「ただいま!」
ぼくがアパートに戻ると、今日もデニムエプロンを絵の具でドロドロにしたパパが、仕事部屋から顔だけ出してぼくを出迎えてくれる。
「おかえりフィリー! パパ、お腹ペコペコだよ」
さあ、なんて言おう。待ってました! とばかりに屈託なく笑うパパに、ぼくは申し訳ない顔をしなくちゃならない。
「ゴメン、パパ。実は約束のピザなんだけど、買ってこられなかったんだ」
手ぶらのぼくを見て不思議そうにパパは訊く。
「お店、休みだったのかい?」
そう訊ねるパパに、相変わらずバツの悪そうな顔でぼくは言った。
「それがね、アーチャーの持ってたクーポン券の期日が去年のだってことに気づいて、ピザを買うのを諦めたんだよ」
「そりゃあ残念だったね、アーチャーも気の毒に、さぞ楽しみにしてただろうに」
残念そうにするぼくに、パパはお腹を抱えて笑いながら話す。そんなパパの思いっきり緩んだ表情を見て、ぼくの心も少し救われた気がした。
「そうなんだ! アーチャーったら、今日一日そのことを引きずってて、ものすごく暗い顔をしていたよ!」
面白おかしくアーチャーのことを説明しながら、今日一日彼がどんな表情だったのか、顔真似を繰り返すぼくに、パパは目に涙を浮かべて大笑いする。
「ハァッ、ハァァ……! も、もう勘弁してくれよフィリー。パパはお前が持って帰ってくれるはずだったピザを楽しみに、朝からなにも食べてないんだ。これ以上笑わされたら、お腹が空きすぎて死んでしまうよ」
パパはエプロンのお腹に手を当てて必死に呼吸を整えながら、もう片方の手で目元の涙を拭った。途端に、指についていた水色と黄色の絵の具がパパの目元についてジャングルアートみたいになる。そのやたら自然の色でまだらに汚れたデニムエプロンの風貌なら、きっとサバイバルゲームにだって参加できるはずだよ。でも、とりあえずお腹を空かせているパパに、なにか食べさせなきゃいけない。
「ぼく、コーヒー淹れるよ! それにキッチンになにかないか探してみるね」
「あぁ! いいんだフィリー。それよりもお前に渡したお金で『ハニーボーイ』へ行って、ドーナツとコーヒーを買ってきてくれないか。そのお釣りでお前も好きなドーナツを買っておいで」
ハニーボーイってのは、ちょうどこの通りの一本南に入ったフルトン通りの一画に店を構えるドーナツ屋さんだ。蜂蜜たっぷりのハニードーナツは絶品でしつこくない甘さだし、何個だって食べられそうなほど美味しい。でも、突然のパパの提案に、すでに預かったお金を使い切ってしまっていたぼくはその場で固まった。
「フィリー? どうしたんだい? お前も好きだろう、ハニーボーイのドーナツ。買ってきてパパと一緒に食べよう!」
息子がお金を使い込んでしまったことなど知る由もないパパは、早くドーナツを買ってきてとばかりに不思議そうに催促する。やっぱり駄目だ、これ以上ごまかしきれない。
いよいよ観念して告白しようとするとパパが先に口を開いた。
「まさかフィリー、お前、あのお金を使ってしまったんじゃないだろうね?」
お腹の下辺りが急に重苦しくなる。もじもじともたつくぼくを見てパパが訝しそうに続けた。
「フィリー? なにか言っておくれ、黙ってたんじゃわからないよ、お前はあのお金を、ピザを買わずになにか別の用途に使ってしまったのかい?」
パパの声は怒ってはいない。ちゃんとした理由があるはずだと信じて疑わない――そんな声だった。パパは、あのお金をピザの代金に充てるためにぼくに渡したんだ。まさかそれを別のものを買うのに使ってしまったなんて信じたくもないはずだよ。
怪訝そうにしながらも、パパは優しい表情を浮かべたままぼくの言葉を待っている。パパの選ぶ言葉遣いやその態度のすべてが、どんどん重ぐるしくぼくのお腹を圧迫して目眩を起こしそうだ……。
ピザを買うために貰ったお金で、パパへの贈り物の6ペンスコインを買っただなんて知ったら、きっと素直には喜べないはず。信用してたぼくに裏切られたって考えるかもしれない。
もし本当のことを話したらパパはどれくらい落胆するだろう。もし預かったお金を、ぼくが勝手にプレゼント代に充てたなんて知ったらどんな顔をするのかな……。
そんなことを頭のなかでグルグルと考え始めたぼくは、怖くなって本当のことを話す勇気を失ってしまった。俯いたままで黙り込む。
「フィリー、まさかお前、お金を失くしてしまったのかい?」
そんな都合のいい勘違いに、ぼくは藁にも縋る気持ちで飛びついた。
「ごめんなさい……。制服のポケットに入れてたはずなのに、気がついたらどこかに落としちゃったみたいで……」
ぼくの目が涙目になって、勝手に声まで震えてくる。
「本当だね? 本当に落としただけだね? クラスメイトの誰かに盗られたとか、奪われたとか……そういう訳じゃないんだね?」
パパが躊躇いがちに詮索してくる。この期に及んで、クラスメイトの誰かに恐喝されてお金を巻き上げられたんじゃないか――そんな心配をしているみたいだった。
息子の様子を真剣に伺う心配そうな視線……。ぼくは首を細かく横に振ってその不安を否定した。
「違うよ、パパ。本当にぼくの不注意で失くしてしまったんだ。本当にごめんなさい」
パパに話したことは事実じゃないけど、ごめんなさいと思う気持ちに嘘はない。パパを裏切って悲しませたくない――そんな怯えにも似た不安と反省の色に、ぼくの顔と声色が染まっている。
するとそんなぼくを見て、パパの強張っていた表情は大きな安堵のため息とともに、いつもの優しい表情へと緩んでいったんだ。
「なぁーんだ! びっくりさせるなよフィリー。失くしてしまったものは仕方ないんだから、今度は失くさないように気をつければいいのさ!」パパは笑いながらぼくの頭をガシガシと撫でる。「じゃあお金を渡すから、パパにドーナツを買ってきてくれるかい?」
そんな明るい声に、ぼくはさっきよりも息苦しく感じたほどだった。
「うん」
ぼくはそれを振りほどくように頷くと、パパからお金を受け取る。
「ハニードーナツを二つとコーヒーはわかってるよな? 今度は落とさないようにしっかり握りしめて行くんだぞ?」
そんなふうに冗談めかすパパの顔をまともに見ることができない。
「わかってるよ、パパ。ミルク1にダイエットシュガーをたっぷりだよね」
そう告げると、ぼくは逃げるようにアパートを飛び出した。
†‡†
フルトン通りの住宅街にあるハニーボーイまでは十分とかからない距離だ。住宅の一階部分をテナントとして開放している店内は、とても狭くてテーブルを三つ置くのがやっとのスペースしかない。まあ、だいたいここら辺に住む人たちはテイクアウトするのが基本で、よほど遠くから来たお客さんくらいしか店内では食べないんだけどね。
「よぉ、フィリー! いらっしゃい、今日はアーチャーと一緒じゃないのか?」
ドーナツ屋の主人がぼくの顔を見るなり景気のいい声を上げる。
「こんにちは、ビー。今日はパパに頼まれて買いにきたから、いつもの学校帰りの食べ歩きじゃないよ」
ハニーボーイのスタッフが被る白い帽子には、トレードマークの蜜蜂のクリップが留められている。小さなスプリングのバネでプランプラン揺れるその蜜蜂はすごくかわいいけど、恰幅のいい髭面のビーが着けていると思わず笑いそうになる。本名は知らない。街の人たちがみんな彼を『ビー』と呼ぶので、ぼくもアーチャーもいつの間にかそう呼ぶようになっていた。
「そうか! 君のパパはハニードーナツだったよな! そしてミルク1の――」ビーとぼくが声を合わせる。「ダイエットシュガーたっぷり!」
「あはは! 重なったな! よし待ってろ、すぐ用意するからな」
「うん! ふたつね!」
顔も名前も、好きなドーナツの種類まで主人が覚えてしまうほど、この近辺の住人はみんなハニーボーイのファンだし常連客なんだ。
ビーが手際よくドーナツを紙袋に詰めて、コーヒーを用意してくれるのを待っていると、後ろから「フィリー!」とぼくを呼ぶ声がした。でかい体を忙しそうに揺らしながらアーチャーが近づいてくる。
「お前もドーナツか? 俺もなんだよ。チップスばかり食べてたら甘いのが食べたくなってさ! よぉ、ビー! いつものシュガークランチドーナツひとつ!」
コーヒーを受け取って、ミルクとダイエットシュガーを紙袋のなかへ入れると、アーチャーの注文を聞いたビーが髭面の顎を上にあげて掴んだトングを振り回した。
「アーチャー、お前もハニードーナツにしとけ! 今からそんなんじゃ、すぐに糖尿になっておっ死んじまうぞ!? お前も俺の大事な太客なんだ! まだまだ稼がせてもらわなきゃな!」
主人のビーが、最近太りすぎなアーチャーの身体を心配してるのはすぐにわかった。そんな店主の気持ちなんてわかりもしない太っちょアーチャーは不満を垂れる。
「えぇー? じゃあスリーホットにするかな?」
「なに言ってんだ、スリーホットはもっと駄目だ! お前、帰り道で心臓止まって運ばれちまうぞ!」
「なんだよ、それ……わかったよ」
アーチャーがしぶしぶ頷くと、ビーが「まあ、自分で作っといてなんだけどな!」と豪快に笑いながらも、紙に包んだハニードーナツを手渡していた。
シュガークランチドーナツは、定番のハニードーナツにさらに粉糖をこれでもか! ってくらいにかけたあと、キャラメルシュガーを塗って、ピーナッツのクランチがまぶされたドーナツさ。想像するに難くないよね? カロリーは多分、考えるのも恐ろしい。
『スリーホット(3 HOT)』は、ホット・ホイップ・ホルスター・ドーナツって名前で、ショーケースのど真ん中に陳列されているんだけど、見た目は――サンタクロースの白い髭みたいな大量のホイップクリームが、温かいドーナツにドカンと載せられているんだ、それこそ竜巻のようにね。甘党を自他ともに認めるドーナツマニアには、健康を拳銃でぶち抜かれて犠牲にしても食べたい――そんな堪らなさなんだろうけどね。
†‡†
店を出たアーチャーは、不服そうにさっそくドーナツを頬張った。
「チェッ! 俺はもっと甘いのが食べたかったのに! 客の注文を勝手に変えるなんて横暴な親父だよ!」
そう言いながらも、甘さで顔がにやけている。
「ビーも君の体のこと、心配してるんだよ」
ぼくが苦笑いしているとアーチャーがふと思い出したように訊ねた。
「それより泣いてたのか? フィリー? 目が真っ赤だぜ?」
見透かされて恥ずかしくなったぼくは、咄嗟に顔を逸らして話題を変える。
「そう言えば、シクサーズのオカフェーとエンビードがツインタワーでディフェンスの要になるんだって! 君知ってた?」
「どうしたんだよ? 家でなにかあったのか?」
アーチャーとは生まれたときからの大親友だ。こんなぼくの薄っぺらなごまかしなんて、簡単に見抜かれてしまう……。
「実はね――」
観念したぼくが家でのやり取りを話すと、アーチャーはいつになく真剣な顔で一緒に悩み始めた。
「パパに本当のことを言って謝りたいんだけど、そんな勇気がなくってさ……」
俯きながら歩くぼくの横顔を、アーチャーがじっと見つめている。
「お金も返したいけど、おこづかい日まではまだ少しあるし……」
するとなにか閃いたのか、アーチャーが突然声を上げた。
「それだよ! お金をパパに返すんだよ!」
「どういうこと?」
不思議に思ってそう聞くと、アーチャーは嬉しそうに、「まぁ俺に任せとけよ! いい考えがある!」と目を輝かせた。
「とにかく任せろ! その代わり明日は夕方まで付き合えよ!」
そういって、もやもやとするぼくをよそに突然走り出していく。結局、なにもわからないまま一人残されたぼくも、足取り重くアパートへと戻った。
†‡†
「ただいま、パパ。ドーナツ買ってきたよ」
ドアを開け玄関から声をかけると、ソワソワしたパパが二階から降りてきた。
「おかえりフィリー! さぁ、ドーナツを食べよう。パパお腹がペコペコだ」
嬉しそうに腰掛けるパパに、ぼくは食器棚からお皿を取り出すと、今買ってきたドーナツを並べてコーヒーと一緒にパパの前に置いた。テーブルに置かれた一人分のドーナツを見て不思議そうにパパが訊く。
「フィリー? お前は買ってこなかったのか?」
「うん、そんなにお腹空いてないんだ。それより本当にごめんなさい。ランチが遅くなっちゃって」
パパは隣の椅子を引き、ぼくに座るように促した。
「フィリー、お金のことは本当にもういいんだよ。失くしてしまったものは仕方ないんだから。さあ、パパのをひとつやろう」
そういってパパは、自分の分のドーナツをひとつとって頬張ると、お皿ごとぼくの前に置いてくれた。そんな優しさと、パパへの後ろめたさが涙腺を刺激して、涙がポロポロとこぼれ落ちていく。頬が熱いと感じてしまうくらいに。
「パパ……ごめんね……」
そう呟くのに精一杯なぼくの肩を、パパは力強く摩ってくれた。
ドーナツを食べ終わったぼくは部屋に篭り、時間を忘れるくらいにジオラマ作りに熱中した。やがてママとアイリーンが帰ってくる。
「ただいま! サウスサイドピザでピザを買ってきたわ! ちょっと奮発してエニートッピングよ。ご飯にしましょう」
下へ降りると、ダイニングいっぱいに美味しそうな香りが充満していた。テーブルの上に置かれた、見慣れたロゴマークのシールが貼られただけのそっけない白いテイクアウト用ボックスから、見事なホールパイが顔をのぞかせている。
トマトに交じってクタクタになったフレッシュバジルの素晴らしい香りと、焼き立てのフレッシュモツァレラの焦げた匂い、そして、アンチョビの磯の少しだけ塩っぽい香りがぼくの食欲を刺激する。いつもお店では1スライスしか食べたことがないから、サウスサイドピザのホールパイ、しかもエニートッピングだなんて豪華すぎだよ。
「おお、フレッシュモツァレラだね! マッシュルームも載せてあるかい? アイリーン、オリーブオイルを出して」ピザを眺めるぼくの横でパパが笑う。「ラッキーだったなフィリー。もしお金を失くさずにあのままピザを食べていたら、食いつきの悪いお前を見て二人ともきっと怪しんだに違いないよ。それに、こっちのがずっと豪華だ」
小声でウィンクしながら肘で突いてくるパパにぼくは頷いて笑った。
†‡†
食事の後、再び部屋でジオラマ作りに熱中しながら、ふとママにおこづかいの前借りを頼めないかと考えた。これまでママには一度だってそんなお願いをしたことがない。だからひょっとしたら貸してくれるかも? って思ったんだ。
でも、もしママがパパにそれを話してしまったら、ぼくの計画は成り立たない。だってぼくが借りたいのは、パパに返す『失くしたはずのお金』なんだから。困ったな、じゃあアイリーンにお金を借りる? いや、あのお姉ちゃんがパパやママに黙っててくれるはずがないから、この考えも賢くはない……。
気づくと刷毛を握った手が止まっていた。ちっともジオラマづくりに集中できない。思い悩んで、ただ時間だけが過ぎていっている。
ぼくは手元の緑色に塗られたスポンジの屑を見ながら、いくら考えても上手くいきそうにない嘘の上塗りに息が詰まりそうになって、その日はそのままベッドに潜り込んで眠ってしまった。
翌朝、いつものようにアーチャーが迎えにくる。
すでに朝食を食べ終えたぼくは、パパとママにキスをして家を出ようとして、「明日は俺に夕方まで付き合えよ」っていうアーチャーの言葉を思い出していた。
「ぼく、今日はアーチャーと遊んでくるから夕方まで帰らないよ!」
座って食事を取るパパとママに声をかけると、二人とも「そう、あまり遅くならないようにね」とあっさり送り出してくれた。
玄関前では、ものすごい笑顔をこぼしながらアーチャーがぼくを待っていた。
「よぉ、フィリー! 昨日はよく眠れたか? さぁ、行こうぜ!」
「アーチャー? 今日は夕方まで何に付き合えばいいの?」
ニタニタと笑いながら、アーチャーはぼくを引っ張るように歩き出す。そして鞄から大きな青色の画用紙を取り出すと嬉しそうに話し出した。
「これだよ! コレコレ!」
青色の大きな画用紙には、お世辞にも綺麗とは言えない汚らしい文字でこう書いてあった。
アーチャー&フィリー
あなたのお家のお手伝いします
時給は2人で5ドル
驚きのあまり、目を丸くしてアーチャーを見ると、彼は「どうだ!?」と言わんばかりの得意げな顔で、鼻の頭を掻きながら言った。
「お前のついた嘘を、本当にしてしまえばいいんだよ!」
「驚いたよ! 君はアイデアマンだね! でもぼくたちにアルバイトなんてできるのかな?」
自信なさげなぼくの肩を叩いて、アーチャーは大きく笑った。
「大丈夫さ! 俺たちみたいのに難しい仕事なんてさせないよ!」
自信満々のその言葉に少しだけ勇気が湧いてくるけど、それはそれで頼りないな……。
†‡†
授業中はアルバイトの件で頭がいっぱいだった。どんな仕事をさせられるのかとか、自分にできるだろうか? とか……。
なにか失敗してしまったら、困ったことになるかもしれないぞ――そんな不安と期待でいっぱいで、先生の声なんてとてもぼくの耳には入らなかった。
でも一時間働いて二人で5ドルなら、二時間アルバイトすればパパにお金が返せる。学校の落とし物箱(lost‐and‐found box)にあった――とかなんとか言えば、きっと信じてくれるはずだ。
思い悩みながらもぼくは、長い授業時間のすべてを使って、徐々に人生初めてのアルバイトに期待を膨らませていった。
放課後、アーチャーはぼくを連れて校舎の裏へと歩き出す。
「どこに行くのアーチャー?」
「裏庭の魔術師、ベンジャミンのとこさ!」
「ベンジャミンって、用務員の?」
裏庭ってのは大げさだけど、用務員の彼はだいたいいつも校舎裏で掃除をしている。
「ほら、プラカードを作って街を歩けば目立つだろ? 首から下げてもいいけど俺たちはまだ背が低いからな、看板みたいにして手で持つんだ! 仕事の依頼もすぐに舞い込むぜ!」
「なるほど! アーチャー頭いいね!」
今日のうちに二人で10ドルを目標にするなら、二時間働かなきゃならない。少ない時間で一刻も早く依頼人を探す必要のあるぼくたちにとって、プラカードは一役買ってくれるはず! ぼくたちは校舎の裏で作業をするベンジャミンに声をかけ、要らない木材を分けてもらうことにした。
「あっ! いたいた! おーい、ベンジャミン!」
校舎裏で掃除をしていたベンジャミンを見つけると、アーチャーが嬉しそうに駆け寄る。
「そんなもの、なにに使うんだい?」
不思議そうにするベンジャミンにぼくたちは答えた。
「持ち手の付いたプラカードを作りたいんだ。ほら、街頭でたまにみかける看板みたいなやつだよ。ただの棒きれでもいいからなにか持ち手になるようなものを分けてくれませんか?」
「持ち手ねぇ……」ベンジャミンは暫く考えると、思い出したように物置小屋の扉をガチャガチャと開けて、なかへ入るとすぐに出てきた。「こんなものでいいなら持っていって構わないよ。持ち手が折れてしまってるが、テープで補強してあるから充分使えると思うしね」
彼が手に持って出てきたのは、フィールドデー(運動会)で使った小振りなプラカードだった。
「うわあ!」
まさにピッタリほしかったものが見つかってぼくたちは驚き喜んだ。
「ありがとう、ベンジャミン! じゃあ貰っていくね!」
手を振って彼と別れると、アーチャーはさっそく画用紙にテープを貼り、プラカードと固定していく 。
「なんだかすごく順調に運んでる気分だな!? きっと今日中にお前のパパにお金を返せるぞ!」
確かにものすごく順調に流れてる気分だ。ふと、ぼくはレインボーフロッグで買った6ペンスコインを思い出してポケットに手をやる。コインの入っていた入れ物は家に置いてきてしまったけどピカピカと銀色に光るコインがぼくのポケットの奥で輝いていた。
「さぁ! 行こうぜフィリー!」
アーチャーが飛び抜けて明るい声で言うと、ぼくも同じ調子で返事をした。
「そうだね! アーチャー!」
†‡†
ぼくたちは学校を出て、プラカードを掲げながらクリスチャン通りを練り歩く。
「アルバイトしまーす! アルバイトさせてくださーい!」
大声を張り上げるぼくらの脇を大勢の人が通り過ぎていった。やはりそれなりに目立つのか、注目を浴びているようで少し恥ずかしい。もちろん、そのためにやっていることなんだけどね。
少しだけ顔を隠すようにプラカードを上げながら、「アルバイトしまーす!」と声を張り上げると、「ねぇ、あなたたち? アルバイトしてくれるの?」と一人の女の人が声を掛けてきた。クリスチャン通りを歩いてから五分も経っていない。
「はい! ぼくたちでできることならなんでもします!」
幸先のいいスタートにはきはきと答える。
「ベビーシッターを頼みたいんだけど、夕方六時から十時よ」
ぼくらは顔を見合わせた。どちらともなく気まずい顔になりアーチャーから無言のバトンを受け取ると、ぼくは断りの言葉を返した。
「……ごめんなさい、その時間はぼくたち家に帰らなきゃならないから、その仕事はお請けできません」
「あらそう、残念ね……」
女の人はとても名残惜しそうに立ち去った。仕事が受けられなくて残念がってるぼくたちと同じくらいに。
「惜しかったな! 今から六時までなら引き受けたのに」
「でも、さっそく声をかけてくれる人が現れたんだから、次はきっと大丈夫だよ! 張り切っていこう!」
「そうだよな! だって今日の俺たちはツイてるもんな!」
気を取り直したアーチャーは、再びプラカードを掲げて歩き出す。
「アルバイトしまーす! アルバイトさせてくださーい!」
大声を上げながらクリスチャン通りをさらに歩く。だけど幸先のいいスタートとは裏腹に、今度は行き交う人は横目で見るだけで、誰も声を掛けようとしなかった。
一時間くらい経ったのか、ぼくたちは場所を変えてまだ見ぬ雇用主を探していた。サウス22番通りを北へまっすぐ歩き、ぼくたちのアパートのある付近を避けて、ウェブスター通り、キャサリン通り、さらに北へと歩いていった。次第に疲れも増し、アーチャーも言葉少なになっていく。ぼくらの間から冗談が消えていった。
「アーチャー&フィリー! あなたのお家のお手伝いしまーす!」
そんな台詞だけを呪文のように唱えながら、クライマー通り、フィッツウォーター通りとプラカードを掲げながらひたすらに歩いたけど、誰一人としてぼくたちに声を掛けてくれる人なんていない。時刻はもう六時を回ろうというところだ。
「結局、あの女の人以外、誰も声を掛けてこなかったな……」
ずっと声を張り上げていたアーチャーが、掠れかけの声で呟いた。
「うん……簡単にはいかないものだね……」
負けないくらい掠れた声でぼくも返事をすると、アーチャーはその場に座り込んだ。
「あぁ! 腹が減った! ちくしょう!」
膨れっ面で座り込んだアーチャーの隣にぼくも腰を下ろす。
「すごくいいアイデアだと思ったのになぁ……」
「間違いなく君のアイデアは素晴らしいよ! ぼくには考えつかなかったもん! ただ今日は、ほんの少しツイてなかっただけだよ」
嘆くアーチャーをぼくは慰めた。
ぼくがアパートに戻ると、今日もデニムエプロンを絵の具でドロドロにしたパパが、仕事部屋から顔だけ出してぼくを出迎えてくれる。
「おかえりフィリー! パパ、お腹ペコペコだよ」
さあ、なんて言おう。待ってました! とばかりに屈託なく笑うパパに、ぼくは申し訳ない顔をしなくちゃならない。
「ゴメン、パパ。実は約束のピザなんだけど、買ってこられなかったんだ」
手ぶらのぼくを見て不思議そうにパパは訊く。
「お店、休みだったのかい?」
そう訊ねるパパに、相変わらずバツの悪そうな顔でぼくは言った。
「それがね、アーチャーの持ってたクーポン券の期日が去年のだってことに気づいて、ピザを買うのを諦めたんだよ」
「そりゃあ残念だったね、アーチャーも気の毒に、さぞ楽しみにしてただろうに」
残念そうにするぼくに、パパはお腹を抱えて笑いながら話す。そんなパパの思いっきり緩んだ表情を見て、ぼくの心も少し救われた気がした。
「そうなんだ! アーチャーったら、今日一日そのことを引きずってて、ものすごく暗い顔をしていたよ!」
面白おかしくアーチャーのことを説明しながら、今日一日彼がどんな表情だったのか、顔真似を繰り返すぼくに、パパは目に涙を浮かべて大笑いする。
「ハァッ、ハァァ……! も、もう勘弁してくれよフィリー。パパはお前が持って帰ってくれるはずだったピザを楽しみに、朝からなにも食べてないんだ。これ以上笑わされたら、お腹が空きすぎて死んでしまうよ」
パパはエプロンのお腹に手を当てて必死に呼吸を整えながら、もう片方の手で目元の涙を拭った。途端に、指についていた水色と黄色の絵の具がパパの目元についてジャングルアートみたいになる。そのやたら自然の色でまだらに汚れたデニムエプロンの風貌なら、きっとサバイバルゲームにだって参加できるはずだよ。でも、とりあえずお腹を空かせているパパに、なにか食べさせなきゃいけない。
「ぼく、コーヒー淹れるよ! それにキッチンになにかないか探してみるね」
「あぁ! いいんだフィリー。それよりもお前に渡したお金で『ハニーボーイ』へ行って、ドーナツとコーヒーを買ってきてくれないか。そのお釣りでお前も好きなドーナツを買っておいで」
ハニーボーイってのは、ちょうどこの通りの一本南に入ったフルトン通りの一画に店を構えるドーナツ屋さんだ。蜂蜜たっぷりのハニードーナツは絶品でしつこくない甘さだし、何個だって食べられそうなほど美味しい。でも、突然のパパの提案に、すでに預かったお金を使い切ってしまっていたぼくはその場で固まった。
「フィリー? どうしたんだい? お前も好きだろう、ハニーボーイのドーナツ。買ってきてパパと一緒に食べよう!」
息子がお金を使い込んでしまったことなど知る由もないパパは、早くドーナツを買ってきてとばかりに不思議そうに催促する。やっぱり駄目だ、これ以上ごまかしきれない。
いよいよ観念して告白しようとするとパパが先に口を開いた。
「まさかフィリー、お前、あのお金を使ってしまったんじゃないだろうね?」
お腹の下辺りが急に重苦しくなる。もじもじともたつくぼくを見てパパが訝しそうに続けた。
「フィリー? なにか言っておくれ、黙ってたんじゃわからないよ、お前はあのお金を、ピザを買わずになにか別の用途に使ってしまったのかい?」
パパの声は怒ってはいない。ちゃんとした理由があるはずだと信じて疑わない――そんな声だった。パパは、あのお金をピザの代金に充てるためにぼくに渡したんだ。まさかそれを別のものを買うのに使ってしまったなんて信じたくもないはずだよ。
怪訝そうにしながらも、パパは優しい表情を浮かべたままぼくの言葉を待っている。パパの選ぶ言葉遣いやその態度のすべてが、どんどん重ぐるしくぼくのお腹を圧迫して目眩を起こしそうだ……。
ピザを買うために貰ったお金で、パパへの贈り物の6ペンスコインを買っただなんて知ったら、きっと素直には喜べないはず。信用してたぼくに裏切られたって考えるかもしれない。
もし本当のことを話したらパパはどれくらい落胆するだろう。もし預かったお金を、ぼくが勝手にプレゼント代に充てたなんて知ったらどんな顔をするのかな……。
そんなことを頭のなかでグルグルと考え始めたぼくは、怖くなって本当のことを話す勇気を失ってしまった。俯いたままで黙り込む。
「フィリー、まさかお前、お金を失くしてしまったのかい?」
そんな都合のいい勘違いに、ぼくは藁にも縋る気持ちで飛びついた。
「ごめんなさい……。制服のポケットに入れてたはずなのに、気がついたらどこかに落としちゃったみたいで……」
ぼくの目が涙目になって、勝手に声まで震えてくる。
「本当だね? 本当に落としただけだね? クラスメイトの誰かに盗られたとか、奪われたとか……そういう訳じゃないんだね?」
パパが躊躇いがちに詮索してくる。この期に及んで、クラスメイトの誰かに恐喝されてお金を巻き上げられたんじゃないか――そんな心配をしているみたいだった。
息子の様子を真剣に伺う心配そうな視線……。ぼくは首を細かく横に振ってその不安を否定した。
「違うよ、パパ。本当にぼくの不注意で失くしてしまったんだ。本当にごめんなさい」
パパに話したことは事実じゃないけど、ごめんなさいと思う気持ちに嘘はない。パパを裏切って悲しませたくない――そんな怯えにも似た不安と反省の色に、ぼくの顔と声色が染まっている。
するとそんなぼくを見て、パパの強張っていた表情は大きな安堵のため息とともに、いつもの優しい表情へと緩んでいったんだ。
「なぁーんだ! びっくりさせるなよフィリー。失くしてしまったものは仕方ないんだから、今度は失くさないように気をつければいいのさ!」パパは笑いながらぼくの頭をガシガシと撫でる。「じゃあお金を渡すから、パパにドーナツを買ってきてくれるかい?」
そんな明るい声に、ぼくはさっきよりも息苦しく感じたほどだった。
「うん」
ぼくはそれを振りほどくように頷くと、パパからお金を受け取る。
「ハニードーナツを二つとコーヒーはわかってるよな? 今度は落とさないようにしっかり握りしめて行くんだぞ?」
そんなふうに冗談めかすパパの顔をまともに見ることができない。
「わかってるよ、パパ。ミルク1にダイエットシュガーをたっぷりだよね」
そう告げると、ぼくは逃げるようにアパートを飛び出した。
†‡†
フルトン通りの住宅街にあるハニーボーイまでは十分とかからない距離だ。住宅の一階部分をテナントとして開放している店内は、とても狭くてテーブルを三つ置くのがやっとのスペースしかない。まあ、だいたいここら辺に住む人たちはテイクアウトするのが基本で、よほど遠くから来たお客さんくらいしか店内では食べないんだけどね。
「よぉ、フィリー! いらっしゃい、今日はアーチャーと一緒じゃないのか?」
ドーナツ屋の主人がぼくの顔を見るなり景気のいい声を上げる。
「こんにちは、ビー。今日はパパに頼まれて買いにきたから、いつもの学校帰りの食べ歩きじゃないよ」
ハニーボーイのスタッフが被る白い帽子には、トレードマークの蜜蜂のクリップが留められている。小さなスプリングのバネでプランプラン揺れるその蜜蜂はすごくかわいいけど、恰幅のいい髭面のビーが着けていると思わず笑いそうになる。本名は知らない。街の人たちがみんな彼を『ビー』と呼ぶので、ぼくもアーチャーもいつの間にかそう呼ぶようになっていた。
「そうか! 君のパパはハニードーナツだったよな! そしてミルク1の――」ビーとぼくが声を合わせる。「ダイエットシュガーたっぷり!」
「あはは! 重なったな! よし待ってろ、すぐ用意するからな」
「うん! ふたつね!」
顔も名前も、好きなドーナツの種類まで主人が覚えてしまうほど、この近辺の住人はみんなハニーボーイのファンだし常連客なんだ。
ビーが手際よくドーナツを紙袋に詰めて、コーヒーを用意してくれるのを待っていると、後ろから「フィリー!」とぼくを呼ぶ声がした。でかい体を忙しそうに揺らしながらアーチャーが近づいてくる。
「お前もドーナツか? 俺もなんだよ。チップスばかり食べてたら甘いのが食べたくなってさ! よぉ、ビー! いつものシュガークランチドーナツひとつ!」
コーヒーを受け取って、ミルクとダイエットシュガーを紙袋のなかへ入れると、アーチャーの注文を聞いたビーが髭面の顎を上にあげて掴んだトングを振り回した。
「アーチャー、お前もハニードーナツにしとけ! 今からそんなんじゃ、すぐに糖尿になっておっ死んじまうぞ!? お前も俺の大事な太客なんだ! まだまだ稼がせてもらわなきゃな!」
主人のビーが、最近太りすぎなアーチャーの身体を心配してるのはすぐにわかった。そんな店主の気持ちなんてわかりもしない太っちょアーチャーは不満を垂れる。
「えぇー? じゃあスリーホットにするかな?」
「なに言ってんだ、スリーホットはもっと駄目だ! お前、帰り道で心臓止まって運ばれちまうぞ!」
「なんだよ、それ……わかったよ」
アーチャーがしぶしぶ頷くと、ビーが「まあ、自分で作っといてなんだけどな!」と豪快に笑いながらも、紙に包んだハニードーナツを手渡していた。
シュガークランチドーナツは、定番のハニードーナツにさらに粉糖をこれでもか! ってくらいにかけたあと、キャラメルシュガーを塗って、ピーナッツのクランチがまぶされたドーナツさ。想像するに難くないよね? カロリーは多分、考えるのも恐ろしい。
『スリーホット(3 HOT)』は、ホット・ホイップ・ホルスター・ドーナツって名前で、ショーケースのど真ん中に陳列されているんだけど、見た目は――サンタクロースの白い髭みたいな大量のホイップクリームが、温かいドーナツにドカンと載せられているんだ、それこそ竜巻のようにね。甘党を自他ともに認めるドーナツマニアには、健康を拳銃でぶち抜かれて犠牲にしても食べたい――そんな堪らなさなんだろうけどね。
†‡†
店を出たアーチャーは、不服そうにさっそくドーナツを頬張った。
「チェッ! 俺はもっと甘いのが食べたかったのに! 客の注文を勝手に変えるなんて横暴な親父だよ!」
そう言いながらも、甘さで顔がにやけている。
「ビーも君の体のこと、心配してるんだよ」
ぼくが苦笑いしているとアーチャーがふと思い出したように訊ねた。
「それより泣いてたのか? フィリー? 目が真っ赤だぜ?」
見透かされて恥ずかしくなったぼくは、咄嗟に顔を逸らして話題を変える。
「そう言えば、シクサーズのオカフェーとエンビードがツインタワーでディフェンスの要になるんだって! 君知ってた?」
「どうしたんだよ? 家でなにかあったのか?」
アーチャーとは生まれたときからの大親友だ。こんなぼくの薄っぺらなごまかしなんて、簡単に見抜かれてしまう……。
「実はね――」
観念したぼくが家でのやり取りを話すと、アーチャーはいつになく真剣な顔で一緒に悩み始めた。
「パパに本当のことを言って謝りたいんだけど、そんな勇気がなくってさ……」
俯きながら歩くぼくの横顔を、アーチャーがじっと見つめている。
「お金も返したいけど、おこづかい日まではまだ少しあるし……」
するとなにか閃いたのか、アーチャーが突然声を上げた。
「それだよ! お金をパパに返すんだよ!」
「どういうこと?」
不思議に思ってそう聞くと、アーチャーは嬉しそうに、「まぁ俺に任せとけよ! いい考えがある!」と目を輝かせた。
「とにかく任せろ! その代わり明日は夕方まで付き合えよ!」
そういって、もやもやとするぼくをよそに突然走り出していく。結局、なにもわからないまま一人残されたぼくも、足取り重くアパートへと戻った。
†‡†
「ただいま、パパ。ドーナツ買ってきたよ」
ドアを開け玄関から声をかけると、ソワソワしたパパが二階から降りてきた。
「おかえりフィリー! さぁ、ドーナツを食べよう。パパお腹がペコペコだ」
嬉しそうに腰掛けるパパに、ぼくは食器棚からお皿を取り出すと、今買ってきたドーナツを並べてコーヒーと一緒にパパの前に置いた。テーブルに置かれた一人分のドーナツを見て不思議そうにパパが訊く。
「フィリー? お前は買ってこなかったのか?」
「うん、そんなにお腹空いてないんだ。それより本当にごめんなさい。ランチが遅くなっちゃって」
パパは隣の椅子を引き、ぼくに座るように促した。
「フィリー、お金のことは本当にもういいんだよ。失くしてしまったものは仕方ないんだから。さあ、パパのをひとつやろう」
そういってパパは、自分の分のドーナツをひとつとって頬張ると、お皿ごとぼくの前に置いてくれた。そんな優しさと、パパへの後ろめたさが涙腺を刺激して、涙がポロポロとこぼれ落ちていく。頬が熱いと感じてしまうくらいに。
「パパ……ごめんね……」
そう呟くのに精一杯なぼくの肩を、パパは力強く摩ってくれた。
ドーナツを食べ終わったぼくは部屋に篭り、時間を忘れるくらいにジオラマ作りに熱中した。やがてママとアイリーンが帰ってくる。
「ただいま! サウスサイドピザでピザを買ってきたわ! ちょっと奮発してエニートッピングよ。ご飯にしましょう」
下へ降りると、ダイニングいっぱいに美味しそうな香りが充満していた。テーブルの上に置かれた、見慣れたロゴマークのシールが貼られただけのそっけない白いテイクアウト用ボックスから、見事なホールパイが顔をのぞかせている。
トマトに交じってクタクタになったフレッシュバジルの素晴らしい香りと、焼き立てのフレッシュモツァレラの焦げた匂い、そして、アンチョビの磯の少しだけ塩っぽい香りがぼくの食欲を刺激する。いつもお店では1スライスしか食べたことがないから、サウスサイドピザのホールパイ、しかもエニートッピングだなんて豪華すぎだよ。
「おお、フレッシュモツァレラだね! マッシュルームも載せてあるかい? アイリーン、オリーブオイルを出して」ピザを眺めるぼくの横でパパが笑う。「ラッキーだったなフィリー。もしお金を失くさずにあのままピザを食べていたら、食いつきの悪いお前を見て二人ともきっと怪しんだに違いないよ。それに、こっちのがずっと豪華だ」
小声でウィンクしながら肘で突いてくるパパにぼくは頷いて笑った。
†‡†
食事の後、再び部屋でジオラマ作りに熱中しながら、ふとママにおこづかいの前借りを頼めないかと考えた。これまでママには一度だってそんなお願いをしたことがない。だからひょっとしたら貸してくれるかも? って思ったんだ。
でも、もしママがパパにそれを話してしまったら、ぼくの計画は成り立たない。だってぼくが借りたいのは、パパに返す『失くしたはずのお金』なんだから。困ったな、じゃあアイリーンにお金を借りる? いや、あのお姉ちゃんがパパやママに黙っててくれるはずがないから、この考えも賢くはない……。
気づくと刷毛を握った手が止まっていた。ちっともジオラマづくりに集中できない。思い悩んで、ただ時間だけが過ぎていっている。
ぼくは手元の緑色に塗られたスポンジの屑を見ながら、いくら考えても上手くいきそうにない嘘の上塗りに息が詰まりそうになって、その日はそのままベッドに潜り込んで眠ってしまった。
翌朝、いつものようにアーチャーが迎えにくる。
すでに朝食を食べ終えたぼくは、パパとママにキスをして家を出ようとして、「明日は俺に夕方まで付き合えよ」っていうアーチャーの言葉を思い出していた。
「ぼく、今日はアーチャーと遊んでくるから夕方まで帰らないよ!」
座って食事を取るパパとママに声をかけると、二人とも「そう、あまり遅くならないようにね」とあっさり送り出してくれた。
玄関前では、ものすごい笑顔をこぼしながらアーチャーがぼくを待っていた。
「よぉ、フィリー! 昨日はよく眠れたか? さぁ、行こうぜ!」
「アーチャー? 今日は夕方まで何に付き合えばいいの?」
ニタニタと笑いながら、アーチャーはぼくを引っ張るように歩き出す。そして鞄から大きな青色の画用紙を取り出すと嬉しそうに話し出した。
「これだよ! コレコレ!」
青色の大きな画用紙には、お世辞にも綺麗とは言えない汚らしい文字でこう書いてあった。
アーチャー&フィリー
あなたのお家のお手伝いします
時給は2人で5ドル
驚きのあまり、目を丸くしてアーチャーを見ると、彼は「どうだ!?」と言わんばかりの得意げな顔で、鼻の頭を掻きながら言った。
「お前のついた嘘を、本当にしてしまえばいいんだよ!」
「驚いたよ! 君はアイデアマンだね! でもぼくたちにアルバイトなんてできるのかな?」
自信なさげなぼくの肩を叩いて、アーチャーは大きく笑った。
「大丈夫さ! 俺たちみたいのに難しい仕事なんてさせないよ!」
自信満々のその言葉に少しだけ勇気が湧いてくるけど、それはそれで頼りないな……。
†‡†
授業中はアルバイトの件で頭がいっぱいだった。どんな仕事をさせられるのかとか、自分にできるだろうか? とか……。
なにか失敗してしまったら、困ったことになるかもしれないぞ――そんな不安と期待でいっぱいで、先生の声なんてとてもぼくの耳には入らなかった。
でも一時間働いて二人で5ドルなら、二時間アルバイトすればパパにお金が返せる。学校の落とし物箱(lost‐and‐found box)にあった――とかなんとか言えば、きっと信じてくれるはずだ。
思い悩みながらもぼくは、長い授業時間のすべてを使って、徐々に人生初めてのアルバイトに期待を膨らませていった。
放課後、アーチャーはぼくを連れて校舎の裏へと歩き出す。
「どこに行くのアーチャー?」
「裏庭の魔術師、ベンジャミンのとこさ!」
「ベンジャミンって、用務員の?」
裏庭ってのは大げさだけど、用務員の彼はだいたいいつも校舎裏で掃除をしている。
「ほら、プラカードを作って街を歩けば目立つだろ? 首から下げてもいいけど俺たちはまだ背が低いからな、看板みたいにして手で持つんだ! 仕事の依頼もすぐに舞い込むぜ!」
「なるほど! アーチャー頭いいね!」
今日のうちに二人で10ドルを目標にするなら、二時間働かなきゃならない。少ない時間で一刻も早く依頼人を探す必要のあるぼくたちにとって、プラカードは一役買ってくれるはず! ぼくたちは校舎の裏で作業をするベンジャミンに声をかけ、要らない木材を分けてもらうことにした。
「あっ! いたいた! おーい、ベンジャミン!」
校舎裏で掃除をしていたベンジャミンを見つけると、アーチャーが嬉しそうに駆け寄る。
「そんなもの、なにに使うんだい?」
不思議そうにするベンジャミンにぼくたちは答えた。
「持ち手の付いたプラカードを作りたいんだ。ほら、街頭でたまにみかける看板みたいなやつだよ。ただの棒きれでもいいからなにか持ち手になるようなものを分けてくれませんか?」
「持ち手ねぇ……」ベンジャミンは暫く考えると、思い出したように物置小屋の扉をガチャガチャと開けて、なかへ入るとすぐに出てきた。「こんなものでいいなら持っていって構わないよ。持ち手が折れてしまってるが、テープで補強してあるから充分使えると思うしね」
彼が手に持って出てきたのは、フィールドデー(運動会)で使った小振りなプラカードだった。
「うわあ!」
まさにピッタリほしかったものが見つかってぼくたちは驚き喜んだ。
「ありがとう、ベンジャミン! じゃあ貰っていくね!」
手を振って彼と別れると、アーチャーはさっそく画用紙にテープを貼り、プラカードと固定していく 。
「なんだかすごく順調に運んでる気分だな!? きっと今日中にお前のパパにお金を返せるぞ!」
確かにものすごく順調に流れてる気分だ。ふと、ぼくはレインボーフロッグで買った6ペンスコインを思い出してポケットに手をやる。コインの入っていた入れ物は家に置いてきてしまったけどピカピカと銀色に光るコインがぼくのポケットの奥で輝いていた。
「さぁ! 行こうぜフィリー!」
アーチャーが飛び抜けて明るい声で言うと、ぼくも同じ調子で返事をした。
「そうだね! アーチャー!」
†‡†
ぼくたちは学校を出て、プラカードを掲げながらクリスチャン通りを練り歩く。
「アルバイトしまーす! アルバイトさせてくださーい!」
大声を張り上げるぼくらの脇を大勢の人が通り過ぎていった。やはりそれなりに目立つのか、注目を浴びているようで少し恥ずかしい。もちろん、そのためにやっていることなんだけどね。
少しだけ顔を隠すようにプラカードを上げながら、「アルバイトしまーす!」と声を張り上げると、「ねぇ、あなたたち? アルバイトしてくれるの?」と一人の女の人が声を掛けてきた。クリスチャン通りを歩いてから五分も経っていない。
「はい! ぼくたちでできることならなんでもします!」
幸先のいいスタートにはきはきと答える。
「ベビーシッターを頼みたいんだけど、夕方六時から十時よ」
ぼくらは顔を見合わせた。どちらともなく気まずい顔になりアーチャーから無言のバトンを受け取ると、ぼくは断りの言葉を返した。
「……ごめんなさい、その時間はぼくたち家に帰らなきゃならないから、その仕事はお請けできません」
「あらそう、残念ね……」
女の人はとても名残惜しそうに立ち去った。仕事が受けられなくて残念がってるぼくたちと同じくらいに。
「惜しかったな! 今から六時までなら引き受けたのに」
「でも、さっそく声をかけてくれる人が現れたんだから、次はきっと大丈夫だよ! 張り切っていこう!」
「そうだよな! だって今日の俺たちはツイてるもんな!」
気を取り直したアーチャーは、再びプラカードを掲げて歩き出す。
「アルバイトしまーす! アルバイトさせてくださーい!」
大声を上げながらクリスチャン通りをさらに歩く。だけど幸先のいいスタートとは裏腹に、今度は行き交う人は横目で見るだけで、誰も声を掛けようとしなかった。
一時間くらい経ったのか、ぼくたちは場所を変えてまだ見ぬ雇用主を探していた。サウス22番通りを北へまっすぐ歩き、ぼくたちのアパートのある付近を避けて、ウェブスター通り、キャサリン通り、さらに北へと歩いていった。次第に疲れも増し、アーチャーも言葉少なになっていく。ぼくらの間から冗談が消えていった。
「アーチャー&フィリー! あなたのお家のお手伝いしまーす!」
そんな台詞だけを呪文のように唱えながら、クライマー通り、フィッツウォーター通りとプラカードを掲げながらひたすらに歩いたけど、誰一人としてぼくたちに声を掛けてくれる人なんていない。時刻はもう六時を回ろうというところだ。
「結局、あの女の人以外、誰も声を掛けてこなかったな……」
ずっと声を張り上げていたアーチャーが、掠れかけの声で呟いた。
「うん……簡単にはいかないものだね……」
負けないくらい掠れた声でぼくも返事をすると、アーチャーはその場に座り込んだ。
「あぁ! 腹が減った! ちくしょう!」
膨れっ面で座り込んだアーチャーの隣にぼくも腰を下ろす。
「すごくいいアイデアだと思ったのになぁ……」
「間違いなく君のアイデアは素晴らしいよ! ぼくには考えつかなかったもん! ただ今日は、ほんの少しツイてなかっただけだよ」
嘆くアーチャーをぼくは慰めた。