ニーナは幼い頃、重い病気を患ったことがあった。いや、黒薔薇の棘に毒されたのだから呪いと言うほうが正しいだろう。

 ニーナの両親はさまざまな医者に診療をお願いしたが、意識が戻らないまま弱っていく一方だった。打開策はなく、皆、手遅れだと口を揃えて告げただけだ。

 死の危機に瀕し、両親は藁にもすがる思いで高名な魔法博士の元を訪れた。それがセリアばあちゃんだった。けれどばあちゃんは悪性の病気を患っており、無理できるような状態ではなかった。ところがばあちゃんは最後の力を振り絞りニーナを元気にさせてみせた。奇跡的な復活劇だった。

 だけどその無理がたたってばあちゃんは倒れ、その場で息を引き取ってしまった。葬儀では皆、ばあちゃんをシェプター家の誇りだと讃えていた。

 ところがその治療は、けっしてうまくいったわけではなかった。ニーナの体には異変が起きていたのだ。

 目覚めた時には記憶がすっかり失われていた。両親は記憶の回復を期待していたが、記憶は回復せず、新たに異常な変化が現れた。シルバーの艶めいた髪は色が変化し、すらっとした顔の輪郭も徐々に丸みを帯びてきたのだ。

 ニーナの両親は「どうにかしてくれ」と、ニーナを連れてたびたび足を運んできた。ヨハンの父は魔法博士ではないし、そう言われてもしどろもどろするばかりだった。

 両親は変わりゆくニーナの姿に不安を覚え、それはいつしか嫌悪感に変わってゆく。しまいには呪いをかけられたのだと亡きセリアばあちゃんを貶めた。

 結局、ニーナをシェプター家が支援しているポンヌ孤児院に引き取らせることで責任を取らせようとした。

 そんなニーナ自身を否定する過去のトラウマが、他人への好意をためらわせているのだろうとヨハンは察した。

 だけどセリアばあちゃんは誰かに呪いをかけるような邪悪な人間ではない。そのことをニーナにも信じてもらいたい。そう願った時、ひとつのひらめきが舞い降りた。

 ――そうだ、ばあちゃんの書いた物語をニーナに読ませてあげよう。そうすれば、ばあちゃんがどれだけ真摯で純粋な人間なのかわかるはずだ。心が汚れた人間が、あんなに素敵な物語を書けるはずはないのだから。

 ヨハンは告白を後回しにし、ニーナにばあちゃんの物語を読んでほしいと提案した。好奇心旺盛なニーナは迷わず首を縦に振る。

 持ってきた本、『アストラル魔法戦記』をニーナに手渡す。最初は興味深そうな雰囲気で読み始めた。けれども物語にのめり込むと表情は真剣そのものとなった。

 ヨハンは、これがセリアばあちゃんの書いた本だということを秘密にした。読後に明かして驚かせようと思っていたのだ。木漏れ日の下で無言の時間が過ぎてゆく。ニーナが夢中になって読んでいる間、ヨハンはずっとニーナの横顔を眺めていた。

 第一章を読み終えたところでニーナは本を閉じた。

「どう、なかなか面白いでしょう?」

 自慢げに尋ねたがニーナは答えを返さなかった。我を忘れるほど面白かったのだろうと、ヨハンは胸を踊らせながらニーナの感想を待つ。

 ニーナは本を胸に抱きしめ顔を伏せていた。ぽつりぽつりと名前を口にする。

「メメル、アージェ、セリア……」

 まるで雨が水面を打つように、言葉がゆっくりと波紋を広げてゆく。

「ああ、物語の登場人物ね。実在した人物の名前が使われているみたいだよ」

 あくまで魔法戦争を題材にした創作(フィクション)という前提で話を進める。「セリアがぼくのばあちゃんなんだよ」と明かした時の、ニーナの驚く顔が楽しみで胸が踊る。

「メメル、っていう名前の子は……?」

 珍しい名前だからだろうか、ニーナはその女の子のことを尋ねた。

「ああ、秘石の中で眠る女の子だよね」

 この物語はメメルの再生を描くことなく終わりを迎えている。もやっとするけれど、その結末をここで明かすわけにはいかない。

 ニーナは茫然として本の表紙を眺めていた。突然、はっと顔を上げてヨハンにこう言う。

「お願いがあるの、この本、しばらくあたしに貸してくれないかな!?」
「あっ、ああ、構わないけれど。でもばあちゃんの遺品だから、絶対に捨てたりしないで」
「だいじょうぶ、ちゃんと大切にするから! ありがとね!」

 ニーナはその本を自分の鞄にしまい込み、弾かれるように孤児院に向かって駆け出してゆく。ヨハンはニーナの真顔に気圧され、秘密をカミングアウトするタイミングを逃してしまった。

 いくぶん肩を落とすヨハンではあったが、すぐに気を取り直して「まぁ、いいか」とつぶやいた。

 なぜならふたりだけの話のネタができたわけだし、本を貸している限り、繋がりが解かれることはないのだから。