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「ごめんください! 誰か、起きてください!」
必死に孤児院の扉を叩くとマザーのひとりが応対してくれた。
「あら、シェプターさんの息子さんじゃないですか。どうなさったんですか、こんな夜中に」
「ニーナに会わせてください! 大事な話があるんです!」
「ニーナに?」
マザーは困惑しながらもヨハンの願いを聞き入れる。しばらくして現れたニーナは深夜だというのに冴えた目をしていた。『アストラル魔法戦記』の本を抱きしめている。
「あっ、あのさ……」
勢いで飛び出しニーナに会ったものの、何と説明すればいいのか考えていなかった。けれど先に言葉をつないだのはニーナのほうだった。
「――あたし、ヨハンにどうしても聞きたいことがあるの。いいかな?」
「え? 何?」
「この本を読んでから、ずっと同じ夢を見ているの」
「夢……?」
「『アージェ』っていう名前の男の人が、あたしのことを見つめてくるの。優しそうな顔だったり、さみしそうな顔だったり。あたしは夢の中でその人のことを、とっても頼りにしていて、とっても応援していて、とっても大好きだった。いつもその人の胸の中で眠っているような気持ちだった」
聞いたヨハンは驚きで全身が麻痺するような感覚だった。その夢で抱いた気持ちは――まさに物語で読んだ秘石の少女の想いそのものだったからだ。
「ねぇ、なんであたし、こんなに泣きたくなるんだろう……」
壊れそうなほどに切ない表情を目にしたヨハンは確信を得る。目の前にいるニーナという名前の少女の魂は――。
「きみは会わなくちゃいけないんだよ、ぼくのじいちゃんに!」
突然、胸の奥からさまざまな感情が沸き起こり叫んでいた。それは『アストラル魔法戦記』を読んだがための使命感だけではない。
「おじいちゃん……?」
「そうだ、アージェじいちゃんだよ!」
心底、悔しかった。うち震えるほどの嫉妬心に襲われていた。それでもじいちゃんが長い旅の果てに叶えようとした最愛のひととの邂逅を、ヨハンは邪魔することなんてできなかった。
そんな残酷なことをしたらヨハンは生涯、自分自身を卑怯者だと罵り続けてしまうと思えたから。
「ヨハン、あたしを連れて行って。おねがい!」
「ああ!」
ニーナ自身、理解が追いついていないはずなのに、心の奥の何かに激しく突き動かされているようだった。
ヨハンは、アージェじいちゃんがメメルの真実に気づいていると確信を持っていた。なぜならセリアばあちゃんが救ったニーナの姿が、メメルそっくりに変貌したのを知っているのだから。
じいちゃんは自分の部屋からヨハンを監視していたのではない。メメルの新しい人生を見守っていたに違いないのだ。
病院にはアージェじいちゃんの親戚一同が集まっていた。じいちゃんは息も絶え絶えでうつろな目をしている。死期は近いと一目で見て取れた。
「ヨハン、今までどこに行っていたのよ。――あれ、その子は?」
「悪いんだけど、じいちゃんと水いらずの時間をくれないか。ちょっとだけでいいから!」
「こんな時に何冗談を言っているのよ。親戚の皆さん、わざわざ遠くからいらしたのに」
「あとでいくらでも謝るから、とにかく出て行って!」
ヨハンは無理やり親族を病室から追い出し、その場にニーナを残した。ニーナは茫然とした顔でじいちゃんを見つめていたが、しばらくその顔を見た後、ぽつりと小声で語りかけた。
「アージェ……?」
ニーナはおぼろげながら記憶を取り戻しているようだった。
じいちゃんは目覚めるかのように、そっとまぶたを開いた。ニーナを視界に捉えると瞳を二倍にして驚く。その瞳には光が宿っていた。
「メメル……なのか?」
「うん、そうだよ。メメルだよ、わかる? アージェ!」
返事をした瞬間、アージェじいちゃんはふっと柔和な笑顔になる。そんな顔をヨハンは一度も見たことがない。アージェじいちゃんは彼女に「アージェ」と呼ばれるその時を、あてもなく待ち続けていたのだろう。
するとヨハンが握っていたペンダントが突然、強烈な光を放ち出す。光が病室の天井にいくつもの光の輪を描く。
そこにはアージェとメメルがともに過ごした日々の姿が映し出された。天井や壁を舞い踊る映像は、まるで思い出を記したアルバムのようだ。まさに秘石が残した、ふたりの物語の足跡だった。ヨハンはその壮大な冒険の光景に絶句した。
我を忘れて見入っていたが、視線を元に戻すとニーナはアージェじいちゃんの隣に座り込み、その手をしっかりと握っていた。
「アージェ、あたし思い出した! アージェがあたしを守ってくれたこと。たくさんの幸せをくれたこと。それにアージェが大好きだったことも!」
「そうか、覚えていてくれたか。嬉しいなぁ……」
アージェじいちゃんは満面の笑みで涙をこぼしている。
「メメル、遅くなったけど、きみに言いたいことがある。――俺はきみに出会えて幸せな人生だった」
「うん、うんっ! とっくに知っていたよっ!」
ふたりはうっとりした表情でかつてのポンヌ島の風景を懐かしむ。大地は花の色で溢れ、空はどこまでも澄んでいた。
ニーナはアージェじいちゃんの顔を優しくなで、頬に唇を寄せる。気づいたヨハンはすぐさま目をそむけた。
あたたかく広がる空気を感じてヨハンは思う。ふたりはこころがつながるこの一瞬のために、長い旅路を歩み続けてきたのだろうと。
それからまもなく、じいちゃんはみずから目を閉じ、穏やかな寝顔でばあちゃんの元へと旅立っていった。
「アージェ、今までほんとうにありがとう……」
見届けたニーナはそっと手を離し、アージェに向けていた笑顔のままゆっくりと後ずさりする。まるで浮かぶ雲のようにふわふわと病室を出ていった。
母は怒り顔で、親戚たちが怪訝そうな顔でニーナをじろじろと見たが、ヨハンは気に留めることなくニーナの後を追った。
東の空が白く染まり、ポンヌ領の風景を明るく染め出す。ポンヌ島だった時と変わらない、穏やかに広がる小麦畑の風景。光の輪のひとつは、その中を走り回るメメルとアージェの姿を描き出していた。この島のいたるところで作られた思い出の記録が、ペンダントには残されていた。
ニーナはゆっくりと麦の穂の海原に足を踏み入れてゆく。そのさまは儀式のように厳かだ。そんなニーナをヨハンは遠くから見守る。
腰のあたりまで麦の穂に隠れると、ニーナの姿は金色の波間を漂う小舟のように見えた。
しばらく奥に進んだところで足を止め、膝をついて胸まで麦の穂に埋もれた。それからゆっくりと天を仰ぐ。そしてニーナは叫んだ。
――っわあぁぁああああっあああっっぁあぁぁぁああっぁぁぁあっぁああぁあぁあぁっぁああぁああぁぁぁぁぁ!!!!
それはヨハンが生涯忘れることのできない、心臓から熱い血脈を絞り出すような叫びだった。
叫びに呼応するように、暁日が稜線の頂から浮かび上がる。その鮮やかな光は今までヨハンが見たことのない鮮烈な金色をしていた。
燃えるように煌めく光線がこの世界一面に広がり、小麦畑を一瞬にして琥珀色に焼き焦がした。小麦の穂が乾いた悲鳴を空に放つ。
一陣の風が小麦畑を襲うと、地上を覆う炎が荒波となってニーナを包み込んだ。
その姿を目の当たりにし、ヨハンはついに理解した。メメルは燃えたぎる「アージェ」への想いに命を焼かれながら生きていたのだと。メメルの情熱は途方もない苦しみで、同時に至高の美でもあったのだと。
ヨハンは思わず独り言ちる。
「ああ、ぼくなんて、ニーナにとっての運命のひとじゃなかったんだなぁ……」
それからしばらくして叫ぶのを終えたニーナは振り向き、ヨハンに涙顔の笑顔を見せてくれた。
思い残すことなど何ひとつない、無邪気な子供のような笑顔を。
「ごめんください! 誰か、起きてください!」
必死に孤児院の扉を叩くとマザーのひとりが応対してくれた。
「あら、シェプターさんの息子さんじゃないですか。どうなさったんですか、こんな夜中に」
「ニーナに会わせてください! 大事な話があるんです!」
「ニーナに?」
マザーは困惑しながらもヨハンの願いを聞き入れる。しばらくして現れたニーナは深夜だというのに冴えた目をしていた。『アストラル魔法戦記』の本を抱きしめている。
「あっ、あのさ……」
勢いで飛び出しニーナに会ったものの、何と説明すればいいのか考えていなかった。けれど先に言葉をつないだのはニーナのほうだった。
「――あたし、ヨハンにどうしても聞きたいことがあるの。いいかな?」
「え? 何?」
「この本を読んでから、ずっと同じ夢を見ているの」
「夢……?」
「『アージェ』っていう名前の男の人が、あたしのことを見つめてくるの。優しそうな顔だったり、さみしそうな顔だったり。あたしは夢の中でその人のことを、とっても頼りにしていて、とっても応援していて、とっても大好きだった。いつもその人の胸の中で眠っているような気持ちだった」
聞いたヨハンは驚きで全身が麻痺するような感覚だった。その夢で抱いた気持ちは――まさに物語で読んだ秘石の少女の想いそのものだったからだ。
「ねぇ、なんであたし、こんなに泣きたくなるんだろう……」
壊れそうなほどに切ない表情を目にしたヨハンは確信を得る。目の前にいるニーナという名前の少女の魂は――。
「きみは会わなくちゃいけないんだよ、ぼくのじいちゃんに!」
突然、胸の奥からさまざまな感情が沸き起こり叫んでいた。それは『アストラル魔法戦記』を読んだがための使命感だけではない。
「おじいちゃん……?」
「そうだ、アージェじいちゃんだよ!」
心底、悔しかった。うち震えるほどの嫉妬心に襲われていた。それでもじいちゃんが長い旅の果てに叶えようとした最愛のひととの邂逅を、ヨハンは邪魔することなんてできなかった。
そんな残酷なことをしたらヨハンは生涯、自分自身を卑怯者だと罵り続けてしまうと思えたから。
「ヨハン、あたしを連れて行って。おねがい!」
「ああ!」
ニーナ自身、理解が追いついていないはずなのに、心の奥の何かに激しく突き動かされているようだった。
ヨハンは、アージェじいちゃんがメメルの真実に気づいていると確信を持っていた。なぜならセリアばあちゃんが救ったニーナの姿が、メメルそっくりに変貌したのを知っているのだから。
じいちゃんは自分の部屋からヨハンを監視していたのではない。メメルの新しい人生を見守っていたに違いないのだ。
病院にはアージェじいちゃんの親戚一同が集まっていた。じいちゃんは息も絶え絶えでうつろな目をしている。死期は近いと一目で見て取れた。
「ヨハン、今までどこに行っていたのよ。――あれ、その子は?」
「悪いんだけど、じいちゃんと水いらずの時間をくれないか。ちょっとだけでいいから!」
「こんな時に何冗談を言っているのよ。親戚の皆さん、わざわざ遠くからいらしたのに」
「あとでいくらでも謝るから、とにかく出て行って!」
ヨハンは無理やり親族を病室から追い出し、その場にニーナを残した。ニーナは茫然とした顔でじいちゃんを見つめていたが、しばらくその顔を見た後、ぽつりと小声で語りかけた。
「アージェ……?」
ニーナはおぼろげながら記憶を取り戻しているようだった。
じいちゃんは目覚めるかのように、そっとまぶたを開いた。ニーナを視界に捉えると瞳を二倍にして驚く。その瞳には光が宿っていた。
「メメル……なのか?」
「うん、そうだよ。メメルだよ、わかる? アージェ!」
返事をした瞬間、アージェじいちゃんはふっと柔和な笑顔になる。そんな顔をヨハンは一度も見たことがない。アージェじいちゃんは彼女に「アージェ」と呼ばれるその時を、あてもなく待ち続けていたのだろう。
するとヨハンが握っていたペンダントが突然、強烈な光を放ち出す。光が病室の天井にいくつもの光の輪を描く。
そこにはアージェとメメルがともに過ごした日々の姿が映し出された。天井や壁を舞い踊る映像は、まるで思い出を記したアルバムのようだ。まさに秘石が残した、ふたりの物語の足跡だった。ヨハンはその壮大な冒険の光景に絶句した。
我を忘れて見入っていたが、視線を元に戻すとニーナはアージェじいちゃんの隣に座り込み、その手をしっかりと握っていた。
「アージェ、あたし思い出した! アージェがあたしを守ってくれたこと。たくさんの幸せをくれたこと。それにアージェが大好きだったことも!」
「そうか、覚えていてくれたか。嬉しいなぁ……」
アージェじいちゃんは満面の笑みで涙をこぼしている。
「メメル、遅くなったけど、きみに言いたいことがある。――俺はきみに出会えて幸せな人生だった」
「うん、うんっ! とっくに知っていたよっ!」
ふたりはうっとりした表情でかつてのポンヌ島の風景を懐かしむ。大地は花の色で溢れ、空はどこまでも澄んでいた。
ニーナはアージェじいちゃんの顔を優しくなで、頬に唇を寄せる。気づいたヨハンはすぐさま目をそむけた。
あたたかく広がる空気を感じてヨハンは思う。ふたりはこころがつながるこの一瞬のために、長い旅路を歩み続けてきたのだろうと。
それからまもなく、じいちゃんはみずから目を閉じ、穏やかな寝顔でばあちゃんの元へと旅立っていった。
「アージェ、今までほんとうにありがとう……」
見届けたニーナはそっと手を離し、アージェに向けていた笑顔のままゆっくりと後ずさりする。まるで浮かぶ雲のようにふわふわと病室を出ていった。
母は怒り顔で、親戚たちが怪訝そうな顔でニーナをじろじろと見たが、ヨハンは気に留めることなくニーナの後を追った。
東の空が白く染まり、ポンヌ領の風景を明るく染め出す。ポンヌ島だった時と変わらない、穏やかに広がる小麦畑の風景。光の輪のひとつは、その中を走り回るメメルとアージェの姿を描き出していた。この島のいたるところで作られた思い出の記録が、ペンダントには残されていた。
ニーナはゆっくりと麦の穂の海原に足を踏み入れてゆく。そのさまは儀式のように厳かだ。そんなニーナをヨハンは遠くから見守る。
腰のあたりまで麦の穂に隠れると、ニーナの姿は金色の波間を漂う小舟のように見えた。
しばらく奥に進んだところで足を止め、膝をついて胸まで麦の穂に埋もれた。それからゆっくりと天を仰ぐ。そしてニーナは叫んだ。
――っわあぁぁああああっあああっっぁあぁぁぁああっぁぁぁあっぁああぁあぁあぁっぁああぁああぁぁぁぁぁ!!!!
それはヨハンが生涯忘れることのできない、心臓から熱い血脈を絞り出すような叫びだった。
叫びに呼応するように、暁日が稜線の頂から浮かび上がる。その鮮やかな光は今までヨハンが見たことのない鮮烈な金色をしていた。
燃えるように煌めく光線がこの世界一面に広がり、小麦畑を一瞬にして琥珀色に焼き焦がした。小麦の穂が乾いた悲鳴を空に放つ。
一陣の風が小麦畑を襲うと、地上を覆う炎が荒波となってニーナを包み込んだ。
その姿を目の当たりにし、ヨハンはついに理解した。メメルは燃えたぎる「アージェ」への想いに命を焼かれながら生きていたのだと。メメルの情熱は途方もない苦しみで、同時に至高の美でもあったのだと。
ヨハンは思わず独り言ちる。
「ああ、ぼくなんて、ニーナにとっての運命のひとじゃなかったんだなぁ……」
それからしばらくして叫ぶのを終えたニーナは振り向き、ヨハンに涙顔の笑顔を見せてくれた。
思い残すことなど何ひとつない、無邪気な子供のような笑顔を。