霧のかかる早朝。十六組の挑戦者たちが広場に集まっていた。司祭たちが供物捕りの勝負を仕切っているようで、その中のひとりが開会の挨拶をする。

「皆の者よ、今日は秘石(メルス)様に捧げる供物を得る日である。釣行時間は開始の合図から日没まで。空魚の大きさと稀有さが評価対象である。なお、釣り具への魔法効果付与は違反であり、失格とする。はじめて参加する者は心しておくように」

 アージェの組は周囲から視線を浴びせられていた。ほとんどは長老の孫娘であるピピンに向けられたものだが、アージェ自身も好奇の視線にさらされることになる。段取りの時と違って空は明るい。正体を悟られないかと気が気ではなくなり、フードで深々と顔を覆い直す。

「アージェ、エールとは仲良くなった?」
「そんなわけないだろ」
「この3日間、何やっていたのよ!」
「俺は歩み寄っているってのに、こいつのプライドが高くてさ」

 するとエールはつーんとした表情でアージェから目を背ける。こいつ(・・・)扱いが気に障ったのか。人間や大陸の民の言葉がわかっていそうな雰囲気がある。

「しょうがない、最初はあたしが操作するから、釣り竿持って」
「ああ、悪いな」

 空魚の餌は木材を加工して塗装した、コッテルと呼ばれる偽物の餌。釣り竿は丈夫で弾力のあるアシヨシの茎で、根元に糸巻き器がつけてある。茎の中は空洞になっていて、その空洞の中に糸を通す。遠くまで投げることができる仕掛けだ。

「昔よくやったな、空魚釣り。俺の故郷にはいい雲が流れてくるんだ。だから陸からでも釣れるんだ」
「人間の世界にも空魚釣りってあるのか」
「まあな。でもそれって、大陸の民と人間の間に交流があったっていう証拠だよな」
「あったよ。すくなくとも十数年前まではね」
「そうだったのか」

 もしも人間が魔法に貪欲でなかったのなら、ギムレットを奪う戦いなどなかったはずだ。人間は魔法という眩しい憧れに目がくらみ、異なる民族の痛みが見えなくなってしまったのかもしれない。

「ところで俺は思うんだけど、ピピンがエールを操作して、俺が空魚を釣ったほうが勝算が高いんじゃないか」
「おーい、供物を供える権利をおまえに譲るわけないだろ」
「やっぱりそう言うよなぁ……」

 アージェが前、ピピンが後ろとなって飛龍に乗り込む。アージェは手綱を後ろに回してピピンに手渡す。主のピピンが操作者となったので、エールはご満悦の様子で咆哮をあげた。

 遠くから雲の塊がいくつも流れてくる。それを確かめた長老が開始の笛を鳴らす。飛龍が次々と飛び立っていった。ピピンがエールに合図を送って手綱を引き、アージェたちも後に続く。

 雲の中には空魚だけでなくさまざまな微生物が棲んでいて、ひとつの雲ごとに独自の生態系ができあがっている。巨大な雲ほど珍しい空魚が潜んでいる可能性が高い。

「まだ時間はある。慌てなくていいから、ゆっくり慣らして」
「ああ」

 アージェは手綱を受け取る。すると感づいたエールは雲を無視して自由気ままに飛び始めた。

「こらっ、わざとやっているだろ。言うことを聞いてくれ、エール!」

 けれどエールはそしらぬふりを決め込む。手綱をピピンに戻すと、ちらりとこちらを確認して従順な態度に戻る。アージェは半ば諦め加減でぼやいた。

「これじゃあ釣りをするのもままならないな……しかしなんで俺には懐かないんだろう」
「そりゃそうだ。だってこの態度はやきもちだからな。エールは嫉妬深いんだよ」

 ピピンは平然とそう言ってのけた。

「ちょっと待て。そういう理由でこいつは俺への扱いが厳しいのかッ!」
「でも嫉妬を超える信頼感を得られれば、強い味方になってくれるはずだよ」
「いや、やっぱり絶対無理だ!」

 この供物獲りの勝負、一番の敵はエールなんじゃないかと思えてならないアージェであった。  

 ピピンが目指したのは、魚のうろこ模様を描いて群集する雲。目を凝らすと雲と雲の隙間を飛び回る空魚の姿が見えた。ピピンは意気揚々と釣りの作戦を語る。

「空魚の活性が高いときは、うろこ雲が狙い目なんだ」
「聞いたことがあるな。雲から雲へと移る魚は積極的にコッテルを追いかけるって」
「ただ、希少な種は警戒心が強いから、もっと大きな雲の中に身を潜めているんだ」
「それなら大きな雲が来るまで、釣りながら待つってことか」
「空魚を一匹も手にできなければ、勝てる可能性はゼロだからな」

 アージェは雲に狙いを定めてコッテルを投げ込む。
 しばらくすると、まわりの挑戦者が次々に空魚を釣り上げ始めた。激戦の気配だ。

 空魚はアージェのコッテルを追いかけるものの、食いつく気配はまるでない。しだいに焦りが募る。焦りは手元を狂わせ、コッテルの動きを雑にしてしまう。

 ――慎重に、ごく自然に泳ぐように。

 アージェは繋ぎ止めるような慎重さでコッテルの操作を続けるが、空魚は見透かしたかのようにアージェのコッテルを見向きもしない。

 貝笛の音が空に響く。なんの釣果も得られないまま休息時間が挟み込まれた。ふたりはがっくりと肩を落として陸に戻りエールを着陸させる。

 広場では挑戦者たちが釣果を見せ合っている。皆、手堅く数匹ずつ確保しており、釣れた空魚の種類もさまざまだ。

「さすが本家の釣り師は違うねぇ」
「みごとなタイヨウノツカイだなぁ」

 にぎやかな円の中心にいたのはサシャだ。さも当然のような顔で大きな空魚を掲げている。ピピンはサシャを睨みつけて悔しそうな顔をした。アージェはその表情に、勝負以外の複雑な感情を嗅ぎ取った。

「ピピンってさ、メルス様に謁見したいだけじゃなくて、あいつに負けたくないって思っているんだよな」

 ピピンの耳がピンと立つ。少しだけ驚いたような顔でアージェを見る。

「まあ、ね。――サシャをメルス様には会わせたくないからさ」
「会わせたくない? そう言うってことは、サシャはメルス様に対して何かよからぬことを考えているってことなのか」
「いや、そうじゃない。メルス様は会いに来た者の願を叶えてくれるんだ。ただし叶えられるのは魔法に関することだけどな」
「つまり願いの取り合いか。じゃあピピンはメルス様から与えてもらいたい魔法があるってことなんだな」
「いや……その正反対だ」
「正反対?」

 ピピンは視線をすっと落として口を閉ざした。あたりの様子をうかがい、誰の視線も向けられていないのを確かめると、アージェのローブを引いて木陰に身を隠す。

「正直なことを話す。これはおまえが無知な人間だから(・・・・・・・・)伝えられることだ」
「その言い方、信用されているのかいないのか、謎すぎるな」
「悪い意味じゃないよ。おまえには、あたしたちに対する知識がない。その偏見を持たない目で見てほしいものがあるんだ」

 ピピンはエールの背中に飛び乗ってアージェに手を差し出す。

「午後の開始までには戻る。だから来てほしいところがある」
「わかった」

 アージェはピピンの手を取りエールの背に乗る。ピピンが手綱を握るとエールは空へと舞い上がる。

 着いたのは森の中にたたずむ洞穴の入り口。アージェが隠れている洞穴よりもずっと大きくて広い。冷たい風が憂いた音色を奏でて吹きだしてくる。ピピンは魔法でてのひらに光を灯す。

 案内に従って奥に進むと、見上げるほど巨大な岩盤があった。そこにはさまざまな壁画が描かれている。季節を感じさせる花や農作物、動物や風景、それに――大陸の民と人間。

 壁画のなかには、ふたつの種族が向かい合っているものも、背中合わせになっているものもある。いずれにも古代文字と思われる字が書かれているが、アージェはその意味を読み解くことができない。

「俺に見せたかったのは、この壁画のことなのか」
「そうだ。だけど壁画の古代文字は暗号のようなもので、魔法をかけなければ解読できないんだ」

 思えば洞穴で藁の中に隠れている時、ピピンはサシャに「壁画の解読をしている」と言って、アージェをかくまっているのをごまかした。一方でサシャは「成功したことを見たことがない」と言い返した。それはつまり――。

「ピピンは壁画に込められた記録を解読したけれど、みんなには内緒にしている――ってことだろ?」
「ふむぅ、なかなか察しがいいな、おまえは」

 ピピンはあごに指をあてて感心した顔をする。 

「けど、隠しているのには理由があるんだよな。誰にも言えないことなのか」
「それも正解。もしも言ったら間違いなく大陸を追い出されるだろうから」

 そう言うとピピンは岸壁に手を当てて魔法を詠唱する。すると刻まれた壁画や文字の線が光り出して浮き上がる。線は空中を踊るように流れ、姿を変えて物語を描く。それまで読めなかった文字の意味が、ごく自然に頭の中に流れ込んできた。不思議な感覚だ。

 壁画は語っていた。かつて大陸の民と人間はともに暮らしていたことを。人間は大陸の民の持つ魔法の力を讃え、憧れを抱いた。人間は魔法の力を宿す鉱石――人間が呼ぶところの『ギムレット』を受け取り魔法の使い方を教わった。

 けれどより強力な魔法を手にしようとした人間が、鉱石の独占を目論んで大陸の民を虐げ始めた。大陸の民は一致団結し、人間を大陸の隅に追い詰めた。そして世界を統べる秘石(メルス・ラトイーテ)――人間が呼ぶところの『クイーン・オブ・ギムレット』は大陸の一部を切り離し、人間を浮遊島に幽閉した。

 その記録はリリコに教わったアストラルの歴史と一致している。

「人間と大陸の民の間にも、多くの子供が生まれた。人間は遺伝的に優勢だったので、ハーフの子供は人間とみなされてきた。けれど一部は魔法の才覚を引き継いでいたから、人間の中には魔法を使える者が存在するんだ」
「まじか……」

 アージェは茫然としながら自分の両手を眺める。生粋(ギフテッド)と呼ばれる者は、つまり大陸の民の血を引いたものだということだ。セリアにも、リリコにも、そしてアージェ自身の体内にもその血は駆け巡っている。

「だから魔法戦争は、人間の魔法に対する憧憬が生み出した悲劇なんだ。大陸の民と人間は、本来は戦う相手ではないはずなんだよ」
「人間は大陸の民を『魔族』なんて呼んでいたけど、ほんとうは祖先でもあるのか。それなのに俺らは自分たちが正しいと……」

 アージェは言葉が続かなかった。ふたつの種族の間に横たわる歴史を知りもしなかったことが罪のようにも思えた。

 ピピンはさらに奥へと足を進めてゆく。道のわきにひとつ、岩陰に隠れるように小さな岩盤があった。そこにも壁画と文字が描かれている。

「これは最も新しい壁画だ」
「って、いつ頃のものなんだろ」
「今から20年は前にならないと思う。けど、あたしが生まれるよりも前のことだ」
「魔法戦争の最中、っていうことになるな」
「そうだよ。――これを見て」

 ピピンがふたたび魔法を唱える。浮き上がった壁画は一組の男女を描いていた。男は大陸の民で、女は人間だった。男が赤子を抱きかかえている。ふたりは追っ手からひたすら逃げていた。

 そしてふたりがたどりついた森の奥には、巨大な光る石が据え置かれていた。男が右手を差し出すと、男と石の間に魔法が交錯する。なんの意味があるのか、アージェには理解できなかった。けれどその途中、男は背後から追っ手に槍で背中を突き抜かれる。女性は赤子を連れてその場から逃げた。

 最後に映された追っ手のシルエット――それは紛れもなく、大陸の民の姿であった。

 そこで記録は終わっていた。静寂の中、冷たい風が頬を撫でてゆく。アージェには困惑しかなかった。

「これ、どういうことなんだ……? 最近のことならこの男女が誰なのか、わかっているんだろ?」
「ああ。彼の名はアーク・シェプター。部族の中の、最強の魔法使い(・・・・・・・)だった。捕虜として捉えた人間の魔法使いと恋に落ちて子供をもうけた。けれど裏切り行為によって同胞に殺されたんだ」
「裏切り行為って……?」
「この壁画の記憶では、メルス様を手にかけようとしたんじゃないかと、あたしは思っているんだ」

 語るピピンの表情には緊張感が張り詰めている。

「なぜ信仰心の厚い彼がそんなことをしようと思ったのか、結局はわからずじまいだった。なにせ彼と親しい者は、皆いなくなったのだから(・・・・・・・・・・・)
「え……?」

 そのひとことの違和感がアージェの不安を駆り立てる。胸の鼓動が激しくなり、嫌な汗が流れる。

「ちょっと待て。まだ20年も経っていない話だろ? なんでそんなに……」
「あたしがこの壁画を見つけたのは最近のことだ。けれど5年前には多くの仲間が人間によって虐殺された。あたしの両親もだ。――だからこの村は、ほとんど消えたようなものだった」

 なんてことだ! アージェは血液が逆流するような衝撃を受けた。

 リリコが「『クイーン・オブ・ギムレット』の場所を特定した裏には、魔族に対する想像を絶する拷問があったらしい」と言っていたのを思い出す。けれどその真相は、仲間の虐殺を見せつけることによって口を割らせたということか。その凄惨な光景を想像し戦慄が走る。

「すまない……俺たち人間がそんなことをしていたなんて……」

 アージェは自身が人間であることの罪悪感にうち震えた。ピピンは人間を殺したいほど憎んでもおかしくない。それなのに、けっして怒りを浮かべることなく淡々と続ける。

「でも、その所業を見かねた人間が軍を裏切って味方になってくれた。そのひとが戦い、軍を撤退させたんだ。あたしはその時に助けられたひとりだった。だからあたしたちの味方になってくれる人間もいるんだって、ちゃんと信じているよ」

 リリコの話によると軍を裏切った人物とは、ラドラ・ホーラということになる。

 大陸の民は高度な知性を持ち、崇高な魔法の文化を築きながら、一方的に人間に侵略され続けてきた。それなのにピピンはけっして人間への報復なんて考えていない。ただ、その侵略を終わらせたいだけのはずだ。

「じゃあ、ピピンがメルス様にお願いしたいこととは――」

 アージェには想像がついていた。大陸を侵略する理由を失わせる、最も合理的な方法がひとつだけある。

「そう、大陸に存在するあらゆる秘石を消し去ってもらおうと思っている」

 やっぱりそうだ。人間の魔法に対する憧憬を奪うことで、この魔法戦争に終止符を打つことができる。それこそが唯一の和平の道なのだと、ピピンは考えているに違いない。

「あたしはふたつの世界を共存させたいと思っている。世界の悲劇を二度と起こさないために。だって、たくさんの壁画は共存があたりまえだって示しているから」

 ピピンは決意に満ちた目をしていた。壁画から歴史を読み取れるからこそ、背負うことになった使命なのかもしれない。

 その少女は誰にも悟られることなく、ひとりで世界を変えようと戦っていたのだ。たとえそれが『魔法の寵愛を受けた民族(ラーゲルドゥーネ)』を裏切るような行為だとしても。

「だけどサシャは復讐として人間を滅ぼそうと考えている。だからメルス様に浮遊島を沈めてほしいと頼むんじゃないかと、あたしは思っている。すべての部族の力を集結させ、人間の世界に攻め入るために」

 アージェの背筋が凍りつく。たしかに浮遊島は地中にあるギムレットの魔力で浮遊している。その魔力を奪えば浮遊島は浮遊島でなくなってしまう。

「だからサシャにとって神崇祭は、戦いのための仲間集めの場でもあるはずなんだ」
「もしそうなら、サシャに謁見の権利を与えるのだけは防がなくちゃ」
「だからあたしたちが勝たなくちゃいけない。――互いの未来のためにも、絶対に勝とうな、アージェ!」
「おっと、はじめて俺のことを名前で呼んだな。ようやっと認めてもらえた気分だ」
「アージェは『信用』できる人間だ。頼りがいはイマイチだけど」
「じゃあ『信頼』してもらえるよう、頑張るから見ていろよ!」

 ピピンは拳を突き出した。アージェも拳を固めピピンに応じる。こつんと合わせた後、ふたりは足並みをそろえて洞穴の外へと歩み出した。