ヴァージルの黒い翼が、ヴィクトリアを守るように包む。
暗くなった視界のなか、体につきたてられた牙から流れ込む吸血鬼族の甘い毒が、体の中で人魚の秘薬の力と混ざり合う。
『人魚の秘薬』とも違う、体を作り変えられる、そんな感覚。
(今までで一番強い、『力』を感じる)
『先祖返り』――ヴァージルが血さえ飲んでいれば、カーライルたちさえ倒せるという話は、あながち嘘ではないようにヴィクトリアは思った。
暴力的までに濃い魔力は、まさしく原初の魔族の先祖返りと言うに相応しい。
ヴィクトリアは、ヴァージルの背中に手を回した。
空の器に魔力が満たされる。『吸血鬼の花嫁』として、彼と力がリンクする。
(これは――……)
目を瞑れば、漆黒の闇の中に花が咲いている風景が広がった。花の中心で、少年は一人佇んでいた。
彼は月を見上げた。
独りきりの少年は空を見て涙を流し、それから自分の周りに咲く花に口付けた。すると暗い闇の世界で、赤い花は柔らかく光を灯した。
そして花を見つめて、少年は微笑んだ。
(ヴァージル)
ヴィクトリアが心の中で名前を呼べば、少年はこちらを振り返った。目を見開いて、少年は小さな足でこちらへとかけてくる。
『……貴方が私の、花嫁になってください!』
そして『少年』は、遠い昔の彼がそうしたように、ヴィクトリアに花を差し出した。
ヴィクトリアがあの日受け取らなかった花に手を伸ばそうとすると、幼かった筈の少年は今の彼に姿を変えて、ヴィトリアの手を引いた。
鋭い牙が闇にキラリと光る。獰猛な獣のような、少しだけ荒い息遣いも、ヴィクトリアは恐ろしいとは思えなかった。
心臓が早鐘を打つ。
その感情を何と呼ぶのか、ヴィクトリアにはわからない。
「……ヴィンセント、様」
名前を呼ばれて、ヴィクトリアは目を開けた。
噛み付かれた場所の血はもう止まっているのに、ヴィクトリアは少しだけ痛みを感じた。ただ目の前のヴァージルの瞳を見ていると、その痛みさえ甘く感じられた。
少年から青年になった彼が、熱のこもった目で、今は自分を見つめている。
「……もう、大丈夫?」
『魔王』としての――『花嫁』としてのヴィクトリアの言葉に、ヴァージルは頷いた。
ヴァージルはヴィクトリアの手を取ると、その手の甲にそっと口付けを落とした。
「はい」
ヴァージルはそういうと、ヴィクトリアを覆っていた翼を広げた。
空に広がる暗雲は、一層黒く深くなっていた。
◆
「大丈夫? ルゥくん!」
ヴァージルと分かれたヴィクトリアは、魔法を使って自身を強化すると、ルイーズとルゥがいる場所まで壁を駆け上がって辿り着いた。
すぐさま二人に治癒魔法を施す。
以前、ルーファスを助けるためにヴィクトリアは意識を失ってしまったが、今の彼女にその傾向は見られなかった。
『吸血鬼の花嫁』――ヴァージルの力によって、ヴィクトリアは自分の体が以前とは異なることを感じていた。
カーライルやルーファス、レイモンドから耐えられた魔力は、使ってしまえば自分の中から全て抜け落ちていくけれど、ヴァージルの魔力の核は、確かに自分の中に存在し続けているような気がした。
「は、花嫁様? どうしてここに?」
目を覚ましたルゥは、ヴィクトリアを見て目を瞬かせた。なぜなら彼女が、ルイーズに治癒魔法を使っていたからだ。
「治癒魔法? でも、どうして? だって、花嫁様は――……」
「ごめんね。ルゥくん。理由は後で説明する」
ヴィクトリアの正体を知らず、『花嫁』をただの人間だと思っていたルゥは、事態が読み込めずにいた。でも今は、説明している場合じゃない。
(大丈夫。私はもうあの日みたいに、死にたいなんて思ってない。彼の魔力だって、今はこの体に宿ってる。私は……今の私なら、この子のことを助けられる!)
ヴィクトリアは、ルイーズに与える魔力の量を増やした。
ルイーズの体の下に広がっていた血は、少しずつ彼女の体へと戻り、彼女の肉体は修復される。
出血量が多かったせいか、ルイーズはなかなか目を覚まさなかった。
「……?」
地面に広がった血がだいぶ消えた頃、ルイーズは漸く目を押し上げた。
少しだけ虚ろな瞳で、ルイーズは自分に懸命に治癒魔法を施すヴィクトリアを見て言った。
「どう、して……? 私は、貴方のこと、殺そうとしたのに」
ヴィクトリアは、信じられないという表情をした彼女の手を自分の手で包み込んだ。
「ごめんなさい」
「?」
「貴方の願いを、叶えられなくてごめんなさい」
ヴィクトリアは、彼女の体に自分の魔力を注ぎながら、謝罪の言葉を口にした。
魔力には、その人物の性質が宿る。
自分自身の魔力の形がどんなものか、本人には分からない。ただヴィクトリアは、自分が彼女を害する気持ちがないことが、自分の魔力を通して伝われば良いと思った。
「私、貴方がヴァージルさんの『許嫁』だってこと、ルゥくんから聞いて知ってたの。でも私は、デュアルソレイユの事件を調べるために城にとどまっていたから、貴方にもルゥくんにもヴァージルさんにも、本当のことが言えなかった。私は、『花嫁』という立場を利用した」
ヴィクトリアの首筋の傷跡を、ルイーズは静かに見つめていた。
「私、デュアルソレイユに大切な人がいるの。だから私は絶対に、戦争なんて起こさせない。もしそんなことを企む人がいるなら、私は何をしてでも止めてみせる。この先も――セレネの魔族に、デュアルソレイユの人間は傷付けさせない」
それは、『ヴィクトリア』の決意だ。
『ヴィンセント』としての意思じゃない。そしてその想いが、今のヴィクトリアを強くしていた。
「……」
「どうして貴方は彼に協力したの? ルゥくんのことも、どうして貴方は、この子を巻き込んだの?」
「一族の為に、魔王の妃になること。それだけが、私の人生の全てでした」
ルイーズは静かにこたえた。
「あの方の『花嫁』になるために、あの方に相応しい存在であること。それだけが、私の人生。父は、次代の『魔王』のために愛のない婚姻を繰り返し、そして生まれた私は、本来兄と呼ぶべきかもしれない方の為に生きるのだと言われました」
その声には、悲しみの色が混じっていた。
「私の気持ちなんて、みんなどうでもよかった。そんなときにお兄様だけが、私に話しかけてくださった」
ルイーズの目に涙が滲む。
「お兄様の前でだけは、わたしも、普通の妹でいられる気がした」
「……そのために、彼の願いを叶えたの?」
ルイーズは頷いた。
「でも……そのお兄様の優しさが全て嘘だったというのなら、もう私のことなんて、誰も、誰も……!」
彼女の頬を、涙が伝う。
そしてルイーズは自分の手から、ヴィクトリアの手を離そうとした。
「私にもう、魔法はいりません。もう、もういいのです」
その姿は何故か、ヴィクトリアには昔の自分に見えた。
自分の世界に閉じこもって、自分を想う誰かの思いも全部否定して、自ら死を選んだ五〇〇年前のあの日の自分のように。
「生きて何になるというの? お役目の一つも果たせないこんな私を、一体誰が愛してくれるの?」
ルイーズがここで命を失えば、きっとヴァージルやルゥは心を痛める。でも今のヴィクトリアには、彼らの名前を出すことは誤りのように思えた。
(今、彼女の前にいるのは私だ)
結局は、『誰か』に必要とされているなんて言葉は意味を成さない。『貴方が死ねば傷つく人がいる』――それは、死さえ望む誰かに、まだ心を痛めろというのと同義だ。先の見えない道を、もう一度歩めというのと同じだ。
(だからこれは――私のわがままだ)
ヴィクトリアは、自分から離れようとしたルイーズの手を、もう一度強く掴んだ。
今度はもう離れないように、彼女を自分から離さないように。
「なら」
ヴィクトリアは、ルイーズの目を見て言った。
「なら私が、その最初の一人になる。あの時、私やルゥくんをかばってくれた貴方のことを、私は信じる」
「貴方が……?」
「そう。私は信じる。これからは貴方は、誰かのためじゃない。自分のために生きるの。貴方にならそれが出来る」
かつてこの世界に絶望して、自ら命を絶ったことがある。だからこそ、ヴィクトリアにはわかる気がした。
ルイーズ・モルガンは決して、ここで失ってはならない人だと。
「だから生きて。ううん。違う。生きなさい。ルイーズ・モルガン!」
(私はもう二度と、大切なものを失わない)
ヴィクトリアはルイーズの手を握り、魔法を唱えた。するとルイーズの体は光りに包まれ、彼女の体に出来た傷は、一つ残らず消え去っていた。
暗くなった視界のなか、体につきたてられた牙から流れ込む吸血鬼族の甘い毒が、体の中で人魚の秘薬の力と混ざり合う。
『人魚の秘薬』とも違う、体を作り変えられる、そんな感覚。
(今までで一番強い、『力』を感じる)
『先祖返り』――ヴァージルが血さえ飲んでいれば、カーライルたちさえ倒せるという話は、あながち嘘ではないようにヴィクトリアは思った。
暴力的までに濃い魔力は、まさしく原初の魔族の先祖返りと言うに相応しい。
ヴィクトリアは、ヴァージルの背中に手を回した。
空の器に魔力が満たされる。『吸血鬼の花嫁』として、彼と力がリンクする。
(これは――……)
目を瞑れば、漆黒の闇の中に花が咲いている風景が広がった。花の中心で、少年は一人佇んでいた。
彼は月を見上げた。
独りきりの少年は空を見て涙を流し、それから自分の周りに咲く花に口付けた。すると暗い闇の世界で、赤い花は柔らかく光を灯した。
そして花を見つめて、少年は微笑んだ。
(ヴァージル)
ヴィクトリアが心の中で名前を呼べば、少年はこちらを振り返った。目を見開いて、少年は小さな足でこちらへとかけてくる。
『……貴方が私の、花嫁になってください!』
そして『少年』は、遠い昔の彼がそうしたように、ヴィクトリアに花を差し出した。
ヴィクトリアがあの日受け取らなかった花に手を伸ばそうとすると、幼かった筈の少年は今の彼に姿を変えて、ヴィトリアの手を引いた。
鋭い牙が闇にキラリと光る。獰猛な獣のような、少しだけ荒い息遣いも、ヴィクトリアは恐ろしいとは思えなかった。
心臓が早鐘を打つ。
その感情を何と呼ぶのか、ヴィクトリアにはわからない。
「……ヴィンセント、様」
名前を呼ばれて、ヴィクトリアは目を開けた。
噛み付かれた場所の血はもう止まっているのに、ヴィクトリアは少しだけ痛みを感じた。ただ目の前のヴァージルの瞳を見ていると、その痛みさえ甘く感じられた。
少年から青年になった彼が、熱のこもった目で、今は自分を見つめている。
「……もう、大丈夫?」
『魔王』としての――『花嫁』としてのヴィクトリアの言葉に、ヴァージルは頷いた。
ヴァージルはヴィクトリアの手を取ると、その手の甲にそっと口付けを落とした。
「はい」
ヴァージルはそういうと、ヴィクトリアを覆っていた翼を広げた。
空に広がる暗雲は、一層黒く深くなっていた。
◆
「大丈夫? ルゥくん!」
ヴァージルと分かれたヴィクトリアは、魔法を使って自身を強化すると、ルイーズとルゥがいる場所まで壁を駆け上がって辿り着いた。
すぐさま二人に治癒魔法を施す。
以前、ルーファスを助けるためにヴィクトリアは意識を失ってしまったが、今の彼女にその傾向は見られなかった。
『吸血鬼の花嫁』――ヴァージルの力によって、ヴィクトリアは自分の体が以前とは異なることを感じていた。
カーライルやルーファス、レイモンドから耐えられた魔力は、使ってしまえば自分の中から全て抜け落ちていくけれど、ヴァージルの魔力の核は、確かに自分の中に存在し続けているような気がした。
「は、花嫁様? どうしてここに?」
目を覚ましたルゥは、ヴィクトリアを見て目を瞬かせた。なぜなら彼女が、ルイーズに治癒魔法を使っていたからだ。
「治癒魔法? でも、どうして? だって、花嫁様は――……」
「ごめんね。ルゥくん。理由は後で説明する」
ヴィクトリアの正体を知らず、『花嫁』をただの人間だと思っていたルゥは、事態が読み込めずにいた。でも今は、説明している場合じゃない。
(大丈夫。私はもうあの日みたいに、死にたいなんて思ってない。彼の魔力だって、今はこの体に宿ってる。私は……今の私なら、この子のことを助けられる!)
ヴィクトリアは、ルイーズに与える魔力の量を増やした。
ルイーズの体の下に広がっていた血は、少しずつ彼女の体へと戻り、彼女の肉体は修復される。
出血量が多かったせいか、ルイーズはなかなか目を覚まさなかった。
「……?」
地面に広がった血がだいぶ消えた頃、ルイーズは漸く目を押し上げた。
少しだけ虚ろな瞳で、ルイーズは自分に懸命に治癒魔法を施すヴィクトリアを見て言った。
「どう、して……? 私は、貴方のこと、殺そうとしたのに」
ヴィクトリアは、信じられないという表情をした彼女の手を自分の手で包み込んだ。
「ごめんなさい」
「?」
「貴方の願いを、叶えられなくてごめんなさい」
ヴィクトリアは、彼女の体に自分の魔力を注ぎながら、謝罪の言葉を口にした。
魔力には、その人物の性質が宿る。
自分自身の魔力の形がどんなものか、本人には分からない。ただヴィクトリアは、自分が彼女を害する気持ちがないことが、自分の魔力を通して伝われば良いと思った。
「私、貴方がヴァージルさんの『許嫁』だってこと、ルゥくんから聞いて知ってたの。でも私は、デュアルソレイユの事件を調べるために城にとどまっていたから、貴方にもルゥくんにもヴァージルさんにも、本当のことが言えなかった。私は、『花嫁』という立場を利用した」
ヴィクトリアの首筋の傷跡を、ルイーズは静かに見つめていた。
「私、デュアルソレイユに大切な人がいるの。だから私は絶対に、戦争なんて起こさせない。もしそんなことを企む人がいるなら、私は何をしてでも止めてみせる。この先も――セレネの魔族に、デュアルソレイユの人間は傷付けさせない」
それは、『ヴィクトリア』の決意だ。
『ヴィンセント』としての意思じゃない。そしてその想いが、今のヴィクトリアを強くしていた。
「……」
「どうして貴方は彼に協力したの? ルゥくんのことも、どうして貴方は、この子を巻き込んだの?」
「一族の為に、魔王の妃になること。それだけが、私の人生の全てでした」
ルイーズは静かにこたえた。
「あの方の『花嫁』になるために、あの方に相応しい存在であること。それだけが、私の人生。父は、次代の『魔王』のために愛のない婚姻を繰り返し、そして生まれた私は、本来兄と呼ぶべきかもしれない方の為に生きるのだと言われました」
その声には、悲しみの色が混じっていた。
「私の気持ちなんて、みんなどうでもよかった。そんなときにお兄様だけが、私に話しかけてくださった」
ルイーズの目に涙が滲む。
「お兄様の前でだけは、わたしも、普通の妹でいられる気がした」
「……そのために、彼の願いを叶えたの?」
ルイーズは頷いた。
「でも……そのお兄様の優しさが全て嘘だったというのなら、もう私のことなんて、誰も、誰も……!」
彼女の頬を、涙が伝う。
そしてルイーズは自分の手から、ヴィクトリアの手を離そうとした。
「私にもう、魔法はいりません。もう、もういいのです」
その姿は何故か、ヴィクトリアには昔の自分に見えた。
自分の世界に閉じこもって、自分を想う誰かの思いも全部否定して、自ら死を選んだ五〇〇年前のあの日の自分のように。
「生きて何になるというの? お役目の一つも果たせないこんな私を、一体誰が愛してくれるの?」
ルイーズがここで命を失えば、きっとヴァージルやルゥは心を痛める。でも今のヴィクトリアには、彼らの名前を出すことは誤りのように思えた。
(今、彼女の前にいるのは私だ)
結局は、『誰か』に必要とされているなんて言葉は意味を成さない。『貴方が死ねば傷つく人がいる』――それは、死さえ望む誰かに、まだ心を痛めろというのと同義だ。先の見えない道を、もう一度歩めというのと同じだ。
(だからこれは――私のわがままだ)
ヴィクトリアは、自分から離れようとしたルイーズの手を、もう一度強く掴んだ。
今度はもう離れないように、彼女を自分から離さないように。
「なら」
ヴィクトリアは、ルイーズの目を見て言った。
「なら私が、その最初の一人になる。あの時、私やルゥくんをかばってくれた貴方のことを、私は信じる」
「貴方が……?」
「そう。私は信じる。これからは貴方は、誰かのためじゃない。自分のために生きるの。貴方にならそれが出来る」
かつてこの世界に絶望して、自ら命を絶ったことがある。だからこそ、ヴィクトリアにはわかる気がした。
ルイーズ・モルガンは決して、ここで失ってはならない人だと。
「だから生きて。ううん。違う。生きなさい。ルイーズ・モルガン!」
(私はもう二度と、大切なものを失わない)
ヴィクトリアはルイーズの手を握り、魔法を唱えた。するとルイーズの体は光りに包まれ、彼女の体に出来た傷は、一つ残らず消え去っていた。