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9/10
あの日、目に映った君は私の知らない君でした。
照れくさそうで嬉しそうで、
その表情を見た時にこの恋は叶わない、
君の好きな人は私ではないのだとそう気づかされました。
私が私じゃなかったら。
あの子みたいな自信と笑顔があったなら。
せめて生まれ変わったらそんな自分になりたいと、
夏休みが終わってもそんなことを時々思ってしまいます。
そうして誰にも言えない君との思い出をこの日記に綴ってしまいます。
胸の奥が痛くて苦しい。
病気なんかよりずっと辛い。
それでもあの夏は、私にとってすごく大切な思い出です。
これから先も一生忘れない。
あの夏を超える時間はもうきっとない。
16歳ながらそんな気がしています。
もし生まれ変わってもう一度君に会えたら、
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「…会えたら…」
日記はそこで終わっていた。
母がその先に何を書きたかったのか、
亡くなってしまった今、その答えは永遠に分からない。
だけど私の知っている母が病気がちで、
いつも心の底から父を好きなようには見えなかったこと。
夏休みに病院に会いに行くと、
私の話を聞く表情がすごく悲しげに見えたこと。
今までの母との記憶を思い返すと全て納得のいくような気がした。
「なにこれ?」
日記の最後に挟まっていた無地の便箋。
中には写真が一枚入っていて、都会らしくない大きな川を背に並んだ若い男女。
写っていた色の白い少女は照れくさそうに笑っていて、
その顔つきは16歳になった私によく似ていた。
この写真は角度からしておそらく男性の方が撮ったもので、
現像した写真をおそらく母に渡したんだろう。
裏返した便箋の端っこには、
送り主の名前が書かれていた─────
「…長谷 葵。」
────────────────────────────
────どうして東京に来たの?
────前はどこに住んでたの?
好きな本は?好きな映画は?あとはなにがすき?
放っておいて欲しかった。
俺なんかに興味を持たないで欲しかった。
ただでさえ周りの都合に振り回されて東京へ来たのに、
もうこれ以上振り回させるなんて懲り懲りだった。
「あのさ…いい加減にしてくれないかな」
「…え?」
ここ数日迷いに迷って、今日やっと声になった本音。
それなのに彼女はポカンとしていて、
「俺は……別に君に興味はないから。」
「……」
どうしても目を見ては言えなかった。
ゆっくり顔を上げるとさっきまで緩んでいた彼女の口もとはきゅっと結ばれており、
俺もつられて唇をぎゅっと噛み締める。
こんなこと俺だって本当は言いたくない。
だけどこれくらい言わないと彼女には伝わらないってこの一週間で身をもって感じたから。
だから今日こそはってようやく言えた胸の内。
目は見られなかったけれど割と上手く言えたと思う。
これできっと彼女もしばらくは─────────
「ひな。」
「……え?」
「”きみ”じゃなくて私の名前は"ひな"だから。」
「…………」
ここまでいくと怒りすら湧いてこなかった。
いくら俺とは人種が違うとはいえ、鈍感にも程がある。
"ねえ聞いてる?"ってそんな声が聞こえたけれど俺は振り返らず教室を後にした。
放課後の騒がしい廊下。
しばらく歩くと彼女の声は紛れて聞こえなくなった。
雨が降りそうだから早く帰らないとな。
いつも常備している折り畳み傘。
下駄箱で靴に履き替え灰色の雲を見上げると、
曇天模様とは真反対の位置にいる、
底抜けに明るい彼女のことがまた頭には浮かんでいた。
浅木 陽夏(あさぎ ひな)
彼女の名前なんて転校初日から、何なら彼女の口から聞く前から知っている。
特に気になっていたからじゃない。
知りたかったわけじゃない。
ただ彼女の周りにはいつもクラスメイトがいて、
男子が「浅木」って呼ぶのを、女子が「陽夏」って呼ぶのを、
初日から何度も聞いたから。
だから悔しいけれど一番最初に彼女の名前を覚えてしまった。
放課後にカラオケに行く約束をしたり、髪を染めたりメイクをしている生徒がいるのも、
クラスメイトが集まる彼女のような存在も全部"東京だから"なんだと思ってた。
だけど数週間経った今、
彼女だけは東京でも特別な存在なんだとクラスの空気から学んだ。
容姿だけのことを言えば確かに彼女は群を抜いて可愛かった。
目はぱっちりとした二重で顔も小さいし、すらっと長い脚に艶のある黒髪。
周りにいる生徒が茶色く髪を染めているからか、その透明感は余計に際立って見えた。
誰とでも仲が良くて、誰にでも優しくて、男女問わず人懐っこくてモテる彼女。
そんな彼女が俺に話しかけてきたのは5月の初旬。
転校初日からだった。
「ねぇ、どこから来たの?」
「田舎の方。」
俺の前の席に座って前触れもなくいきなり始まった会話。
「…田舎って?何県?」
「…山梨。」
"山梨なんだ"って嬉しそうな顔で呟く彼女は、
その裏にあるド田舎の景色が誰よりも似合わない。
当然行ったこともないんだろうな。
「ねえ、どんなところ?」
「どんなって…」
「何があるの?」
「なにもないよ。」
カフェもカラオケも、オシャレな服屋も、君の頭の中にあるものなんて何もない。
「何もないってことはさすがにないでしょ?」
「無いよ。山と川しかない。」
「ほらあるじゃん笑」
にこっと笑った無邪気な笑顔に俺は既視感を覚えた。
顔つき自体は似てないけれど、纏う雰囲気がどことなく似ているのだ。
底抜けに明るいところ。人懐っこくて屈託のない笑顔。
そう、俺の母親がまさにそういう人だった。
いつも明るくて、するりと人の懐に入り込める人。
そんな母に父は一目惚れをして結婚したらしく、
俺が産まれてからも二人はまるで恋人同士みたいに仲が良かった。
喧嘩をしているのも見たことがないし、二人だけで出かけることも珍しくなく、
いつも一緒で、仲が良すぎて、そして彼らは一緒に死んだ。
登山途中の落石事故。
二人にとっては最高の最後だったのかもしれないが、残された俺にとっては悪夢の始まりで、
大人達だけで話し合ったのち、俺は遠い親戚に引き取られることになった。
だから彼女を見ると嫌でも母を思い出す。
優しさや楽しかった時間を思い出し、今はもう無い温もりに虚しさだけが最後には残る。
だから余計に彼女には放っておいて欲しかった。
それなのに彼女は初日以降も俺の所へやってくると、
どうして東京に来たの?とか、好きな本は?好きな映画は?とか。
聞いてどうするのかと言いたくなるような質問をたくさん俺に投げかけてきた。
そして人気者であるが故、彼女の名前は影でもよく耳にした。
"男好き" "仲良くするのは気を引きたいだけ"
そんな嫌な噂にやけに納得をしている自分がいた。
ああ、きっとそういうことなんだろうなって。
だから突き放したのに彼女の鈍感さは俺の想像を遥かに超えており、
「…本好きなの?」
「……うん」
またこうして懲りずに話しかけてくる。
「そうなんだ、どんな本読むの?」
「…いろいろ」
「海外の作家とかも?」
「……うん」
「すごい。私全然読まないからなぁ。」
「…………」
"本読むとすぐ眠くなっちゃうんだよね"って。
幼い頃から聞き馴染みのある台詞を口にした彼女。
その表情は相変わらず嬉しそうだ。
普通の人なら共通点を見つけた時にするような嬉しそうな表情をこうして彼女が見せるのは、
おそらく無意識の癖みたいなものだと思う。
そしてその表情が余計に人を惹きつけ、人に妬まれることを彼女は知らない。
今まで会った同い年の中で最も罪深い人だ。
「恋(れん)くんはあとは何が好きなの?」
「……え、」
ふいに覗き込むつぶらな瞳と目が合って、呼ばれた名前の響きに思わず心臓が早足になりかけた。
かわいいなんて思ってない。ときめいたりなんてしていない。
揺れ動く感情を胸の奥にぐっと押し込んで、
「ごめん、俺本読みたいんだけど」
絞り出した声は少しだけ震えていたかもしれない。
「あ、ごめんごめん」
"見てわからない?"そんな意味を含んだ視線をなんとか送ると、
彼女は申し訳なさそうに二度謝ってきた。
だけど浮かべた表情はさっきと同じ柔らかいまま。
こっちが嫌がっているのに嬉しそうだったり、急に下の名前で呼ぶなんてどうかしてる。
同い年の中でだけじゃない、
彼女は今まで会った誰よりも罪深い人だ。
────────────────────────────
朝起きるのは高校生になっても苦手で、寝ぼけ眼で先生の話を聞いていたあの日。
教室に入ってきた彼を見た時、その顔つきに私は心臓が止まりそうになった。
えっ…。
ギリギリまで出かかった声。
夢だと思った。信じられなかった。
目もと、口もと、纏う雰囲気。
5月初旬にきた転校生は母の日記に挟まっていた写真の青年にそっくりだった。
あまりにもそっくりだから写真に写っていた人が過去からやってきたのかと思いかけた。
だけど自己紹介で名前を聞いた時、
「長谷 恋(ながたに れん)です。」
彼は写真の青年ではなくおそらく青年の子どもなのだと分かった。
写真の中の青年は私の母ではない人を好きになったんだ。
そしておそらく最愛の人とめでたく結婚して、
その後生まれたのがたぶん─────目の前の彼。
その巡り合わせに私は複雑な気持ちにもなりかけたけれど、それ以上に知りたいと思った。
母が生前本気で恋をしていた人。
その人の子どものことを純粋に知りたかった。
そうすれば母が恋した青年、いや母自身のことをもっと知ることができるかもしれない。
日記に残されていた青年と同じように彼も"山梨県"から来たのか。
彼も海外の作家の本を好んで読むのか。
どうして東京にやって来たのか。あとは何が好きなのか。
下心の欠片もなく、ただ知りたかった。
そして日記の青年と同じところが見つかる度、私は宝探しをしているみたいに嬉しくなった。
────────────────────────────
彼女にしつこく話しかけられながら、それをできる限りであしらいながら、
季節が2つ巡ってやって来た高校性最初の冬休みが明けた。
「明けましておめでとう。」
「あ、おめでとう。」
教室に入り夏休み前にできた友達と挨拶を交わしていると、周りの空気がいつもと違うような気がする。
冬休み明けの気だるさも漂っているけれどそれ以上に感じる違和感。
いつも聞こえる彼女の名前も今日は聞こえない。
「ねぇ…なんかあったの?」
「ん?」
本を片手に返事をする友人は視線を文字へ向けたまま、
「浅木さんのお母さんって亡くなってたんだって。」
「えっ?」
なんでもない顔でそう呟いた。
「…最近のこと?」
「いや、今年の春。ずっと病気がちだったんだって。」
「…そうなんだ。」
知らなかった。当然のことではありながらも知らずに突き放していたことに少しばかり罪悪感を感じて、
改めて教室全体をぐるりと見回す。
だけど俺が想像していた悲壮感はなく、どちらかというとピリついた空気。
不思議に思って再び友人の方へ目を向けると、
「なんかそれずっと隠してて、忙しくて世界中を飛び回ってるんだって友達には言ってたみたい。」
「うん。」
「だから嘘ついてた裏切り者だって。」
「なんだよそれ…」
「おかしいよね。でもまぁ…浅木さん人気あったからさ。なんていうか…」
言葉を濁した友人が言いたいことは察しがついた。
"男好き"
"仲良くするのは気を引きたいだけ"
思い出したのは前に耳にした嫌な噂。
きっと学校という場所ではよくあることで決して珍しいことじゃない。
実際俺の中学でも同じようなことがあった。
きっかけなんてあるようでないもので、
それがおかしいって周りも分かっているけれど必要以上には干渉しない。
みんながみんな嫌っている訳じゃない。
めんどくさいから。自分には関係ないから。
だから関わりたくないだけ。
俺だってそうだった。その気持ちはよく分かる。
深い付き合いではないクラスメイトのために平穏を手放すようなことはしたくない。
だからこれまでも首を突っ込まないように過ごしていたけれど、
今回は今までとは訳が違う。
「あ、」
ふいに振り返ると俺のところへやって来る彼女。
「明けましておめでと。」
「おめでとう」
「冬休みは山梨に帰ったの?」
「いや。」
そう。彼女は関わりのないクラスメイトではない。
むしろ俺の学校生活には悪い意味で最も関わり深い人。
つまりこの時点で俺はもう首を突っ込んでいるのだ。
「帰りたくならないの?」
今この状況で、俺の平穏を守るための最善策。
彼女の質問に答えなければいい。今まで以上に彼女のことを突き放せばいいのだ。
「ならないかな。もう誰もいないし。」
「え?」
「いや、なんでもない。」
でもできなかった。
分かっているのに彼女を突き放せなかった。
それはたぶん俺自身の弱気な性格もあるけれど、
「向こうって東京よりも寒い?」
「まあ東京と比べたら。」
「雪降る?」
「降るよ。」
「いいなあー」
それ以上に親を亡くした辛さが俺には痛いほどよく分かったから。
それを隠す気持ちも、明るい噓を並べたくなる気持ちも。
「東京なんてめったに降らないもん。」
「そうなんだ。」
それが原因でクラスメイトから嫌われてもこうして気丈に振舞う彼女は本当に凄いと思った。
俺には到底真似できない。
そんな彼女はとても眩しく、そして見た目以上にずっと美しく見えた。
その後も彼女を避けることなく今まで通り接し続けた俺。
だけど俺がクラスメイトの標的になることはなく、月が替わっても嫌われ者は彼女だけだった。
それだけ彼女は人気があったということで、それだけ俺は存在感がないということ。
それを空気で伝える教室はなんて残酷な場所なんだろう。
放課後の騒がしい廊下。
雨が降りそうだから早く帰らないとな。
下駄箱を通り傘を広げようと灰色の雲を見上げると、
「あ。」
ふいに隣から感じた視線。
曇天模様はやっぱり綺麗な彼女には似合わない。
「帰るところ?」
「あ、うん。そうなんだけどね……」
「……?」
「恋くん傘二本持ってたりしない?」
こちらを伺うような顔で尋ねる表情はどうやら冗談で言っている訳ではないらしく、
「いや逆に二本持ってると思う?」
「だって恋くんってそういうところちゃんとしてそうだから。」
「ふっ、」
「え?」
思わず笑った俺に目を丸くする彼女。
「ちゃんとしてる人は傘は一本だけだと思うよ。」
「…そっか笑」
照れくさそうに浮かんだ笑みはいつもより小さくて、
「半分でよければ…傘使う?」
「ほんとに?いいの?」
「うん。」
自分でも不思議なくらい、
何かに背中を押されたように自然とそう言えた。
雨の中、女の子と傘一本で歩いているなんて去年の俺には到底信じられない。
しかもその子はクラス一可愛くて、俺のことを知りたいと思ってくれている。
最初は下心があるんだと思っていたけれど、そうではないと今なら分かる。
下心なく純粋に知りたいと思ってくれている。
それがどれだけ幸せなことか、5月の俺に教えてあげたいと思った。
「正直…びっくりしたな。」
「え?なにが?」
俯きながらそう呟いた彼女の声で意識が今に戻る。
「ほら、あんなことになって当然恋くんも口きいてくれないだろうなって思ってたから。」
「え?」
「だからこうやって話せてることにびっくりしてる。」
「……」
「私のことずっとめんどくさいなって思ってたでしょ?」
見透かすみたいな瞳で冗談っぽくそう言った彼女に俺は何も言えなかった。
気づいてたんだ。まあそうだよな…気づいてるよな。
今ならそれが分かる。
彼女は特別なんかじゃないし、鈍感なんかでもない。
周りが勝手に彼女の虚像を作っていただけ。
「話しかけてくんなよって顔してた。」
「ごめん。」
「ふっ否定しないんだ笑」
「あ…」
「まあいいよ。」
そしてそんな虚像さえも笑って受け入れてしまう彼女は、
「あ、雨やんだ!」
「ほんとだ。」
「通り雨だったんだね。」
どこまでも強くて、優しすぎる女の子だ。
「しかもほら、あれ虹じゃない?」
「どこ?」
見つけられない俺はそっちのけで空にスマホを向ける彼女。
その無邪気な横顔に、もう母親は浮かばなかった。
それは俺の心を幸せで満たしてくれる、
”陽夏”の笑顔だった。
────────────────────────────
母が恋に落ちた青年。
その青年の息子に私は偶然出会った。
知りたくて勇気を出して話しかけた彼は、想像していたよりずっと正直な人だった。
初日から話しかけるなオーラを全面に放っていて人を寄せ付けない。
特に私に対してはそのオーラが全開で、
だから嫌がっているのは最初から分かっていた。
それなのに気づかず鈍感なふりをしてしまったのは、たぶん知らない間についた癖。
彼には面倒な思いをさせたと思う。
だけどきっとみんなが思っている浅木 陽夏はそうするんだろうなって思った。
多少嫌われたって気にしないし、傷つかない。
底抜けに明るくていつも笑っている都合のいい女の子。
それがみんなが思う浅木 陽夏だ。
だからみんなに裏切り者呼ばわりされても、無視されても今まで通りの私でいた。
彼にも無視される覚悟で図々しく話しかけた。
「向こうって東京よりも寒い?」
「まあ東京と比べたら。」
「雪降る?」
「降るよ。」
だから最初は驚いた。
彼だけは前も今も何ひとつ変わらず接してきたから。
特別気を遣っているわけでもなく、いつも通り淡々と答える彼。
そんな彼が私の前で最初に笑うようになったのはいつだろう。
会話の合間で見せる笑顔が少しずつ増えて、質問が返ってくるようになって、
そして衝撃的な出来事だったのはあの日。
雨の日に私を傘に入れてくれたこと。
すぐ傍で優しい笑顔を浮かべる彼は写真の青年によく似ていて、
私は彼のことが好きなんだと気づいたのはこの時だった。
そして、母が叶えられなかった恋。
だからこそ今度は私はそれを叶えなきゃいけないのかもしれない。
そんな思い上がりも頭の隅に同時に浮かんだ。
何かに臆することなく私は好きと伝えることができるんだから。
好きって彼に伝えたらきっとこれから先も彼と一緒にいられるはずだから。
この時の私は母の日記を見つけたあの日から、全てが運命で繋がっているような気がしていた。
だけどそれが見当違いだと気づかされたのは3月下旬。
彼は一年も経たず、大人の都合で再び山梨に引っ越すことになった。
そしてそのことを彼の口から聞いた時、彼の両親が事故で亡くなったことも知った。
「…そうだったんだ。」
「うん…ずっと隠しててごめん。」
「そんな、謝んなくていいよ。私もみんなに隠してたし。」
「うん。でも陽夏は正直に話してもよかったなって。」
ごめんなんて言わないで。
私の方こそまだ大事なことは何も言えていないんだから。
母の日記のことも、写真のことも。
向けられている眼差しはいつもより優しさで溢れていて、
「あのさ」
「あのね」
言葉の先にある想いは瞳の色で分かった。
だからこそ、私は先に彼に伝えなければならないと思った。
「私……恋のこと知ってたんだ。」
表情を見るのが怖くて顔は上げられなかった。
「どういうこと?」
「正確には恋のお父さんのこと。恋のお父さんって…長谷 葵さん…だよね?」
「えっ知り合いだったの?」
「ううん。会ったことはない。ただ日記に書いてあったから。」
「日記…?」
それから私は、全てを恋に話した。
母が持っていた日記と写真から恋のお父さんを知ったこと。
母が彼に惹かれていたこと。でも叶わなかったこと。
転校してきた恋がその人にそっくりだったこと。
本当にそうなのか知りたかったこと。
恋を知ることで、母のことも知ることができると少しだけ思ったこと。
恋と彼の共通点を見つける度、嬉しかったこと。
途中表情が曇っているのには気づいていたけれど、最後まで話し切るためにあえて触れなかった。
彼のことが好きだから。
だから全てを正直に話しておきたい。その一心だった。
だけど話し終えて彼の顔をちゃんと見た時、
私はタイミングを間違えてしまったのかもしれない、そう思った。
「…恋には全部知っててほしくて。」
─────全部なんて知りたくなかった。だって俺は今…
「でも母親のためとかじゃないよ?」
─────分かってる。彼女はそういう人じゃない。
頭では分かってるのに心がそれについてきてくれなかった。
「私が恋のことを知りたいって気持ちもちゃんとあったから。」
─────それでも純粋に俺を知りたいってだけじゃなかったんだって。
彼女の中には少なからず目的と理由があったんだって。
それなのに俺はついさっきまで何も知らず隣にいたんだって。
よくない方へばかり心だけが突き進んで、
「ごめんねずっと黙ってて。」
「…ううん。」
たった一言彼女に好きだって伝えればいいのに。
たった一言彼に好きって言えばいいのに。
言えなかった。
きっと、私たちは伝えるタイミングを間違えたんだと思った。
今日じゃなかったし、今じゃなかった。
訪れる長い静寂。
その着地点は責任持って私が自分で決めた。
「………また、連絡して?」
「え?」
「ほら、距離は離れてもSNSは繋がってるんだし。」
「あ…うん。」
二人で虹を見た時に交換したSNSのアカウント。
彼のアカウントには猫と雪の写真が2枚しかなかった。
「せっかくアカウント持ってるんだからもうちょっと投稿しなよ笑?」
「向こうは撮るものがないんだって笑」
「なんでもいいんだよ。海でも山でも川でも。」
「そんなの誰が見たいの?」
「私が見る。ちゃんと更新してるかどうか確認する。」
「…更新してなかったら?」
「更新しなさいって毎日dmする笑」
「やだなー」
この空気感がすごく心地よかったから。だからこれでよかったんだ。
結ばれないのが現実。伝えないのが結末。
これが私の恋の終着点なんだと、
そう自分に言い聞かせた。
────────────────────────────
あれから4年。
二十歳になった俺はあれから東京に行くことはなく、
高校卒業後そのまま地元の大学に入学し、2回目のお盆を迎えた。
夏らしい空には入道雲が浮かんでいて、橋をアクセントにその景色を写真に収める。
「あつ…」
夏は嫌いじゃない。
だけどじりじりと焦げそうな日差しに橋の下へと避難した。
東京と比べると湿度は低いから、日差しさえ遮れば木陰は風が気持ちいい。
俺は明日までに図書館に返さなければならない本を開き、その活字へと目を向けた。
暑い中わざわざこんなところで読むのには理由がある。
家で親戚一同が宴会をしているからだ。
俺が読書に集中できない顔をしていると、
叔母に図書館の方が集中できるんじゃない?と休館日なのにそう言われた。
知らなかっただろうから仕方がないけれど、それにしても大人は身勝手だ。
そう。あの時もそうだった。
自分たちの都合で転校を決めておいて一年足らずで帰ることになった。
詳しい経緯は知ったところでいい気分にならないのは分かっていたから聞いていない。
だけど戻ってきたことに意味があったのも確かで、
こちらへ帰ってきて数ヶ月経った頃、俺は偶然父のカメラを見つけた。
写真を撮るのが趣味で、現像しないと見られないタイプのカメラ。
それを見つけた時、俺は現像した写真が部屋にないか探した。
頭の中に浮かんでいたのは、
「あった…」
陽夏だった。
父が陽夏のお母さんに写真を渡していたのが本当なら、
もしかしたら他にもあるかもしれない。
母以外の女性との写真を探すのに少なからず抵抗はあったけれど、それ以上に知りたいと思った。
父親に本気で恋をしていた女性。その人のことを純粋に知りたかった。
そうすれば陽夏のことを知ることができると思ったから。
だから今さらだと分かっていながらも見つけたかった。
そして、ようやく見つけた。
写真は写真屋の袋に入ったままで、その枚数は10枚ほど。
そこには川の畔ではにかむ女の子が写っていた。
色は白いけれど顔つきは陽夏にそっくり。
その少女の確かに恋をしている表情を見た瞬間、
思わず涙がこぼれたのには自分が一番驚いた。
そしてその時すぐには涙の理由は分からなかった。
だけど4年も経った今なら分かる。
あの頃、あの日、俺の隣にいた彼女は同じ顔をしていた。
それなのに伝えさせなかったから。
─────…恋には全部知っててほしくて。
─────でも母親のためとかじゃないよ?
─────私が恋のことを知りたいって気持ちもちゃんとあったから。
好きなのに陽夏の言葉を信じなかった。
俺はそれを痛いほど後悔した。
だからこうして今も写真を投稿して夏空の下彼女のいいねを待っている。
彼女からのいいねは、まだ一度ももらえていない。
「─────やっぱりいた」
「えっ?」
突然降ってきた声。
振り返るより先に右側に現れたのは、
頭の中にあった笑顔よりずっと大人っぽくなった、
人懐っこい笑顔だった。
「え、なんで?」
「なんでって…なんでここにいるのかってこと?
それともなんで会いに来たのかってこと?」
「なんでいるの?」
「そっちか笑」
彼女はちょっと悔しそうに笑ってポケットからスマホを取り出すと、
「これを見たからなのです。」
「……」
向けられたのは俺が先ほどSNSにあげた写真だった。
「ちょっと別件で山梨に来ててね、そしたらこれがあがったから。」
「…見てたの?」
「見てるよずっと。見るからってあの時言ったでしょ?」
「でもいいねとかもないから…」
「いいねするとは言ってません笑」
「え……」
力の抜けた声しか出ない俺に彼女はクスッと笑った。
「……いいねしたら後悔しそうだったから。」
「え…?」
「恋くんと最後の会話が嫌な記憶になりそうだったから。だからいいねしなかった。できなかった。」
「…そう…なんだ…」
「私のこと、忘れてくれていいと思ってた。」
「え…じゃあなんで今…」
「これ見て?」
俺の質問には答えず、彼女は反対のポケットから小さな手帳を取り出した。
「これって…あの時言ってた日記…?」
「そう。このページ読んで。」
そう言って彼女が開いたページの一番上には、9/10と記されていた。
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あの日、目に映った君は私の知らない君でした。
照れくさそうで嬉しそうで、
その表情を見た時にこの恋は叶わない、
君の好きな人は私ではないのだとそう気づかされました。
私が私じゃなかったら。
あの子みたいな自信と笑顔があったなら。
せめて生まれ変わったらそんな自分になりたいと、
夏休みが終わってもそんなことを時々思ってしまいます。
そうして誰にも言えない君との思い出をこの日記に綴ってしまいます。
胸の奥が痛くて苦しい。
病気なんかよりずっと辛い。
それでもあの夏は、私にとってすごく大切な思い出です。
これから先も一生忘れない。
そしてあの夏を超える時間はもうきっとない。
16歳ながらそんな気がしています。
もし生まれ変わってもう一度君に会えたら、
そのときは、何があっても君に好きと伝えます。
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鉛筆で書かれたすごく綺麗な文字だった。
だけど最後の一文だけが何故かボールペンでなぞったみたいになっている。
「…これは…?」
「私が最初に見つけたときはね、最後の文はなかったの。」
「…消されてたの…?」
「消しゴムでね。でも何度も見返してたらある日ふと気づいて何時間も書けて解読した笑。」
「なんで…消しちゃったんだろう」
こんな大切な言葉。
これが全てだと言ってもいいくらい、想いが詰まっているのに。
「たぶん、私がいいねを押さない理由と同じ。」
「…え?」
「これを見つけた時にやっと分かったの。あれが終着点じゃなかったんだって。
別れを経験して、その大切さに気づいて、次は絶対掴みなさいってそういうメッセージだったのかなって。」
彼女の話には、誰を?も、何を?もなかったけれど、それでも手に取るように分かった。
そして、ここに来た理由も。
「だから会いに来た。」
「…うん」
「恋に会いたかったから。」
「うん。」
「会えるとしたら絶対にこの場所だって思った。」
「うん笑。」
昔、両親から聞いたことがある。
ここは二人が出会った運命の場所なんだって。
だから俺に”恋”と名付けるようなロマンチストな母は、
この場所のこともロマンチックな名前で呼んでいた。
俺の両親にとっては運命の場所。
陽夏のお母さんにとっては、恋が終わった場所。
そして俺たちにとってここは、再会の場所。
馳せる思いは違うけれど、
この川の畔はきっと、誰にとっても特別な場所なんだと思う。
二人だけの名前をつけたら生まれ変わっても待ち合わせできるでしょって。
そう言っていた母を俺は笑っていたけれど、今なら分かる。
家族を突然失って、大切な人を一度自ら手放して、
再びここに戻ってきた今なら。
もし生まれ変わってまた陽夏とここで待ち合わせをするなら、
俺たちの待ち合わせ場所は、
────────── 恋と夏の交差点だ。
完