その夜、太鼓の音が森に響き、盛大な宴が執り行われた。

 大陸の民の宴は、神聖な儀式と楽しき祝祭の融合であった。皆は仲間とともに踊って歌い、豪華な料理に舌鼓を打ちながら、世界を統べる秘石(メルス・ラトイーテ)への感謝と部族どうしの結束を確かめていた。

 けれどその中でひとり、全身をしならせて踊り狂う若者の姿があった。サシャだ。アージェはその自虐的な姿にただただぽかんと目を奪われる。

「ピピン……聞くけど、サシャの踊りって、儀式か何かなのか」
「そんなわけないよ。あれは悔しさで悶絶しているだけ。いつものことだ」
「そういう悶絶の仕方があるのか……」
「あいつは昔から暴走しがちなやつなんだよなぁ」

 するとサシャは踊りながらこちらに向かって距離を詰めてきた。アージェは警戒して身をこわばらせる。サシャの血走った目がピピンを捉えた。

「ハァハァハァ……ピピン、まさかおまえに負けるとは思ってなかったぜ」
「まあね。あたしだっていつまでもサシャにかばってもらってばかりじゃないってこと。わかった?」

 ピピンはざまみろと言わんばかりに顔をくしゃくしゃにしてみせた。サシャは踊るのをやめ、ピピンの眼前に仁王立ちになる。

「今回は百歩譲って負けを認めよう。そのかわり、メルス様へのお願いは私に提案させてほしい」

 サシャがそう言った瞬間、ピピンは勢いよく立ち上がった。

「はぁ!? なーにが百歩譲ってだよ! あたしはちゃんと実力で勝ち取ったんだ! お願いの権利はあたしにあるんだ!」
「せっかくの権利を無駄にするな。私たちにとって、人間を滅ぼすという大願のほかに願うことなどあるものか。いやない、そうだろ?」

 サシャはピピンの肩を掴んで躍起になる。ピピンが予想した通り、浮遊島を沈めそうな勢いだ。

「まったく、昔から強引なところは変わってないな。でもダメだよ、あたしにはあたしの願いがあるんだから」
「ピピンが願うものって、何なんだよ」
「そんなこと、サシャに言う必要なんてないでしょうーが!」
「そんなことはない。私たちは互いに魔法の寵愛を受けた民族(ラーゲルドゥーネ)』の末裔だ。それにピピンは私の許嫁だということを忘れたのか?」

 許嫁、と聞いてアージェは驚き、思わずピピンの表情をうかがう。ピピンはサシャを反抗的な目で睨み上げていた。

 するとピピンは突然、自分の腕をアージェの腕に絡めてきた。サシャに向かって言い放つ。

「あんたと結ばれるくらいなら、あたしは迷わずアージェを選ぶから!」
「「はぁ!?」」

 アージェもサシャも同時にすっとんきょうな声をもらす。サシャはすぐさま殺気のこもった視線をアージェに突き刺した。

「貴様、見たことのない顔だと思っていたが……ここを訪れた目的は、村の女を奪うためだったのかッ!」

 片手を宙に掲げ魔法を詠唱する。炎の塊がサシャの頭上に形成されてゆく。

「事と次第によっては、生かして帰さん! それどころか、貴様の村も――」

 すかさずピピンが目の前に立ちはだかり、両手を広げてアージェをかばう。

「ちょっと待ってよ! アージェは部族の習わしで、ほかの民族の文化に触れてから成人するように決められているんだってさ。だから、その旅の途中だったんだ」

 ピピンはそれらしい言い訳を即興でこしらえて言い放った。けれどサシャの頭上にある魔法の炎は勢いを増すばかり。

 すると様子を見ていた長老が立ち上がり、にこやかな顔でふたりの間に割って入った。

「うおっほっほっサシャよ、そういきり立つな。じつは今回、事情があってふたりで謁見してもらうことになったのじゃ」
「ふたりですと? 長老、それはどういうことで……」

 サシャもピピンも意外そうな顔をする。

「じつは供物がふたつあってな。もうひとつは大切な預かりものゆえ、万全を期して別々に運んでもらうことにしたのじゃ」

 長老が付き人に指で合図を送る。運ばれてきたのはふたつの箱。ひとつは上品な白木の箱で、大きく横に細長い。開けると塩漬けにされたナナイロヒカリウオが納められていた。

「これはさきほどピピンが釣り上げたものじゃ。非のつけどころのない供物じゃな」

 それからもうひとつ、黒い化粧箱が差し出された。

「これは我々を人間の侵略から守ってくださる、『天啓』の者からの献上物じゃ」

 ――天啓?

 サシャが過敏に反応し、すかさず横やりを入れる。

「『天啓』からの献上物ですと!? 彼らはあくまで人間(・・)です。メルス様を敬う心など持ち合わせているはずがありませんッ!」
「じゃが彼らは人間の世界とは独立した存在じゃ。なにせ10年近くにわたり、我々大陸の民を人間の侵略から守ってくれていたのじゃ。彼らの忠誠心をないがしろにしたら、それこそ天罰が下るじゃろうて」

 長老の説得にサシャは閉口した。納得しきっていない様子だが、長老の考えに従ったようだ。

 アージェにはその『天啓』が何を指し示すのか、まったく思い浮かばなかった。けれどサシャはそれを人間だと言った。そうだとすれば、ラドラのように軍を裏切り、大陸の民を救おうとする者なのかもしれない。

 もしかしたら味方になってくれるのかもしれないと、淡い期待が浮かび上がる。

 長老は黒箱をアージェに差し出す。アージェは受け取った箱から、かすかに漂う魔力の気配を感じ取った。けれど攻撃魔法のような危険な雰囲気はまるでない。

「じゃあ、俺も謁見できる権利がもらえる、ということなんですね?」

 前のめりになって尋ねると、長老は「そういうことになる」と悠然と答えた。

「ただし、ふたりとも願うのであれば、メルス様ご自身がどちらの願いを叶えるか判断されることじゃろう」

 するとサシャはアージェの手を掴み、ピピンから引き離して自身の胸元に引き込んだ。威圧的な声でささやきかける。

「貴殿が我々と同族ならば、私に同意してくれるはずだよな?」

 アージェの真の願いはメメルの生命を再生させることだ。けれどサシャに従わなければ怪しまれ正体に気づかれてしまうかもしれない。そうなれば生きて大陸を出られる望みはない。だから素直に応じるほか道はない。

「ええと……サシャさんのお願いって、どんなことでしょうか……?」

 アージェがおそるおそる尋ねると、サシャは迷いなく答えた。

「浮遊島の魔力を消し去ってもらうよう、願ってほしい。島を沈めたところを狙い、我々が全勢力で攻め込む。人間の棲む島は、ひとつ残らず潰してゆくつもりだからな」

 サシャは瞳をぎらつかせて言い放った。その覇気に背中が冷たくなる。

 ピピンが言ったとおりだとアージェは思った。部族を越えて集結したのは、人間の世界に攻め入るための下準備だったのだ。

 事実、サシャの背後には各部族の戦士たちが立ち並んでいた。この神崇祭で釣りに参加した者ばかりだ。皆、サシャの考えに賛同しているようで、戦う者の瞳でアージェの返事を待っている。

 不穏な雰囲気を察したのか、長老が人差し指を立ててアージェとピピンに指図をした。

「それではふたりとも、まずは世俗の喧騒を忘れ、身を清めてくるがよい」
「身を清める、って……?」
「アージェ、あたしについておいで。儀式の前にする、恒例の『お清め』だよ」

 ピピンは即座にサシャからアージェを取り戻す。長老がアージェをかばったのは、孫娘であるピピンの肩を持ったからに違いない。

「待てピピン、私はこの男からまだ返事をもらってないぞ!」
「あんたは負けたんだ。アージェに物を言える権利はないはず。また来年頑張りな!」

 ピピンはサシャに向かってぴしゃりと言い切った。

 その様子を見た長老は髭を擦りながら満足げだ。最初は参加に反対していたというのに、ピピンの勇敢な姿に心を打たれたようだ。

 ピピンはその心境の変化を察したのか、長老に軽くウィンクをしてからきびすを返し、アージェを森の中へと連れてゆく。

 嫉妬が混ざるサシャの視線は痛かったが、アージェはそれに気づかないふりを決め込んだ。

 連れてこられたのは、月の光が水底を照らすほどに澄んだ清流だった。

「このエルド川の水は、大陸中で一番純度が高いんだって。だからうちの村ではメルス様の謁見前にここで身を清める習わしなんだよ」

 そう言うとピピンは何の躊躇もなく服を脱ぎ捨てた。アージェは慌てて目を覆う。ピピンはざぶん、と勢いよく水に飛び込んだ。水面をかき分け、少し遠ざかったところで音が止まった。

「気持ちいいよ! アージェも入っておいでよ」

 月光だけが頼りの宵闇の中、水面から顔と腕を出して無邪気に手を振るピピン。大陸の民は羞恥心が薄いらしいといまさら気づいた。アージェは木陰に隠れてそそくさと服を脱ぎ、水の中にそっと体を滑り込ませた。

「はあぁ……癒されるなぁ」

 火照った体を鎮める水の冷たさが気持ちいい。大陸の民と人間の苛烈な想像してささくれ立った心が静穏さを取り戻してゆく。ぽっかりと空いた夜空には、一面に星が散りばめられていた。

 頭上を眺めていると突然、顔に水をかけられた。

「冷てっ!」

 振り向くとピピンが手に水を溜めて構えていた。群青を背に腕のラインが描かれている。

「ちゃんと全身を清めないとだめだよ。だから頭まで潜って水中で目を開け閉じしてね」
「あっ、ああ……」

 目をそらし、しどろもどろに答えるアージェ。ふいにピピンが神妙な声で語りかけてきた。

「アージェ……今日は空魚釣り、手伝ってくれてありがとね。勝てたのはアージェのおかげだよ」

 背中でその声を受け止める。いつもの強気なピピンの口調とはまるで違っていた。

「ん、まあな……」
「だから、お礼というわけじゃないけど……受け取ってほしいんだ。ちゃんと感謝している証拠にさ」
「!?」

 ちらと見やると、ピピンは立ち上がり上半身をあらわにしていた。月の逆光ではっきりとは見えないが、そのシルエットは人間の女性と何ら変わりがないように見えた。ただ、三角の耳と長いしっぽというささいな違いがあるだけだ。罪悪感を覚えてすぐさま視線を切ったが、アージェの思考はおろおろと迷走する。

 洞穴の中の壁画を思い出す。人間と大陸の民の間に子をもうけたふたりの壁画だ。それを知るピピンのことだから、人間に好意を寄せる可能性がないとは言えない。そう考えると、「あたしは迷わずアージェを選ぶから!」というひとことは、サシャに対する反抗心ばかりではないのかもしれない。

 ――まさか、ピピンは俺に!?

 アージェは露骨にうろたえる。なにせメメルという想い人がいることを、ピピンには伝えていなかったのだ。

「……い、いや、俺、そんなつもりはないんだけど」
「ほんと? あたしはアージェが手助けしてくれたら、最初からあげる(・・・)つもりだったんだけど」

 背を向けたまま答えると、まるで覚悟を決めたような声が返ってきた。

「もう一度聞くけど……ほんとうにいいの? もったいないと思わないの?」
「いや、その、もらうわけにはいかないというか……」

 しどろもどろで答えるが、ピピンが歩む水音が近づいてくる。心臓の高鳴りが加速して止まらない。

「気を遣って断っちゃったら、一生後悔するかもよ?」

 するとピピンはアージェの背後から体を包むように腕を伸ばしてきた。肌と肌が触れたせいで、胸の鼓動がさらに大きくなる。

 ピピンは手をアージェの胸元に伸ばし、その手を目の前で開いて見せた。手の中では、あのペンダントが輝きを放っていた。メメルの魂を宿す秘石の欠片だ。

「命より大切なものなんでしょ? ほんとうに受け取らないなら、あたしがもら――」
「ままま待ったあァァァァァ!!」

 アージェはピピンの手に乗せられたペンダントをすばやく取り上げ、握りしめて胸に抱き抱える。

「そうか、こっちか! こっちのことだったのか!!」
「は? こっち?」

 とたんに安堵で全身の力が抜け、水の中にへたり込んでゆくアージェ。

「ああ、メメル、メメルッ! やっと俺の元に……ブクブクブク……」

 水没してゆくアージェを頭上から眺めながら、ピピンは「アージェってほんとにへんな奴だなぁ」とつぶやき、それから少しだけ恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

 こうしてアージェの全身は清められ、誤解の煩悩も流れ去っていったのだった。