そしておこづかいを一番圧迫しているのは――ドイツ製のフィギュア! これが、今一番夢中になってるものだ。動物、恐竜に始まって、中世の騎士、妖精なんてものまでシリーズがある。安い物なら3ドルくらいで買えるけど、高いと60ドルもする。ぼくのおこづかいはちょうど月60ドルだから、そんなものを買ってしまえば一瞬で財布の中身は空っぽ。翌日には、今日みたいにパパに泣きつかなきゃならなくなるよ。
ぼくのお気に入りは動物シリーズと中世の騎士シリーズ。じつは、去年までのぼくは、フィギュアにはあまり興味がなかったんだけど、去年の誕生日にアーチャーがライオンの親子のフィギュアをくれてはまってしまった。これは動物シリーズのなかでも、3つ合わせると15ドルもする高価なもので、ぼくのノートを見て「珍獣動物園だな!」と大笑いしたアーチャーが、悪く思ったのか奮発して買ってくれたものだ。
学校から帰ったぼくが部屋で熱中することといえば、やっぱりジオラマ作り! 素材として必要なものは、木材や発砲スチロール、麻紐とかなんだけど、これもママがスーパーから貰ってきてくれる素材でまかなっている。
いまどきのスーパーには、変わった素材を使ったパッケージ商品も結構あるから、素材集めには困ってないし重宝しているんだ。それに大体タダで手に入るから、材料費もそれほどかからないしね。
時間を忘れて黙々と作れるし、手先が器用なぼくにはピッタリの趣味だと思ってる。でもなんとなく、ものすごくお年寄り臭いから、まだ誰にも見せたことがなかった。
麻紐を適当な長さにハサミでカットして机の上に置くだろ? それを両手の平で擦りながら紐状の麻紐を解いていくんだ。割と簡単に麻はボロボロになってくれる。手の平もちょっと痛くなるけど、そんなことは構わない。で、その解いた麻に絵の具を塗っていく。
これを一体何に使うのかって?
塗る色は、緑に黄緑に黄色――気分次第でなんとでも。秋でも夏でも春でもいい、別に紫とか塗ったって、合わせてしまうと不思議と自然の大地っぽくなるんだ。そして色付けされた麻が乾いたら、ハサミでパウダー状に細かくカットする。
――そう、この色付けされた麻が大地に生える草になる。人工芝なんてものに頼らずに、よりリアルに表現する――これがジオラマ作りの醍醐味! 動物フィギュアには、草や草原、岩場や山に木は必須さ。草に見立てるこの麻はいくらあっても困らない。だから、ぼくは飽きずに黙々とテーブルの上で作業を繰り返すことができるんだ。
†‡†
そうこうするうちに、やがてママもアイリーンも帰ってくる。
「おかえり! ママ、アイリーン」
玄関まで迎えに出ていくと、パパの声がキッチンから響いてきた。いつの間にか夕食の支度をしてくれていたみたいだ。
「お帰り! すぐに夕食になるよ。フィリー、アイリーン、テーブルの上を片付けてお皿を出してくれるかい?」
パパに頼まれてキッチンに入り、戸棚から人数分のお皿とコップを出してテーブルに並べる。その横では、冷蔵庫からミネラルウォーターを出したアイリーンがラッパ飲みしてママに叱られている。いつもの光景だ。
「あー、いい匂い!」
アイリーンの後ろから入ってきたママが、コートをハンガーにかけながら食卓の上を覗いて嬉しそうにする。パパはシーフードのパスタをお皿に取り分け、コーンブレッドをオーブンでカリカリになるまで焼き、それにサラダを添えた。
「アイリーン、今日はアルバイトはどうだった? こないだお気に入りのワンピースに、パパより芸術的な絵を落書きしてくれちゃったあの子だよ、名前なんだったっけ」
「あぁ、ジョーイとショーンね、キャンベルさんちの双子はほんとにいたずらっ子なのよ。ジッとベビーカーにも乗っていてくれないから、目を離せなくて気が気じゃないよ。ダブルのベビーカーも重くて、腕が太くなっちゃいそうだし……」
そんな毎日の会話を、パパもママもにこやかに聞いている。
「まぁ、それじゃあテレビショッピングのトレーニングマシンを買う必要がないから丁度いいじゃないの。ママもそうねえ、明日はキャロットを百本並べてみようかしら!」
「ハハッ、がんばるのはいいけど、無理しないでくれよ?」
年頃のアイリーンはたまに鬱陶しがるようなそぶりを見せるけど、それでもぼくたち一家の食事風景はいつもこんな感じでお互いの顔をまんべんなく見渡しながら笑顔で進んでいくんだ。
†‡†
夕食を食べると、ぼくはアイリーンと一緒にキッチンにお皿を運んで洗い物をする。食後にはパパとママはリビングでワインを飲みながら、二人で楽しそうに今日一日起こったことを話している。まるで出逢いたての恋人みたいに。
アイリーンがお皿を洗い、ぼくがそれをシンクで流す。これはぼくら姉弟の、パパとママに対するささやかな毎日のプレゼントでもあるんだ。
「ねぇ、フィリー。ラブパークの噴水の色が変わるのは、今度はいつ頃かしら?」
隣でアイリーンが、必要以上に泡立てた泡を指ですくうと息を吹きかけて宙に飛ばしている。なんだろう、妙に機嫌がいい。
「ラブパーク?」
「なによ、あんた、ラブパーク知らないの?」
ラブパークってのは、フィラデルフィアセンターシティーにあるシティーホールの横にある公園のことさ。『LOVE』ってモニュメントがある公園で、観光客にも人気の公園だ。
そこには大きな噴水があって、時々この噴水の色が緑色になることがあるんだけど、どういうタイミングで緑色になるのか――街の人たちはたぶんその理由を殆ど知らない。噂では、市長の誕生日とか、ベースボールチームのフィリーズが試合に勝った翌日とか、いやはたまたフットボールのイーグルスだとか、色々と噂だけなら流れている。でもそんな日の翌日でも緑色にならないときもあって、どうもはっきりしない。本当のところは誰も知らないんだ。
ぼくの仮説ではこうさ。このフィラデルフィアの春の短さを嘆いた青虫たちが、いっせいに身投げをして噴水を緑色に染める――そんなのはどうかな……?
「ラブパークは知ってるけど……。そんなのぼくだってわかんないよ。噴水の色がどうかしたの?」
ぼくが訊ねると、アイリーンがめずらしく照れ臭そうにしている。
「私、週末にボーイフレンドにデートに誘われたのよ、すごくイケてる人でさ。ほら! ラブパークの噴水が緑色のときに結ばれるカップルって上手くいくって言うじゃない? 週末にちょうど重ならないかなって……」
どうりで機嫌がいいわけだ! だけどそんな噂を聞くのは初めてだし、ぼくにしてみればそんなことどうだっていい話だ。
「ママー! パパー!! アイリーンがねぇ!!」
ぼくは洗っていたお皿を放り出して、パパたちがいるリビングに走り出そうとする。
「あっ!? ちょっと! フィリー!! 待ちなさいよ!!」
泡だらけのスポンジを持ったままのアイリーンに血相変えて追いかけられて、ぼくはあえなく捉まると泡だらけにされてしまった。キッチンで楽しそうにはしゃぐ様子を見にきたママが呆れ顔で笑う。
「あなたたち、なにやってるの? 体中泡だらけよ? そういうのはお風呂でやりなさい」
ママは少し酔っぱらっているのか、ほんのりと頬が赤い。子供のぼくから見ても少し恥ずかしくなるくらい素敵に笑う。
「ねぇ、ママ! スポンジがもうボロボロだよ? 新しいのに取り替えてもいいでしょ? そしたらこのスポンジ貰っていい?」
お姉ちゃんに捉まりながら使い古しのスポンジをおねだりするぼくを不思議そうにママが見る。
「えぇ、いいけど……そんなもの、なにに使うの? 体なんて洗っちゃダメよ?」
このボロボロのスポンジで、ぼくが体を洗うところを想像したのか、アイリーンがいきなり吹き出して笑い始めた。白い泡にまみれて、ちぎれた黄色いツブツブのクズが大量にまとわりついている――そんなバスルームでのシーンがぼくの頭にも浮かんでくる。クランチの入ったソフトクリームとか、生クリームをかけたシーザーサラダとか、意外にセンスのいいお姉ちゃんの憎らしい喩え話でからかわれる前に会話を終わらせようと、ぼくは二人の攻撃を振り切った。
「そんなことしないよ! とにかくスポンジは貰うよ!」
一人であわただしく残りの洗い物を終わらせて、スポンジの泡と水気をしっかりと切ると自分の部屋へと持ち込み、窓際にクリップで吊して干す。もう日は落ちてしまっているけど、明日になれば渇くかな? 目の前でなさけなく綻んでいるスポンジの、華麗に変身した完成形に想いを馳せて、ぼくはニンマリとした。
もちろんこのスポンジは、自分の体を洗うためなんかじゃない。乾かしたスポンジを細かくちぎって、緑や黄緑の色を丁寧に塗っていく。小さな緑のポップコーンの粒みたいになるよ。それを乾かして木の串にボンドで貼っていくんだ。仕上がりは想像できるだろ? まさに草原に生える木のように見えるんだ。なにを隠そう、実は今回が初挑戦! ずっと試してみたかったんだ。
このやり方をインターネットで見つけるまでは、紙粘土で木の幹と柄を作って着色し、それに麻紐で作った草を丁寧にボンドで貼っていた。だから、木を一本作るのにもものすごく時間も手間もかかっていたよ。
使い古しのスポンジがジオラマの木に早変わり! なんて、最初に考え出した人はすごいよね。世の中には無駄な物なんてなにひとつないんじゃないかな? 小さなジオラマの、遠くの方の景色で使うならシルエットさえしっかりしてれば問題ない。
部屋に篭って麻紐を黙々と解いていると、バスタオルで自慢の金髪を拭きながらアイリーンがいきなり部屋に入ってきた。ぼくは慌てて作りかけのジオラマに布を被せて振り返る。
「フィリー? お風呂空いたから入ってきなよ」
「ちょっと! 扉に立入禁止って貼ってあるでしょ!? どうしていつもその貼り紙を無視するんだよ!」
必死で怒鳴るぼくに、アイリーンはケタケタと笑うだけ。本当に性格の悪いお姉ちゃんなんだから! 弟の嫌がる顔を見るのがきっと趣味に違いないんだ。
「一体なんの用なの? 噴水のことならぼくにはわからないよ!」
口を尖らせると、アイリーンはぼくのベッドに勝手に座って話し始めた。
「あんた、ひょっとしてパパの誕生日忘れてないわよね?」
パパの誕生日は十月七日、今日は九月の二六日だから、来月のおこづかいが入ったらパパになにを贈ろうか、ずっと悩んでいた。
「忘れてないよ? どうして?」
「あのさ、一緒にお金を出し合って、パパの好きなレストランを予約しない?」
アイリーンが持ち掛けたそのナイスアイデアにぼくは軽く驚いた。
でも、パパの好きなレストランってなんだっけ?
「ほら! パパが好きなイタリアンのお店よ。ワシントンアベニューとサウスブロード通りの交差点の角にあるお店!」
太っちょのイタリア人がおしゃれな帽子をかぶって、天にかざしたステッキの上に載せて振り回すナポリピザからトロリと落ちてくるチーズを、ツンと尖った鼻先で受けている看板の映像が頭のなかに浮かんでくる。『気取ったイタリア人』っていうおかしな名前のレストランだけど、味は抜群に美味しい。
「ああっ! ハイティータイティーイタリアン!! いいね! きっとパパも喜んでくれるよ!」
「じゃあ決まりね! あんたおこづかい半分出しなさいよ。残りは私が出すから」
アイリーンは立ち上がると、髪を拭いたタオルをベッドの上に投げ捨てて部屋を出ていった。どうしてここへ置いていくんだ?
「半分かぁ……」
おこづかいが半分も飛んでいくのはキツイけど、パパが喜んでくれるならそれでも構わないって思った。
†‡†
二階から降りると、パパが「フィリー、一緒に入ろう」とウィンクしてお風呂に誘ってきた。こんな日は、バスシンクでパパがぼくの髪を洗ってくれる。ちょっとくすぐったいけど、こんな仲のいいファミリーもあんまりいないんじゃないかな?
「ねえ、パパ。ラブパークの噴水の水が緑になるのって、どうしてかわかる?」
頭を泡だらけにされながらぼくが訊くと、パパは何度も頷きながらこんなことを言って笑った。
「フィラデルフィアの春は短いだろ? 緑も少ないし、それを嘆いた青虫たちがいっせいに身を投げるのさ」
パパの言葉にぼくは目を丸くする。
「それ! ぼくと同じ考えだよ!」
「そうかぁ、やっぱり親子だな! 考え方まで似ちゃうんだな!」
そっくりに目を丸くして驚くパパを見ているとぼくまで嬉しくなる。
「ねぇ! パパ! アイリーンが週末にボーイフレンドとデートだって言ってたよ! なんとか阻止しなきゃ!」
真剣な顔でぼくが付け足すと、パパは大笑いした。
「お前もアイリーンくらいの歳になって、気になるガールフレンドでもできればきっと今の発言を後悔するよ。それに幸せそうな人を見るとこっちまで素敵な気分にならないかい? パパとママの仲がすごく良いのを見れば、お前だって幸せな気持ちになるだろう?」
「パパとママは別だよ!」
「お前がいつか結婚して、娘でもできようものなら、相手の男は苦労するんだろうな!」
パパは笑いながら豪快にシャワーを浴びせると、ムキになったぼくについてる泡を一気に洗い流した。
「ちょっと! パパ、なんのことだよ!」
ぼくには、そんなパパの態度も言ってることもちっとも理解できなかった。そんなぼくを見てパパは幸せそうに笑うだけだ。
ベッドに潜り込む前に、パパから貰ったお金を制服のポケットにしまい込んだ。明日学校から帰ったら、スポンジでジオラマの木を作らなきゃ……。
そんなことを考えながら、ぼくは眠りに落ちていった。
†‡†
「おーいフィリー! 用意できたか?」
翌朝、いつものようにアーチャーが迎えにくる。朝食を済ませたぼくは、テーブルに座るママとパパにキスをして家を飛び出した。
「おはよう! アーチャー!」
「おはよう、フィリー! どうだった?」
アーチャーは今日のピザにぼくが付き合えるかどうかが心配のようだった。パパの分のピザをテイクアウトする名目でアルバイト代を貰ったことを伝えると、安心して大きなため息をつく。
「そっかぁ! よかった。俺は前借りダメだったよ! お前のとこのパパは優しくてうらやましいよ!」
「そんなことないよ。ぼくだって少しは後ろめたいんだ」
息子の甘えにまで常に理解を示そうとしてくれるパパに、ぼくが後ろめたさを感じてることを告げるけど、アーチャーにはまったくわかってもらえなかった。
「親に甘えるのが子供の仕事で、子供を甘やかすのが親の仕事だ! だから俺の親は親の仕事をさぼってるんだ!」
「なんだよ、それ」
ぼくは笑った。アーチャーらしい考え方だけど、それじゃ偉大なベースボールプレイヤーの父を越えられない息子のようだよ。
「なぁ! ほら見ろよ、フィリー! なんと半額クーポン券なんだぜ!」
アーチャーが、ポケットに雑に突っ込んだサウスサイドピザのクーポン券を取り出して皺を伸ばしながら嬉しそうに見せる。
「うわっ! 本当だ……あれ?」ぼくはそのクーポンに押されたスタンプを見て違和感を覚えた。「ねぇ、アーチャー? そのクーポン、使用期限が去年の九月までになってない?」
「えぇ!?」
青い顔で一瞬固まったアーチャーが手のなかをまじまじと見る。
「うあぁッ!? 本当だ! 日付が去年になってる! ママったら、なんでこんな使えないクーポン券を大事に戸棚にしまい込んどくんだよ!」
こうして、ぼくたちのサウスサイドピザ半額計画は、海のもくずと消えてしまった。
「ゴメンな、フィリー。せっかく付き合ってもらうためにお金まで用意してもらったってのに……」
申し訳なさそうに、うなだれながらアーチャーは歩く。当然、ぼくなんかより遥かにショックを受けているのは一目瞭然だから、ぼくはこんな親友のことが不憫で仕方なかった。
「ぼくは大丈夫だよ、それより……大丈夫かい?」
足取りも重く、目も虚ろなアーチャーは「大丈夫……大丈夫……」とブツブツ唱えながら学校へと向かって歩いた。
せっかく貰ったお金だけど、帰ったらパパに返さなきゃ。そう思いながらポケットのお金を覗き込み、再びポケットを閉じた。
†‡†
その日も学校が終わると、ぼくとアーチャーはクリスチャン通りをアパートへと向かう。
「あぁ……サウスサイドピザから遠ざかっていく……」
アーチャーはピザの件を一日中引きずっていたようだ。
「こうなったら、もうすぐ小遣い日だし、残りのお金で好きな物買ってやる! フィリー! カエル堂に付き合ってくれよ?」
そう言うとアーチャーは返事も待たずに走り出した。
「えぇ!? ちょっと待って! ぼくは……」
断ろうとするけど、すでに走り出したアーチャーの耳にぼくの声は届いてない。カエル堂は『レインボーフロッグ』――虹色の蛙って名前のなんでも屋だ。お店に置いてあるものも様々で、骨董品から玩具、お菓子から雑貨まで本当になんでも置いてある。
お店の客層もバラバラで、老若男女様々な人が出入りする。――実はぼくが集めてるフィギュアもバッチリ取り扱ってるお店で……だから、おこづかいが空っぽのぼくには目に毒さ。
レインボーフロッグは、ぼくらの住むアルバンスプレイスから一本北の通り、クライマー通り沿いにある割と大きなお店だ。店内は薄暗い照明と、スーパーにあるようなスチール製の棚に商品がまとまりなく雑に置かれている。店内には防犯カメラらしきものもなく、ものすごく無用心なお店なんだけど、不思議と強盗が入ったなんて話は聞いたことがなかった。
アーチャーは店に入るなり、まっすぐお菓子コーナーへと歩いていった。ぼくは左手奥のフィギュアコーナーに行きたい気持ちを抑えて、骨董品コーナーへと向かう。
何に使うのか見当も付かないガラクタや、誰が買うんだろうってものまで並べられていて、しかも結構な値段がついていることもある。――この辺りなら欲しくなるものなんてきっとないよなって安心して歩いていると、そのなかのひとつに紺色のベロアで装飾された、宝石ケースのようなものがあるのに目を奪われた。
質流れ品だろうか? 年代物の埃を被ったケースを手に取って開いてみると、なかにはケースとは対称的なほどピカピカに輝いたコインが赤い台座に飾られていた。
――なにかの記念メダルなのかな?
コインを取り出して薄暗い照明の光にかざして眺めていると、近くで商品を物色していた身なりの良いおじいさんが、ぼくに近づいて来て言ったんだ。
「おや? 珍しい、6ペンスコインだね?」
イギリス紳士みたいに、おじいさんは黒いハットを脱いで胸の前に置くと、ぼくの手に取ったコインをまじまじと覗き込む。
「おじいさん、このコインのこと、なにか知ってるの?」
ぼくがそう聞くと、おじいさんは優しい口調で話し始めた。
「そのコインはイギリスで実際に使われていた6ペンスコインと言ってね。幸運を呼ぶコインとしても知られているんだよ」
おじいさんの説明を聞きながら、ぼくはコインに彫られている文字を読んだ。
――1909.エドワード7世。
「サムシング4って唄を知ってるかい? 君には関係ないだろうが、結婚式の花嫁が身に着けるとよいとされる4つのものだ。マザーグースの6ペンスの唄がもとになっているとも云われがあるんだがね」
マザーグースは聞いたことあるけど、詳しい話は知らない。
おじいさんはサムシング4を口ずさむように諳んじてくれた。詩なのかな。
なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの
(Something old, something new,)
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの
(something borrowed, something blue,)
そして靴の中には6ペンス銀貨を
(and a sixpence in her shoe.)
「花嫁はその唄にある4つのものを身に着け、最後に左の靴の踵にそのコインを忍ばせておくと、幸福になれるという言い伝えがあるんだよ」
その話でピンと来た。
「あぁ! だから幸運のコイン?」
おじいさんは、黒いステッキを左手に持ち替えながら軽く頷く。
「贈り物などにも喜ばれるものでね、どうだろう? 君が買わないのなら私に譲ってくれないかい?」
そう言われて、ぼくは少し焦ってしまった。手のなかのコインが急に特別なものに思えてくる。おじいさんが言うとおりこのコインがそんなに珍しいなら、次はいつ手に入るかわからないし、なによりパパの誕生日プレゼントにうってつけだと思ったんだ。
――でも、今のぼくにはお金がない……。
「ダメかい?」
おじいさんが催促するようにぼくに訊ねた。
「あの……その……」
ごまかしながらベロアのケースに目をやると、小さく貼られた値札には、青いインクで『$5.00』と書かれていた。
――5ドルなら、パパから預かったお金でちょうど足りる!
本当はサウスサイドピザを買うために貰ったお金だけど、今このコインを買わないとおじいさんに買われてしまうし、今日のところはなんとかパパをごまかして、おこづかいが入ったらお金を返せばいいんだ。そう思ったぼくはおじいさんに言った。
「おじいさん、ごめんね、ぼくもこのコインをパパの誕生日に贈りたいんだ」
それを聞いたおじいさんは少し残念そうにしたけれど、すぐにニッコリ微笑んでくれた。
「それなら諦めるしかないね、君のパパに幸運を……」
黒いハットを被り直したおじいさんは、振り返ると歩き出し店を出ていった。
「おい、フィリー? そんなところでなにやってんだ?」
おじいさんの背中を眺めるぼくの傍へ、買い物カゴをお菓子で山盛りにしたアーチャーがやって来る。
「なんだよそれ? 買うのか?」
ぼくの手に持つコインを見て、アーチャーが不思議そうにした。
「うん、幸運を呼ぶコインだって! パパへの誕生日プレゼントに買うんだ」
アーチャーが値札を見て驚いた。
「でも、そのお金ってパパから預かったピザのお金だろ? 勝手に使って大丈夫なのか?」
「なんとかごまかすよ。パパはぼくに甘いし、それに来月になったらすぐに返すさ」
「まあ、お前なら大丈夫かもな」
アーチャーも納得したのか、軽く笑った。
古いタイプライターのような音を鳴らすレジで精算するとぼくたちはお店を出る。アーチャーは両手にパンパンに詰まったお菓子の袋を持ちなんとも清々しい表情をしていた。
「じゃあ、また明日な!」
いつものように家の前で別れを告げると、親友を見送るぼくの目に、両手に袋を抱えたままアパートへと歩き出すアーチャーの姿が、ヨチヨチ歩くペンギンみたいに見えた。
「うん! また明日!」
笑いを堪えてアーチャーの背中に声をかけると、ぼくも家のなかへと入っていった。
ぼくのお気に入りは動物シリーズと中世の騎士シリーズ。じつは、去年までのぼくは、フィギュアにはあまり興味がなかったんだけど、去年の誕生日にアーチャーがライオンの親子のフィギュアをくれてはまってしまった。これは動物シリーズのなかでも、3つ合わせると15ドルもする高価なもので、ぼくのノートを見て「珍獣動物園だな!」と大笑いしたアーチャーが、悪く思ったのか奮発して買ってくれたものだ。
学校から帰ったぼくが部屋で熱中することといえば、やっぱりジオラマ作り! 素材として必要なものは、木材や発砲スチロール、麻紐とかなんだけど、これもママがスーパーから貰ってきてくれる素材でまかなっている。
いまどきのスーパーには、変わった素材を使ったパッケージ商品も結構あるから、素材集めには困ってないし重宝しているんだ。それに大体タダで手に入るから、材料費もそれほどかからないしね。
時間を忘れて黙々と作れるし、手先が器用なぼくにはピッタリの趣味だと思ってる。でもなんとなく、ものすごくお年寄り臭いから、まだ誰にも見せたことがなかった。
麻紐を適当な長さにハサミでカットして机の上に置くだろ? それを両手の平で擦りながら紐状の麻紐を解いていくんだ。割と簡単に麻はボロボロになってくれる。手の平もちょっと痛くなるけど、そんなことは構わない。で、その解いた麻に絵の具を塗っていく。
これを一体何に使うのかって?
塗る色は、緑に黄緑に黄色――気分次第でなんとでも。秋でも夏でも春でもいい、別に紫とか塗ったって、合わせてしまうと不思議と自然の大地っぽくなるんだ。そして色付けされた麻が乾いたら、ハサミでパウダー状に細かくカットする。
――そう、この色付けされた麻が大地に生える草になる。人工芝なんてものに頼らずに、よりリアルに表現する――これがジオラマ作りの醍醐味! 動物フィギュアには、草や草原、岩場や山に木は必須さ。草に見立てるこの麻はいくらあっても困らない。だから、ぼくは飽きずに黙々とテーブルの上で作業を繰り返すことができるんだ。
†‡†
そうこうするうちに、やがてママもアイリーンも帰ってくる。
「おかえり! ママ、アイリーン」
玄関まで迎えに出ていくと、パパの声がキッチンから響いてきた。いつの間にか夕食の支度をしてくれていたみたいだ。
「お帰り! すぐに夕食になるよ。フィリー、アイリーン、テーブルの上を片付けてお皿を出してくれるかい?」
パパに頼まれてキッチンに入り、戸棚から人数分のお皿とコップを出してテーブルに並べる。その横では、冷蔵庫からミネラルウォーターを出したアイリーンがラッパ飲みしてママに叱られている。いつもの光景だ。
「あー、いい匂い!」
アイリーンの後ろから入ってきたママが、コートをハンガーにかけながら食卓の上を覗いて嬉しそうにする。パパはシーフードのパスタをお皿に取り分け、コーンブレッドをオーブンでカリカリになるまで焼き、それにサラダを添えた。
「アイリーン、今日はアルバイトはどうだった? こないだお気に入りのワンピースに、パパより芸術的な絵を落書きしてくれちゃったあの子だよ、名前なんだったっけ」
「あぁ、ジョーイとショーンね、キャンベルさんちの双子はほんとにいたずらっ子なのよ。ジッとベビーカーにも乗っていてくれないから、目を離せなくて気が気じゃないよ。ダブルのベビーカーも重くて、腕が太くなっちゃいそうだし……」
そんな毎日の会話を、パパもママもにこやかに聞いている。
「まぁ、それじゃあテレビショッピングのトレーニングマシンを買う必要がないから丁度いいじゃないの。ママもそうねえ、明日はキャロットを百本並べてみようかしら!」
「ハハッ、がんばるのはいいけど、無理しないでくれよ?」
年頃のアイリーンはたまに鬱陶しがるようなそぶりを見せるけど、それでもぼくたち一家の食事風景はいつもこんな感じでお互いの顔をまんべんなく見渡しながら笑顔で進んでいくんだ。
†‡†
夕食を食べると、ぼくはアイリーンと一緒にキッチンにお皿を運んで洗い物をする。食後にはパパとママはリビングでワインを飲みながら、二人で楽しそうに今日一日起こったことを話している。まるで出逢いたての恋人みたいに。
アイリーンがお皿を洗い、ぼくがそれをシンクで流す。これはぼくら姉弟の、パパとママに対するささやかな毎日のプレゼントでもあるんだ。
「ねぇ、フィリー。ラブパークの噴水の色が変わるのは、今度はいつ頃かしら?」
隣でアイリーンが、必要以上に泡立てた泡を指ですくうと息を吹きかけて宙に飛ばしている。なんだろう、妙に機嫌がいい。
「ラブパーク?」
「なによ、あんた、ラブパーク知らないの?」
ラブパークってのは、フィラデルフィアセンターシティーにあるシティーホールの横にある公園のことさ。『LOVE』ってモニュメントがある公園で、観光客にも人気の公園だ。
そこには大きな噴水があって、時々この噴水の色が緑色になることがあるんだけど、どういうタイミングで緑色になるのか――街の人たちはたぶんその理由を殆ど知らない。噂では、市長の誕生日とか、ベースボールチームのフィリーズが試合に勝った翌日とか、いやはたまたフットボールのイーグルスだとか、色々と噂だけなら流れている。でもそんな日の翌日でも緑色にならないときもあって、どうもはっきりしない。本当のところは誰も知らないんだ。
ぼくの仮説ではこうさ。このフィラデルフィアの春の短さを嘆いた青虫たちが、いっせいに身投げをして噴水を緑色に染める――そんなのはどうかな……?
「ラブパークは知ってるけど……。そんなのぼくだってわかんないよ。噴水の色がどうかしたの?」
ぼくが訊ねると、アイリーンがめずらしく照れ臭そうにしている。
「私、週末にボーイフレンドにデートに誘われたのよ、すごくイケてる人でさ。ほら! ラブパークの噴水が緑色のときに結ばれるカップルって上手くいくって言うじゃない? 週末にちょうど重ならないかなって……」
どうりで機嫌がいいわけだ! だけどそんな噂を聞くのは初めてだし、ぼくにしてみればそんなことどうだっていい話だ。
「ママー! パパー!! アイリーンがねぇ!!」
ぼくは洗っていたお皿を放り出して、パパたちがいるリビングに走り出そうとする。
「あっ!? ちょっと! フィリー!! 待ちなさいよ!!」
泡だらけのスポンジを持ったままのアイリーンに血相変えて追いかけられて、ぼくはあえなく捉まると泡だらけにされてしまった。キッチンで楽しそうにはしゃぐ様子を見にきたママが呆れ顔で笑う。
「あなたたち、なにやってるの? 体中泡だらけよ? そういうのはお風呂でやりなさい」
ママは少し酔っぱらっているのか、ほんのりと頬が赤い。子供のぼくから見ても少し恥ずかしくなるくらい素敵に笑う。
「ねぇ、ママ! スポンジがもうボロボロだよ? 新しいのに取り替えてもいいでしょ? そしたらこのスポンジ貰っていい?」
お姉ちゃんに捉まりながら使い古しのスポンジをおねだりするぼくを不思議そうにママが見る。
「えぇ、いいけど……そんなもの、なにに使うの? 体なんて洗っちゃダメよ?」
このボロボロのスポンジで、ぼくが体を洗うところを想像したのか、アイリーンがいきなり吹き出して笑い始めた。白い泡にまみれて、ちぎれた黄色いツブツブのクズが大量にまとわりついている――そんなバスルームでのシーンがぼくの頭にも浮かんでくる。クランチの入ったソフトクリームとか、生クリームをかけたシーザーサラダとか、意外にセンスのいいお姉ちゃんの憎らしい喩え話でからかわれる前に会話を終わらせようと、ぼくは二人の攻撃を振り切った。
「そんなことしないよ! とにかくスポンジは貰うよ!」
一人であわただしく残りの洗い物を終わらせて、スポンジの泡と水気をしっかりと切ると自分の部屋へと持ち込み、窓際にクリップで吊して干す。もう日は落ちてしまっているけど、明日になれば渇くかな? 目の前でなさけなく綻んでいるスポンジの、華麗に変身した完成形に想いを馳せて、ぼくはニンマリとした。
もちろんこのスポンジは、自分の体を洗うためなんかじゃない。乾かしたスポンジを細かくちぎって、緑や黄緑の色を丁寧に塗っていく。小さな緑のポップコーンの粒みたいになるよ。それを乾かして木の串にボンドで貼っていくんだ。仕上がりは想像できるだろ? まさに草原に生える木のように見えるんだ。なにを隠そう、実は今回が初挑戦! ずっと試してみたかったんだ。
このやり方をインターネットで見つけるまでは、紙粘土で木の幹と柄を作って着色し、それに麻紐で作った草を丁寧にボンドで貼っていた。だから、木を一本作るのにもものすごく時間も手間もかかっていたよ。
使い古しのスポンジがジオラマの木に早変わり! なんて、最初に考え出した人はすごいよね。世の中には無駄な物なんてなにひとつないんじゃないかな? 小さなジオラマの、遠くの方の景色で使うならシルエットさえしっかりしてれば問題ない。
部屋に篭って麻紐を黙々と解いていると、バスタオルで自慢の金髪を拭きながらアイリーンがいきなり部屋に入ってきた。ぼくは慌てて作りかけのジオラマに布を被せて振り返る。
「フィリー? お風呂空いたから入ってきなよ」
「ちょっと! 扉に立入禁止って貼ってあるでしょ!? どうしていつもその貼り紙を無視するんだよ!」
必死で怒鳴るぼくに、アイリーンはケタケタと笑うだけ。本当に性格の悪いお姉ちゃんなんだから! 弟の嫌がる顔を見るのがきっと趣味に違いないんだ。
「一体なんの用なの? 噴水のことならぼくにはわからないよ!」
口を尖らせると、アイリーンはぼくのベッドに勝手に座って話し始めた。
「あんた、ひょっとしてパパの誕生日忘れてないわよね?」
パパの誕生日は十月七日、今日は九月の二六日だから、来月のおこづかいが入ったらパパになにを贈ろうか、ずっと悩んでいた。
「忘れてないよ? どうして?」
「あのさ、一緒にお金を出し合って、パパの好きなレストランを予約しない?」
アイリーンが持ち掛けたそのナイスアイデアにぼくは軽く驚いた。
でも、パパの好きなレストランってなんだっけ?
「ほら! パパが好きなイタリアンのお店よ。ワシントンアベニューとサウスブロード通りの交差点の角にあるお店!」
太っちょのイタリア人がおしゃれな帽子をかぶって、天にかざしたステッキの上に載せて振り回すナポリピザからトロリと落ちてくるチーズを、ツンと尖った鼻先で受けている看板の映像が頭のなかに浮かんでくる。『気取ったイタリア人』っていうおかしな名前のレストランだけど、味は抜群に美味しい。
「ああっ! ハイティータイティーイタリアン!! いいね! きっとパパも喜んでくれるよ!」
「じゃあ決まりね! あんたおこづかい半分出しなさいよ。残りは私が出すから」
アイリーンは立ち上がると、髪を拭いたタオルをベッドの上に投げ捨てて部屋を出ていった。どうしてここへ置いていくんだ?
「半分かぁ……」
おこづかいが半分も飛んでいくのはキツイけど、パパが喜んでくれるならそれでも構わないって思った。
†‡†
二階から降りると、パパが「フィリー、一緒に入ろう」とウィンクしてお風呂に誘ってきた。こんな日は、バスシンクでパパがぼくの髪を洗ってくれる。ちょっとくすぐったいけど、こんな仲のいいファミリーもあんまりいないんじゃないかな?
「ねえ、パパ。ラブパークの噴水の水が緑になるのって、どうしてかわかる?」
頭を泡だらけにされながらぼくが訊くと、パパは何度も頷きながらこんなことを言って笑った。
「フィラデルフィアの春は短いだろ? 緑も少ないし、それを嘆いた青虫たちがいっせいに身を投げるのさ」
パパの言葉にぼくは目を丸くする。
「それ! ぼくと同じ考えだよ!」
「そうかぁ、やっぱり親子だな! 考え方まで似ちゃうんだな!」
そっくりに目を丸くして驚くパパを見ているとぼくまで嬉しくなる。
「ねぇ! パパ! アイリーンが週末にボーイフレンドとデートだって言ってたよ! なんとか阻止しなきゃ!」
真剣な顔でぼくが付け足すと、パパは大笑いした。
「お前もアイリーンくらいの歳になって、気になるガールフレンドでもできればきっと今の発言を後悔するよ。それに幸せそうな人を見るとこっちまで素敵な気分にならないかい? パパとママの仲がすごく良いのを見れば、お前だって幸せな気持ちになるだろう?」
「パパとママは別だよ!」
「お前がいつか結婚して、娘でもできようものなら、相手の男は苦労するんだろうな!」
パパは笑いながら豪快にシャワーを浴びせると、ムキになったぼくについてる泡を一気に洗い流した。
「ちょっと! パパ、なんのことだよ!」
ぼくには、そんなパパの態度も言ってることもちっとも理解できなかった。そんなぼくを見てパパは幸せそうに笑うだけだ。
ベッドに潜り込む前に、パパから貰ったお金を制服のポケットにしまい込んだ。明日学校から帰ったら、スポンジでジオラマの木を作らなきゃ……。
そんなことを考えながら、ぼくは眠りに落ちていった。
†‡†
「おーいフィリー! 用意できたか?」
翌朝、いつものようにアーチャーが迎えにくる。朝食を済ませたぼくは、テーブルに座るママとパパにキスをして家を飛び出した。
「おはよう! アーチャー!」
「おはよう、フィリー! どうだった?」
アーチャーは今日のピザにぼくが付き合えるかどうかが心配のようだった。パパの分のピザをテイクアウトする名目でアルバイト代を貰ったことを伝えると、安心して大きなため息をつく。
「そっかぁ! よかった。俺は前借りダメだったよ! お前のとこのパパは優しくてうらやましいよ!」
「そんなことないよ。ぼくだって少しは後ろめたいんだ」
息子の甘えにまで常に理解を示そうとしてくれるパパに、ぼくが後ろめたさを感じてることを告げるけど、アーチャーにはまったくわかってもらえなかった。
「親に甘えるのが子供の仕事で、子供を甘やかすのが親の仕事だ! だから俺の親は親の仕事をさぼってるんだ!」
「なんだよ、それ」
ぼくは笑った。アーチャーらしい考え方だけど、それじゃ偉大なベースボールプレイヤーの父を越えられない息子のようだよ。
「なぁ! ほら見ろよ、フィリー! なんと半額クーポン券なんだぜ!」
アーチャーが、ポケットに雑に突っ込んだサウスサイドピザのクーポン券を取り出して皺を伸ばしながら嬉しそうに見せる。
「うわっ! 本当だ……あれ?」ぼくはそのクーポンに押されたスタンプを見て違和感を覚えた。「ねぇ、アーチャー? そのクーポン、使用期限が去年の九月までになってない?」
「えぇ!?」
青い顔で一瞬固まったアーチャーが手のなかをまじまじと見る。
「うあぁッ!? 本当だ! 日付が去年になってる! ママったら、なんでこんな使えないクーポン券を大事に戸棚にしまい込んどくんだよ!」
こうして、ぼくたちのサウスサイドピザ半額計画は、海のもくずと消えてしまった。
「ゴメンな、フィリー。せっかく付き合ってもらうためにお金まで用意してもらったってのに……」
申し訳なさそうに、うなだれながらアーチャーは歩く。当然、ぼくなんかより遥かにショックを受けているのは一目瞭然だから、ぼくはこんな親友のことが不憫で仕方なかった。
「ぼくは大丈夫だよ、それより……大丈夫かい?」
足取りも重く、目も虚ろなアーチャーは「大丈夫……大丈夫……」とブツブツ唱えながら学校へと向かって歩いた。
せっかく貰ったお金だけど、帰ったらパパに返さなきゃ。そう思いながらポケットのお金を覗き込み、再びポケットを閉じた。
†‡†
その日も学校が終わると、ぼくとアーチャーはクリスチャン通りをアパートへと向かう。
「あぁ……サウスサイドピザから遠ざかっていく……」
アーチャーはピザの件を一日中引きずっていたようだ。
「こうなったら、もうすぐ小遣い日だし、残りのお金で好きな物買ってやる! フィリー! カエル堂に付き合ってくれよ?」
そう言うとアーチャーは返事も待たずに走り出した。
「えぇ!? ちょっと待って! ぼくは……」
断ろうとするけど、すでに走り出したアーチャーの耳にぼくの声は届いてない。カエル堂は『レインボーフロッグ』――虹色の蛙って名前のなんでも屋だ。お店に置いてあるものも様々で、骨董品から玩具、お菓子から雑貨まで本当になんでも置いてある。
お店の客層もバラバラで、老若男女様々な人が出入りする。――実はぼくが集めてるフィギュアもバッチリ取り扱ってるお店で……だから、おこづかいが空っぽのぼくには目に毒さ。
レインボーフロッグは、ぼくらの住むアルバンスプレイスから一本北の通り、クライマー通り沿いにある割と大きなお店だ。店内は薄暗い照明と、スーパーにあるようなスチール製の棚に商品がまとまりなく雑に置かれている。店内には防犯カメラらしきものもなく、ものすごく無用心なお店なんだけど、不思議と強盗が入ったなんて話は聞いたことがなかった。
アーチャーは店に入るなり、まっすぐお菓子コーナーへと歩いていった。ぼくは左手奥のフィギュアコーナーに行きたい気持ちを抑えて、骨董品コーナーへと向かう。
何に使うのか見当も付かないガラクタや、誰が買うんだろうってものまで並べられていて、しかも結構な値段がついていることもある。――この辺りなら欲しくなるものなんてきっとないよなって安心して歩いていると、そのなかのひとつに紺色のベロアで装飾された、宝石ケースのようなものがあるのに目を奪われた。
質流れ品だろうか? 年代物の埃を被ったケースを手に取って開いてみると、なかにはケースとは対称的なほどピカピカに輝いたコインが赤い台座に飾られていた。
――なにかの記念メダルなのかな?
コインを取り出して薄暗い照明の光にかざして眺めていると、近くで商品を物色していた身なりの良いおじいさんが、ぼくに近づいて来て言ったんだ。
「おや? 珍しい、6ペンスコインだね?」
イギリス紳士みたいに、おじいさんは黒いハットを脱いで胸の前に置くと、ぼくの手に取ったコインをまじまじと覗き込む。
「おじいさん、このコインのこと、なにか知ってるの?」
ぼくがそう聞くと、おじいさんは優しい口調で話し始めた。
「そのコインはイギリスで実際に使われていた6ペンスコインと言ってね。幸運を呼ぶコインとしても知られているんだよ」
おじいさんの説明を聞きながら、ぼくはコインに彫られている文字を読んだ。
――1909.エドワード7世。
「サムシング4って唄を知ってるかい? 君には関係ないだろうが、結婚式の花嫁が身に着けるとよいとされる4つのものだ。マザーグースの6ペンスの唄がもとになっているとも云われがあるんだがね」
マザーグースは聞いたことあるけど、詳しい話は知らない。
おじいさんはサムシング4を口ずさむように諳んじてくれた。詩なのかな。
なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの
(Something old, something new,)
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの
(something borrowed, something blue,)
そして靴の中には6ペンス銀貨を
(and a sixpence in her shoe.)
「花嫁はその唄にある4つのものを身に着け、最後に左の靴の踵にそのコインを忍ばせておくと、幸福になれるという言い伝えがあるんだよ」
その話でピンと来た。
「あぁ! だから幸運のコイン?」
おじいさんは、黒いステッキを左手に持ち替えながら軽く頷く。
「贈り物などにも喜ばれるものでね、どうだろう? 君が買わないのなら私に譲ってくれないかい?」
そう言われて、ぼくは少し焦ってしまった。手のなかのコインが急に特別なものに思えてくる。おじいさんが言うとおりこのコインがそんなに珍しいなら、次はいつ手に入るかわからないし、なによりパパの誕生日プレゼントにうってつけだと思ったんだ。
――でも、今のぼくにはお金がない……。
「ダメかい?」
おじいさんが催促するようにぼくに訊ねた。
「あの……その……」
ごまかしながらベロアのケースに目をやると、小さく貼られた値札には、青いインクで『$5.00』と書かれていた。
――5ドルなら、パパから預かったお金でちょうど足りる!
本当はサウスサイドピザを買うために貰ったお金だけど、今このコインを買わないとおじいさんに買われてしまうし、今日のところはなんとかパパをごまかして、おこづかいが入ったらお金を返せばいいんだ。そう思ったぼくはおじいさんに言った。
「おじいさん、ごめんね、ぼくもこのコインをパパの誕生日に贈りたいんだ」
それを聞いたおじいさんは少し残念そうにしたけれど、すぐにニッコリ微笑んでくれた。
「それなら諦めるしかないね、君のパパに幸運を……」
黒いハットを被り直したおじいさんは、振り返ると歩き出し店を出ていった。
「おい、フィリー? そんなところでなにやってんだ?」
おじいさんの背中を眺めるぼくの傍へ、買い物カゴをお菓子で山盛りにしたアーチャーがやって来る。
「なんだよそれ? 買うのか?」
ぼくの手に持つコインを見て、アーチャーが不思議そうにした。
「うん、幸運を呼ぶコインだって! パパへの誕生日プレゼントに買うんだ」
アーチャーが値札を見て驚いた。
「でも、そのお金ってパパから預かったピザのお金だろ? 勝手に使って大丈夫なのか?」
「なんとかごまかすよ。パパはぼくに甘いし、それに来月になったらすぐに返すさ」
「まあ、お前なら大丈夫かもな」
アーチャーも納得したのか、軽く笑った。
古いタイプライターのような音を鳴らすレジで精算するとぼくたちはお店を出る。アーチャーは両手にパンパンに詰まったお菓子の袋を持ちなんとも清々しい表情をしていた。
「じゃあ、また明日な!」
いつものように家の前で別れを告げると、親友を見送るぼくの目に、両手に袋を抱えたままアパートへと歩き出すアーチャーの姿が、ヨチヨチ歩くペンギンみたいに見えた。
「うん! また明日!」
笑いを堪えてアーチャーの背中に声をかけると、ぼくも家のなかへと入っていった。