最後に覚えてるのはこんな記憶だ。
 その日、フィラデルフィアでは記録的な大雨が降っていた。真っ黒な分厚い雲からは、まるで機関銃のような雨が降り注ぎ、街のあちこちでは雷の落ちる音が響き渡っていたんだ。
 グレンウッドにあるアムトラックの駅、フィラデルフィアノースステーションに向かうため、この大雨と落雷のなかをパパは運転しづらそうに車を走らせていた。

 サウスブロード通りからシティーホールをぐるりと回り込み、ノースブロード通りへと入っていく。
 突然降り出した大雨に、街のいたるところでは交通麻痺が起き始めている。車のボディーに打ち付ける雨粒のものすごい音と辺りに鳴り響く雷がガタガタと車を揺らし、まるでぼくらを威嚇する。後部座席にひとり座るぼくも、同じように恐怖で体を震わせていた。
 フロントガラスに目をやると、ドシャドシャと降ってくる雨粒をものすごい早さで車のワイパーが動いて振り払っているけど、それでも視界なんてないに等しい。
「ものすごい雨ね……」
 助手席に座るお姉ちゃんのアイリーンが不安そうに呟くと、パパはそんなアイリーンの肩を優しく摩る。
「大丈夫だよ。ほら、ちゃんとシートベルトを締めて」
 慌ててシートベルトを締めたお姉ちゃんは、怯えるようにベルトを両手で握りしめた。バツバツと車に叩きつける雨音――それに負けないような大きな声で、パパが後部座席のぼくを振り返る。
「フィリー、もうすぐ駅に着くからね。でもこの大雨じゃあ、はたして列車が動いてるかどうか怪しいものだがね」
 そんなふうに顔をほころばしてくれるパパを見て、緊張していたぼくの心は少しだけ和らいだ。

     †‡†

 車に乗り込む少し前から降り出した大雨のせいで、ぼくもパパもアイリーンも全身ビショビショに濡れてしまった。
「温かいココアでも飲みたい気分だわ」
 青白い顔をしながらアイリーンが笑うと、パパも「そうだね、できれば濡れた体を拭いて、着替えまでできると最高なんだけどね」と笑った。
 渋滞するノースブロード通りを走らせていくと、雨脚がいっそう強まっていく。窓の外を見ると、辺りには相変わらずの稲光とともに、真っ黒な雲のなかからは、ゴロゴロとした雷が不気味に喉を鳴らすようだ。
「一体いつまで降るんだろう?」
 揺れる車の中で不安げにそう呟いたとき、突然強烈な光とともにすさまじい轟音が地面を振動させた。落雷だ! 車が大きく揺れる。恐怖に思わず目を閉じる。座った足の間に頭を捩込んで、ぼくは必死でポケットのコインを握りしめていた。
「アイリーン! フィリー! 大丈夫か!?」
 何度も何度も落ちてくる雷。体を揺らす振動。ぼくはガチガチに緊張して固まっていた。硬直する体はいつまでも続くこの不安な状況に、力の抜きどころを見失ってしまっている。目は固く瞑ったまま。真っ黒闇のなか、叩きつける雨音と鳴り響く雷鳴しか聴こえない。
「パパ! フィリー!!」
 地面からビリビリと伝わってくる振動と揺れの感覚に、怯えて悲鳴をあげるアイリーンの声を聞きながら、ぼくの意識は遠退いていった……。

     †‡†

 どのくらい時間が経ったんだろう? 頭を足の間に入れ込んだ間抜けな姿のまま、ぼくはいつの間にか眠ってしまった。上体を起こして窓から外を見ると、車はすでに駅近くの駐車場に停められている。
 あんなに激しく降っていた雨もいつの間にか上がって、まだ灰色の雲のなかからは雷鳴が静かに燻っているけれど、雲の切れ間からはお日様の光の筋が差し込んでいた。
 助手席にアイリーンの姿はない。運転席のパパは窓をいっぱいに開いて煙草をふかしていた。
「パパ? アイリーンは?」
「おっ? 起きたんだね、フィリー。アイリーンなら着替えを持って駅の公衆トイレに行ってるよ」
 ぼくの声に笑顔で振り返ったパパは、煙草の煙が車内に入らないように気にしていた。
「パパはもう着替えたの?」
 見たかぎり、パパの服装は家を出るときとなにも変わっていない。
「助手席においで」
 パパは灰皿に煙草を押し付けると、助手席の座席を倒してぼくを呼んだ。喜んで助手席に飛び移るとパパは嬉しそうに話し出す。
「お前の目が覚めたとき、パパもアイリーンもいなかったら、お前が不安がってお漏らしするんじゃないかってアイリーンが言うものだから……」
 笑いを堪えているパパを見て、ぼくはムッとした。
「そんなことする訳ないよ! バカアイリーンめ!」
 さすがのぼくも、車にひとり残されたからってお漏らしなんてする訳ない。だけどお姉ちゃんの予想はあながち遠くもない――ってことに気づいていたぼくは大袈裟に怒ってごまかした。
「わかってるよフィリー。お前はもう一人前の男だもんな! さっきまでの雨でしばらく列車は動かないらしいから、お前も着替えてココアでも飲んどいで。パパはもう少しここで一服してから行くよ」
 パパは再び煙草に火をつける。
「わかった! パパの分のコーヒーも買ってくるよ!」
 車のドアを開けると、冷たい空気がぼくの体にまとわりついてきた。
「じゃあよろしく、ミルクは1でダイエットシュガーをたっぷりだよ」
 そういって笑うと、パパは車の窓から顔を出して機関車みたいに煙草の煙を上へと吐き出していた。

     †‡†

 そんなパパに手を振って、ぼくは駅の構内へと入る。ここへは滅多に来ないけど、たまに来るアムトラックの駅は、まるでガラッと変わってしまったかのようだった。ピカピカに光る石畳の床に、神殿みたいな立派な石柱。人は疎らだし、いつもより駅のなかがやたらと広く感じた。
 まるで煙に巻かれた気分さ。思っていたアムトラックの駅と、今いる構内の違いが大きすぎてぼくは驚いていた。パパの煙草がぼくにまとわりついて悪さでもしているんじゃないかな?

「フィリー!」

 誰かがぼくの名前を呼んでいる。

「フィリー!」

 アムトラック駅構内、まるで神殿のこの空間にぼくの名前がこだましていた……。