が邪魔をした楸矢を睨み付ける。

「ま、少し待ってて」
 楸矢は椿矢のムーシカが終わるのをじりじりしながら待った。
 ようやく椿矢が終わりを告げ、聴衆が散っていった。

「で、なんで捜してたの? 僕の番号なら柊矢君が知ってるよ」
「柊兄や小夜ちゃんには内緒で会いたかったんだよ。俺にもあんたの番号教えて。俺も教えるから」
「どうせ密会するなら可愛い女の子がいいなぁ」
 椿矢が冗談めかして言った。

「小夜ちゃんのこと言ってるなら……」
「小夜ちゃんに手を出す気はないよ。柊矢君、怖そうだし。で、用って?」
 椿矢が促した。

「クレーイスを取り返したい。小夜ちゃんがすごく気に病んでるんだ。それがダメならせめてこの森を消す方法ない?」
「古文書の類は榎矢がほとんど持ってっちゃったんだよね」
「でも、先祖代々伝えられてる口伝(くでん)とか秘伝(ひでん)とか、蔵があるような家ならあるでしょ」
「楸矢君、それすごい偏見」
 椿矢が苦笑した。

「ないの? あんた、ムーシコスのこととかかなり詳しいじゃん。資料はないって言ってたらしいけど、ならなんで地球に来たのが四千年前なんてこと知ってんの?」
「四千年前って言うのは推測だよ。ムーシケー、グラフェー、ドラマ、ムーシカ、ムーシコスって言う固有名詞は古典ギリシア語だけど、実際ムーシケーにいた頃、ムーシコスがその固有名詞を使っていたのは確かだし」
「なんでそんなことが分かんの」

 ムーシコスが地球(こちら)へ来てからもムーサの森は度々ムーシコスの前に現れていた。
 そのため自分の子供に目の前のムーサの森やグラフェーやドラマを指差して名前を教えることが出来た。

 それで固有名詞だけは数千年間変わることなく伝わってきた。
 だが文字もなく、世界共通の年号もなかった時代だ。

 こちらへ来てからの正確な年数は分からない。
 古典ギリシア語を使っているならその言葉が使われていた頃には来ていたのではないかと推測するのが精一杯だ。

 あくまで自分の推測だが、と断った上で、
「ムーシケーが凍り付いてムーシコスが全員地球(こっち)に来たのはもう少し後でも、ムーシコスはその前から地球との間を行き来していたんじゃないかな」
 と言った。

「根拠は?」
「全てのムーシカがこっちで作られたものじゃないなら、ムーシケーで使っていた言葉のムーシカがあるはずだけど、それらしいのはないから。ムーシカのほとんどが古典ギリシア語なんだ」

 雨宮家の人間の中には何人かムーシケーやムーシカの研究をしている者がいてムーシカの殆どは古典ギリシア語だという事は分かっていた。
 椿矢もムーシケーのことを調べるために大学で古典ギリシア語を専攻した。

 それでムーシカは九割方古典ギリシア語だということと、他にも地球の言語を使ったムーシカはあったが地球にはない言語のムーシカはないことが分かった。

 つまりムーシコス独自の言語のムーシカはないのだ。
 ギリシア人が移住してきたムーシコスの言葉を使うようになったというのは考えづらい。
 古代ギリシアと交流があって同じ言葉――古典ギリシア語――をムーシコスも使っていたのではないか。

 だから、惑星(ムーシケー)が凍り付いたときもすぐに地球(ギリシア)に溶け込めたのだろう。
 惑星(ムーシケー)が凍り付いたとき、地球と繋がったとしても全く未知の世界だったらあっさり移住するか疑問だし、繋がった先が偶々(たまたま)生存環境と言語の似ていた地域というのも都合が良すぎる。

 元々ギリシアのどこかと繋がっていて行き来していたから地球のことを知っていたと考える方が自然ではないのか。
 往来があって地球人との混血も進んでいたなら古代ギリシア人と容姿が似ていてもおかしくない。
 容姿が似ていて同じ言葉を使っていれば簡単に移住出来ただろう。
 椿矢はそう言った。

「そういえば、この森から落ちてきた旋律の雫、イーリアスだって言ってたっけ」
 楸矢の言葉に椿矢は一瞬黙って考え込んだ。
「ホントだ。イーリアスの歌詞のムーシカがあるね」

 椿矢は古典ギリシア語を学んでいてイーリアスも原語で知っているから、その歌詞のムーシカがあるかどうか分かるのだろう。
 イーリアスはホメーロスが作ったとされているが、ホメーロスが実在の人物かどうかは分かっていない。
 イーリアスの制作年代は紀元前八世紀頃と言われているが、文字化されたのは紀元前六世紀頃だ。
 そもそも作者だと言われているホメーロスの実在さえ怪しいのだから制作年代もあくまで推定に過ぎない。
 作られたのが紀元前八世紀よりも前の可能性は十分ある。

 ムーサに地球のムーシカ(イーリアス)があったのだから、椿矢の言う通りムーシケーが凍り付く前から地球と行き来していたのは間違いないようだ。

「この森を消す方法、あんたの親か親戚に聞いても分からない?」
「うちは帰還派よりなんだよね」
「てことは榎矢はあんたんちにいるってこと?」
「いや、榎矢は古文書持ち出した後は帰ってないって言ってた。帰還派の誰かのところにいるみたいだね。クレーイスが手に入ったし、ムーシケーに行く準備でもしてるんじゃない?」
 いくら音楽のことしか考えてないとは言っても文明の全くないところへ手ぶらで行こうとするほどバカではないだろう。

「つまり、打つ手は無しってことか……」
 楸矢はベンチに座り込むと溜息をついた。
「楸矢君はそれほどムーシケーの意志に(こだわ)ってなさそうに見えたけど、違ったんだ」
 椿矢が意外そうに言った。

「拘ってないよ。俺はね。ムーシケーの意志なんて感じたことないし。でも、小夜ちゃんが気にしてるからさ。特に今回のことでは責任感じて凄く自分を責めてて……。でも、そもそも俺のせいじゃん。なのに自分を責めてるの、見てられなくてさ」
 椿矢にも小夜が気に病むだろうと言うことは容易に想像が付いた。

「元々柊兄が気休めにお守りだなんて言って渡したものなんだから、気にすることないのに」
 祖父に育てられた小夜にとって、祖父というのは特別な存在なのだ。
 だから柊矢と楸矢の祖父の形見を勝手に沙陽に渡してしまったと言うことで小夜は自分を責めていた。
 勿論、ムーシケーの意志に反しているというのもあるだろうが。

「小夜ちゃんの為にも取り返したいんだ」
「……分かった。出来そうなことを探しておくよ」
「無理言ってゴメン」
 楸矢は椿矢に頭を下げた。

 クレーイスは自然にクレーイス・エコーの手に渡るものだから、柊矢から小夜に手渡されたのは必然なのだが、小夜はそれを知らないのだろう。

 いや、知っていてもムーシケーに(そむ)いたことに変わりはないのだから気に病むか……。

 楸矢が肩を落として帰っていくのを、椿矢はブズーキを爪弾きながら見ていた。