それから数日が過ぎた。

 ヨハンが学校から戻ると家はがらんどうとしていた。お手伝いさんがひとりだけ残って倉庫の片付けをしていたので尋ねる。

「何かあったんですか、ハウキンさん」
「あら、お帰りなさいませ、ヨハン様。じつはアージェ様がお具合を悪くされたそうで、奥様がポンヌ総合病院に連れて行かれました。さきほど入院されたみたいです」
「ああ、そうだったんですか」

 驚きはさほどなかった。ばあちゃんが旅立ってからというもの、じいちゃんは死んだように生きていた。だからいまさらという感じがした。むしろニーナとの待ち合わせをじろじろ見られなくてすむと思うとそれだけで気が楽だ。

 しばらくすると母が帰ってきた。いくぶん動揺した雰囲気だったから医者から厳しい話をされたのだろう。

「急に呼ばれるかもしれないから、夜中も電音機はつけておいてね」

 母は遠慮がちに言った。

「っていうことは、かなり悪そうなんだ」
「もう心臓の余力がないんだって」

 でも、じいちゃんは長生きした方だと思う。同い年のばあちゃんとは五歳も差がついてしまった。さすがに気丈なばあちゃんでさえ、ひとりで長く待たせると寂しいと言い出しかねない。

 五十年前の魔法戦争で魔法が弱体化してから、文明は飛躍的に進歩した。月の光を蓄えて魔力に変わるエネルギーを生み出し、それを生活の中に取り入れていった。じいちゃんとばあちゃんはグレイマン領で長い間、その研究に携わっていた。電音機をはじめとする通信網の発達はふたりの大きな功績だ。ふたりは夫婦である以上に、戦友であり研究仲間でもあった。

 その夜、ヨハンはどうしても眠りにつけず、のっそりと起き出して本の整理の続きを始めた。じいちゃんが亡くなれば、ばあちゃんの魔導書は魔法博物館に寄付する手はずとなっていた。けれど寝つけない理由はじいちゃんの容体よりも、ニーナがいつ、物語の感想を話してくれるのか、気になって仕方なかったからだ。

「これはいる、いらない、いる、いらない――ん?」

 魔導書の間に挟まった、小さな鍵付きの本に気づく。いや、魔力を感じるから普通の鍵ではない。これは鍵開けの魔法を使うか、魔法を消さないと開かないものだ。

 だからセリアばあちゃんがアージェじいちゃんに残した本なのだと直感が働いた。けれど開錠されていないということは、じいちゃんはこの本の存在に気づいていないはず。

 ところがヨハンはじいちゃんから魔法を消す能力を引き継いでいる。弱体化した魔法だが、はじめて役に立つかもしれない。逡巡はほんの一瞬だった。ヨハンはそこにセリアばあちゃんの魔法の秘密が残されているのではないかと思い、興味が沸いて仕方なかったのだ。

 ――『魔禁瘴・解錠(ディスペル)!』

 ヨハンの指先が黒い霧で覆われる。操ると蛇のように伸びて施錠の魔法を絡めとる。カチリと音がして鍵が外れた。

 慎重に本を開くと、目に飛び込んできたのは簡素なメッセージ。セリアばあちゃんの筆跡だ。

『親愛なるアージェへ
 長く待たせてしまってごめんなさい。
 あなたとの約束をいつか果たしたいと思っていました。けれどずっと果たせずにいたのは、わたしが生きることに甘えていたからなのかもしれません』

 そんな冒頭から始まった、セリアばあちゃんの筆記。興味津々で読み進めてゆく。

『魔法戦争が終結してから三年が過ぎたあの日、わたしはヴェンダールから生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)を受け取りました。あなたには秘密にしていましたが、この魔法を発動させるための最後の条件――それはすぐにでも実行可能なものでした。けれど、わたしはそれをしませんでした』

 ヨハンは息をのんだ。生命再生の魔法なんて、ばあちゃんの空想でしかないと思っていたのだから。でも、ここに書かれていることが真実なのだとしたら――。

『なぜなら生命再生に必要な条件、それはクイーン・オブ・ギムレットの魔力を吸い込んだ魔導書、器となる肉体、そして――術者の生命(・・・・・)でした』

 ――なんてことだ! そんなの無理じゃないか!

 ヨハンの顔は蒼白になり、冷汗が頬を伝う。けれど文字を拾う目は止まらない。止められるはずがない。

『ですからヴェンダールはわたしが術者として名乗り出た時、最高の意趣返しができたと思ったことでしょう。わたしとメメルちゃんの生命を天秤にかけさせるという、非情な選択を突きつけることができたのですから』

 心臓が激しく高鳴り、呼吸すらままならなくなる。

『わたしは戦争で孤児となった日から、自分の死を怖れたことなんてありませんでした。けれど戦いの中で、あなたとの幸せな時間が欲しいと思うようになってしまったのです』

 一度、目をそらして深呼吸をする。強烈な胸の拍動が喉元まで伝わってくる。怖い、これより先を読むのが恐ろしい。行間に宿るセリアばあちゃんの葛藤が刃となり、平和慣れしたヨハンの緩い心臓を容赦なく切り裂いてゆく。

 汗を拭い、ニーナに貸した『アストラル戦記』の物語を思い出す。

 悪役だったヴェンダールだが、生命再生の魔法の術者を買って出ていた――それは帝の僥倖のために命すら賭けたことを意味していた。

 そうだとすれば、運命の綾により生き残り、帝とともに旅することになったヴェンダールこそ、あの物語で一番の果報者だったのではないか。

 ヨハンは冷静さを取り戻したところで、ふたたびその本に視線を落とす。

『ここで正直に告白します。わたしはあなたとの時間をひとときでも享受できたのなら、何も言い残さずにあの魔法を発動させるつもりでした。

 でも、それができなかったのは――あなたとの間に新しい命が宿ってしまったからです。その瞬間から、わたしの命はもう、わたしひとりのものではなくなってしまったのです』

――そんなっ!

 胸が苦しくなり、書斎の空気の重さに押しつぶされそうになる。

 もしもセリアばあちゃんがメメルの生命再生を実行していたのなら、この世界にヨハンは実在していないのだ。ヨハンがこの世界に生きている、それはメメルの命の代償でもあった。

 その事実はヨハンにとってあまりにも重いものだ。

 だが、セリアばあちゃんの告白にはその先があった。

『けれど、わたしもあなたと同じように、メメルちゃんを大切に思っていた人間のひとりです。ですからわたしは必ずあなたとの約束を守ろうと思い続けていました。たとえメメルちゃんが記憶を失い、あなたの想いが報われなかったとしても』

 震える手でページをめくる。目を血走らせて文字を読み進める。

『今、わたしの目の前にはひとりの女の子が横たわっています。黒薔薇の棘により魂を壊され、意識が戻ることのない子です。わたしはこれが唯一の機会だと悟りました。この時を逃したら、メメルちゃんを甦らせる機会は二度となくなってしまいます』

 ――まさか! そんなまさかッ!

『神に背く行為とも言える生命再生の魔法。それを唱えたわたしが、天国から世界(アストラル)を見守れるかどうかは定かではありません。ですからどうかアージェは生まれ変わるメメルちゃんを、そっと見守ってあげてください』

 読み終えたヨハンは雷に打たれたような衝撃を受けた。もしもこの話がほんとうのことなら、メメルというのは――。

 本はまだ半分の厚みを残していたが、一枚の絵で終止符が打たれていた。その絵には三人の若者の姿が描かれている。

 左側に描かれているのは、颯爽とした雰囲気の明るい青年。自分にすごく似ていると思った。きっとアージェじいちゃんだ。

 右側に描かれているのは、長い髪の上品そうな女性。若い頃のセリアばあちゃんに違いない。

 最後のひとりは、そのふたりに挟まれている、ふわくしゅの髪で屈託のない笑顔を浮かべる女の子。ヨハンはその姿に驚きを隠せなかった。

 その子はニーナそのものだった。

 感覚を失うほどに痺れた手で本をまさぐる。すると本は裏表紙から開くことのできるシークレットボックスになっていた。そこには丁寧に白布で包まれた何かが入っていた。

 開けると出てきたのは綺麗なネックレスだった。淡青色に光る宝石がはめられている。それはまさに、ばあちゃんの物語に登場する『メメルの魂を宿す秘石』のイメージそのものだった。けれど、そこに拍動する『種』はない。

 ――なんてことだ! ばあちゃんの物語は空想なんかじゃなかったんだ!

 ヨハンはペンダントを掴みとり、夢中でポンヌ孤児院へ駆けてゆく。満ちた月はとうに西の地平線に向かって傾いていた。