一

 ムーシカが終わると椿矢は消えていた。

「あいつ、教えるって言っておきながら……」
「いいじゃん、早く帰ろうよ。濡れた服、着替えたい」

 いなくなったものは仕方ない。
 柊矢も濡れて身体に張り付いている服を何とかしたいのは同感だったので車に向かった。

「あの、柊矢さん、このペンダント。お祖父様の形見なんですよね。やはり頂くわけには……」
 小夜がペンダントを外して差し出した。

 柊矢は、
「その手、早く手当てしないとな」
 とだけ言って受け取らなかった。

「柊矢さん!」
「俺の物だ。どうしようと俺の勝手だ」

 小夜は困って楸矢の方を振り返ると、
「祖父ちゃんの形見ならフルートがあるから」
 と両手を挙げた。

「それは柊兄からの愛のプレゼントなんだからさ。貰っておきなよ」
「あ、あ、あ……」
 小夜は真っ赤になってどもった。

「楸矢、小鳥ちゃんをからかうな」
「小鳥ちゃんって言うの、やめてください! 私は動物じゃありません!」
「ほう、植物だったのか。それは知らなかった」
「野に咲く可憐な花ってとこかな」
「だから、からかうのやめてください!」

 そんなやりとりをしている間に霧生家に着き、ペンダントのことはうやむやになってしまった。

 小夜は学校の窓から西新宿の超高層ビルを見ていた。
 今もムーシカが聴こえている。

 歌うのも楽しいが、こうして聴いているのも好きだ。
 女神の歌声のようなソプラノ、天使の話し声ようなメゾソプラノ、大地の精霊の祈りようなアルト、甘く優しいテノール、様々な楽器の音色。それらが絡み合い、春の日差しのように地上を優しく包む。

 あの旋律の森。
 凍り付いている旋律が溶けて音楽が流れ出したらどうなるだろう。
 きっとどの旋律も美しい音色を奏でるだろう。

 あの森は一体何なのだろう。
 椿矢さんは知ってるみたいだったけど、また会うにはどうしたらいいんだろう。

 あの森のことを詳しく聞きたいな。
 今日の帰りに中央公園に行ってみようか。

 もしかしたら歌ってるかも……。

 そこまで考えてはっとした。

 このテノール、椿矢さんだ!

 中央公園で歌ってるんだろうか。
 学校が終わるまでいてくれるだろうか。

 柊矢に電話をしようかとも思ったが中央公園にいるとはっきりしているわけではない。もし、いなかったら無駄足を踏ませてしまう。そもそも柊矢にもこの歌声が聴こえているはずだ。
 学校が終わって中央公園に椿矢がいることを確かめてから電話することにした。

 小夜は午後の授業中ずっとそわそわしていた。が、最後の授業が終わる前に椿矢の声は聴こえなくなってしまった。

 柊矢は椿矢のムーシカを聴きながら中央公園に行こうか考えていた。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。
 一日中家にいる者にとって一番煩わしいのが新聞などの勧誘や不要品を引き取ると言ってくる手合いだ。
 断ってもしつこく来るのは違う人間なのか、それとも同じヤツなのか。押し売り押し買いの顔などいちいち覚えてないので分からなかった。

 それでも柊矢は男だから押し売り押し買いも強引なことはしないで帰っていく。聞くところによると一人暮らしの高齢者にはかなりしつこいらしい。

 溜息をつきながらドアを開けると、そこには沙陽が立っていた。

「沙陽。……何の用だ」
「話をしに来たのよ」
「こっちは話なんかない。帰ってくれ」

 柊矢がそう言ってドアを閉めかけたとき、
「ムーシコスのこと、知りたくない?」
 沙陽が扉に手をかけて止めた。

 沙陽と椿矢の口振りからしてこの二人はムーシコスについて詳しそうだった。

 だが沙陽が嘘をつかないという保証は?

 もう二度と沙陽のことは信用しないと決めた。知り合って間もない椿矢の方がまだ信じられる。
 しかし沙陽は何か(たくら)んでいるようだ。その計画に柊矢を引き込みたいのなら、それに関しては嘘はつかないかもしれない。

 柊矢が迷っていると、
「柊兄、何してるの? って、沙陽!……さん」
「楸矢君、久しぶりね」
 楸矢は、なんで沙陽がここにいるんだ、と言う顔で柊矢を見た。

「楸矢君だって、ムーシコスのこと、知りたいでしょ」
「それは知りたいけど……」
 あんたからは聞きたくない、と言う顔で沙陽を見た。

 沙陽は溜息をついた。

「出直した方が良さそうね。今日は帰るわ」
 そう言うと踵を返して帰っていった。

 小夜は霧生家に続く道を歩いているところで沙陽に気付いた。
 咄嗟に立ち止まって胸元を押さえたが沙陽の方は小夜を覚えてないのか表情を変えることもなく通り過ぎていった。

「ただいま帰りました」
 小夜が家に入ると柊矢と楸矢は台所で向かい合って座っていた。

「あ、お帰り、小夜ちゃん」
「沙陽さんが来たんですか?」
「すれ違ったのか」
「はい」
「何もされなかった?」
 楸矢が心配そうに訊ねた。

「私のこと、覚えてなかったみたいです」
「そうか」
 柊矢はそう答えたものの沙陽がペンダントを持っている小夜の顔を忘れるはずがない。

 何に必要なのかは知らないが沙陽にとっては大事なものらしかった。
 沙陽はそう言うものは簡単には諦めない。
 多分、人の往来(おうらい)がある場所で無茶なことが出来なかっただけだろう。

 と言うことは人目がないところでは襲ってくる可能性があるのか?
 やはり話だけでも聞くべきだったのか?

 しかし追い返してしまったものは仕方がない。
 今度椿矢の歌声がきこえたら迷わず中央公園に行くことにしよう。

「しばらく人気のないところは歩くな」
 と小夜に言った。

 学校の行き帰りはどうする?
 送り迎えしてもいいが、変な噂が立つと小夜が困ったことになるだろう。

「え?」
 意味が分からず、きょとんとしている小夜を残して柊矢は部屋へ戻った。

 柊兄もちゃんと理由を言えばいいのに。

 楸矢は密かに溜息をついた。

「小夜ちゃん、今日の夕食、何?」
 楸矢の問いに、小夜は冷蔵庫を開けた。

「買い物に行かないと。私ちょっと行ってきます」
「じゃあ、一緒に行くよ」
 柊矢の言葉の意味が分かっている楸矢が言った。

「一人で大丈夫ですよ」
 柊矢も楸矢も一緒に買い物に行くと荷物を全部持ってくれる。
 それが心苦しくてなるべく黙って一人で行っているのだが今日は言わないわけにもいかず答えてしまった。

「夕食リクエストしたいからさ。一緒に行っていいでしょ」
 そう言われると小夜も嫌とは言えなかった。