静まり返った洞穴に、後悔の念に襲われるピピンの嗚咽が響き渡る。

「ごめんなさいッ! あたし、メルス様をお守りできなかったッ! 魔法を与えてくださったのに、ぜんぜんメルス様の役に立てなかったッ!」

 秘石が奪われたという責任がピピンの心に重くのしかかる。人間に騙された末の秘石の喪失は、ピピンの心を打ちのめすのに十分な絶望だった。

「ピピン……」

 アージェは泣きじゃくるピピンのそばに歩み寄る。けれどいくら慰めの言葉を探しても、ピピンの涙を乾かす言葉など見つかるはずがない。

「あれ……?」

 するとアージェの胸にかけたペンダントがゆったりと光り出す。

――そうだ、秘石は故郷に戻るとピピンは言っていた。もしかすると、この秘石の欠片が何らかの手がかりを教えてくれるかもしれない。

 運命に従うかのように、アージェは切り株となった秘石の上にペンダントをそっと据え置く。

 あたりの地中が淡く光り出し、それらの光が秘石の残骸に集積し始める。切り株のような秘石の跡から魔力が束をなして沸き上がる。その中にぼんやりと人間のシルエットが現れる。くせっ毛の髪、やわらかな顔の輪郭、そして小柄な身体が描くゆるやかな曲線。アージェは目を見開いて驚いた。

「メメル!?」

 名前を口にしたが、メメルではないとアージェはすぐさま気づく。姿形は似ているが、明らかに雰囲気が違ったのだ。魔法の幻影は重苦しい声で怨念のような言葉を吐き出す。

「――人間は私を、そしてこの世界(アストラル)を絶望に導いた。なぜだ? ――なぜだなぜだ? ――なぜだなぜだなぜだッ?」

 妖しく浮かぶ少女の目つきは鋭く、表情には怒りが立ち込めている。秘石の残骸がメメルの魂を借りて言葉を発しているのだ。ピピンはひたいを地面に擦りつけ、その幻影に向かってひたすら謝罪する。

「メッ……メルス様! どうかお許しくださいッ!」
「――厄災を導いたのは汝であろう? ではこの所業の目的を答えよ! ――答えよ答えよ! ――答えよ答えよ答えよッ!」

 グスタフを洞穴に呼び込んだ『黒箱』。たしかにそれを運んだのはピピンだが、ピピンは騙されたのだ。厄災をもたらすなど、つゆほども思っていない。アージェがすかさずふたりの間に割って入る。

「メルス様、その厄災は人間がもたらしたものです。大陸の民は誰ひとりとしてメルス様を裏切ったりすることはありません!」
「アージェ……」

 ピピンは涙目でアージェを見上げる。

「――なるほど、この世界を荒廃させたのは人間のほうだと言いたいのだな」
「はい、大陸の民に罪はないはずです」
「――では汝ら人間の責任だな? ならば人間に対する処罰は――浄化だ! ――浄化だ浄化だ! ――浄化だ浄化だ浄化だ! 人間を根絶やしにし、世界(アストラル)を再生させなければならないィィィ!」

 幻影の少女が激情すると、立ちのぼる魔力がざわめいて波立ち、無数の槍の津波に変化した。怒りが魔力を暴走させているのか、それとも抑止力を失っているのか。怒涛の槍の束がアージェに襲いかかる。

「汝の心臓が謝罪の音色を奏でているか、この場でたしかめさせてもらうッ!」
「アージェッ!」

 セリアが悲痛な叫び声を上げる。アージェは秘石の怒りを魔法で迎撃した。

 ――『魔禁瘴・終焉の宴(ファイナルヴァンケット)!』

 だが、秘石の魔法はアージェの放つ黒霧をたやすく貫き、躊躇なく心臓を射抜こうとする。

「秘石の魔法は越えられないのかッ!」

 その時――。

「待って、メルス様!」

 突然、空中で魔法の矢がぴたりと動きを止める。見ると秘石の残骸に浮き上がる少女が華奢な手を伸ばし、魔法に歯止めをかけていた。

 秘石の魔法を止めたのは秘石自身なのか――いや、明らかにさっきまでとは雰囲気が違っていた。傷んだ心を包むような優しい瞳に、幸せを運ぶようなやわらかな口元。

 皆、息を呑んでその少女を見つめる。それは魔力を受けて顕在化したメメルそのものに違いなかった。

「メルス様、お願いがあります。どうか魔法の槍を収めてください!」

 今度は少女が目つきの鋭い、怒りの顔に変貌する。

「――私の欠片に紛れていた少女の魂か。人間であった汝の言葉が私に届くことはない」

 秘石の少女がメメルを一蹴すると、ふたたびメメルの顔が表出する。

「アージェは世界を変える力を持っているんです!」
「――汝はこの男に復讐の連鎖を覆す力があるというのか?」
「はい!」
「――この貧弱な魔法使いに、世界(アストラル)の未来を託せる価値があるというのか?」
「もちろんです!」
「――ならば私にその理由を伝えて見せよ。腑に落ちなければおまえの魂をこの場で消滅させるまでだ!」

 秘石の放つ魔力に映る少女の雰囲気は目まぐるしく変化していたが、秘石の問いかけを最後に変化がぴたりと止まる。少女は、すぅ、と息を吸う。優し気な瞳がいっそうの輝きを放った。

 メメルのやわらかな唇が、胸に秘めた言の葉を紡ぎ出してゆく。

「あたしはちゃんとわかっています。アージェはいつだってあたしのことを見守ってくれていました。辛い時、悲しい時、悩んだ時には黙って手を差し伸べて、心が壊れないように支えてくれました。

 そんなアージェの差し伸べる手は、いつだってあたたかくて心が癒されます。

 その優しさはどんな剣よりも、どんな魔法よりも強くて。

 あたしはそんなアージェに憧れて甘えて、ただその広い懐に包まれ続けてきました。

 だから今はあたしが、その誠意を、その価値を、その可能性をメルス様に伝える時なんです。

 アージェが手を差し伸べるのはあたしだけではありません。

 あの日、セリアちゃんの悲しみを包んで、ともに歩む道を見つけてくれました。

 あの日、リリコちゃんの痛みをわかち合って、未来の希望に変えてくれました。

 あの日、プリマさんの閉ざされた世界を、あたたかい光で照らしてくれました。

 あの日、ピピンちゃんの人間との共存の夢に、限りない力を与えてくれました。

 アージェはいつだって自分のことは後回しにして。自分よりもほかの誰かを大切にして。持てる力のすべてを惜しみなく他人に与えてしまう。

 あたしはアージェと一緒に、メルス様をすてきな未来に連れて行きたいんです。争いなんて忘れられた、平和で穏やかな未来に。

 だからアージェはきっと、メルス様の片割れを人間の手から救ってくれます。

 その道の途中、たとえどんな強敵が待ち構えていたって、アージェは絶対に負けたりなんかしないんです。

 あたしが大好きな、大好きな、だーいすきなアージェの優しさは最強だもん! あたしはそのことを、誰よりも一番わかっているから!

 アージェに未来を託せば、きっと大丈夫。人間も大陸の民もメルス様も、みんなみーんな最高に幸せになれるんです!

 だから……アージェを信じてあげてください!」

 メメルは胸の奥に秘める想いを存分に吐き出した。秘石の魔力を借りて顕在化した瞬間、人生最大の告白劇を企てたに違いなかった。

 アージェは衝撃の告白に言葉を失った。メメルは浮遊島を巡る旅の間、いつでも宝石の中からアージェのことを見守っていた。そしてこんなにもまっすぐに、純粋に、そして大切に想っていたことを、この場で包み隠さず見せつけてきたのだ。

 滾る情熱の温度にアージェの心が焼け焦げる。

 するとメメルの言葉を塞ぐかのように幻影の少女が入れ替わる。

「――その欠片は私の一部だ。よってその少女の想いは手に取るように伝わってくる。それは途方もなく愚かで、あまりにも無防備すぎる想いだ」

 メメルの想いを否定する言葉に、アージェは思わず声を荒らげる。

「俺は……俺はメメルを守りたい、助けてやりたいってずっと思っていた。でも願えば願うほど、自分の無力さを思い知らされるだけだった。でも――どうかこれを見てほしい」

 アージェは右手を開いて差し出す。

「俺は不思議に思っていた。魔法を消滅させるたび、俺の体内に魔力が燻るような感覚が残るんだ。そして意識を集中すると不思議な現象が起こせることに気づいたんだ」

 アージェの手のひらから魔禁瘴とは異なる質の魔力が立ちのぼる。具現化させた魔法の蛇だ。幻影の少女は不思議そうな顔をする。

「――それは魔女の持つ魔法の蛇、刈縷魔(カルマ)の魔力ではないか!?」
「それが今、俺の身体に残されているんです。これってつまり――」
「――大陸の民の中でも稀有な能力を、人間である汝が受け継いだということなのかッ!」

 思い返せば壁画は語っていた。最強の魔法使いである、アーク・シェプターが秘石から魔力を吸収していたことを。

 もしもアージェが彼の血を引くのであれば、アージェ自身にその能力が備わっていても不思議ではない。

「――汝はその未完の能力を、どう操るつもりなのだ?」
「あなたに残された魔力を、俺に讓渡してほしいのです。あなた自身を取り返すための力として」
「――この私自身を、人間に捧げろと言うのかッ!?」
「はい、そして俺とともに戦ってほしいのです」

 想定外の願いは秘石をも驚愕させた。セリアもアージェに続いて幻影の少女に向かって訴える。

「アージェならきっと叶えてくれます! 未知の力を持った彼なら、必ず世界を変えられます!」

 ピピンもまた、必死で喉を震わせる。

「あたしもアージェに未来を託したいんです! アージェは大陸の民と人間の架け橋になるはず!」

 少女の幻影はアージェを見つめて逡巡する。しばらくの間があった。

「――青年よ、汝は無知で貧弱で戦いの経験に乏しい。なおかつ、いまだ己の能力の全容を知り得ていない」
「それは自分自身が一番、心得ていることです」
「――だが、大切なもの、大切なひとを信じ続ける想いは、何よりも強く美しい。私はその想いの強さに賭けるとしよう」

 幻影の少女は左手を差し出す。まっすぐに向けられた手のひらには了承の意味が込められていた。

 アージェも右手を差し出し手と手を合わせる。すると触れた手から勢いよく魔力が溢れ出す。秘石の持つ、鋭くて力強い、高純度の魔力だ。右腕を通じてアージェの体内に濁流のごとく流れ込んでいく。

「がっ! がはっ!!」

 アージェは体内を殴りつけられるような衝撃を受け、必死に耐え忍ぶ。

 しばらくすると魔力の荒波が鎮まった。アージェの呼吸は荒く、心臓が奔馬のごとく疾走する。心配したセリアがアージェに駆け寄った。

「アージェ! 大丈夫ッ!?」
「はあっ、はあっ……なんとか、持ちこたえたみたいだ」

 全身から汗を吹き出していたアージェだったが、しだいに落ち着きを取り戻してゆく。肌がうっすらと淡青色に光っていることに気づいた。流れる血脈に魔力が宿っているのだ。

 すると頭の中に不思議な声が響く。

『――汝に託す。必ずや、私の片割れを取り戻してみせよ』

 切り株の姿となった秘石の残骸からは、もう魔力を感じなかった。ただ、その上に置かれたペンダントが淡い光を放っている。

 ペンダントを手に取ると、その中には拍動する『種』があった。メメルの魂はふたたび宝石に舞い戻った。アージェは戦いの決意を固めてペンダントに語りかける。

「メメル、一緒に行こう。この争いの歴史に終止符を打つために――」