四

「清美、おはよう。昨日、あれからどうだった?」
「お茶には行ったよ」
 話が弾んだという表情ではない。

「宗二さんと上手くいきそうじゃないの?」
「宗二さんが好きなのは小夜だよ。その小夜が柊矢さんといちゃいちゃしてるの見ちゃったら、ね」
「え、いちゃいちゃなんてしなかったよ」
 小夜が赤くなった。

「柊矢さんとはそんなんじゃないって前にも……」
「小夜の荷物持って肩抱いて、それで何もないっていうわけ?」
「荷物なら楸矢さんだって持ってくれるし、肩抱くのだって別に特別な意味は……」
 だんだん小夜の声が小さくなっていった。

「じゃ、楸矢さんも小夜の肩抱くわけ? 柊矢さんは他の女の人の肩抱く?」
「楸矢さんはしないけど……、柊矢さんが他の女の人の肩抱いてるのも見たことないけど……」
 他の女性といっても沙陽くらいしか知らないが、彼女とは睨み合っているところしか見たことがない。

「そゆこと。柊矢さんにとって女って言ったら小夜なんだよ」
「そ、そんなこと……」
 不意に中央公園でのことを思い出して耳まで真っ赤になった。

「あ! なんかあったんだ!」
「な、ない! ないよ! 何もなかった! て言うか、しなかった! 柊矢さんが無理強いはしないって言って……」
 小夜の言葉に清美が唖然とした。

「しなかったって……、あんた達そんなとこまでいってたの!」
「そんなとこって、キスくらいでそんな……」
 小夜がおろおろしながら言った。

「つまりキスしそうになったんだ」

 あ……。

 口を押さえたが遅かった。結局、清美に全部吐かされてしまった。

「じゃ、小夜が拒んだんだ。勿体ない」
「だ、だって、本気かどうか分かんなかったし……」
「本気じゃなくたって既成事実作っちゃえばこっちの勝ちじゃん」
「既成事実って、キスくらいで……」
 小夜が呆れて言った。

 沙陽とだってキスくらいしたことあるだろう。

「あーあ、小夜が柊矢さんとそうなるのは分かってたんだよね。だから小夜より先に彼氏作ろうと思ってたのに」
「そんな、競争じゃないんだから。それに、私、柊矢さんの彼女じゃないし」

 言葉にすると胸が少し痛んだ。

 そうだ、彼女じゃない。
 柊矢さんはそれらしい素振りはするけど、何にも言ってくれてない。

「清美だって宗二さんと……」
「小夜目当てだったんだよ。小夜に振られたらもう連絡なんかしてこないよ」
「清美からすればいいじゃん」
「う~ん」
 いつもなら図々しいくらいの清美にしては珍しく消極的だ。

 もしかして、宗二さんに本気になった、とか?
 清美の邪魔しちゃったかな。

 そのとき予鈴が鳴って、話はそれきりになった。

 休み時間、清美にお茶に誘われた。

「清美、怒ってないの?」
 小夜は恐る恐る訊ねた。
「怒るって何に?」
「宗二さんとのこと、邪魔しちゃったでしょ」
「元々、宗二さんが好きだったのは小夜じゃん。あたしはチャンスがあればいいなって思っただけ」
 清美はそう言って話を打ち切った。

 放課後、新宿通りを歩いているときだった。
 不意に歌声が聴こえてきた。

 ムーシカ……だよね。

 これは肉声ではない。

 でも……多分、他のムーシコスにも聴こえてない。

 聴こえてるなら他のムーシコスが加わっているはずだ。
 このムーシカには人を傷付ける意図は感じられないのだから。

「小夜?」
 立ち止まった小夜を清美が振り返った。
「ゴメン、清美、先行ってくれる? ちょっと忘れ物したみたい」
「分かった。じゃ、席取っとくね」

 清美が行ってしまうと小夜はムーシカが聴こえてくる方へと歩き出した。
 細い路地を曲がったところに宗二がいた。

「ホント、ムーシコスってムーシカに弱いよね」
 壁にもたれたまま言った。
「ムーシカを歌うだけでよってくるのに、どうしてムーシコスの集団って存在しないんだろうね。それとも僕が知らないだけであるのかな」
「宗二さんもムーシコスだったんですか?」

「宗二は偽名。本名は雨宮(あまみや)榎矢(かや)。って言っても分からないよね。椿矢と楸矢とかだったらすぐ分かるんだろうけど」
「……椿矢さんの弟さん?」
 そういえば、椿矢は弟がいると言っていた。

「そ。雨宮椿矢の弟」
「今のムーシカは……」
「呼び出しのムーシカってとこかな」
 小夜は首を傾げた。

「特定の相手だけに聴かせるムーシカ。昔はムーシコスなら誰でも使えたみたいだよ、今は使えるムーシコスは限られてるけど」
「それで、私を呼び出したのはどうしてですか?」
「ムーシコス同士は惹かれあう。だから君を落とすのは簡単だと思ったんだけどな。あいつもムーシコスだって事忘れてたよ」
 榎矢は「あいつ」という言葉を憎々しげに言った。

「私があなたを好きになったらどうするつもりだったんですか?」
「勿論、森への道を開いてもらう。凍ってる旋律を溶かして、ね。本来なら僕がクレーイス・エコーになるはずだったんだ。クレーイス・エコーを継ぐものは代々、木偏の名を貰ってるんだ」
「木偏って……じゃあ、柊矢さん達も……」

 もしかして、沙陽さんが二股かけてた「けい」って人も木偏の名前だったのかな。

「遠い親戚らしいね。地球人と結婚して血を薄めた連中に親戚だなんて名乗る気ないけど」
 小夜は榎矢を見つめた。

 そうか。

 椿矢も榎矢も初めて会ったときから見覚えがあるような気がしていたが、どことなく面差しが楸矢に似ていたのだ。
 椿矢と榎矢は兄弟だからそれ以上に顔も声も似ている。

 だから声に聞き覚えがある気がしたのだ。
 二人の間をムーシカが流れていく。
 小夜もそれに併せてムーシカを口ずさんだ。

「うちは代々ムーシコス同士で結婚して、ムーシコスの血筋を維持してきた。だからみんな強い能力(ちから)を持ってる。クレーイス・エコーになるのにふさわしいようにね」
 小夜は歌いながらも聞いているというように頷いた。

「なのに選ばれたのは血が薄くて力の弱い霧生兄弟に、先祖返りでたまたま能力(ちから)が強く出た君だ」
「ムーシケーがクレーイス・エコーを選ぶ基準は能力(ちから)の強弱じゃなくて、ムーシケーの意志に従う人だと思います」
「……確かにそのようだね。でも、今のクレーイス・エコーが三人ともいなくなったら、次は誰を選ぶかな」

 榎矢が小夜に近付こうとしたとき、
「おい!」
 柊矢が駆けてきた。

「柊矢さん!」
 小夜がほっとして柊矢を見上げた。
「今のムーシカはなんだ」
「それは後でお話しします」

「どうやら不肖(ふしょう)の弟がバカなことしようとしたみたいだね。未遂で終わったようだけど」
 椿矢も現れた。
「今のムーシカで二人同時に呼んだのか……」
 榎矢が驚いたように小夜を見た。

「クレーイス・エコーは伊達じゃないって事か」
 そう言うと、榎矢は踵を返して去っていった。

「あいつに何かされたのか?」
「いえ、まだ何も……」
「あいつ、君に何て言ってた?」

「自分がクレーイス・エコーを()ぐはずだったって」
「まだ、そんなことを……」
 椿矢は呆れたように溜息をついた。

「いい加減諦めて欲しいんだけど、煽る人がいるからね」
「沙陽、か」
 柊矢が言った。

「そう言うこと。沙陽(あのひと)んちもムーシコスの家系だからさ。やたら(こだわ)るんだよね。うちは、なまじここ三代続けてクレーイス・エコーに選ばれてただけに榎矢は自分が選ばれなかったのが納得できないらしくてさ」
「沙陽の知り合いが先代のクレーイス・エコーだったと言っていたが、もしかして……」

「うちの祖父様(じいさま)。榎矢は祖父様の次は自分だって思ってたんだよね」
「血筋を維持してきたって言うのも言ってました」

「それは嘘だよ」
「嘘?」

「断言は出来ないけど、地球へ来た頃のムーシコスの外見はギリシア人に似てたんじゃないかな。僕の予想だけど、古典ギリシア語のムーシカが多いのは、ムーシコスが見た目の似てるギリシア人が多い場所――つまりギリシア――に送られたからだと思う。けど、僕や榎矢や沙陽(あのひと)がギリシア人に見える? せいぜいクォーターと思ってもらえるかどうかってとこでしょ。日本人と同じ見た目になってるって時点で相当地球人の血が入ってるってことだよ」

「しかし、古代ギリシアのことは結構歴史に残ってるだろ。だが、古代ギリシアに大量の移住者が来たなんて話、聞いたことないが」
「古代って言うのがプラトンやソクラテスの頃のこと言ってるならせいぜい紀元前三、四世紀頃だからムーシコスが来てから二千年近くたってるよ」
 それを聞いた柊矢が、古代ギリシアってそんなに新しい時代だったのかという顔をした。

「だが、それならギリシアに来たって根拠もないって事だろ」
「一応、うちも霍田家も先祖は西から来て日本に渡ってきたって言い伝えは残ってる」

 勿論、その西というのがギリシアかどうかまでは分からないらしいが。

「あと、ムーシコスって数が少なかったんじゃないかな。近くでムーシコスが歌や演奏をしていれば分かるし、それを聴けば大抵のムーシコスは近寄ってくる」
「あ、それ、榎矢さんが同じこと言ってました。ムーシカを歌うと()ってくるのに集団を見たことがないって」
 確かに、それで柊矢と小夜が出会ってるし、柊矢と小夜が椿矢と知り合ったのも椿矢のムーシカを聴いたからだ。

「そ。小夜ちゃん、柊矢君や楸矢君と僕以外のムーシコスと会ったことある? 帰還派みたいに意図的に近付いてきた連中を除いて」
「ありません」

「そう言うこと。僕だってしょっちゅう外で歌ってるのに、親戚以外のムーシコスの知り合いは(ほとん)どいないよ。霍田家とは昔から付き合いがあったから別だけど。血が薄まったって言うのもあるだろうけど、元々ムーシコス自体、数が少なかったんだと思う」

 それにムーシケー中にムーシコスが散らばって住んでいたのだとしたらムーサの森以外にも地球と繋がった場所があったはずだ。
 でなければ全てのムーシコスを地球に送ることは出来ない。
 
 だが目の前に現れるのがムーサの森だけということは、ムーシコスはムーサの森近辺にしか住んでいなかった可能性が高い、と椿矢は付け加えた。

「それだと、ムーサの森が新宿に出るのと、ムーシコスがギリシアに送られたって言うのは矛盾しないか?」
「ムーサの森が現れてるのはここだけじゃないよ。森はムーシコスの前に現れるんだから。君達がたまたま新宿でしか見たことないってだけでしょ」

 柊矢にそう答えると、
「他には何か言ってた?」
 と小夜に訊ねた。

「柊矢さんと楸矢さんは親戚だって」
「え? 名字は?」
 椿矢が柊矢に訊ねた。

「霧生だ」
「雨冠の霧? 名前に木偏は付く?」
「木偏に冬に矢で柊矢だ」

「じゃ、間違いないね。祖父様が、大伯母――祖父の伯母――が地球人と駆け落ちしたって、死ぬまで愚痴ってたし」
「地球人、とか言うとすごく壮大な話をしてる気になりますね」

「内容は一部のムーシコスの寝言だけどね」
 椿矢が白けた口調で言った。
「ムーシコスってロマンティストって言うイメージがありますけど、椿矢さんはリアリストなんですね」

 椿矢は以前、文明のない惑星(ほし)に行く気はないと言っていた。
 小夜自身、文明のないところで暮らせるかどうかは別としてムーサの森に帰ることを想像するときに電気や水道のことなど考えたこともなかった。

「ムーシコスの血筋がどうのって寝ぼけたこと言ってる家に生まれたからね。うちの家系図は天皇家より古い、なんて眠たいこと言ってるけどさ、ムーシコスが地球に来た頃には日本に文字なんてなかったっての。家系図なんか作れるわけないでしょ。ロマンティストなのが悪いとは言わないけど、あんまり夢見がちなのもね。それもいい年した大人がさ」
 椿矢は溜息をついた。

「榎矢は沙陽と結婚したがってるんだよね。どっちの家もムーシコスの家系だからって理由でさ。発想が完全にブリーダーだよね。でも、肝心の沙陽が柊矢君にご執心(しゅうしん)だからさ、榎矢としては二重の意味で君が(いと)わしいみたいだね」
 椿矢が柊矢を見ながら言った。

「それだけ古い家系ならムーシケーに関する資料とか残ってるんじゃないのか?」
 沙陽達はその資料を見て強引に森を溶かして帰ろうとしているのではないのか。

「言ったでしょ。ムーシコスが来た頃には日本に文字はなかった。ムーシコスも文字は持ってなかったみたいだし」

 ムーシコスが文字を持ってなかったのは多分必要なかったからだろう。
 ムーシコスにとって大切なもの――ムーシカ――は魂に刻まれるから外部に記録する必要がない。

 音楽が全てのムーシコスにとって他に記録が必要なものがなかったから文字を持っていなかったのだろう。
 それにムーサの森近辺にしか住んでなかったのなら遠い場所への通信手段も必要ない。
 だが文字を持っていなかったなら確かに家系図は作れない。

「うちの蔵に残ってる資料の類はどれも日本語だよ。地球にムーシコスが来たのは四千年近く前。日本に文字が入ってきたのは四、五世紀頃。だから、四千年も前に来たムーシコスの資料なんか存在しないよ」
 夜道には気を付けて、と言って椿矢は去って行った。