最後の挑戦の時が来た。ぎりぎりまで体力を温存し、日没と同時に登攀(とうはん)を開始する。夜間のほうが天敵は少ないと踏んだのだ。満ちた月は地平線から浮き上がり、天空の頂を目指してじりじりと高度を上げてゆく。アージェもまた、崖に淡く光る一輪の花を目指していた。

 期限が迫り崖っぷちに立たされたアージェは覚悟を決めてレザーアーマーを脱ぎ捨てた。身を軽くした方が不測の襲撃から逃れられると踏んだのだ。だが、滑落すれば死を免れない。首にかけたペンダントを心の支えにし、一歩一歩、さらなる高みを目指してゆく。

「どれどれ……ワタシもこの挑戦の顛末を見届けようかの……」
「魔女様!」
 
 プリマの隣に魔女が並んだ。けれどその表情はご馳走を待ちわびる子どものようだ。青年の運命など、魔女の興味の範疇ではなかった。魔女は視線をアージェに向けたまま小声で語りかける。

「プリマ、誘惑には失敗したんだね」
「力及ばず申しわけございません……」
「この役立たずが。宝石の中の小娘に、あの男を見限らせようと思ったんじゃがな。だがあの男が目前で死ぬことになれば、拒否する気力すら失われるだろうに」

 にやりと口角を持ち上げてみせる。

「まぁ、あの『秘石』を持つ男を連れてきたのは手柄だった。生命再生の噂を聞きつけて訪れたのだから、おまえの努力のおかげとも言えるじゃろうて」

 魔女はプリマを街に放ち、死者を生き返らせる能力があるという噂を広めさせていた。それは魔力を有する者をおびき寄せるための寄せ餌であった。しかし、それが魔女の仕組んだ罠だと知る者はいない。来訪者は魔力を根こそぎ吸い取られた上、秘密を守るために土に還されたからだ。

「しかし10年ほど前の男だけは見事じゃったわい。城のそばに棲み着いた鬱陶しい黒死龍の討伐を課題にしたが、まさか独りで倒してしまうとは、すさまじい魔法使いじゃったわい」

 魔女は「あんな奴ばかり来られたらたまらんわい」と独り言ちる。その前例があったからこそ、課題の挑戦には魔法の使用が禁止されたのだ。

「名前はたしか……ヴェ……何だったかのう」
「ヴェンダール様のことですね」
「そいつじゃ! なかなか見事なものじゃったが、奴はよりによってまだ完成していない技術、『滅びゆく肉体の再生』を願いおったからの。断ったこちらが危うく殺されるところじゃったわい」
「けれども相応の報酬で納得されたんですよね」
「じゃな。生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)、心残りではあるが命には代えられん」

 魔女はひたいに脂汗を浮かべていた。思い出すのもはばかられるほどの悪夢であったに違いない。プリマは胸をなでおろし、ふたたび視線を崖へと向ける。宵闇の中、胸にかけた秘石の放つ淡い光がアージェの場所を知らせている。

 アージェは魔女の罠など知るすべもなく、岩壁をただ必死によじ登る。指先からは血が滴り、握力も失われてゆく。だが、身を軽くしたのが幸いだった。途中で現れた蛇や羽虫からうまく逃れられた。けれど時間は刻々と流れゆく。月はもうすぐ頂に届こうとしていた。

 アージェはついに輪廻草の花にたどり着いた。

「はぁ、はぁ……メメル、花を手に入れたぞ……」

 輪廻草の花は来客を心待ちにしていたかのように、藍色の花びらをゆらゆらと揺らしている。手を伸ばし、茎をそっと掴み取る。根ごと岩肌の隙間から抜き取った。

 ところがその瞬間、無情にも花弁が色を失い灰白色の作り物へと姿を変えた。信じられなかったが、変色した花弁は砂と化しサラサラと地上へこぼれ落ちてゆく。

「ああっ、そんなっ……!」

 落ちてゆく砂を掴み取ろうとするが、手のひらは空を切るばかりだ。天空を見上げると月は頂に達していた。アージェの心臓は絶望の鐘となって激しく打ち鳴らされた。

「ケケケッ、時間切れだよぉ~!!」

 突然、銀の首輪に施された悪魔の絵が笑い出した。同時に首輪がギリギリとアージェの首を締め付ける。息を詰まらせたアージェは必死にもがく。すると指先から滴る血のせいで手が岸壁から滑り落ちる。体がぐらりと傾き、深い群青の空へと放り出される。

 ――しまったっ!

 地上では魔女が嬉々として小躍りをしている。かたやプリマは息をのみ目を見開いていた。

「ひゃっほう! 課題、失敗イイイィィィ――!!」
「ああっ……! アージェ様ッ!!」

 アージェは加速しながら闇の支配する地上に吸い込まれる。絶望に墜ちゆく中、アージェはただ、メメルの眠る『秘石』を握りしめていた。

 ――ごめん、メメルッ!!

 その瞬間――。
 
 ふいに首元のペンダントが眩く光り出す。幾重もの光の帯が夜空に向かって溢れ出し、まるで抱きとめるかのようにアージェの身体を包み込む。首輪に描かれた悪魔のモチーフが苦悶の表情を浮かべた直後、首輪が派手な音を響かせ砕け散った。

 強烈な魔力を宿す光の中から懐かしい声が聞こえる。アージェはその声に驚き、心臓が止まりそうになった。
 
『アージェ、ずっと待たせちゃってごめんね。でも言ったでしょ、あたしだってアージェを守れるくらい強くなるんだって』
「メ……メメルなのか!?」

 まさかメメルの魂が秘石の魔力を纏って具現化するとは想像だにしなかった。

『うん、あたし、すごく不思議な感覚。きっとクイーン・オブ・ギムレットの持つ力のおかげだよ!』

 それは紛れもなく、いくつもの偶然が折り重なって起きた奇跡の瞬間だった。

 虚脱の蒸し風呂(ユヴェーネグラスト)に暴露された影響で、メメルの魂は秘石から解離することができたのだ。けれどそれだけではない。秘石の本質である『クイーン・オブ・ギムレット』の意志が、自身の魔力をメメルに貸与したに違いなかった。

 だからメメルの魂は、魔法の力を借りて具現化することができた。

「魂が(かえ)ったぁ! このチャンス、逃してなるものかァァァ!!」

 魔女が杖を大きく振りかざすと、杖から黒煙が噴き出し巨大な蛇を形作ってゆく。

「喰らえ! 刈縷魔(カルマ)よ!」
 
 蛇は裂けんばかりに大口を開け、鋭い牙をむき出しにしてメメルとアージェに襲いかかる。
 
「クイーン・オブ・ギムレットの魔力、まるごとワタシのモノだぜェェェ!!」
「うわああっ!」

 避けきれない、と思った瞬間、大蛇がぐにゃりと進路を変えた。身をよじりながら、アージェの横を通り抜けてゆく。地上の魔女に目を向けると、プリマが魔女の杖を掴み、必死の抵抗を見せていた。

「お願いします! アージェ様を殺さないで!」
「プリマ、貴様! あの男にほだされ、このワタシを裏切ったのかッ!」
「どんな罰でも受けますから、アージェ様を見逃してあげてください!」
「黙れ!!」

 魔女はプリマを振り払い、杖でプリマの顔面を強打した。
 プリマは跳ね飛ばされて地に伏し、身動きが取れなくなった。

「あっ! プリマさん!」

 けれどプリマに目を奪われている余裕はない。メメルの声が鼓膜に響く。

『アージェ、よく聞いて。首輪がなくなった今なら魔法を使えるはず。あたしが力を貸すから!』
「だっ……だけどあんな巨大な敵、どうやって……」
『ううん、アージェなら絶対できるよ。あたしは信じているから!』

 アージェを包み込む光は大きく広がり光の翼を形成する。メメルに力をもらったのに弱腰になれるはずなどない。アージェは腹をくくった。

「ああ、やってやるよ!」
『じゃあ、一気にいくけど、いい?』
「もちろんだ、メメル!」

 翼となったメメルは巨大な蛇に狙いをすました。空を滑りながらぐんぐん速度を上げ、回転しながら蛇の喉元に突っ込んでゆく。

 アージェは全身全霊を腕に込めて魔法を発動させた。右腕に黒霧の粒子が宿り、腕の周囲を高速で飛び回る。互いの魔力が共鳴して甲高いハウリング音を発する。魔力の密度がぐんぐん上昇し、小さな粒子に凝縮されてゆく。

「その魔力、イタダキマアアアァァァァス!」

 大蛇がうねりながら光を纏うアージェに襲いかかる。

『アージェ、今よ!』
「おう!」

 ――『魔禁瘴・漆黒の流星群(ダークネス・メテオシャワー)!!』

 突き出したアージェの拳から魔力の弾丸が放たれる。魔法のエネルギーは大気を燃やし、無数の光の帯となって黒い蛇に降り注ぐ。

「『いっけぇぇぇ――!!』」
「ぐっ、グオオオオッッ!!」

 衝突の衝撃は空を揺るがせて暴風を起こし、岸壁を崩落させ、森の木々をなぎ倒してゆく。闇の大蛇を貫き破壊した魔力の流星は、豪雨のような勢いで地上へ突き刺さる。

 アージェの放った魔法の破片のひとつが、魔女の背中を直撃した。魔女は跳ね飛ばされ、地面を転がって仰向けに倒れた。

 するとまるでしおれる果実のように、顔はしわがれ、腰が曲がり、背は縮んでゆく。その場に残されたのは、見るに堪えない姿となったひとりの老婆だった。

「ヒイッ、ワタシの若さが……若さがァァァ!!」

 地面に這いつくばる魔女に、かつての威厳はなかった。寿命を支えていた魔力が魔禁瘴の効果で消滅したせいで、生命の終焉へ向かう時間が急速に加速したのだ。

 アージェは蛇の姿が消えたのを確かめて地上に舞い降りる。光の帯はアージェから分離すると、淡い少女の輪郭を作り上げた。

「メメル……メメルッ!!」

 光を抱き止めようとするが、手は空を切ってしまう。幻想的な光の中から声が響く。

『ふわぁ……あたし、もう眠くなっちゃった。またアージェの胸で眠りたいな……』
「メメル――今度は絶対に俺がメメルを助けてやるからな!」
『あはっ、アージェならきっとそう言ってくれると思っていた。だから――』

 光の輪郭がおぼろになり、溶けて流れるように胸元の宝石に吸い込まれてゆく。最後にメメルの声にならない声がアージェの心に届く。

 ――だいすきだよ、アージェ。

 光は収束し、秘石はもとのペンダントの姿となった。アージェは刹那の邂逅に茫然としていた。けれどプリマのうめき声が耳に届き、はっと我を取り戻す。

「プリマさん、大丈夫ですか!」

 倒れたプリマに駆け寄って抱き上げ顔を見る。その瞬間、アージェの全身に戦慄が走った。

 プリマの美しい顔の左半分が、えぐられた粘土細工のような無残な姿になっていた。損壊した場所から淡い光が蒸散している。魔法学院の窓から眺めた、魔法の消えゆく姿そのものだ。

「プリマさん、なんで……なんでッ!」
「アージェ様、私は魔女様から、かりそめの命を与えられた傀儡にすぎません。この不完全な肉体は魔力の補充によって保たれていました。魔女様の魔力が失われた今、私の生命をとどめておくものはもうありません」
「そんな……すまない、俺のせいでッ!」

 アージェはプリマに引導を渡すことになった呵責に涙をこぼす。けれどプリマはアージェの胸でせいいっぱいの笑みを浮かべて見せた。

「アージェ様、それでも私、胸の踊る時間を贈ってくださったあなたに、心から感謝しています。生まれてからずっと操られる道具にすぎなかった私が、はじめてひとりの女性として見てもらえた気がしたのです」

 プリマの身体が蒼白く輝きだす。しだいに全身の皮膚がはがれ始め、人魂のように宙に浮き上がってゆく。

「あっ、ああっ……」

 空中に散る魔法の残滓を必死にかき集めるが、光は無情にもアージェの手をすり抜けてゆく。しだいにプリマの肉体が薄く、小さくなっていく。その光の中から、プリマの最期の声が届く。

「どうか聞いてください、アージェ様。魔女様は完全な肉体を作り出すことはできませんでした。けれど、生命の再生は不可能なことではありません」
「!?」
「生命再生に必要な条件は、鋳型となる新鮮な肉体、生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)、そして魔導書に吹き込む『クイーン・オブ・ギムレット』の魔力です。そして生命再生の魔導書(アスト・ヴェルケロニック)を手にしている人物は――」

 その名前を聞いたアージェの心臓は拍動を早めた。魔法学院で得られた手がかりが繋がったのだ。

 ヴェンダールは帝のために、リリコの母を蘇らせようとしている。そのために大陸に侵攻し、『クイーン・オブ・ギムレット』を見つけだそうとしているのだ。

「私はアージェ様が『秘石』の少女と再会できる日を願っています。きっと、きっと叶いますから――」

 そうしてプリマは月が輝く夜空の中へ消えていった。

 ひとり残されたアージェはその場に突っ伏して、プリマのために慟哭をあげた。生命とはこんなにも儚く、そしてかけがえなく尊いものなのだと思いながら。