岩壁に咲く輪廻草を摘み取る挑戦は、日の出とともに始まった。

「いよいよか……」

 防護具として厚手のレザーアーマーとヘルメット、それに手袋が用意された。この試練は己の力だけが頼りで、岸壁への打ち杭は許されない。

「アージェ様、くれぐれもお気をつけください」

 プリマは見送りに来ていたが、そこに魔女の姿はない。たやすく成功するとは思っていないのだろうか。それとも興味すら抱いていないのだろうか。

 はるか頭上で薄紫色の花弁がゆらゆらと揺れている。アージェは岩壁を見上げながら、自分の手でそれを乗り越え、花を魔女に差し出すのだと心に固く誓う。

 最初の傾斜は50度ほどで、高所へ向かうにしたがって急勾配となっている。アージェは静かに深呼吸をしてから、岸壁に手をかけて慎重に登り始めた。レザーアーマーの荷重が堪えるが、この装備がなければ滑落の際に命の保証はない。

 岩壁は荒々しく、表面には多数の凸凹がある。足をかけて己の身体を持ち上げ、手を次の岩肌に移す。新たな足場の感触を確かめ、ふたたび足底に力を込める。焦りは禁物だと自身に言い聞かせ、逸る気持ちを律して上へ上へと進む。

 目的の場所までの半分に達したところで異様な気配を感じた。入念にあたりを見回すと、岩陰からこちらを覗くふたつの瞳を見つけた。小型の狼のような姿だが、むきだしの歯肉からは異様に長い牙が伸びている。

 その姿にアージェは戦慄を覚えた。

 ――まさか、草狼(グラス・ウルフ)かよ……。

 草狼(グラス・ウルフ)は崖から突き落として弱った相手を襲い捕食する狡猾な肉食獣だ。背毛を立ててアージェを威嚇し、じりじりと岩肌に沿って近づいてくる。ときおり見せる舌なめずりの仕草は、アージェを獲物だと認識している証拠である。

 距離を置こうとするが、レザーアーマーの重さが素早い逃避を許さない。距離を詰められたので覚悟を決め、草狼の攻撃に備えて身を構える。足場を固めて右手に力を込めた。

「ウジュルウジュル……ガアァ!!」

 草狼がアージェに向かって襲いかかる。その視線が捉えているのは、肌の露出した首筋だ。

 タイミングを狙って手刀で叩き落とそうとするが、草狼はアージェの動きを完璧に見切り、嘲笑うかのように軽々と避けてみせた。

「この……ッ!」

 草狼は執拗に首を狙ってくる。必死に牽制していたが、空を切る手刀の反動で岩を掴む指がずるりと滑った。

 しまったと思ったが時すでに遅く、全身に殴りつけられるような痛みが走る。アージェは地面に到達して止まるまで、唇をかみしめて滑落の激痛に耐えるほかなかった。