一

 校門の前で柊矢の車に乗ろうとしたとき、森が出現した。

「柊矢さん」
「家に帰ったら封印の……」
「森に行ったらいけませんか?」

 なんとなくムーシケーに呼ばれているような気がするのだ。

「分かった」
 柊矢も何かを感じたのかすぐに了承した。
 小夜が助手席に座ったのを見るとドアを閉めて運転席側に回り車に乗り込んだ。

 柊矢は森の端に当たるところに車を止めた。
 柊矢に助手席のドアを開けてもらって降りた途端、地球の風景が消えた。

 え?

 辺りを見回しても見えるのは森と池だけだった。

「柊矢さん? 柊矢さん!」

 どうしよう……。
 まさかこのまま戻れないって事はないよね。

 もっとも、それほど心配はしてなかった。
 沙陽が無事に戻っているしムーシケーが自分を危険な目に遭わせるとも思えない。
 多分すぐに戻れるだろう。

 その前に見られるだけ見ておこう。

 小夜は池の方へと向かってみた。
 池の端で水面に手を当ててみる。

 冷たくはないが、やはり凍り付いていて水の中に手は入れられない。
 手のひらを通して水の旋律が伝わってきた。

 この池はこういう旋律を奏でるんだ。

 一旦森へ戻り、南へ向かってみた。
 すぐに森は途切れ、広いところへ出た。
 少し離れたところに神殿のような建物が見える。

 折角だからあそこまで行ってみよう。

 すぐそこだと思ったのだが大分距離があった。

 神殿も背後に見える樹もかなり大きかったから遠近感が狂ってそれほど遠くないように見えたのだ。

 随分歩いてようやく神殿の近くまで来た。
 本で見たギリシアの神殿に似てる気がする。
 かなり大きな建物だった。

 この辺の地面、凍り付いてない。

 だが大地は旋律を奏でていなかった。
 神殿に近付いていくと旋律が切れ切れに聴こえてきた。

 旋律は全て凍り付いてるはずなのに……。

 神殿も凍り付いてないようだ。
 ちゃんと色が付いている。
 四千年近く放置されていたせいかかなり汚れているようだ。

 神殿に近付くと、更にはっきり聴こえてきた。
 甘く切ない旋律が大気と共に空へと舞い上がっていく。

 見上げると、グラフェーが真上にあった。
 グラフェーとの間の大気がトンネルように開いている。
 ムーシケーの大気と、グラフェーの大気は繋がっているらしい。

 ここはムーシケーの中心だ。
 この旋律はムーシケーのムーシカだ。

 ここはムーシケーが歌う場所だから他の旋律がない。
 だから大地が旋律を奏でていなかったのだ。

 目を閉じて聴いていると切ない感情が(あふ)れてきた。

 この想い、知ってる。
 私も柊矢さんのことを考えるとこんな気持ちになる。

 胸が痛くて涙が(こぼ)れた。

 これ、ラブソングだ。
 ムーシケーがグラフェーに歌ってる。

 これは片想いのムーシカじゃない。
 ムーシケーとグラフェーは恋人同士だったんだ。

 ムーシケーはただひたすらグラフェーのことを想いながら歌っていた。

 ムーシケーの気持ちが痛いほど分かる。
 柊矢さんに会いたい。

 クレーイスを強く握ると旋律が消えた。

「おい!」
 柊矢の声に目を開けると、いきなり抱きしめられた。
「と、柊矢さん!?」
 小夜が狼狽(うろた)えて柊矢の顔を見た。

「急に消えるな」
「すみません」
 本当に心配そうに言う柊矢に小夜は素直に謝った。

「小夜ちゃん!」
「なんだ、小夜ちゃん、見つかったんだ」
 楸矢と椿矢の声がしたので首だけ振り返った。
 まだ柊矢が離してくれなかったのだ。

「無事で良かった」
 柊矢が小夜の髪に顔を埋めたまま言った。
「ま、見つかったんなら良かった。森も消えたみたいだし、僕は帰るよ」
 椿矢はそう言って踵を返そうとした。

「あ、待ってください。お話ししたいことがあるんです」
「って、言ってるけど? いい加減、離してあげたら?」
 椿矢の言葉に、柊矢は渋々という感じで小夜を離した。

「今、ムーシケーに行ってたの?」
「はい」
 小夜は椿矢の問いに頷いた。

「怖い目にでも遭ったのか?」
 柊矢は小夜の顔を覗き込みながら頬を流れている涙を指ですくった。
「あ、いえ、ムーシケーが泣いてたから、つられて……」

 小夜は涙をぬぐいながら、三人にムーシケーでのことを話した。

「ムーシケー自体は起きてるって事か」
「はい」
「起きてるのにムーシコスが帰るのを拒むのは、それなりの理由があるって事だな」
「そのラブソングって、どんなムーシカだった?」
 椿矢が訊ねた。

「歌詞があったわけじゃないので、どんなと言われても……」
「片想いの曲とか、両想いの曲とか、そう言うのは分からなかった?」
 小夜は目を閉じて曲を思い返してみた。

「両想いの恋人に、自分はずっと想い続けてる、みたいな感じだったような気がします」
「グラフェーからの反応は?」
 椿矢が訊ねた。

「え?」
「グラフェーは絵画や彫刻の惑星(ほし)だから音楽で返ってくるって事はないだろうけど……」
「ちょっと待て、絵画や彫刻の惑星(ほし)ってどういうことだ」
 柊矢が椿矢の言葉を遮った。

「そのまんまの意味だよ。テクネーは芸術の惑星系なんだ。ムーシケーが音楽、グラフェーが絵画や彫刻、ドラマは演劇。ドラマは衛星だから生き物は住んでないと思うけど」
「じゃあ、グラフェーからも人が来てるって事か?」
「さぁ。そこまでは……」
 椿矢は知らないというように首を振った。

 二人のやりとりの間、小夜はずっとさっきのことを思い返していた。

「グラフェーは何も言ってなかったと思います」
 小夜が言った。
「ただひたすらムーシケーがグラフェーに向かって歌ってただけで……」

 ムーシケーのムーシカを思い出すだけで涙がこみ上げてくる。

 袖で涙を拭いてから、
「そういえば、ムーシケーは泣いてました」
 と言った。

「泣いてた?」
 椿矢が聞き返した。
「泣いてたって言うか、悲しんでいたというか……」

 また泣きそうになって手で目頭を押さえると柊矢がハンカチを差し出した。
 小夜は頭を下げてそれを受け取ると涙を抑えた。
 柊矢が慰めるように小夜の頭を自分の胸に寄せた。

「恋人なのは確か?」
 椿矢が訊ねた。
「はい」

「となると、一つ分かったことがあるね」
「なんだ?」
「沙陽は小夜ちゃんの前のクレーイス・エコーだった」
「ホント?」
 楸矢が疑わしげに訊ねた。

「今回の小夜ちゃんと同じようにムーシケーに行ったのがその証拠だよ」
「だが、神殿のことは聞いたがムーシケーのムーシカのことは何も言ってなかったぞ」

「聴こえなかったからでしょ。だからムーシケーは沙陽から小夜ちゃんに乗り換えた。聴こえなかったってことはムーシケーの気持ちが分からないってことだから。ムーシケーに共感出来ない人にクレーイス・エコーは任せられないからね」
 それはあり得ると柊矢は思った。

 歌詞がなくても泣いてしまうほど感情を激しく揺さぶるような旋律を奏でてしまうくらい強く相手を想う気持ちは、ムーシコスかどうかで恋人を選ぶ沙陽には理解出来ないだろう。

 だが沙陽の性格からして自分が外されて小夜が選び直されたのは我慢ならなかったはずだ。
 多分、小夜が選ばれたのは柊矢と小夜の前に森が現れた時だろう。

 部屋でクレーイスを拾ったのはあの日だし、あのとき小夜は初めて森を見たと言っていた。
 そして沙陽が小夜の家に火を付けたのはその直後だ。

 柊矢と楸矢は椿矢の祖父が亡くなってすぐにクレーイス・エコーに選ばれたのだろう。
 椿矢の祖父が亡くなるとクレーイスも無くなったと言っていた。

 多分、椿矢の祖父の元から柊矢達の祖父の遺品に移ってきたのだろう。
 柊矢は沙陽と付き合っていた頃、クレーイスを沙陽に渡そうと思っていた。
 本来なら柊矢を通じて沙陽に渡されるはずだったのだ。

 沙陽がクレーイス・エコーのままだったら柊矢と別れたとしても、クレーイスは彼女の元へ移っていただろう。
 だが沙陽はクレーイス・エコーから外されたので彼女の手にクレーイスが渡らなかったのだ。

 何故、柊矢が小夜にクレーイスを渡す前に彼女がクレーイス・エコーに選ばれたことを沙陽が知ったのかは分からないが。

「どうしてムーシケー自身は起きてるのに地上のもの達を眠らせているんでしょう」
「多分、グラフェーと関係があるんじゃないかな」
「ホントか?」
「あくまで想像だけどね」
 椿矢は肩をすくめた。

「私にもっと力があればグラフェーのことが分かったんでしょうか?」
「それはどうかな。小夜ちゃんはあくまでムーシケーのクレーイス・エコーだからね」
「まぁ、ムーシケーがその気になったら教えてくれるだろ」

 小夜や沙陽にムーシケーを見せたと言うことは何が何でも隠そうとしているわけではないようだ。
 今はそのときを待つしかない。