徐々に陽が沈む。次第に朱く染まるストリートの脇で、ぼくたちの気持ちも合わせるように落ち込んでいった。
「そろそろ帰ろうか?」
半ば諦めかけたぼくがアーチャーに訊くと、彼も重い腰をゆっくり持ち上げる。
「そうだな、きっと明日はすぐにでも見つかるよ! どのみち今、誰かに声をかけてもらっても、もう帰る時間だしな」
気を取り直したアーチャーの元気な声に、ぼくも少し安心する。ぼくたちは立ち上がりセントアルバンスプレイスへと歩き出した。
フィッツウォーター通りを少し西に歩くと――家路に向かう時間なんだろう――サウス21番通りをたくさんの車が走っている。この通りに沿ってまっすぐ南へ進み、クリスチャン通りにぶつかる交差点が、ぼくたちの小学校だ。
ぼくたちは学校方面へは向かわず、そのままフィッツウォーター通り沿いにサウス21番通りを横断し、さらに西へと歩いていく。
「プロヴォローネ……チーズ……ステーキ……」
アーチャーが、通り沿いにあるダイナーの前で突然立ち止まると羨ましそうに店内の食事客を見つめて訳のわからない台詞を呟いた。赤い看板には、『エピキュリアン』のトレードマーク、ウインクをした牛がアロモソっていうロールパンを持ってにこやかに笑っている。地味にシュールな絵ではあるけど、このダイナーはフィラデルフィア名物のチーズステーキサンドイッチが食べられるお店で、いつも大勢のお客さんで賑わう人気店だった。
豊富なメニュー! 手頃な価格! ボリューム満点!
三拍子そろった店だ。
「ほら、アーチャー! ぼくたちここで食事をするお金なんてないんだから、早く帰ろう!」
疲れ果てた牛車の牛のように微動だにしない彼を引きずろうと、必死で引っ張るけど無駄だった。そんなぼくたちの様子をお店から出てきた年老いた女性が物珍しそうに見ている。ぼくはあまりに恥ずかしくて、チーズまみれでアロモソに挟まった炙り焼きの削り肉になった気分になる。
「ほら!? アーチャー! お店のお客さんにも変な目で見られてるよ? 恥ずかしいから早く行こうよ!」
「プロヴォローネ……チーズウィズ……アメリカン……いや、やっぱりプロヴォローネ……」
アーチャーは、まだぶつぶつと奇妙な呪文を唱えている。チーズを脳内で選んでるんだろうけど、どうだっていいよ! さらに力いっぱい引っ張っていると、そんな様子を見ていたお婆さんが近づいてきて声を掛けた。
「ねぇ、あなたたち。そのプラカードに書かれていることは本当なの?」
突然のことで思いもよらず、ぼくたち二人は固まったままポカンと口を開けてお婆さんのことを見上げてしまった。
「あの……言葉、わかるかしら?」
そんなぼくたちを不思議そうに見ながら、もう一度お婆さんが訊いてくる。
「も……もちろんです! わかります!」
「よかったわ! そこに書かれてるアーチャーとフィリーというのは、あなたたちのことかしら?」
「はい! 彼がアーチャーでぼくがフィリップスです」
「そう」
我に返ったぼくが丁寧に答えると、お婆さんは安心したように優しく微笑んだ。身なりの綺麗な小柄のお婆さんで、ブルーの瞳がとても印象的。子供のぼくたち相手にも丁寧に話してくれる好感を持てる人だった。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れてしまったわね。私はエミリー・グランドよ。お店を出たら、あなたたちが手に持っていたプラカードの内容に興味を引かれて声を掛けさせてもらったの」
「はい! ぼくたちでできることなら、なんでもお手伝いさせてください!」
アーチャーはまだ口をポカンと開けたままだ。お婆さんは嬉しそうにその円らな瞳を細める。でも、今日はもうできません――ぼくがそう続けざまに説明しようとすると、お婆さんは口を開きかけたぼくを優しくさえぎった。
「わかってるわ、今日はもう遅いからお家の人が心配するものね。明日、あなたたちの学校が終わってからでいいのよ。それならお願いできるかしら?」
ようやくアーチャーも状況が呑み込めてきたのか、ぼくたち二人は顔を見合わせる。願ってもない話だ。
「ありがとうございます! 必ずお役に立ちます!」
そんなぼくたちの不慣れな言葉遣いに、お婆さんは両手で口を覆って小さく笑った。色々と見透かされている気がして恥ずかしくなる。
「私の家は、この通りの二本北のベインブリッジ通りよ。ちょうど家の向かいに雑貨屋さんがあるから、すぐにわかると思うわ」
ベインブリッジ通りの雑貨屋といえば、『ネストオブラビッツ』のことだ。お婆さんと別れたぼくたちは、その店の向かいにある大きな屋敷の話で盛り上がった。
「しかし、まさかあのでかい屋敷のお婆さんだとはな!?」
興奮気味にアーチャーが話す。『ネストオブラビッツ』――うさぎの穴蔵と言うへんてこな名前のこの雑貨屋は、置いてある雑貨もへんてこなものが多い。ぼくが集めているポストカードやピンバッチもここで買っている。向かいに建つ大きな屋敷を見て、一体どんな大金持ちが住んでいるんだろうといつも思っていた。
「ぼくも驚いたよ! あの店に行くたびにどんな人が住んでるんだろうって思ってたからさ!」
自分たちの身近にある謎のひとつが解けたようで、なんだかぼくも嬉しかった。
「でもさ、明日は一体どんな仕事を頼まれるのかな? 大きな家だし、掃除するっていっても大変そうだよな!」
――しまった! 仕事の内容を聞くのを忘れていた!
アーチャーがそう言い出すまで、アルバイトのことなどすっかり頭から飛んでしまっていたことに気づく。
「本当だね、お手伝いに行って、逆に迷惑をかけないように頑張らなきゃね」
内容をしっかり聞かずに安請け合いをしてしまったことについてはお腹がキリキリと痛む思いだけど、楽天的なアーチャーは随分と楽しそうな顔をしていた。
†‡†
フィッツウォーター通りをまっすぐ西に歩くぼくたちは、やがてサウス22番通りにぶつかり南に曲がる。交差点にある銀行の白い時計が六時三〇分を示していた。そのままセントアルバンス通りを西に進み、通りをさらに抜けたアルバンスプレイスに到着したのは七時前だった。
「じゃあまた明日な!」
アーチャーを見送って家に入るとママがキッチンから顔を出す。
「あら、フィリー、お帰り。あなたがなかなか帰ってこないものだから、パパが仕事も手につかずにソワソワしっぱなしよ」
笑いを堪えながら話すママの後ろから、ぼくの帰りを待ち侘びたパパが口を尖らせてぼくを睨んだ。
「遅かったじゃないかフィリー。あまり遅くならないようにって言っただろう?」
膨れっ面でひょっこりと顔を出すパパはまるで大きな子供のよう。
「ごめんねパパ、夢中で遊んでたらつい時間を忘れちゃって」
ぼくの姿を見て安心したパパは、膨らました頬を萎めると、「手を洗って食事にしよう」と笑って許してくれた。
食事の後、パパに誘われて一緒にお風呂に入る。
「ねえ、パパ、ベインブリッジ通りにある雑貨屋の向かいにさ、すごく大きなお屋敷があるだろ? あそこに住んでいるお婆さんに今日会ったんだよ。すごく上品な人だったよ!」
「雑貨屋というと、お前がいつも行くネストオブラビッツかい? へぇ……あの大きなお屋敷のねぇ。そのお婆さんは一人で住んでいるのかい?」
「そこまではわからないよ。でもずっと、あそこにはどんな人が住んでるんだろうって思ってたから、その謎がひとつ解けてものすごくスッキリしたよ!」
ぼくの頭をガシガシと洗いながらパパは愛しそうに呟いた。
「お前は日々どんどん成長していってるんだね。パパはそれが嬉しくもあり、なんだか寂しくもあるよ」
「どういうこと?」
振り返ると、パパはニッコリ笑ってぼくにシャワーを浴びせた。
「ちょっ! ちょっとパパ!?」
「ほらほら! 目を閉じないと泡が目に入って沁みるぞ?」
バシャバシャと無邪気に浴びせるパパは、まるで子供のまま大人になったいたずら坊主のようだった。その夜、ベッドに入ったぼくはジオラマ作りや、一日一枚のイラスト練習のことなどすっかり忘れて、泥のように眠りに落ちていった。
†‡†
翌日授業が終わるとお婆さんとの約束どおり、ベインブリッジ通りのお屋敷へと向かう。サウス21番通りを北上しベインブリッジ通りを左に曲がれば、あとはまっすぐだ。
「ねぇ? アーチャー! ネクタイ曲がってない? 手土産とか買っていかなくて大丈夫かな?」
ぼくの混乱ぶりに、アーチャーが呆れてため息をついた。
「なぁ、フィリー? 俺たちはなにもお婆さんの開くお茶会に誘われた訳じゃないんだぜ? アルバイトに行くんだ」
そんなアーチャーが、今日はとてもたくましく見える。
「そうだったね! ごめん、ぼく初めてだから緊張しちゃって……」
頼りないぼくに、アーチャーはクスリと笑った。
「大丈夫だよ! 俺だって初めてなんだ。できないことはお互いにカバーし合えば楽勝だ」
楽天的なアーチャーだけど、彼がいてくれて本当に心強い。
ストリートを北に進み、ベインブリッジ通りに差し掛かるころ、ぼくは無意識にポケットに忍ばせた6ペンスコインを握りしめていた。なんだかこのコインが本当に幸運を運んでくれそうな気がして、パパの誕生日までは肌身離さず持っておくことに決めた。
ベインブリッジ通り沿いに少し歩くと、左側にネストオブラビッツが見えてくる。通りを挟んだ反対側がお婆さんのお屋敷だ。玄関のベルを鳴らすと、すぐにインターホン越しにお婆さんの弾むような声が聞こえた。
「待っていたわ。さぁ、入ってちょうだい。今日はピッツェルを焼いたのよ! もうすぐジンジャークッキーも焼きあがるから」
待ち侘びた様子で招き入れるお婆さんに、ぼくたちは顔を見合わせる。立派なキッチンカウンターのついた広いリビングに通されると、テーブルに着くように促され椅子に座る。カタツムリみたいな曲線が多用されたアームチェアは古いんだろうけど、艶々に磨かれた革の座面は鋲打ちされていて、脚なんてチェスの駒みたいに見事だった。こんな立派なチェア、美術館でしか見たことないよ……。
「温かい紅茶でいいかしら? 今日マーケットに出掛けて、とても素晴らしい茶葉を買ったのよ。ファーストフラッシュのダージリンなの。うふふ、DJ1なのよ。こんなことを言っても、あなたたちにはわからないわね」
ぼくたちはお婆さんに言われるがまま、ただただ頷いた。キッチンで支度をしてくれているお婆さんを後目に、ぼくとアーチャーは小声で話し始める。
「ねぇ……まるでぼくたちお客さんみたいだね?」
「本当だな、これじゃ本当にお茶会のお客さんだよ。あの婆さん、なにか勘違いしてるんじゃないのか? 大丈夫かな」
さすがのアーチャーもお婆さんの言動に少し戸惑っているのか、居心地悪そうに足をばたつかせた。部屋中に焼き上がったばかりのクッキーの香りが広がっている。お婆さんは紅茶と一緒に焼き上がったばかりのクッキーを持ってテーブルにやって来た。
「さぁ、焼き上がったわ。一緒に食べましょう」
そういって椅子に座るお婆さんに、アーチャーが言う。
「あの、グランドさん? 俺たちアルバイトに来たんだけど、今日はなにをすればいいの?」
アーチャーがおずおずと訊ねると、彼女は笑いながらクッキーをパクリとやって、その出来映えに親指を立ててぼくらに目くばせした。さあ、あなたたちも食べて、っていうみたいに。
「エミリーと呼んでちょうだい。そして、あなたたちのアルバイトなら、もう始まっているわ」
含みのあるそんな言い方で、エミリーは茶化した。
「どういうことですか?」
「あら? こんなお婆さんと一緒にお茶を飲んでクッキーをかじって、お話するのだって立派な仕事でしょう?」
エミリーの考えが見えない。訳がわからないけど、ぼくたちは勧められるがままに熱々のクッキーを手に取る。
「もちろん、お給料だってちゃんと支払いますから、安心してちょうだい。ねえ、それよりもお味の感想を聞かせてくれないかしら。久しぶりに腕によりをかけて焼いたのよ」
そう言いながら、エミリーはその細い手の平を耳に当てて傾けるような素振りをする。ピッツェルと呼ばれたパリパリのクッキーは、すごく薄くて丸いワッフルみたいな形をしていて、そんな高級なお菓子を見たことも聞いたこともないぼくの横で、アーチャーが「マンホールの蓋みたいだぜ」と呟いたほどだった。
でもいったん口に運ぶと、その香ばしい風味とサックサクの歯ざわりに、ぼくたちは夢中になって口に詰め込んでいった。隣には細工の施された小ぶりの白いお皿に生クリームとチーズが載せられていて、赤いベリージャムも添えてある。「ほら、これはこうやって挟んでタワーのように積み重ねても楽しいのよ?」とエミリーはにっこり笑って、しきりに次々新しい食べ方を勧めてくる。
ジンジャークッキーはきっとシンプルな作りだったと思うけど、かじった瞬間から口いっぱいにジンジャーの香りが広がって、エミリーが淹れてくれた紅茶によく合った。そのすべてがまるで一流のパティシエが高級レストランで出す焼き菓子のような上品さだ。
まぁ、もっとも一流のパティシエが作ったお菓子なんて食べたこともないから、あくまでイメージなんだけどね。はっきりいえるのは、ぼくが毎日食べているギャレット社のストロベリークリームサンドビスケットよりも、どれも高級な味がしたってことだ。
「とっても美味しいです! 口当たりがとても上品な感じがします!」
「あら? フィリー。あなたってあまり素直じゃないのね」
グルメリポーターみたいに思いつくままぼくがクッキーを褒めると、その褒め方に違和感を覚えたのか、エミリーは意地悪そうに笑ってティーカップを揺らすと、紅茶の表面を愉しむように眺めている。
「いや! 確かにフィリーの言うとおりだよ! 俺たちが普段食べてるスナック菓子やビスケットよりも上品な味がするよ!」
食べ物に関しては少しうるさいアーチャーが、ピッツェルを次々に平らげながら話すと、そんなぼくたちを彼女は本当に嬉しそうに眺めながら色々と訊ねた。好きな授業のことや家族構成、学校で流行ってるものや、休みの過ごし方に、好きなスポーツ――。とにかく引っ切りなしに質問して、ぼくたちが答えるたびに嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇ、ところでエミリーの家族は?」
口をいっぱいにしながらふとアーチャーが訊ねると、ほんの一瞬、エミリーのブルーの瞳が涙で潤ったように見えた。
「……主人は三年前に病気で亡くなって、それからはひとりでここで暮らしているわ」
「こんな大きな家に一人っきりで!?」
失礼な質問をしたお詫びよりも、アーチャーはエミリーがたった一人でこの家に暮らしていることに驚いていた。
「えぇ、そうよ。私ひとりにはここは大きすぎるけれど……この家には主人との思い出がたくさん詰まっているの」
エミリーの話を聞いてるのかいないのか、アーチャーは部屋中を舐めるように見渡している。
「ごめんなさい、エミリー。アーチャーが失礼なことばかり訊いて……」
気を利かせてぼくが謝ると、エミリーは目を丸くして大袈裟に笑ってみせた。
「まあ! あなたは少し神経質なところがあるようね、フィリー。その逆でアーチャーは楽天家。だから二人とも、一緒にいて飽きないのね」エミリーが手を叩きながら笑う。本当に楽しそうだ。
「私と主人もあなたたちとお揃いよ。私がアーチャーのような楽天家で、主人はフィリーと同じ神経質。だからいつも私にヤキモキしていたわ」
エミリーの話にぼくたちはお互いの顔を見合わせて苦い顔をした。だって、アーチャーがぼくのお嫁さんだなんて考えられないもの。
そんな調子でエミリーの焼いてくれたピッチェルと紅茶に舌鼓を打ちながら彼女の家で過ごすこと一時間。白い鳩が午後五時を示す置時計を見たエミリーが、「さぁ、そろそろお開きにしましょう」と言って席を立った。
「今日はあなたたちのおかげで本当に楽しい時間を過ごせたわ。ありがとう」
そういってエミリーは、使い込まれた薄いピンクの革財布を開いて、ぼくたちに10ドルずつ支払った。予定よりも多い報酬だ。
「エミリー! 違うよ! 俺たち二人で一時間で5ドルだ」
「そうです、ぼくたちこんなに貰えないです」
ぼくたちの訴えにエミリーは手を引っ込めて、「あなたたちに渡したお金は、私は絶対に受け取ったりはしません」なんて冗談めかした意思表示をする。
「多い分は、あなたたちに対する私の感謝の気持ちよ。本当に楽しかったんですもの」
「じゃあ、遠慮なくいただきます。ありがとう、エミリー」
「ええ、いいのよ」
エミリーが優しく頷くと、手にしたお金を眺めながらアーチャーが言った。「じゃあさ! 明日こそなにか手伝いをするよ!」
ぼくはアーチャーに賛成だった。実際ぼくたちはアルバイトどころか、豪邸に招かれた客としてもてなされ、クッキーや紅茶をご馳走になっただけ。あとは普段の生活ぶりを話していただけで、仕事らしい仕事なんてなにひとつしていないんだから。
「あら? 嬉しいことを言ってくれるのね。でも本当に気にしなくていいのよ? そのお金はあなたたちに支払うべき正当な対価だと私は思うからよ」
エミリーがぼくたちを玄関まで送ってくれる。
「じゃあまた明日、同じくらいの時間に伺います」
ぼくがそう言うと、エミリーは嬉しそうに言った。
「本当に気にしないでね、でも明日も来てくれるなら嬉しいわ」
†‡†
エミリーの屋敷を出たぼくたちは、ベインブリッジ通りをサウス22番通りに向けて西に歩く。
「こんなにたくさん貰ってしまって本当によかったのかな?」
隣を歩くアーチャーは笑いが止まらないようだった。不安なぼくの気持ちなんてこれっぽっちも相手にしない。
「俺たちやっぱりツイてるんだよ! あんな楽な仕事でこんなに貰えるなんて! それにしても金持ちって、やっぱり羽振りがいいんだな!?」
ステップを踏みながら歩くアーチャーに少し不快感を覚えながらも、「明日こそなにかエミリーの手伝いができるといいね」とぼくが流すと、なにを思ったのかアーチャーが突然言い出したんだ。
「別に来ても来なくてもどっちでもいいって感じだったし、俺たちが明日また邪魔しに行ったら、エミリーも気を使って疲れるよ。それに目標の金額は稼いだんだ。アルバイトはもういいだろ?」
「どういう意味?」
「なにが? どういう意味って、そのままのことだろ?」
信じられない言葉にぼくは戸惑った。今日貰った10ドルは、エミリーがちゃんと今日の分としてくれた報酬だから、それを素直に受け取ったって悪いことじゃない。でも、ぼくたちは「明日も来ます」と約束した訳だし、エミリーもそれを嬉しいと言ってくれたんだ。
アーチャーはその約束を、まるで社交辞令にでも扱っているのか? ――そう感じてぼくは少し悲しかった。
「じゃあまた明日な!」
ぼくのモヤモヤなどまるで気づかないのか、アーチャーはいつもの屈託ない笑顔で手を振る。あまりに自然な彼に、ぼくはエミリーの言葉を思い出していた。
『あなたは少し神経質なところがあるようね……』
たしかにぼくの考えすぎなのかもしれない。話の流れで思ってることが言葉として出てきてしまうことだってよくあるから。たとえ本当にそうするつもりなんてなくてもね。
†‡†
「パパ! ただいま!」
アーチャーを見送って家に入ると、キッチンではパパが夕食の支度をしているところだった。野菜庫から出した野菜を品定めしながら嬉しそうに笑う。
「おかえり! なあ、ちょっと見てくれ、このアーティチョーク、安かったから買ってみたんだけど、どうやって使えばいいんだろうなぁ? サラダとかにお勧め! って書いてあったんだけど……ポテトみたいに茹でればいいのかな?」
パパは珍しくテーブルの上に本を広げて、野菜料理のページを調べていた。お金をさりげなく返すにはいいタイミングに思えて、楽しそうなパパにぼくは口を開きかける。
「ねぇ、パパ、失くし――」
失くした5ドルが見つかったよ――声を掛けようとして、その言葉を咄嗟にぼくは飲み込んだ。
「ん? なにか言ったかい?」
覗き込んでいたレシピ本のページから顔を上げてパパがぼくに訊く。
「きょ……今日の夕食はなに?」
うっかりしていた。エミリーに貰った報酬は10ドル紙幣。つまり、どこかで両替するなり、なにか買い物するなりして5ドル紙幣を手に入れないと、落としたお金が見つかった! なんて嘘も通用しない。
「そうだなあ……やっぱりサラダはよくわからないから、今日はシチューかなあ?」
パパは両手にアーティチョークとオニオンを掴んで、わずかに付いていた土を拭うとエプロンに擦りつけた。
「ちょっとパパ! ちゃんとキッチン用のエプロンに替えないと ママに見つかったらまた大目玉だよ?」
慌ててデニムエプロンを脱いでキッチン用の薄手のエプロンに着替えたパパは、「黙ってろよ?」と言わんばかりに目配せしてペロリと舌を出して笑った。
「そろそろ帰ろうか?」
半ば諦めかけたぼくがアーチャーに訊くと、彼も重い腰をゆっくり持ち上げる。
「そうだな、きっと明日はすぐにでも見つかるよ! どのみち今、誰かに声をかけてもらっても、もう帰る時間だしな」
気を取り直したアーチャーの元気な声に、ぼくも少し安心する。ぼくたちは立ち上がりセントアルバンスプレイスへと歩き出した。
フィッツウォーター通りを少し西に歩くと――家路に向かう時間なんだろう――サウス21番通りをたくさんの車が走っている。この通りに沿ってまっすぐ南へ進み、クリスチャン通りにぶつかる交差点が、ぼくたちの小学校だ。
ぼくたちは学校方面へは向かわず、そのままフィッツウォーター通り沿いにサウス21番通りを横断し、さらに西へと歩いていく。
「プロヴォローネ……チーズ……ステーキ……」
アーチャーが、通り沿いにあるダイナーの前で突然立ち止まると羨ましそうに店内の食事客を見つめて訳のわからない台詞を呟いた。赤い看板には、『エピキュリアン』のトレードマーク、ウインクをした牛がアロモソっていうロールパンを持ってにこやかに笑っている。地味にシュールな絵ではあるけど、このダイナーはフィラデルフィア名物のチーズステーキサンドイッチが食べられるお店で、いつも大勢のお客さんで賑わう人気店だった。
豊富なメニュー! 手頃な価格! ボリューム満点!
三拍子そろった店だ。
「ほら、アーチャー! ぼくたちここで食事をするお金なんてないんだから、早く帰ろう!」
疲れ果てた牛車の牛のように微動だにしない彼を引きずろうと、必死で引っ張るけど無駄だった。そんなぼくたちの様子をお店から出てきた年老いた女性が物珍しそうに見ている。ぼくはあまりに恥ずかしくて、チーズまみれでアロモソに挟まった炙り焼きの削り肉になった気分になる。
「ほら!? アーチャー! お店のお客さんにも変な目で見られてるよ? 恥ずかしいから早く行こうよ!」
「プロヴォローネ……チーズウィズ……アメリカン……いや、やっぱりプロヴォローネ……」
アーチャーは、まだぶつぶつと奇妙な呪文を唱えている。チーズを脳内で選んでるんだろうけど、どうだっていいよ! さらに力いっぱい引っ張っていると、そんな様子を見ていたお婆さんが近づいてきて声を掛けた。
「ねぇ、あなたたち。そのプラカードに書かれていることは本当なの?」
突然のことで思いもよらず、ぼくたち二人は固まったままポカンと口を開けてお婆さんのことを見上げてしまった。
「あの……言葉、わかるかしら?」
そんなぼくたちを不思議そうに見ながら、もう一度お婆さんが訊いてくる。
「も……もちろんです! わかります!」
「よかったわ! そこに書かれてるアーチャーとフィリーというのは、あなたたちのことかしら?」
「はい! 彼がアーチャーでぼくがフィリップスです」
「そう」
我に返ったぼくが丁寧に答えると、お婆さんは安心したように優しく微笑んだ。身なりの綺麗な小柄のお婆さんで、ブルーの瞳がとても印象的。子供のぼくたち相手にも丁寧に話してくれる好感を持てる人だった。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れてしまったわね。私はエミリー・グランドよ。お店を出たら、あなたたちが手に持っていたプラカードの内容に興味を引かれて声を掛けさせてもらったの」
「はい! ぼくたちでできることなら、なんでもお手伝いさせてください!」
アーチャーはまだ口をポカンと開けたままだ。お婆さんは嬉しそうにその円らな瞳を細める。でも、今日はもうできません――ぼくがそう続けざまに説明しようとすると、お婆さんは口を開きかけたぼくを優しくさえぎった。
「わかってるわ、今日はもう遅いからお家の人が心配するものね。明日、あなたたちの学校が終わってからでいいのよ。それならお願いできるかしら?」
ようやくアーチャーも状況が呑み込めてきたのか、ぼくたち二人は顔を見合わせる。願ってもない話だ。
「ありがとうございます! 必ずお役に立ちます!」
そんなぼくたちの不慣れな言葉遣いに、お婆さんは両手で口を覆って小さく笑った。色々と見透かされている気がして恥ずかしくなる。
「私の家は、この通りの二本北のベインブリッジ通りよ。ちょうど家の向かいに雑貨屋さんがあるから、すぐにわかると思うわ」
ベインブリッジ通りの雑貨屋といえば、『ネストオブラビッツ』のことだ。お婆さんと別れたぼくたちは、その店の向かいにある大きな屋敷の話で盛り上がった。
「しかし、まさかあのでかい屋敷のお婆さんだとはな!?」
興奮気味にアーチャーが話す。『ネストオブラビッツ』――うさぎの穴蔵と言うへんてこな名前のこの雑貨屋は、置いてある雑貨もへんてこなものが多い。ぼくが集めているポストカードやピンバッチもここで買っている。向かいに建つ大きな屋敷を見て、一体どんな大金持ちが住んでいるんだろうといつも思っていた。
「ぼくも驚いたよ! あの店に行くたびにどんな人が住んでるんだろうって思ってたからさ!」
自分たちの身近にある謎のひとつが解けたようで、なんだかぼくも嬉しかった。
「でもさ、明日は一体どんな仕事を頼まれるのかな? 大きな家だし、掃除するっていっても大変そうだよな!」
――しまった! 仕事の内容を聞くのを忘れていた!
アーチャーがそう言い出すまで、アルバイトのことなどすっかり頭から飛んでしまっていたことに気づく。
「本当だね、お手伝いに行って、逆に迷惑をかけないように頑張らなきゃね」
内容をしっかり聞かずに安請け合いをしてしまったことについてはお腹がキリキリと痛む思いだけど、楽天的なアーチャーは随分と楽しそうな顔をしていた。
†‡†
フィッツウォーター通りをまっすぐ西に歩くぼくたちは、やがてサウス22番通りにぶつかり南に曲がる。交差点にある銀行の白い時計が六時三〇分を示していた。そのままセントアルバンス通りを西に進み、通りをさらに抜けたアルバンスプレイスに到着したのは七時前だった。
「じゃあまた明日な!」
アーチャーを見送って家に入るとママがキッチンから顔を出す。
「あら、フィリー、お帰り。あなたがなかなか帰ってこないものだから、パパが仕事も手につかずにソワソワしっぱなしよ」
笑いを堪えながら話すママの後ろから、ぼくの帰りを待ち侘びたパパが口を尖らせてぼくを睨んだ。
「遅かったじゃないかフィリー。あまり遅くならないようにって言っただろう?」
膨れっ面でひょっこりと顔を出すパパはまるで大きな子供のよう。
「ごめんねパパ、夢中で遊んでたらつい時間を忘れちゃって」
ぼくの姿を見て安心したパパは、膨らました頬を萎めると、「手を洗って食事にしよう」と笑って許してくれた。
食事の後、パパに誘われて一緒にお風呂に入る。
「ねえ、パパ、ベインブリッジ通りにある雑貨屋の向かいにさ、すごく大きなお屋敷があるだろ? あそこに住んでいるお婆さんに今日会ったんだよ。すごく上品な人だったよ!」
「雑貨屋というと、お前がいつも行くネストオブラビッツかい? へぇ……あの大きなお屋敷のねぇ。そのお婆さんは一人で住んでいるのかい?」
「そこまではわからないよ。でもずっと、あそこにはどんな人が住んでるんだろうって思ってたから、その謎がひとつ解けてものすごくスッキリしたよ!」
ぼくの頭をガシガシと洗いながらパパは愛しそうに呟いた。
「お前は日々どんどん成長していってるんだね。パパはそれが嬉しくもあり、なんだか寂しくもあるよ」
「どういうこと?」
振り返ると、パパはニッコリ笑ってぼくにシャワーを浴びせた。
「ちょっ! ちょっとパパ!?」
「ほらほら! 目を閉じないと泡が目に入って沁みるぞ?」
バシャバシャと無邪気に浴びせるパパは、まるで子供のまま大人になったいたずら坊主のようだった。その夜、ベッドに入ったぼくはジオラマ作りや、一日一枚のイラスト練習のことなどすっかり忘れて、泥のように眠りに落ちていった。
†‡†
翌日授業が終わるとお婆さんとの約束どおり、ベインブリッジ通りのお屋敷へと向かう。サウス21番通りを北上しベインブリッジ通りを左に曲がれば、あとはまっすぐだ。
「ねぇ? アーチャー! ネクタイ曲がってない? 手土産とか買っていかなくて大丈夫かな?」
ぼくの混乱ぶりに、アーチャーが呆れてため息をついた。
「なぁ、フィリー? 俺たちはなにもお婆さんの開くお茶会に誘われた訳じゃないんだぜ? アルバイトに行くんだ」
そんなアーチャーが、今日はとてもたくましく見える。
「そうだったね! ごめん、ぼく初めてだから緊張しちゃって……」
頼りないぼくに、アーチャーはクスリと笑った。
「大丈夫だよ! 俺だって初めてなんだ。できないことはお互いにカバーし合えば楽勝だ」
楽天的なアーチャーだけど、彼がいてくれて本当に心強い。
ストリートを北に進み、ベインブリッジ通りに差し掛かるころ、ぼくは無意識にポケットに忍ばせた6ペンスコインを握りしめていた。なんだかこのコインが本当に幸運を運んでくれそうな気がして、パパの誕生日までは肌身離さず持っておくことに決めた。
ベインブリッジ通り沿いに少し歩くと、左側にネストオブラビッツが見えてくる。通りを挟んだ反対側がお婆さんのお屋敷だ。玄関のベルを鳴らすと、すぐにインターホン越しにお婆さんの弾むような声が聞こえた。
「待っていたわ。さぁ、入ってちょうだい。今日はピッツェルを焼いたのよ! もうすぐジンジャークッキーも焼きあがるから」
待ち侘びた様子で招き入れるお婆さんに、ぼくたちは顔を見合わせる。立派なキッチンカウンターのついた広いリビングに通されると、テーブルに着くように促され椅子に座る。カタツムリみたいな曲線が多用されたアームチェアは古いんだろうけど、艶々に磨かれた革の座面は鋲打ちされていて、脚なんてチェスの駒みたいに見事だった。こんな立派なチェア、美術館でしか見たことないよ……。
「温かい紅茶でいいかしら? 今日マーケットに出掛けて、とても素晴らしい茶葉を買ったのよ。ファーストフラッシュのダージリンなの。うふふ、DJ1なのよ。こんなことを言っても、あなたたちにはわからないわね」
ぼくたちはお婆さんに言われるがまま、ただただ頷いた。キッチンで支度をしてくれているお婆さんを後目に、ぼくとアーチャーは小声で話し始める。
「ねぇ……まるでぼくたちお客さんみたいだね?」
「本当だな、これじゃ本当にお茶会のお客さんだよ。あの婆さん、なにか勘違いしてるんじゃないのか? 大丈夫かな」
さすがのアーチャーもお婆さんの言動に少し戸惑っているのか、居心地悪そうに足をばたつかせた。部屋中に焼き上がったばかりのクッキーの香りが広がっている。お婆さんは紅茶と一緒に焼き上がったばかりのクッキーを持ってテーブルにやって来た。
「さぁ、焼き上がったわ。一緒に食べましょう」
そういって椅子に座るお婆さんに、アーチャーが言う。
「あの、グランドさん? 俺たちアルバイトに来たんだけど、今日はなにをすればいいの?」
アーチャーがおずおずと訊ねると、彼女は笑いながらクッキーをパクリとやって、その出来映えに親指を立ててぼくらに目くばせした。さあ、あなたたちも食べて、っていうみたいに。
「エミリーと呼んでちょうだい。そして、あなたたちのアルバイトなら、もう始まっているわ」
含みのあるそんな言い方で、エミリーは茶化した。
「どういうことですか?」
「あら? こんなお婆さんと一緒にお茶を飲んでクッキーをかじって、お話するのだって立派な仕事でしょう?」
エミリーの考えが見えない。訳がわからないけど、ぼくたちは勧められるがままに熱々のクッキーを手に取る。
「もちろん、お給料だってちゃんと支払いますから、安心してちょうだい。ねえ、それよりもお味の感想を聞かせてくれないかしら。久しぶりに腕によりをかけて焼いたのよ」
そう言いながら、エミリーはその細い手の平を耳に当てて傾けるような素振りをする。ピッツェルと呼ばれたパリパリのクッキーは、すごく薄くて丸いワッフルみたいな形をしていて、そんな高級なお菓子を見たことも聞いたこともないぼくの横で、アーチャーが「マンホールの蓋みたいだぜ」と呟いたほどだった。
でもいったん口に運ぶと、その香ばしい風味とサックサクの歯ざわりに、ぼくたちは夢中になって口に詰め込んでいった。隣には細工の施された小ぶりの白いお皿に生クリームとチーズが載せられていて、赤いベリージャムも添えてある。「ほら、これはこうやって挟んでタワーのように積み重ねても楽しいのよ?」とエミリーはにっこり笑って、しきりに次々新しい食べ方を勧めてくる。
ジンジャークッキーはきっとシンプルな作りだったと思うけど、かじった瞬間から口いっぱいにジンジャーの香りが広がって、エミリーが淹れてくれた紅茶によく合った。そのすべてがまるで一流のパティシエが高級レストランで出す焼き菓子のような上品さだ。
まぁ、もっとも一流のパティシエが作ったお菓子なんて食べたこともないから、あくまでイメージなんだけどね。はっきりいえるのは、ぼくが毎日食べているギャレット社のストロベリークリームサンドビスケットよりも、どれも高級な味がしたってことだ。
「とっても美味しいです! 口当たりがとても上品な感じがします!」
「あら? フィリー。あなたってあまり素直じゃないのね」
グルメリポーターみたいに思いつくままぼくがクッキーを褒めると、その褒め方に違和感を覚えたのか、エミリーは意地悪そうに笑ってティーカップを揺らすと、紅茶の表面を愉しむように眺めている。
「いや! 確かにフィリーの言うとおりだよ! 俺たちが普段食べてるスナック菓子やビスケットよりも上品な味がするよ!」
食べ物に関しては少しうるさいアーチャーが、ピッツェルを次々に平らげながら話すと、そんなぼくたちを彼女は本当に嬉しそうに眺めながら色々と訊ねた。好きな授業のことや家族構成、学校で流行ってるものや、休みの過ごし方に、好きなスポーツ――。とにかく引っ切りなしに質問して、ぼくたちが答えるたびに嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇ、ところでエミリーの家族は?」
口をいっぱいにしながらふとアーチャーが訊ねると、ほんの一瞬、エミリーのブルーの瞳が涙で潤ったように見えた。
「……主人は三年前に病気で亡くなって、それからはひとりでここで暮らしているわ」
「こんな大きな家に一人っきりで!?」
失礼な質問をしたお詫びよりも、アーチャーはエミリーがたった一人でこの家に暮らしていることに驚いていた。
「えぇ、そうよ。私ひとりにはここは大きすぎるけれど……この家には主人との思い出がたくさん詰まっているの」
エミリーの話を聞いてるのかいないのか、アーチャーは部屋中を舐めるように見渡している。
「ごめんなさい、エミリー。アーチャーが失礼なことばかり訊いて……」
気を利かせてぼくが謝ると、エミリーは目を丸くして大袈裟に笑ってみせた。
「まあ! あなたは少し神経質なところがあるようね、フィリー。その逆でアーチャーは楽天家。だから二人とも、一緒にいて飽きないのね」エミリーが手を叩きながら笑う。本当に楽しそうだ。
「私と主人もあなたたちとお揃いよ。私がアーチャーのような楽天家で、主人はフィリーと同じ神経質。だからいつも私にヤキモキしていたわ」
エミリーの話にぼくたちはお互いの顔を見合わせて苦い顔をした。だって、アーチャーがぼくのお嫁さんだなんて考えられないもの。
そんな調子でエミリーの焼いてくれたピッチェルと紅茶に舌鼓を打ちながら彼女の家で過ごすこと一時間。白い鳩が午後五時を示す置時計を見たエミリーが、「さぁ、そろそろお開きにしましょう」と言って席を立った。
「今日はあなたたちのおかげで本当に楽しい時間を過ごせたわ。ありがとう」
そういってエミリーは、使い込まれた薄いピンクの革財布を開いて、ぼくたちに10ドルずつ支払った。予定よりも多い報酬だ。
「エミリー! 違うよ! 俺たち二人で一時間で5ドルだ」
「そうです、ぼくたちこんなに貰えないです」
ぼくたちの訴えにエミリーは手を引っ込めて、「あなたたちに渡したお金は、私は絶対に受け取ったりはしません」なんて冗談めかした意思表示をする。
「多い分は、あなたたちに対する私の感謝の気持ちよ。本当に楽しかったんですもの」
「じゃあ、遠慮なくいただきます。ありがとう、エミリー」
「ええ、いいのよ」
エミリーが優しく頷くと、手にしたお金を眺めながらアーチャーが言った。「じゃあさ! 明日こそなにか手伝いをするよ!」
ぼくはアーチャーに賛成だった。実際ぼくたちはアルバイトどころか、豪邸に招かれた客としてもてなされ、クッキーや紅茶をご馳走になっただけ。あとは普段の生活ぶりを話していただけで、仕事らしい仕事なんてなにひとつしていないんだから。
「あら? 嬉しいことを言ってくれるのね。でも本当に気にしなくていいのよ? そのお金はあなたたちに支払うべき正当な対価だと私は思うからよ」
エミリーがぼくたちを玄関まで送ってくれる。
「じゃあまた明日、同じくらいの時間に伺います」
ぼくがそう言うと、エミリーは嬉しそうに言った。
「本当に気にしないでね、でも明日も来てくれるなら嬉しいわ」
†‡†
エミリーの屋敷を出たぼくたちは、ベインブリッジ通りをサウス22番通りに向けて西に歩く。
「こんなにたくさん貰ってしまって本当によかったのかな?」
隣を歩くアーチャーは笑いが止まらないようだった。不安なぼくの気持ちなんてこれっぽっちも相手にしない。
「俺たちやっぱりツイてるんだよ! あんな楽な仕事でこんなに貰えるなんて! それにしても金持ちって、やっぱり羽振りがいいんだな!?」
ステップを踏みながら歩くアーチャーに少し不快感を覚えながらも、「明日こそなにかエミリーの手伝いができるといいね」とぼくが流すと、なにを思ったのかアーチャーが突然言い出したんだ。
「別に来ても来なくてもどっちでもいいって感じだったし、俺たちが明日また邪魔しに行ったら、エミリーも気を使って疲れるよ。それに目標の金額は稼いだんだ。アルバイトはもういいだろ?」
「どういう意味?」
「なにが? どういう意味って、そのままのことだろ?」
信じられない言葉にぼくは戸惑った。今日貰った10ドルは、エミリーがちゃんと今日の分としてくれた報酬だから、それを素直に受け取ったって悪いことじゃない。でも、ぼくたちは「明日も来ます」と約束した訳だし、エミリーもそれを嬉しいと言ってくれたんだ。
アーチャーはその約束を、まるで社交辞令にでも扱っているのか? ――そう感じてぼくは少し悲しかった。
「じゃあまた明日な!」
ぼくのモヤモヤなどまるで気づかないのか、アーチャーはいつもの屈託ない笑顔で手を振る。あまりに自然な彼に、ぼくはエミリーの言葉を思い出していた。
『あなたは少し神経質なところがあるようね……』
たしかにぼくの考えすぎなのかもしれない。話の流れで思ってることが言葉として出てきてしまうことだってよくあるから。たとえ本当にそうするつもりなんてなくてもね。
†‡†
「パパ! ただいま!」
アーチャーを見送って家に入ると、キッチンではパパが夕食の支度をしているところだった。野菜庫から出した野菜を品定めしながら嬉しそうに笑う。
「おかえり! なあ、ちょっと見てくれ、このアーティチョーク、安かったから買ってみたんだけど、どうやって使えばいいんだろうなぁ? サラダとかにお勧め! って書いてあったんだけど……ポテトみたいに茹でればいいのかな?」
パパは珍しくテーブルの上に本を広げて、野菜料理のページを調べていた。お金をさりげなく返すにはいいタイミングに思えて、楽しそうなパパにぼくは口を開きかける。
「ねぇ、パパ、失くし――」
失くした5ドルが見つかったよ――声を掛けようとして、その言葉を咄嗟にぼくは飲み込んだ。
「ん? なにか言ったかい?」
覗き込んでいたレシピ本のページから顔を上げてパパがぼくに訊く。
「きょ……今日の夕食はなに?」
うっかりしていた。エミリーに貰った報酬は10ドル紙幣。つまり、どこかで両替するなり、なにか買い物するなりして5ドル紙幣を手に入れないと、落としたお金が見つかった! なんて嘘も通用しない。
「そうだなあ……やっぱりサラダはよくわからないから、今日はシチューかなあ?」
パパは両手にアーティチョークとオニオンを掴んで、わずかに付いていた土を拭うとエプロンに擦りつけた。
「ちょっとパパ! ちゃんとキッチン用のエプロンに替えないと ママに見つかったらまた大目玉だよ?」
慌ててデニムエプロンを脱いでキッチン用の薄手のエプロンに着替えたパパは、「黙ってろよ?」と言わんばかりに目配せしてペロリと舌を出して笑った。