アージェは魔法戦争が終わった時、メメルと約束したことがあった。ふたりだけの秘密のやり取りだ。

『メルス様の魔法の力、だいぶ弱っちゃったみたい。だからあたし、アージェの前に姿を見せられるのも、これが最後だと思うんだ』

 寂しそうな声でそう言うメメルは覚悟を決めているようだった。

『セリア姉ちゃんはアージェのことを心から大切に思っている。アージェだってとっくに気づいているはずだよね』

 アージェは沈黙で肯定する。

『あたしは、ふたりがあたしに縛られて未来を失ってしまうのが嫌。あたしが幸せを奪ってしまうなんて、絶対に耐えられないの』
「メメル……でも俺は……」

 するとメメルは人差し指をアージェの唇の前に立てて言葉を閉ざす。優しい瞳には強い意志が宿っている。

『アージェ、約束してほしい。セリア姉ちゃんをずっと大切にするって。あたしはきっと深い眠りに入っちゃうけど、ふたりのことを応援しているから。いい?』

 アージェは一歩身を引き、目を閉ざす。しばらく逡巡した後、すっと目を見開いて答える。

「……わかった、約束する。ちゃんと守るから安心して」
『よかった……必ずだよ?』

 諭すようにそう言ってメメルは宝石の中へと消えていった。その日を最後にして、メメルは二度と姿を現すことはなかった。

 だからアージェは卒業したらセリアに伝えようと決心を固めていた。セリアの澄んだ瞳を見つめて、はっきりとこう言った。

「――俺の妻になってくれませんか」

 セリアは驚き、時が止まったかのように固まった。集う一同もアージェの唐突なプロポーズにざわつく。

 セリアは好意を寄せていた相手から求愛を受けて嬉しくないはずはない。けれど即座に返事をできるわけがなかった。メメルの悲しそうな顔が脳裏に浮かんだからだ。喉は呼吸の音しか出せないでいる。

「でっ……でも……」

 ようやっと絞り出したのは、迷いの欠片としか取れない言葉だった。けれどアージェの表情が変わることはない。セリアがメメルを気遣い、返事をためらうのは予想していたことだ。

 アージェはそっと思いのたけをこぼす。

「答えはすぐにじゃなくていい。ただ、セリアはずっと同じ目標を見て、力を合わせてきたかけがえのない仲間だ。だからこれからも一緒に魔法の研究をしよう。同じ夢を見よう。同じ未来に出かけよう。そして長く穏やかな時間を過ごそう」

 セリアはひとつひとつの言葉をうなずきながら聞き、しっかりと胸に刻みつけている。皆、息を潜めてふたりの様子を見守っていた。ブリリアンだけは憔悴して顔面蒼白だ。

 伝え終わったアージェは視線をテーブルの反対側へと移す。その先ではミレニアが慈愛の瞳でアージェを見つめている。そのまなざしはアージェの優しき母そのものであった。

 アージェは大陸の洞穴で見た壁画を思い出す。そこに描かれていた最強の魔法使いの名は「アーク・シェプター」。けれどアージェはどうしても気になっていたことがあった。その隣にいた女性の名前はいったい何というのか。

 ピピンは答えた。その女性の名前は――「ミレニア・シェプター」だと。聞いてアージェは確信したのだ。

 だから魔法戦争が終結しポンヌ島に帰還した時、アージェはミレニアに尋ねた。「ミレニアさん、ほんとうは俺の母親なんですよね」と。

 するとミレニアは肩を震わせぽろぽろと涙をこぼし始めた。ほかの孤児たちよりも自分のことを一番気にかけている、そう感じていた理由が腑に落ちた。

「黙っていてごめんなさい。マザーは敬虔な信徒、それも未婚の女性でないと務まりません。けれど私はあなたのそばにいたくて、神様に嘘をつきマザーの職についたのです」

 そんなミレニアの心中を察し、アージェは彼女を抱きしめる。

「いえ、俺はただ嬉しいんです。天涯孤独だと思っていた自分の家族の姿を知ることができて――」

 だからアージェはミレニアの目の前でプロポーズをしようと決めていた。この人を家族に迎え入れたい、という意味を込めて。

 ところがその時――。

 窓の外から不敵な笑い声が聞こえた。目を向けると闇の中に浮かぶ人の姿があった。闇夜と同色のタキシードとシルクハット、月の辺縁を切り取ったような形をした深紅の唇。エールが翼を広げて威嚇している。

「諸君、なかなか楽しそうな晩餐じゃないか」

 間違いない――ヴェンダールだ。

 背筋に寒気が走る。皆立ち上がり、緊張感をみなぎらせた。するとヴェンダールは呆れたように両手を広げて言い放つ。

「おいおい、これから戦争でもおっぱじめようって気か?」
「何しに来たんだ、ヴェンダール!」
「そういきり立つなって。今日は祝辞とお礼を言いに来たんだからさ」
「祝辞と、お礼……?」

 ヴェンダールの意図には不安しか湧かない。警戒心を緩めず一挙手一投足に神経を尖らせる。

「片腕を失われたガルシア様はこうおっしゃってくださった。『不自由なこの身にはおまえの助けが必要だ。ついてきてくれるか?』とな」

 ドンペルが疑念を含んだ声で尋ねる。

「帝は大陸復興の旅に出たと聞いている。おまえはほんとうに大陸のために協力しているのか?」

 ヴェンダールは鼻から息を吐き、さばさばと答える。

「私は自身の生き方をガルシア様に委ねている。そのご判断に私の意志や善悪など無関係だ」
「いたずらに無益な殺しなどしてはいないだろうな」
「まさか。私はガルシア様が必要としてくだされば、それ以上何かを求めるつもりなどない」
「それがおまえの本心なのか?」
「当然だ。しいて言えば、貴様らがもたらしたこの数奇な僥倖に私は心から感謝しているくらいだ」

 思えばヴェンダールが多くの命を奪った動機は悪意ではない。帝のために目的を果たそうとする彼の正義が暴走した結果なのだ。

 ヴェンダールは子供のような無邪気な笑みを浮かべ、ゆったりとバルコニーに降り立つ。タキシードの胸元に手を差し入れた。

 取り出したものを見て皆、騒然となった。

 なぜならそれはアージェが探し求めていたもの――生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)だったからだ。それも拍動するかのように光を点滅させている。

「秘石の魔力が充填され、発動可能な状態のまま保存しておいた。感謝の証としてこれを貴様らにやろう」
「まじか!」
 
 アージェが我を忘れてバルコニーに足を踏み出すと、ヴェンダールは魔導書をすばやく背後に隠した。

「おっと、貴様にやるつもりはない」
「なんでだ!」
「私自身が認めた相手でなければ、渡すつもりなど毛頭ないからさ」
 
 ヴェンダールの視線はセリアに向けられる。指先でこっちに来いと指図した。

「セリア、あいつは何するかわからない。気をつけて」
「大丈夫、殺気を感じないから」

 セリアは警戒しつつバルコニーに踏み出す。一歩一歩、ヴェンダールとの距離を縮めてゆく。間合いに入るとヴェンダールは何の未練もなくその本を差し出しセリアに手渡した。

「もはやガルシア様にとっては必要のないものだ。かねがね『渡してやってくれ』と言われていたのでな」

 アージェたちが城に攻め入った目的は、秘石の奪還だけではなく、生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)を奪い取ることでもあった。魔法戦争の後、アナスタシアはそのことをガルシアに伝えていた。だからヴェンダールはガルシアの命令によりそれを届けに来たにすぎなかった。

「卒業の餞別としては最高だろう?」

 するとブリリアンが一番遠い部屋の隅から叫ぶ。

「ちょっと待て! 術の詠唱者の条件っていうのを教えてくれないか!」

 古代文字を解読し、術式を成功直前まで持ち込んだヴェンダールなら知っているはずの最後の条件。それさえ知ることができれば生命再生の魔法は完成したも同然だ。皆、固唾を飲んでヴェンダールの反応をうかがう。

 ヴェンダールは鼻からフンと息を吐いて嘲笑う。

「そうだったな。ならば詠唱者に教えよう」

 迷わずセリアが手を挙げる。ヴェンダールは不気味な笑顔を浮かべ、紅の唇をセリアの耳元に近づける。そして詠唱者に課せられる条件を伝えた。

「――――――――だ」

 聞いたセリアは瞳を二倍にして驚きをあらわにする。けれどすぐに表情を落ち着け、ゆらゆらと部屋の中に戻ってきた。

 その様子を見届けたヴェンダールは両手を広げて天を仰ぐ。

「ハッハッハー、それでは生命再生の成功を祈っているよ! さらばだ!」

 晴れ晴れとした表情で闇の中に消えてゆく。残されたセリアのほうがずっと思いつめた顔をしていた。

「セリア、その条件って――」

 セリアはうつむいてふるふると首を横に振る。

「今すぐは無理。でも必ず成功させられると思う」

 そして顔を起こし、アージェの瞳をじっと見つめる。セリアの瞳は何かを言いたげで、けれどその胸中をアージェは推し測ることはできない。

 セリアが、すぅ、と息を吸い込む。

「わたし、ちゃんと約束するから。メメルちゃんをアージェに会わせてあげるって。だから――もう少しだけ時間がほしいの」
「あっ、ああ――わかったよ」
「それと――わたし、アージェのプロポーズをお受けしたいと思います」
「えっ!?」

 突然の意思決定にアージェのほうが驚いてしまう。けれど数秒の沈黙の後、ふたりの背中を押すかのように拍手が鳴り響く。ブリリアンは衝撃のあまり失神してしまった。

 アージェはうなずきセリアと肩を並べる。ふたりは皆のほうを向いて深々と頭を垂れた。

 ふと窓の外に光が灯る。気づいたアナスタシアが懐かしそうにこう言う。

「来たよ。月光が消ゆる夜の、時が移ろう刹那が」

 街中がさまざまな光で明るく色づいた。光が空に向かって線を描いて伸びてゆく。

 それは魔法島に残された魔法の残滓が、みずからの存在を確かめながら輝いて消えてゆく光。ただ、以前に目にした時よりもずっと儚い。きっともう、見ることのできなくなる光景なのだ。

 アージェがアナスタシアに視線を送ると、アナスタシアはにっこりと微笑み返した。またいつか見ようというアージェの約束は今、果たされたのだ。

 皆、街の光景をうっとりとした目で眺めている。

 それは魔法を失った世界の、新たな夜明けでもあった。

 するとアージェの胸元の宝石が、りーん、と澄んだ音を奏でた。

 まるでメメルが、皆に訪れる未来を心から祝福しているかのように――。