長老が釣り勝負再開の笛を鳴らす。風が強まり、雲は厚みを増して流れも早くなっていた。あたりはさっきよりもずっと薄暗い。皆、飛龍に乗ってさっそく飛び立って行った。

「このぶんだと風との戦いになりそうだな。だけど好機かもしれない」

 ピピンは遠くの空を指さした。そこには巨大な雲が渦を巻いている。強力な上昇気流が起きた時にだけ出現する荒雲だ。地上の構造物を吸い上げて育ったその雲は、空魚の格好の隠れ家となっており、しばしば大物が潜んでいる。

「あの雲を狙うけど、いいね?」
「いや待て、いくら飛龍といっても、あの強風に巻き込まれたら制御不能になる」
「だいじょうぶ。心配ないからエールをうまく操ってくれ」

 何をする気かと思ったが、ピピンはエールを手綱を引いて飛び立たせた後、その手綱をアージェに渡した。

「頼んだよ!」

 ピピンはエールにまたがったまま両手を宙に掲げて魔法を詠唱する。

 ――『道標を風の隙間に示して(バルメテオ・リース・ナイラート)!』

 すると風の音が左右に分かれて静寂の空間が現れる。中に飛び込むと風を感じなくなった。離れた場所では荒々しい風音が鳴り響いている。

「すげえ! 魔法で風の道を作ったのか」
「まあね、たいしたことないけどさ」

 と言いつつ表情は自慢げだ。

 セリアの風魔法にも似ているな、とアージェは思った。セリアもまた、大陸の民の血を継いでいるのだと確信する。けれどピピンの魔法は多彩で属性を持っていない。魔法の寵愛を受けた民族(ラーゲルドゥーネ)という呼び名は伊達じゃないなとアージェは納得しかない。

「釣り道具への魔法効果付与は違反だけど、魔法で自然に干渉するのが違反だとは誰も言っていないからな」
「使えるものは使う主義なのか、ピピンは」
「そう。正々堂々と戦うけど、勝つためにはなんでもする主義だよ」

 アージェはその間隙を縫うように飛龍を操り荒雲の風上に回り込んだ。不思議なことにエールはアージェの制御に反抗しなくなっていた。

 ピピンは荒雲に向ってコッテルを投げ込む。コッテルは風に乗って遠くまで飛び、雲の奥深くに沈んでいった。

「お願い、どうか掛かって」

 釣竿を操作し、動きを与えながら慎重に糸を巻く。

 突然、ピピンの手元にガツンと強い手ごたえが伝わる。すぐさま引き上げようとするが、重くて動かない。

「ああ、障害物に引っかかったかも」

 荒雲には地上の木々の破片などが巻き上げられている。コッテルの予備はあとふたつあるが、できるだけ失いたくはない。慎重に荒雲に近づいて竿の角度を変え、コッテルを外そうと試みる。けれど突然、その釣り糸が勢いよく引っ張られた。

「あわっ!」
「どうしたっ!?」

 ピピンが慌てた様子で裏返った声をもらす。想像以上の大物が掛かったらしい。全身が持っていかれそうな引き込みにエールの体勢が崩れ、翼が荒々しい風に巻き込まれた。どう対処していいかわからず、全身がじりりと汗ばんだ。

『ピピン様、竿を立ててください! 私が風下に回り込みます!』

 突然、アージェの脳内に不思議な声が響いた。洞窟の中で張り上げた声のような、反響を伴う低い声。同時にエールの視線がピピンに向けられていることに気づく。

「エール、今のはおまえの声なのか!?」
『ああ? クソ人間と言葉を交わすなど心外だが、貴様は特別だ。わが主、ピピン様が信じた相手となれば無下にするわけにもいかぬからな』

 やはりエールの声だ。しかし言葉遣いのギャップがひどい。

「アージェ、おまえもエールの(こえ)が聞こえるようになったんだな」

 ピピンは驚きと喜びの共存する表情を見せた。

「まあな、少しは認めてもらえたみたいだ。でもピピンは釣りのほうに集中して」
「わかっているって!」

 アージェはエールを風下へ誘導しつつ、無風の領域へ滑り込ませる。

『ピピン様、相手が逃げようとしたら無理をせずに糸を送り出してください。私は可能な限り無風領域で体勢を保持します』
「うん、やってみるよ」
「俺の操作は今のままでいいか?」
『構わん、クソ人間は黙ってバランス取ってろ!』
「この龍、俺の扱いが格段にひでえ!」
『崇高な飛龍エール様と呼べ、クズ人間よ』

 アージェは空魚の引き込みの逆方向へエールを誘導し、ピピンは糸を送り出して衝撃をやわらげる。相手が引く力を緩めた瞬間、エールの体勢を安定させて一気に糸を巻き取ってゆく。引く力が弱りかけたと思ったが、空魚は荒雲の中に見え隠れする大木に向かって横走りしていた。

『障害物の中に逃げ込まれたら厄介です。私の推進力で相手を雲から引きずり出します』
「うん、エールもがんばって!」
「俺からも頼む、崇高なエール様!」
『貴様に頼まれるまでもないグワアァァァ!』
「やっぱり『様』つけてもひでえ!」

 ピピンは身構えて両手で釣り竿をしっかりと保持する。エールは身体の角度を変え高度を急上昇させた。釣り竿がしなり、大きな弧を描く。まるで大岩を持ち上げるような重々しさだ。

「くっ……腕が、痛いよッ……!」
「絶対に離すなよ、ピピン!」

 ピピンは腕に力を込め、歯を食いしばって竿を立てる。

『ご覧ください、魚が雲から出そうです!』

 振り向くと眼下に大きな魚の姿が見えた。長くて虹色に光る尾びれを持つ空魚だ。

「「な……ナナイロヒカリウオ……!?」」

 別名「神のオブジェ」といわれるそれは、空魚の中でもめったに出会えない、天空魚の一種だ。

「まさかあんな希少種がいたなんて。信じられない……」

 ピピンは奇跡のようなめぐり逢いに茫然とする。

 その刹那。相手はピピンの油断を察知したようで、すかさず方向転換し、飛龍めがけて飛び込んできた。

「まずい、奴は釣り糸を飛龍の身体に絡めて墜落させる気だ!」
「どっ、どうすればいいの?」
「そんなもの、決まっているさ!」

 空魚はエールの死角に飛び込もうとする。エールは空魚を視認しようとするが、バランスを崩し風の中に引き込まれそうになる。飛龍は首を曲げるとうまく飛べなくなるのだ。察したアージェがみずから手綱を操ろうとするが、エールは思うように従ってくれない。

「エール、お願いだ。俺の操るとおりに動いてくれないか!」
『この崇高なる飛龍に頼み事をするなら、対価を準備して出直してくるんだな。このボケ人間が』
「あとで鱗繕いでもなんでもやるから! ピピンのために、大陸の民のために、そして人間のためにも俺を信じてくれ!」

 しばらく間があってから、エールは翼を一度、大きくはためかせた。

『ククッ、人間のへつらう様を見るのは気分爽快だな。――よし、今だけは貴様に身を任せるとしよう』
「恩に着るよ、エール!」

 アージェはエールの身体を大きく傾け魚との距離をとる。足元に回り込まれないようにするためだ。ピピンは糸を張った状態で空魚の抵抗を弾力的に受け流す。ときおりアージェが飛龍の進む方向を変えて空魚を撹乱する。

 空魚はしだいに体力を失い、仰向けになって泳ぎ始めた。

「油断するなよピピン、相手は最後のチャンスをうかがっているはずだからな」
「わかったわ。それなら一気に仕留める」
「やけに強気だな」
「あたしの性格、もうとっくに知っているでしょ?」
「まあな。ここで攻めてこそ、ピピンの釣りって感じだしな!」

 アージェはエールの飛翔を急加速させ、一気に空魚を追い詰める。逃げようと身を翻した瞬間、ピピンの捕獲網が空魚を頭から捉えた。

「よし、入ったよ!」

 ふたりは力づくで空魚をエールの背中に引きずり上げる。動きを封じられた虹色の魚体が鱗の上に横たわる。

「はぁ、はぁ、はぁ……やった、やったよピピン!」
「はぁー、アージェのおかげだってば。それにエールもありがとう」
『礼には及びません、ピピン様』

 ピピンは照れくさそうに笑った。アージェも笑い返す。互いに向け合う、はじめての笑顔だった。見つめ合って妙におかしくなり、ふたりは同時に吹き出した。大陸の民と人間は敵同士のはずなのに、この馴れ馴れしさはどうなのだろう、と。

 西の空に目を向けると、オレンジ色の光が雲の隙間から差していた。その光は、あまたの浮遊島を従える世界(アストラル)を燦然と彩っていた――。