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3年余りの月日が流れ、魔法学院は卒業式を迎えていた。中央ホールは大陸産のまばゆい花々で彩られ、式典にそぐう華やかさを演出している。
学院長であるガーベラが悠々と登壇する。並ぶ生徒の中にはセリア、ブリリアン、そしてアージェの姿もある。この記念の日には父兄の参列もあり、アージェとセリアのマザーであるミレニアも姿を見せていた。
『卒業証書授与。代表、アージェ・シェプター』
「はいっ!」
名前を呼ばれたアージェは明瞭な声で返事をする。
魔法戦争の終結後、アージェは功績を認められて魔法学院の生徒となった。もちろん、特待生の扱いだ。そして大陸の民であった父の姓を名乗ることにした。
ガーベラの挨拶は思いのほか長くなった。なぜならこの数年で魔法の世界における歴史的な変遷が起きていたからだ。
世界は魔法の力のほとんどを失った。奪われた秘石の片割れも、アージェの体内に移った秘石の力も、すべてもとに戻したはずだった。けれど秘石の消耗はきわめて甚大だったのだ。
今では生粋の能力は弱体化して実用性を失い、特技や曲芸としての価値しかなくなった。魔法学院の人気は薄れて規模は縮小され、魔法に代わる新たな技術を模索する研究施設としての活動が主体となった。
浮遊島は浮力を失ったせいで徐々に高度を下げ、約一年の時を経て海上に着水した。魔法学者の研究によると、島はすべて過去に存在した場所に着水したという。だからそのほとんどは大陸と地続きとなり水没の被害は皆無だった。皆、摩訶不思議な現象だと首をひねるばかりだったが、事情を知る者は秘石の意志によるものだろうと想像した。
大陸の民と人間の往来は盛んになった。大陸の民は魔法の力をほとんど失ったが、それでも平和な暮らしが何より価値のあることだった。
大陸の魔法使いであるアーク・シェプターが、そして大陸の少女ピピンが望んだ、魔力の消滅による和平への道。その願いは期せずして叶えられた。魔法鉱石の魔力に価値がなくなれば、誰もそれを奪う戦争など起こそうとは考えない。
卒業式の解散後、ドンペルがアージェとセリア、そしてブリリアンに声をかける。
「皆の者、忘れてはおらんよな。今夜の来賓は、おぬしたちが丁重におもてなしするように」
「あっ、はい。わたし、これからお色直ししてきます」
「別に俺らの間で堅苦しいことなんて必要ないと思うけど」
アージェは緩い表情で流したが、真面目なセリアはむっと頬を膨らませる。
「だーめ、アージェが気さくなのはいいけど、世間の目が許さないわよ。なにしろ相手が相手だし、記念撮影だってあるんだから」
すかさずブリリアンが横槍を入れる。
「ふふーん、その意識の違いは僕とおまえの育ちの違いってところかな」
ブリリアンはいつになってもアージェに負けん気満々だ。
同級生たちは思い出話を楽しみつつ、別れを惜しんで挨拶を交わす。皆、これからそれぞれの道を歩み出すのだ。
アージェたちは夜の訪れを待ち、バルコニー際の別室へと移動する。そこには豪奢な装飾が施されたテーブルが準備されていた。振る舞われる料理も特上のコースだと聞いている。これから特別な後夜祭が催されるのである。
「ドンペル先生、俺たちだけこんな扱いを受けちゃって悪いですよ」
「アージェ殿、けっしておぬしのためではない。来賓がアストラルの国王と女王なのだから、粗相があってはいけないからのう」
「あの大陸のおてんば娘も来るんですよね?」
「『喜んで参加してあげるから待ってろよアージェ!』という返事を伝書龍から受け取っておる」
「まったく、素直なんだかそうでないんだか……」
ため息をつくと同時に、夜風のささやきに翼のはためく音が混ざる。見ると一体の飛龍がこちらに向かって空を滑り降りてくるところだった。その背中に乗っているのはふたり。後ろに掴まっているひとりがこちらに向かって大きく手を振り叫ぶ。
「おーい、アージェー!」
「おー、ピピン! 久しぶりだなぁ!」
バルコニーに着地した飛龍から軽やかに降り立つピピン。アージェはその姿を見て目を丸くした。
当時は年下に見えたピピンだったが、今やすっかり女性らしくなっている。それもアージェよりも年上に見えるくらいだ。ピピンは自慢気にお色気ポーズを決めてみせる。
「もう子供じゃないでしょ? 圏外なんて言わせないわよ!」
「ごめん! ちゃんとレディー扱いさせていただきます!」
赤面してうろたえるアージェに冷たい視線が突き刺さる。遡ると視線の出どころはセリアだった。逃げるように背を向けたが、それでも背中が妙に痛い。
するとピピンの隣の男性――サシャがすっと一歩前に出る。目尻には新たな皺が刻み込まれていた。真剣な表情でアージェに釘を刺す。
「時間の流れの違いは抗うことのできない宿命だ。だから異種族間の情愛は常に悲嘆の涙を伴うもの。ピピンにはそんな苦い想いを味わってほしくなかった」
大陸の民の寿命は人間のそれよりもずっと短いのだと、アージェは魔法戦争の終結後に知ることになった。だからピピンの時間は自分を追い抜いてしまうと覚悟をしていた。
「そうなんだよなぁ……サシャがおっさんっぽいのも納得だよな」
アージェが白髪の混じったサシャの頭に視線を向けると飛龍が高らかに吠えた。その声はアージェの心に直接響く。
『サシャ様に向かっておっさんとは愚弄するにも程があるぞゴルァァァ!!』
飛龍エールはやはりアージェには厳しい。怒られたアージェはしゅんと反省の色を見せる。
「ごめん言い直します。おじさまでした……」
『それも違うだろお兄様だろうガアァァァ!!』
ピピンはふたりの関係性を見て昔と変わらない顔で笑う。
「同情なんていらないよ。時間は短くとも、あたしたちはあたしたちの生涯を謳歌してやる。後悔ないように濃く、分厚く生きてやる。だから――」
そしてサシャの顔を見上げる。サシャはこくりと首を縦に振る。
「アージェに言われた通り、ちゃんと素直になってサシャの求愛を受けることにしたんだ」
「まじか!」
最初は驚いたアージェだったが、その顔はじわじわとほころんだ。それがふたりのあるべき姿なのだとも思えた。
サシャは「ピピンが柔軟になった点についてはきみにお礼を言うべきだろう」と、照れながらも感謝の意を伝えてくれた。大切に思われているのに気づかず反骨心満々だったピピンだが、今やしおらしい妻になったという。
ふたりは飛龍をバルコニーで待機させ、窓から室内に飛び込んで着席する。そのタイミングで主賓のふたりが部屋に到着する。白銀の髪を結い上げた女性が先に姿を見せた。
「ごめん、もっと早く着くつもりだったけど、隣国との会議が長引いちゃって!」
「おお、リリコ! 久しぶりじゃん! 国政なんて性に合わなそうなこと、ちゃんとできているのか?」
三年ぶりに会ったアナスタシアは、さらに美貌に磨きがかかっている。それどころか女王としての威厳にも満ちており、漂うオーラが尋常ではない。
「アージェ君に心配されるまでもないわよ。有能な部下を揃えたし、何より『王様』が頼りになるから」
そう言って隣に並ぶ『王様』の屈強な腕に抱きつき、上目遣いで顔を見上げる。視線を向けられた『王様』は口を真一文字に結び、顔を紅潮させていた。
ドンペルはにやにやしながら『王様』の恥ずかしそうな表情を眺めて楽しむ。そしてかつては同僚だった戦友の名を口にした。
「お久しぶりじゃのう、ラドラ国王」
アストラルは帝による独裁ではなく、選挙君主制により国王を選出する道を選んだ。帝国から脱却し王国となったのだ。それには己の失敗を省みたガルシアの意向が反映されている。多くの貴族や軍の指揮官が国政に委員として参加し、国王もまた国政委員の選挙によって選出されることとなった。
「まさかラドラ先生が国政を引き継ぐなんて驚きましたよ」
王国への移行、国王の選出、そして王室の挙式は二年前にいっぺんに行われた。国王の立候補はアストラル全土に呼びかけられ、すべての民が注目する壮大なオーディションとなったのだ。
「私だって王婿――つまり『伴侶』が選挙によって決められるんだから、もう気が気じゃなかったわよ!」
アナスタシアの話によれば、国王の椅子と彼女を狙って壮絶な裏工作合戦が行われたらしい。候補者が候補者を潰し合う中、アナスタシアはひそかにみずから候補者を擁立しようとした。
「私は正統な王女だったのよ? 世界を救う英雄のような人じゃないと釣り合わないわよ。そんな適任者、アストラル全土広しと言えど、たったふたりしかいないじゃない!」
顔を紅潮させて力説するアナスタシアだが、そこにはアージェへの怒りが込められている。アージェはアナスタシアに睨まれてぎくっとなった。
当時、アナスタシアから「国王の候補者になって」とお願いをされるとは青天の霹靂だった。いまだに断ったのを恨んでいるに違いない。
「だけどひとりは私ではない人を目に映しているしさ。そうなったら彼一択でしょ、それに彼には断る権利なんてないもの」
ラドラは口を真一文字に閉ざし天井を見上げていた。ラドラはアストラル島から逃げてきた王女をかくまった張本人であるが、そのラドラの人事権は学院長のガーベラが握っている。アナスタシアの手回しとはいえ、学院長からの命令をラドラは断れるはずもなかった。
国王の選考基準はアナスタシアがみずから決定した。「伴侶を選ぶんだから当然でしょう!」という強気の主張で。無論、審査項目にはラドラの得意分野がずらりと並んだ。
「まさか協調性皆無の俺が国を預かる立場になろうとは……」
いささか弱気なラドラの前に金髪の青年ブリリアンが腰を低くして飛び出す。
「いや、ラドラ国王なら適任でございます! 余人をもって代え難いとはまさにラドラ国王のことに違いありません!」
ブリリアンがラドラを揉み手擦り手で賞賛するのは、父の貿易商を継ぐことになったゆえの下心に違いない。部屋には冷ややかな空気が流れた。
「いやまぁ……しかも伴侶を持つことになるとは。それも相手がこんな世界一の女性とは……」
「それはのろけでございますか! 羨ましいことこのうえありません!」
けれどじつは立候補したが門前払いとなり、「候補者はアストラル全土で三人いたぞ!」とは言い出せない悲しきブリリアンであった。
「そう言えば『帝』の行方はわかったのか?」
着席したところでアージェが尋ねる。アナスタシアは困惑した表情を見せた。
「お父様は旅に出たっきり行方不明。今頃何しているのかなぁ……」
「片腕を失っているんだろ?」
「うん。魔法もたいして使えないはずだし、ほんとに大丈夫なのかなぁ」
ガルシアは国政をラドラに引き継いだ後、旅人に扮して大陸を渡り歩くことにしたという。大陸の民に対する贖罪なのだろうと察し誰もガルシアを止めなかった。
「生命再生の魔導書も見つからなかったしな……」
アージェは胸のペンダントを握って残念そうにつぶやく。
戦いが終わった後、崩壊した城の撤去作業が行われたが、ヴェンダールの姿は見つからなかった。彼が持っていたはずの生命再生の魔導書は魔法探知でも捉えることはできず、結局は行方知れずとなった。
けれどヴェンダールが生きていれば、どこかでガルシアと合流している可能性がある。だからガルシアの足取りが掴めればと、アージェは期待を捨てなかった。
ブリリアンが記憶を辿りながら言う。
「生命再生の魔法のやり方、僕は見ていたから覚えているんだけどさ。アージェには教えたよね?」
「ああ、ほんとに助かるよ。ありがとな」
魔法戦争の後、アージェが生命再生を望んでいると知ったブリリアンはきわめてアージェに協力的だった。その理由は、メメルとアージェがくっつけばセリアが自分のほうを振り向いてくれるはずムフフ……、と想像していたからだ。
「ただ、途中で割り込んで止めたから、最後の条件だけは聞けていなかったんだよね」
アージェはブリリアンに聞いた一節を思い出す。
『最後に術の詠唱者である汝に尋ねる。術の詠唱の契約にもとづき、汝は――』
それは生命再生の魔法を発動させるために、術の詠唱者にはなんらかの条件が課せられることを意味していた。
全員が席に着いたところでグラスにワインが注がれた。ドンペルが乾杯の音頭をとる。
「アストラルを救った英雄の皆様、今宵は思い出話と理想の未来の話で盛り上がりましょうぞ! 乾杯!」
新鮮な肉や海産物の料理が振舞われる。かつて島が空に浮いていた時、食材はきわめて貴重な資源だった。今では大陸での狩りや海での漁が日常となり食生活は豊かになった。皆は豪華な料理に舌鼓を打ちながら思い出話を繰り広げる。
セリアが隣のアージェにそれとなく尋ねる。
「ところでアージェは今度、ヴェルモア領にはいつ行くの?」
「春を報せる風が吹いたらまた行こうと思う」
冒険者の島であったヴェルモア島(陸地となった現在はヴェルモア領と呼ばれている)は、自然を生かした娯楽施設が建てられ有名な行楽地となった。
アージェは多くを語らなかったが、毎年ヴェルモア領を訪れ、かつて訪れた古城に足を運んでいる。魔女とプリマの墓標に花を供え、散っていった船長や冒険者のために花弁を撒いてくるのだ。
「アージェは義理難いっていうか……亡くなった方でさえ無下にしないのよね。でも……」
セリアはナイフとフォークを握る手を止めて目を伏せる。
「……今を生きている人のことも、ちょっとは気にかけてほしいかな」
アージェも手を止めてセリアの横顔を見つめる。今までは素通りしていたそんなセリアの仕草を今日は見逃さなかった。フォークとナイフを皿の上に置き、すっと立ち上がる。
セリアがアージェを見上げて不思議そうな顔をすると、アージェはセリアに向かって手のひらを差し出した。セリアはアージェの真剣なまなざしに誘われるように手を取って腰を上げる。
皆、どうしたのかと思いふたりに視線を送る。アージェは反対の手で胸のペンダントをそっと握りしめる。
――メメル、どうか聞いていてくれ。
3年余りの月日が流れ、魔法学院は卒業式を迎えていた。中央ホールは大陸産のまばゆい花々で彩られ、式典にそぐう華やかさを演出している。
学院長であるガーベラが悠々と登壇する。並ぶ生徒の中にはセリア、ブリリアン、そしてアージェの姿もある。この記念の日には父兄の参列もあり、アージェとセリアのマザーであるミレニアも姿を見せていた。
『卒業証書授与。代表、アージェ・シェプター』
「はいっ!」
名前を呼ばれたアージェは明瞭な声で返事をする。
魔法戦争の終結後、アージェは功績を認められて魔法学院の生徒となった。もちろん、特待生の扱いだ。そして大陸の民であった父の姓を名乗ることにした。
ガーベラの挨拶は思いのほか長くなった。なぜならこの数年で魔法の世界における歴史的な変遷が起きていたからだ。
世界は魔法の力のほとんどを失った。奪われた秘石の片割れも、アージェの体内に移った秘石の力も、すべてもとに戻したはずだった。けれど秘石の消耗はきわめて甚大だったのだ。
今では生粋の能力は弱体化して実用性を失い、特技や曲芸としての価値しかなくなった。魔法学院の人気は薄れて規模は縮小され、魔法に代わる新たな技術を模索する研究施設としての活動が主体となった。
浮遊島は浮力を失ったせいで徐々に高度を下げ、約一年の時を経て海上に着水した。魔法学者の研究によると、島はすべて過去に存在した場所に着水したという。だからそのほとんどは大陸と地続きとなり水没の被害は皆無だった。皆、摩訶不思議な現象だと首をひねるばかりだったが、事情を知る者は秘石の意志によるものだろうと想像した。
大陸の民と人間の往来は盛んになった。大陸の民は魔法の力をほとんど失ったが、それでも平和な暮らしが何より価値のあることだった。
大陸の魔法使いであるアーク・シェプターが、そして大陸の少女ピピンが望んだ、魔力の消滅による和平への道。その願いは期せずして叶えられた。魔法鉱石の魔力に価値がなくなれば、誰もそれを奪う戦争など起こそうとは考えない。
卒業式の解散後、ドンペルがアージェとセリア、そしてブリリアンに声をかける。
「皆の者、忘れてはおらんよな。今夜の来賓は、おぬしたちが丁重におもてなしするように」
「あっ、はい。わたし、これからお色直ししてきます」
「別に俺らの間で堅苦しいことなんて必要ないと思うけど」
アージェは緩い表情で流したが、真面目なセリアはむっと頬を膨らませる。
「だーめ、アージェが気さくなのはいいけど、世間の目が許さないわよ。なにしろ相手が相手だし、記念撮影だってあるんだから」
すかさずブリリアンが横槍を入れる。
「ふふーん、その意識の違いは僕とおまえの育ちの違いってところかな」
ブリリアンはいつになってもアージェに負けん気満々だ。
同級生たちは思い出話を楽しみつつ、別れを惜しんで挨拶を交わす。皆、これからそれぞれの道を歩み出すのだ。
アージェたちは夜の訪れを待ち、バルコニー際の別室へと移動する。そこには豪奢な装飾が施されたテーブルが準備されていた。振る舞われる料理も特上のコースだと聞いている。これから特別な後夜祭が催されるのである。
「ドンペル先生、俺たちだけこんな扱いを受けちゃって悪いですよ」
「アージェ殿、けっしておぬしのためではない。来賓がアストラルの国王と女王なのだから、粗相があってはいけないからのう」
「あの大陸のおてんば娘も来るんですよね?」
「『喜んで参加してあげるから待ってろよアージェ!』という返事を伝書龍から受け取っておる」
「まったく、素直なんだかそうでないんだか……」
ため息をつくと同時に、夜風のささやきに翼のはためく音が混ざる。見ると一体の飛龍がこちらに向かって空を滑り降りてくるところだった。その背中に乗っているのはふたり。後ろに掴まっているひとりがこちらに向かって大きく手を振り叫ぶ。
「おーい、アージェー!」
「おー、ピピン! 久しぶりだなぁ!」
バルコニーに着地した飛龍から軽やかに降り立つピピン。アージェはその姿を見て目を丸くした。
当時は年下に見えたピピンだったが、今やすっかり女性らしくなっている。それもアージェよりも年上に見えるくらいだ。ピピンは自慢気にお色気ポーズを決めてみせる。
「もう子供じゃないでしょ? 圏外なんて言わせないわよ!」
「ごめん! ちゃんとレディー扱いさせていただきます!」
赤面してうろたえるアージェに冷たい視線が突き刺さる。遡ると視線の出どころはセリアだった。逃げるように背を向けたが、それでも背中が妙に痛い。
するとピピンの隣の男性――サシャがすっと一歩前に出る。目尻には新たな皺が刻み込まれていた。真剣な表情でアージェに釘を刺す。
「時間の流れの違いは抗うことのできない宿命だ。だから異種族間の情愛は常に悲嘆の涙を伴うもの。ピピンにはそんな苦い想いを味わってほしくなかった」
大陸の民の寿命は人間のそれよりもずっと短いのだと、アージェは魔法戦争の終結後に知ることになった。だからピピンの時間は自分を追い抜いてしまうと覚悟をしていた。
「そうなんだよなぁ……サシャがおっさんっぽいのも納得だよな」
アージェが白髪の混じったサシャの頭に視線を向けると飛龍が高らかに吠えた。その声はアージェの心に直接響く。
『サシャ様に向かっておっさんとは愚弄するにも程があるぞゴルァァァ!!』
飛龍エールはやはりアージェには厳しい。怒られたアージェはしゅんと反省の色を見せる。
「ごめん言い直します。おじさまでした……」
『それも違うだろお兄様だろうガアァァァ!!』
ピピンはふたりの関係性を見て昔と変わらない顔で笑う。
「同情なんていらないよ。時間は短くとも、あたしたちはあたしたちの生涯を謳歌してやる。後悔ないように濃く、分厚く生きてやる。だから――」
そしてサシャの顔を見上げる。サシャはこくりと首を縦に振る。
「アージェに言われた通り、ちゃんと素直になってサシャの求愛を受けることにしたんだ」
「まじか!」
最初は驚いたアージェだったが、その顔はじわじわとほころんだ。それがふたりのあるべき姿なのだとも思えた。
サシャは「ピピンが柔軟になった点についてはきみにお礼を言うべきだろう」と、照れながらも感謝の意を伝えてくれた。大切に思われているのに気づかず反骨心満々だったピピンだが、今やしおらしい妻になったという。
ふたりは飛龍をバルコニーで待機させ、窓から室内に飛び込んで着席する。そのタイミングで主賓のふたりが部屋に到着する。白銀の髪を結い上げた女性が先に姿を見せた。
「ごめん、もっと早く着くつもりだったけど、隣国との会議が長引いちゃって!」
「おお、リリコ! 久しぶりじゃん! 国政なんて性に合わなそうなこと、ちゃんとできているのか?」
三年ぶりに会ったアナスタシアは、さらに美貌に磨きがかかっている。それどころか女王としての威厳にも満ちており、漂うオーラが尋常ではない。
「アージェ君に心配されるまでもないわよ。有能な部下を揃えたし、何より『王様』が頼りになるから」
そう言って隣に並ぶ『王様』の屈強な腕に抱きつき、上目遣いで顔を見上げる。視線を向けられた『王様』は口を真一文字に結び、顔を紅潮させていた。
ドンペルはにやにやしながら『王様』の恥ずかしそうな表情を眺めて楽しむ。そしてかつては同僚だった戦友の名を口にした。
「お久しぶりじゃのう、ラドラ国王」
アストラルは帝による独裁ではなく、選挙君主制により国王を選出する道を選んだ。帝国から脱却し王国となったのだ。それには己の失敗を省みたガルシアの意向が反映されている。多くの貴族や軍の指揮官が国政に委員として参加し、国王もまた国政委員の選挙によって選出されることとなった。
「まさかラドラ先生が国政を引き継ぐなんて驚きましたよ」
王国への移行、国王の選出、そして王室の挙式は二年前にいっぺんに行われた。国王の立候補はアストラル全土に呼びかけられ、すべての民が注目する壮大なオーディションとなったのだ。
「私だって王婿――つまり『伴侶』が選挙によって決められるんだから、もう気が気じゃなかったわよ!」
アナスタシアの話によれば、国王の椅子と彼女を狙って壮絶な裏工作合戦が行われたらしい。候補者が候補者を潰し合う中、アナスタシアはひそかにみずから候補者を擁立しようとした。
「私は正統な王女だったのよ? 世界を救う英雄のような人じゃないと釣り合わないわよ。そんな適任者、アストラル全土広しと言えど、たったふたりしかいないじゃない!」
顔を紅潮させて力説するアナスタシアだが、そこにはアージェへの怒りが込められている。アージェはアナスタシアに睨まれてぎくっとなった。
当時、アナスタシアから「国王の候補者になって」とお願いをされるとは青天の霹靂だった。いまだに断ったのを恨んでいるに違いない。
「だけどひとりは私ではない人を目に映しているしさ。そうなったら彼一択でしょ、それに彼には断る権利なんてないもの」
ラドラは口を真一文字に閉ざし天井を見上げていた。ラドラはアストラル島から逃げてきた王女をかくまった張本人であるが、そのラドラの人事権は学院長のガーベラが握っている。アナスタシアの手回しとはいえ、学院長からの命令をラドラは断れるはずもなかった。
国王の選考基準はアナスタシアがみずから決定した。「伴侶を選ぶんだから当然でしょう!」という強気の主張で。無論、審査項目にはラドラの得意分野がずらりと並んだ。
「まさか協調性皆無の俺が国を預かる立場になろうとは……」
いささか弱気なラドラの前に金髪の青年ブリリアンが腰を低くして飛び出す。
「いや、ラドラ国王なら適任でございます! 余人をもって代え難いとはまさにラドラ国王のことに違いありません!」
ブリリアンがラドラを揉み手擦り手で賞賛するのは、父の貿易商を継ぐことになったゆえの下心に違いない。部屋には冷ややかな空気が流れた。
「いやまぁ……しかも伴侶を持つことになるとは。それも相手がこんな世界一の女性とは……」
「それはのろけでございますか! 羨ましいことこのうえありません!」
けれどじつは立候補したが門前払いとなり、「候補者はアストラル全土で三人いたぞ!」とは言い出せない悲しきブリリアンであった。
「そう言えば『帝』の行方はわかったのか?」
着席したところでアージェが尋ねる。アナスタシアは困惑した表情を見せた。
「お父様は旅に出たっきり行方不明。今頃何しているのかなぁ……」
「片腕を失っているんだろ?」
「うん。魔法もたいして使えないはずだし、ほんとに大丈夫なのかなぁ」
ガルシアは国政をラドラに引き継いだ後、旅人に扮して大陸を渡り歩くことにしたという。大陸の民に対する贖罪なのだろうと察し誰もガルシアを止めなかった。
「生命再生の魔導書も見つからなかったしな……」
アージェは胸のペンダントを握って残念そうにつぶやく。
戦いが終わった後、崩壊した城の撤去作業が行われたが、ヴェンダールの姿は見つからなかった。彼が持っていたはずの生命再生の魔導書は魔法探知でも捉えることはできず、結局は行方知れずとなった。
けれどヴェンダールが生きていれば、どこかでガルシアと合流している可能性がある。だからガルシアの足取りが掴めればと、アージェは期待を捨てなかった。
ブリリアンが記憶を辿りながら言う。
「生命再生の魔法のやり方、僕は見ていたから覚えているんだけどさ。アージェには教えたよね?」
「ああ、ほんとに助かるよ。ありがとな」
魔法戦争の後、アージェが生命再生を望んでいると知ったブリリアンはきわめてアージェに協力的だった。その理由は、メメルとアージェがくっつけばセリアが自分のほうを振り向いてくれるはずムフフ……、と想像していたからだ。
「ただ、途中で割り込んで止めたから、最後の条件だけは聞けていなかったんだよね」
アージェはブリリアンに聞いた一節を思い出す。
『最後に術の詠唱者である汝に尋ねる。術の詠唱の契約にもとづき、汝は――』
それは生命再生の魔法を発動させるために、術の詠唱者にはなんらかの条件が課せられることを意味していた。
全員が席に着いたところでグラスにワインが注がれた。ドンペルが乾杯の音頭をとる。
「アストラルを救った英雄の皆様、今宵は思い出話と理想の未来の話で盛り上がりましょうぞ! 乾杯!」
新鮮な肉や海産物の料理が振舞われる。かつて島が空に浮いていた時、食材はきわめて貴重な資源だった。今では大陸での狩りや海での漁が日常となり食生活は豊かになった。皆は豪華な料理に舌鼓を打ちながら思い出話を繰り広げる。
セリアが隣のアージェにそれとなく尋ねる。
「ところでアージェは今度、ヴェルモア領にはいつ行くの?」
「春を報せる風が吹いたらまた行こうと思う」
冒険者の島であったヴェルモア島(陸地となった現在はヴェルモア領と呼ばれている)は、自然を生かした娯楽施設が建てられ有名な行楽地となった。
アージェは多くを語らなかったが、毎年ヴェルモア領を訪れ、かつて訪れた古城に足を運んでいる。魔女とプリマの墓標に花を供え、散っていった船長や冒険者のために花弁を撒いてくるのだ。
「アージェは義理難いっていうか……亡くなった方でさえ無下にしないのよね。でも……」
セリアはナイフとフォークを握る手を止めて目を伏せる。
「……今を生きている人のことも、ちょっとは気にかけてほしいかな」
アージェも手を止めてセリアの横顔を見つめる。今までは素通りしていたそんなセリアの仕草を今日は見逃さなかった。フォークとナイフを皿の上に置き、すっと立ち上がる。
セリアがアージェを見上げて不思議そうな顔をすると、アージェはセリアに向かって手のひらを差し出した。セリアはアージェの真剣なまなざしに誘われるように手を取って腰を上げる。
皆、どうしたのかと思いふたりに視線を送る。アージェは反対の手で胸のペンダントをそっと握りしめる。
――メメル、どうか聞いていてくれ。