二
翌日、学校から帰ってきた小夜は夕食を作っていた。
この歌声、沙陽さん?
切れ切れにムーシカが聴こえてくる。
なんだか嫌な気分になるムーシカ。
「ただいま」
楸矢が帰ってきた。
「あ、楸矢さん、お帰りなさい。……顔色、良くないですけど」
「ちょっと気分が悪くて。夕食は食べられそうにない。リクエストしておいてゴメン……」
「それは気にしなくていいですけど……。大丈夫ですか?」
「多分、部屋で寝てれば治ると思う」
楸矢はそう言うとよろよろと自室へ上がっていった。
小夜は二階に上がって柊矢の部屋をノックした。
「どうした?」
「楸矢さん、具合が悪いそうなんですけど」
「なんか悪いものでも拾い食いしたか?」
「柊矢さん!」
「分かった分かった。様子を見てみるよ」
柊矢はそう言って部屋から出てきた。
真向かいの楸矢の部屋をノックすると返事を待たずに中へ入っていった。
「おい! 大丈夫か!?」
部屋の中では楸矢がゴミ箱に吐いていた。
小夜は急いで洗面所に置かれている使われてないバケツを持ってきた。
「楸矢さん、これ。そのゴミ箱のは私が処分してきますから」
「小夜ちゃん、ゴメン」
楸矢は食べたものを全て吐き、吐くものがなくなっても胃液を吐いていた。
小夜は楸矢の背中をさすりながら、
「楸矢さん、もしかして、ムーシカ、聴こえてます?」
と訊ねた。
「うん」
吐く合間に楸矢が頷いた。
「ムーシカ? 俺には聴こえないぞ」
「多分、治癒や呼び出しのムーシカの応用みたいなものじゃないでしょうか。きっと、楸矢さんの具合を悪くするために歌ってるんです」
「ムーシカか……」
柊矢は楸矢の部屋を出て行くと、すぐにキタラを持って戻ってきた。
「ムーシカで具合が悪くなったなら治癒のムーシカで治るんじゃないか?」
「あ! そうですね。私、歌います」
柊矢のキタラにあわせて治癒のムーシカを歌い始めると他のムーソポイオスも歌い始める。
楸矢の顔色が良くなった。
顔を上げてムーシカを聞いている。
最後のコーラスを残して治癒のムーシカが終わった。
その瞬間、再び沙陽のムーシカが流れ出して楸矢が戻し始めた。
「またムーシカが始まったのか?」
「はい。もう一回歌います」
小夜が歌おうとするのを、
「待て」
柊矢が止めた。
「柊矢さん! どうしてですか!?」
「向こうには歌えるヤツが少なくとも三人はいる。他にもいるかもしれない」
「三人?」
小夜が首をかしげた。
「この前の交通事故の時、歌っていたのは沙陽じゃなかった」
そういえば沙陽ではない女性からの呼び出しのムーシカを聴いたことがあった。
それに榎矢もいる。
「こちらは椿矢を勘定に入れても二人だ。交代で歌われたらこちらが負ける。負けないにしてもどちらかが根負けするまで続くだろう」
「じゃあ、どうすれば……」
「とりあえず、楸矢を病院に連れて行く」
柊矢はスマホを取り出した。一一九番を押す。
「でも、ムーシカで具合が悪くなったなんて言っても……」
「そんなことは言わない。ただ具合が悪くなっただけだと言えばいい」
柊矢は急病人だと言って救急車を呼んだ。
「病院で治せるんですか?」
「食事が出来ないまま吐き続けてたらどんどん消耗していく。病院で点滴でも打ってもらえば少なくともこれ以上衰弱することはないだろう。その間に対策を考える」
「分かりました。楸矢さん、必ず助けます。だから待っててください」
「小夜ちゃん、ありがと」
救急車のサイレンが近付いてきた。
「そうだ、楸矢さん、これを。これならきっとムーシカから守ってくれます」
小夜はクレーイスを楸矢の手に握らせた。
「小夜ちゃん、これは君のお守り……」
「元気になったら返してください」
「ありがとう」
楸矢は何とか笑みらしきものを浮かべた。
楸矢が入院するとすぐ柊矢は椿矢を呼び出した。
柊矢が喫茶店に小夜を連れて入ると既に椿矢は来ていて二人を見ると片手を上げた。
「呪詛の資料だったのか」
柊矢から話を聞いた椿矢が眉を顰めた。
「何のことだ?」
「榎矢がうちの蔵から古文書を色々持ち出したんだよね。目録があるわけじゃないから何を持っていったのか分からなかったし、どうせ森の資料はないからと思って放っておいたんだけど」
雫が一滴、テーブルの上に落ちた。
男二人が驚いて見ると小夜が泣いていた。
「そんなに楸矢君のことが心配なの?」
「私のせいでしょうか。私が沙陽さん達の言うこと聞いていれば……」
「それはない。お前が言うことを聞いても俺と楸矢は従わなかった」
柊矢はハンカチを渡しながらきっぱりと言い切った。
「でも……」
「ま、それは今更言っても仕方がないよ。問題はこれからどうするか、だね」
「お前んちの資料にあったものなら、治し方だって……」
「僕が君らに味方してるって知ってるのに、治し方の資料置いてくと思う?」
「だろうな」
予想していた答えらしく、大して落胆した様子はなかった。
「ま、楸矢君の命がかかってるみたいだし、何とか探しておくよ」
「頼む」
「待ってください!」
小夜が立ち上がった。
「このままじゃ楸矢さんが……」
「焦る気持ちは分かるが、今はこいつを信じて待つしかない」
柊矢にそう言われて、それ以上何も言えなかった。
小夜以上に柊矢の方が心配しているはずなのだ。
今は大人しく柊矢に従うしかなかった。
翌日、昼休みに小夜は学校を抜け出した。
新宿御苑の前でムーシカを歌っていると沙陽がやってきた。
「人のこと呼び出すなんていい度胸してるじゃない」
「沙陽さん、お願いします。沙陽さんの言うこと聞きますから歌うのやめてください」
小夜は挨拶抜きで切り出した。
「じゃあ、クレーイスを渡して」
「分かりました。でも、その前にムーシカを止めてください。そしたら取ってきます」
「そんなことして柊矢を呼んできたりするんじゃないでしょうね」
「そんなことするくらいなら最初から柊矢さんと一緒のときに呼びます」
「もし本物のクレーイスを持ってこなかったら……」
「そのときはまた歌えばいいじゃないですか」
沙陽はそれもそうだと思ったのか、それ以上何も言わなかった。
「小夜ちゃん……」
小夜が病室に入っていくと、楸矢が弱々しい声で言った。
「学校はどうしたの?」
「サボってきちゃいました。今、ムーシカは止まってますよね。クレーイス、貸してもらえますか?」
「いいけど、どうするの?」
「思い付いたことがあるんです。それを試してみたくて」
楸矢さん、嘘付いてごめんなさい。
小夜は心の中で謝った。
小夜はクレーイスを受け取ると、
「早く良くなってくださいね」
と言って病室を出た。
病院の出口に向かう途中、突然辺りが暗くなった。
渡すなって事?
ここがムーシケーだというのはグラフェーが見えているから分かるが、森の中ではない。
周りには何もなかった。
夜空は地球の月よりも遥かに明るいグラフェーの光に照らされて星はほとんど見えなかった。
小夜は大きな窪地の底にいるようだった。
不意に目の隅を何かが走った。
そちらを見ようとしたとき、真上から星が流れた。
流星の軌跡は太く、刹那、一際大きく丸く光ったかと思うと消えた。
濃灰色の短い飛行機雲のような流星痕が夜空に残った。
流星痕がゆっくりと薄れていく。
あれは流星というより火球だ。
そんなことを思っているうちにまた太い軌跡を描いて火球が流れていった。
ムーシケーの夜空を火球が幾筋も流れていく。
空に沢山の流星痕が残っている。
これが時々ニュースで言っている流星群なのだろうか。
一つ、かなりの太さの軌跡を描いたものが、その先でいくつかに別れて消えていった。
しばらくして大地を穿つような轟音がして地面が揺れた。
今のは隕石だ。
大きすぎたから大気圏で燃え尽きないでムーシケーの大地に落ちたのだ。
不意に悟った。
ここはクレーターの底だ。
その瞬間、病院に戻った。
病院の前で小夜は沙陽にクレーイスを渡した。
「もう歌わないでくださいね」
小夜は今見たことを沙陽に言うべきか迷ったが、
「分かってるわ。これさえあれば用はないもの」
沙陽はそう言うと、すぐに去っていった。
翌日、学校から帰ってきた小夜は夕食を作っていた。
この歌声、沙陽さん?
切れ切れにムーシカが聴こえてくる。
なんだか嫌な気分になるムーシカ。
「ただいま」
楸矢が帰ってきた。
「あ、楸矢さん、お帰りなさい。……顔色、良くないですけど」
「ちょっと気分が悪くて。夕食は食べられそうにない。リクエストしておいてゴメン……」
「それは気にしなくていいですけど……。大丈夫ですか?」
「多分、部屋で寝てれば治ると思う」
楸矢はそう言うとよろよろと自室へ上がっていった。
小夜は二階に上がって柊矢の部屋をノックした。
「どうした?」
「楸矢さん、具合が悪いそうなんですけど」
「なんか悪いものでも拾い食いしたか?」
「柊矢さん!」
「分かった分かった。様子を見てみるよ」
柊矢はそう言って部屋から出てきた。
真向かいの楸矢の部屋をノックすると返事を待たずに中へ入っていった。
「おい! 大丈夫か!?」
部屋の中では楸矢がゴミ箱に吐いていた。
小夜は急いで洗面所に置かれている使われてないバケツを持ってきた。
「楸矢さん、これ。そのゴミ箱のは私が処分してきますから」
「小夜ちゃん、ゴメン」
楸矢は食べたものを全て吐き、吐くものがなくなっても胃液を吐いていた。
小夜は楸矢の背中をさすりながら、
「楸矢さん、もしかして、ムーシカ、聴こえてます?」
と訊ねた。
「うん」
吐く合間に楸矢が頷いた。
「ムーシカ? 俺には聴こえないぞ」
「多分、治癒や呼び出しのムーシカの応用みたいなものじゃないでしょうか。きっと、楸矢さんの具合を悪くするために歌ってるんです」
「ムーシカか……」
柊矢は楸矢の部屋を出て行くと、すぐにキタラを持って戻ってきた。
「ムーシカで具合が悪くなったなら治癒のムーシカで治るんじゃないか?」
「あ! そうですね。私、歌います」
柊矢のキタラにあわせて治癒のムーシカを歌い始めると他のムーソポイオスも歌い始める。
楸矢の顔色が良くなった。
顔を上げてムーシカを聞いている。
最後のコーラスを残して治癒のムーシカが終わった。
その瞬間、再び沙陽のムーシカが流れ出して楸矢が戻し始めた。
「またムーシカが始まったのか?」
「はい。もう一回歌います」
小夜が歌おうとするのを、
「待て」
柊矢が止めた。
「柊矢さん! どうしてですか!?」
「向こうには歌えるヤツが少なくとも三人はいる。他にもいるかもしれない」
「三人?」
小夜が首をかしげた。
「この前の交通事故の時、歌っていたのは沙陽じゃなかった」
そういえば沙陽ではない女性からの呼び出しのムーシカを聴いたことがあった。
それに榎矢もいる。
「こちらは椿矢を勘定に入れても二人だ。交代で歌われたらこちらが負ける。負けないにしてもどちらかが根負けするまで続くだろう」
「じゃあ、どうすれば……」
「とりあえず、楸矢を病院に連れて行く」
柊矢はスマホを取り出した。一一九番を押す。
「でも、ムーシカで具合が悪くなったなんて言っても……」
「そんなことは言わない。ただ具合が悪くなっただけだと言えばいい」
柊矢は急病人だと言って救急車を呼んだ。
「病院で治せるんですか?」
「食事が出来ないまま吐き続けてたらどんどん消耗していく。病院で点滴でも打ってもらえば少なくともこれ以上衰弱することはないだろう。その間に対策を考える」
「分かりました。楸矢さん、必ず助けます。だから待っててください」
「小夜ちゃん、ありがと」
救急車のサイレンが近付いてきた。
「そうだ、楸矢さん、これを。これならきっとムーシカから守ってくれます」
小夜はクレーイスを楸矢の手に握らせた。
「小夜ちゃん、これは君のお守り……」
「元気になったら返してください」
「ありがとう」
楸矢は何とか笑みらしきものを浮かべた。
楸矢が入院するとすぐ柊矢は椿矢を呼び出した。
柊矢が喫茶店に小夜を連れて入ると既に椿矢は来ていて二人を見ると片手を上げた。
「呪詛の資料だったのか」
柊矢から話を聞いた椿矢が眉を顰めた。
「何のことだ?」
「榎矢がうちの蔵から古文書を色々持ち出したんだよね。目録があるわけじゃないから何を持っていったのか分からなかったし、どうせ森の資料はないからと思って放っておいたんだけど」
雫が一滴、テーブルの上に落ちた。
男二人が驚いて見ると小夜が泣いていた。
「そんなに楸矢君のことが心配なの?」
「私のせいでしょうか。私が沙陽さん達の言うこと聞いていれば……」
「それはない。お前が言うことを聞いても俺と楸矢は従わなかった」
柊矢はハンカチを渡しながらきっぱりと言い切った。
「でも……」
「ま、それは今更言っても仕方がないよ。問題はこれからどうするか、だね」
「お前んちの資料にあったものなら、治し方だって……」
「僕が君らに味方してるって知ってるのに、治し方の資料置いてくと思う?」
「だろうな」
予想していた答えらしく、大して落胆した様子はなかった。
「ま、楸矢君の命がかかってるみたいだし、何とか探しておくよ」
「頼む」
「待ってください!」
小夜が立ち上がった。
「このままじゃ楸矢さんが……」
「焦る気持ちは分かるが、今はこいつを信じて待つしかない」
柊矢にそう言われて、それ以上何も言えなかった。
小夜以上に柊矢の方が心配しているはずなのだ。
今は大人しく柊矢に従うしかなかった。
翌日、昼休みに小夜は学校を抜け出した。
新宿御苑の前でムーシカを歌っていると沙陽がやってきた。
「人のこと呼び出すなんていい度胸してるじゃない」
「沙陽さん、お願いします。沙陽さんの言うこと聞きますから歌うのやめてください」
小夜は挨拶抜きで切り出した。
「じゃあ、クレーイスを渡して」
「分かりました。でも、その前にムーシカを止めてください。そしたら取ってきます」
「そんなことして柊矢を呼んできたりするんじゃないでしょうね」
「そんなことするくらいなら最初から柊矢さんと一緒のときに呼びます」
「もし本物のクレーイスを持ってこなかったら……」
「そのときはまた歌えばいいじゃないですか」
沙陽はそれもそうだと思ったのか、それ以上何も言わなかった。
「小夜ちゃん……」
小夜が病室に入っていくと、楸矢が弱々しい声で言った。
「学校はどうしたの?」
「サボってきちゃいました。今、ムーシカは止まってますよね。クレーイス、貸してもらえますか?」
「いいけど、どうするの?」
「思い付いたことがあるんです。それを試してみたくて」
楸矢さん、嘘付いてごめんなさい。
小夜は心の中で謝った。
小夜はクレーイスを受け取ると、
「早く良くなってくださいね」
と言って病室を出た。
病院の出口に向かう途中、突然辺りが暗くなった。
渡すなって事?
ここがムーシケーだというのはグラフェーが見えているから分かるが、森の中ではない。
周りには何もなかった。
夜空は地球の月よりも遥かに明るいグラフェーの光に照らされて星はほとんど見えなかった。
小夜は大きな窪地の底にいるようだった。
不意に目の隅を何かが走った。
そちらを見ようとしたとき、真上から星が流れた。
流星の軌跡は太く、刹那、一際大きく丸く光ったかと思うと消えた。
濃灰色の短い飛行機雲のような流星痕が夜空に残った。
流星痕がゆっくりと薄れていく。
あれは流星というより火球だ。
そんなことを思っているうちにまた太い軌跡を描いて火球が流れていった。
ムーシケーの夜空を火球が幾筋も流れていく。
空に沢山の流星痕が残っている。
これが時々ニュースで言っている流星群なのだろうか。
一つ、かなりの太さの軌跡を描いたものが、その先でいくつかに別れて消えていった。
しばらくして大地を穿つような轟音がして地面が揺れた。
今のは隕石だ。
大きすぎたから大気圏で燃え尽きないでムーシケーの大地に落ちたのだ。
不意に悟った。
ここはクレーターの底だ。
その瞬間、病院に戻った。
病院の前で小夜は沙陽にクレーイスを渡した。
「もう歌わないでくださいね」
小夜は今見たことを沙陽に言うべきか迷ったが、
「分かってるわ。これさえあれば用はないもの」
沙陽はそう言うと、すぐに去っていった。