★
岸壁にしがみつくアージェに数多の薙刀鳥が襲いかかる。鋭い爪がレザーアーマーを裂き、むき出しの皮膚から血がしたたり落ちる。必死に耐えていたが、ついに岸壁から引きはがされた。
「ぐあああっ! もう少しだったのにッ!!」
アージェは岩肌に身体を打ちつけながら転がり落ちた。
「あっ、アージェ様!!」
「ぐっ、今度は鳥かよ……」
プリマがすぐさまアージェに駆け寄る。これで6日連続の失敗だ。肉食獣にとどまらず、巨大な羽虫や大蛇、そして野鳥。あらゆる生物が岸壁を登る者を獲物として認識していた。かわしきれず滑落し全身に傷を負う日々。まだ動けることが奇跡のようだった。
アージェは部屋で下着姿にされ、ふたたび薬草の処置を受けている。宝石は机の上に置かれていた。それを見つめて途方に暮れる。
――いよいよ明日、月が満ちてしまう。
傷の手当をするプリマの指がふと止まる。ためらいの間があってから、よそよそしく口を開く。
「あっ、あの、アージェ様、たいへん差し出がましいのですが……」
「……何ですか」
「その……もう、課題の挑戦を諦めてもよろしいのではないでしょうか」
「はぁ?」
「私、これ以上、アージェ様の苦しむお姿を見ていられません」
たしかに身体は傷だらけで、痛みで悲鳴を上げたいくらいだった。それを見ているプリマの気持ちは理解できる。けれど、ここまで来て諦めることなどできるはずがない。
「構わないでください。これは俺の決断です。メメルを救うためには何だってするつもりですから」
ところがプリマはアージェの目の前にひざまずき、うるんだ瞳で顔を見つめる。
「どうしてその少女にそこまでこだわるのですか? この世界に女性は星の数ほどいますのに。――ほら、あなたの目の前にだって」
普段と違ったプリマの様子に、胸の奥を掴まれたような感覚になる。
「私はこの城の中でなにひとつ楽しいことなどありませんでした。あなたがここを訪れるまでは」
「プリマさん……?」
「幻想と化した女性に、あなたの満たされない思いを叶えることなどできるでしょうか。あなたは自身を見守っているひとの存在に気づいてくださらないのでしょうか」
「ちょっ、ちょっと待ってください! そんな考えを抱いたら首輪に絞め殺されます!」
アージェは慌ててプリマを拒絶する。
「いえ、魔女様はおっしゃっていました。服従の証としてその『秘石』を差し出せば、呪輪から解放しても構わないのだと」
「え……?」
「あなたのような真摯な青年を犠牲にするのは心許ない、と。そして試練を譲歩するには、相応の対価が必要だとも。――そう伝えるように言われました」
度重なる滑落と痛みの蓄積は、アージェの固い意思すら打ち砕こうとしていた。失敗すれば死という、きわめて重い重圧に抗い痛みに耐えていたアージェだったが、もしもその提案を受け入れればすべてから解放されるのだ。
「その『秘石』を失っても、寂しくなんてないはずです。その時は私が慰めて差し上げますから」
プリマはよつんばいになり、上目遣いでアージェとの距離を詰める。指を差し出し、アージェの頬から胸元を指先で優しく刺激する。
「あなたの望むことを、すべて叶えて差し上げます。――無論、この身を捧げることだって」
いろめいた唇から放たれる吐息がアージェの素肌の上を流れる。速まる心臓の拍動をごまかすことなどできなかった。プリマはアージェの首に腕を回し、自身の顔を近づける。
「アージェ様の選択を非難する権利など、この世界の誰にもございません」
その時突然、テーブルからかたかたっと音がした。目を向けると『秘石』がかすかに震えていた。その輝く秘石が目に映り、アージェは我を取り戻す。プリマの肩に手を置いて距離を取った。
「すみません。そこまで言っていただいて申しわけないのですが――俺は彼女のために命を賭ける決心をしたんです」
「でもっ! 私はアージェ様にこの島を去ってほしくないんです!」
アージェは穏やかな声でプリマを諭す。
「プリマさん、あなたにだって未来はあります。ですから俺、課題をクリアできたら魔女にお願いするつもりです。プリマさんにも広い世界を見せてあげたいのだと」
するとプリマは目を見開いて驚き、それから泣きそうな表情へと変わっていった。まるで自身の行動を悔いるように、顔を伏せて首を横にふるふると振る。
「そうですか……アージェ様はどこまでも優しいお方なんですね。そう、残酷なくらいに……」
そう言われたアージェはしばらく考え込み、それからぽつりとこぼす。
「ごめんなさい。でも、もしも俺が課題を失敗したら、プリマさんにお願いしたいことがあります」
プリマは少しだけ顔をあげ、アージェの表情をうかがいながら耳を傾ける。
「その時はあの宝石――メメルをプリマさんが預かってください。そしてあなたがこの島を出られるようになったら、グレイマン島にいる俺の幼馴染、セリアに渡してほしいんです」
「え……」
「その時は『メメルを助けてあげられなかった。約束を守れなくてごめんなさい』と伝えてください」
願いの言葉が耳に届くと、プリマは肩を震わせ泣き出した。罪の呵責なのか、拒絶の痛みなのか、その理由をアージェが知ることはない。
けれどアージェは涙するプリマの隣に座り込み、小さく丸くなった背中に手を当てる。何も聞くことはなく、ずっと、ずっと背中をなで続けていた。
岸壁にしがみつくアージェに数多の薙刀鳥が襲いかかる。鋭い爪がレザーアーマーを裂き、むき出しの皮膚から血がしたたり落ちる。必死に耐えていたが、ついに岸壁から引きはがされた。
「ぐあああっ! もう少しだったのにッ!!」
アージェは岩肌に身体を打ちつけながら転がり落ちた。
「あっ、アージェ様!!」
「ぐっ、今度は鳥かよ……」
プリマがすぐさまアージェに駆け寄る。これで6日連続の失敗だ。肉食獣にとどまらず、巨大な羽虫や大蛇、そして野鳥。あらゆる生物が岸壁を登る者を獲物として認識していた。かわしきれず滑落し全身に傷を負う日々。まだ動けることが奇跡のようだった。
アージェは部屋で下着姿にされ、ふたたび薬草の処置を受けている。宝石は机の上に置かれていた。それを見つめて途方に暮れる。
――いよいよ明日、月が満ちてしまう。
傷の手当をするプリマの指がふと止まる。ためらいの間があってから、よそよそしく口を開く。
「あっ、あの、アージェ様、たいへん差し出がましいのですが……」
「……何ですか」
「その……もう、課題の挑戦を諦めてもよろしいのではないでしょうか」
「はぁ?」
「私、これ以上、アージェ様の苦しむお姿を見ていられません」
たしかに身体は傷だらけで、痛みで悲鳴を上げたいくらいだった。それを見ているプリマの気持ちは理解できる。けれど、ここまで来て諦めることなどできるはずがない。
「構わないでください。これは俺の決断です。メメルを救うためには何だってするつもりですから」
ところがプリマはアージェの目の前にひざまずき、うるんだ瞳で顔を見つめる。
「どうしてその少女にそこまでこだわるのですか? この世界に女性は星の数ほどいますのに。――ほら、あなたの目の前にだって」
普段と違ったプリマの様子に、胸の奥を掴まれたような感覚になる。
「私はこの城の中でなにひとつ楽しいことなどありませんでした。あなたがここを訪れるまでは」
「プリマさん……?」
「幻想と化した女性に、あなたの満たされない思いを叶えることなどできるでしょうか。あなたは自身を見守っているひとの存在に気づいてくださらないのでしょうか」
「ちょっ、ちょっと待ってください! そんな考えを抱いたら首輪に絞め殺されます!」
アージェは慌ててプリマを拒絶する。
「いえ、魔女様はおっしゃっていました。服従の証としてその『秘石』を差し出せば、呪輪から解放しても構わないのだと」
「え……?」
「あなたのような真摯な青年を犠牲にするのは心許ない、と。そして試練を譲歩するには、相応の対価が必要だとも。――そう伝えるように言われました」
度重なる滑落と痛みの蓄積は、アージェの固い意思すら打ち砕こうとしていた。失敗すれば死という、きわめて重い重圧に抗い痛みに耐えていたアージェだったが、もしもその提案を受け入れればすべてから解放されるのだ。
「その『秘石』を失っても、寂しくなんてないはずです。その時は私が慰めて差し上げますから」
プリマはよつんばいになり、上目遣いでアージェとの距離を詰める。指を差し出し、アージェの頬から胸元を指先で優しく刺激する。
「あなたの望むことを、すべて叶えて差し上げます。――無論、この身を捧げることだって」
いろめいた唇から放たれる吐息がアージェの素肌の上を流れる。速まる心臓の拍動をごまかすことなどできなかった。プリマはアージェの首に腕を回し、自身の顔を近づける。
「アージェ様の選択を非難する権利など、この世界の誰にもございません」
その時突然、テーブルからかたかたっと音がした。目を向けると『秘石』がかすかに震えていた。その輝く秘石が目に映り、アージェは我を取り戻す。プリマの肩に手を置いて距離を取った。
「すみません。そこまで言っていただいて申しわけないのですが――俺は彼女のために命を賭ける決心をしたんです」
「でもっ! 私はアージェ様にこの島を去ってほしくないんです!」
アージェは穏やかな声でプリマを諭す。
「プリマさん、あなたにだって未来はあります。ですから俺、課題をクリアできたら魔女にお願いするつもりです。プリマさんにも広い世界を見せてあげたいのだと」
するとプリマは目を見開いて驚き、それから泣きそうな表情へと変わっていった。まるで自身の行動を悔いるように、顔を伏せて首を横にふるふると振る。
「そうですか……アージェ様はどこまでも優しいお方なんですね。そう、残酷なくらいに……」
そう言われたアージェはしばらく考え込み、それからぽつりとこぼす。
「ごめんなさい。でも、もしも俺が課題を失敗したら、プリマさんにお願いしたいことがあります」
プリマは少しだけ顔をあげ、アージェの表情をうかがいながら耳を傾ける。
「その時はあの宝石――メメルをプリマさんが預かってください。そしてあなたがこの島を出られるようになったら、グレイマン島にいる俺の幼馴染、セリアに渡してほしいんです」
「え……」
「その時は『メメルを助けてあげられなかった。約束を守れなくてごめんなさい』と伝えてください」
願いの言葉が耳に届くと、プリマは肩を震わせ泣き出した。罪の呵責なのか、拒絶の痛みなのか、その理由をアージェが知ることはない。
けれどアージェは涙するプリマの隣に座り込み、小さく丸くなった背中に手を当てる。何も聞くことはなく、ずっと、ずっと背中をなで続けていた。