時は十五年ほど前。

 ヴェンダールは貧困層の出身で、両親の暴力を受けながら育った。路地裏で薬の密売をして小銭を稼ぎ、街に繰り出して盗みも働いた。

 元来、地の属性の生粋(ギフテッド)を有し、物質の具現化が得意であったが、鍛錬により相手の発した言葉を引き金に発動させる待機型魔法を編み出した。それを戦いに応用して騙し討ちの名手となり、子供ながら裏世界に名を轟かせた。ついには帝政に盾突くカルト教団に雇われ、ガルシアの暗殺役を引き受けることとなった。

 当時はシャルロット女王が健在であり、ガルシアは魔法文化の発展を推し進める人望の厚い帝であった。皆の幸せを願う心の余裕があったのは、自身が至福の極みにいたからにほかならない。

 だがヴェンダールはそんな帝の生命を奪うことに一片の迷いさえ抱かなかった。

 ヴェンダールは標的を隅から隅まで調べつくした。年に一度、帝は狩りのために森の中へ繰り出してゆく。女王の誕生日に、みずから捕獲した野獣を素材とした料理を振舞うのが恒例となっていたからだ。

 早朝の森は静かで薄暗く、湿気が木々の独特の匂いを際立たせる。狩り場に着いたガルシアは馬から降りて弓矢を取り出した。森の中の小道を慎重に進んでゆく。

 小鳥のさえずり、枝がこすれる音、そしてかすかな足音――獲物を発見した。丸々と太った熊獅子だ。いいスープができるなと舌鼓を打つ。

 ガルシアもまた一匹の獣となり、獲物へと近づいてゆく。

 その時、ガルシアは背後に何者かの放つ微細な殺気を捉えた。ガルシアは常に周囲に数百メートルにも及ぶ魔法感知網を張り巡らせて行動している。桁違いの探知範囲と持続時間は、ガルシアの持つ強大な魔力の片鱗である。

 それは獲物を捕捉するためだけでなく、保身の意味もあった。だからその技能については誰にも明かしていなかった。

 そんな探知網の中に敵が侵入し、自分を狙って距離を詰めてくる。獲物を狙う自身が同時に獲物でもある緊張感に歓びが沸き起こり、全身の肌がぞくぞくと粟立った。その刃のような時間に身を置けることを恍惚に感じているのだ。

 さらに、近づく敵との戦いはガルシアの脳裏で始まっていた。

 魔法感知網が捕らえた情報によると、相手は自身よりもわずかに背の高い細身の男。漏れる魔力の匂いを察するに、土魔法の生粋(ギフテッド)を有する若者に違いない。繊細で力強く、強力な具現化魔法を放つことができる。ならばこの森の中、どのように殺しにくるのか――。

 まだ見ぬ敵の能力と戦術を何百通りも想像しながら、最も起こりえる事象を構築してゆく。

 どのような戦いになるのか想定できた瞬間、目前の茂みの中から巨大な蛇が姿を現した。赤い瞳でガルシアを捉え、舌をちらつかせながら迫りくる。

 魔物のようであったが、やはり造形の魔力は隠しきれていない。しかも大蛇は露骨と言えるほどに殺気をあらわにしている。それはまさにガルシアの想定通りだった。

 ――ああ、なんて素晴らしい策略なのだ。暗殺者は私が蛇と闘う瞬間を狙い、背後から自身の手で私の首を落とすつもりだ。大蛇はそのブラフでしかない。そうだとすれば、暗殺者は顔をさらして構わないと考えているはずだ。それは任務を成功させる絶対的な自信の裏打ちにほかならない。しかし、引導を渡すという悲哀の所業をみずから背負う決断は、私と死に対する敬意の表れでもあるはずだ。

 まだ見ぬ男が抱く、暗殺者としての美徳にガルシアは痺れた。想定ではすでに敗北させている相手であるが、このまま殺すのはあまりにも惜しまれる。今はまだ原石にすぎないのだ。もしも鍛え上げれば、彼は世界を変えるほどの力を持つ魔法使いになれるかもしれない。

 刹那、背後の気配が動いた。気配は森の中を駆け抜け、投げられたナイフのように自身に向かってくる。

 ガルシアは沸き立つ心を抑えきれず、燃えるようなまなざしで振り向く。その視界に映った相手は、まさに新鋭の暗殺者、ヴェンダールにほかならなかった。

 ――ようこそ、若き挑戦者よ。

 ヴェンダールは具現化の魔法を発動させ、大蛇とふたりを囲い込む壁を出現させた。ガルシアの逃げ場は塞がれ挟み撃ちとなる。だが、もとより逃げることなど、つゆほども考えていない。

「帝よ、悪いがその命、このヴェンダールが頂戴する!」

 目を血走らせて剣を振り上げ、ガルシアの首に向かって振り下ろす。大蛇もまた、牙をむき出しにしてガルシアに襲いかかる。ガルシアはゆっくりと腕を広げ、双方に人差し指を向けて狙いすます。

 指先が光り輝いた瞬間、ヴェンダールは巨大な力の塊を全身に浴び、激しく吹き飛ばされた。みずからこしらえた魔法の壁に激突し、肋骨のほとんどが逝ってしまった。痛みで呼吸が麻痺する。

 ガルシアの向こう側にいた大蛇が崩れ落ち、塵となって消えてゆく。相手の魔法の実体すら捉えることのないうちに勝負は決してしまった。歴然とした力の差を見せつけられ、ヴェンダールは死を覚悟した。

 薄れゆく意識の中、天使の慈愛とも思える優し気な声が鼓膜に届く。

「――おまえのような奴は、正しいことのために力を使わなければならない。これからその考えを叩き込んでやるから覚悟しておけ」
「……殺せ。情けなどいらん」
「おまえの死に場所はここではない。あるとすれば戦場で、それも私とともにだ」

 完敗を喫したヴェンダールだったが、自尊心を蹴飛ばして笑いがこぼれていた。それは己の行き場を見つけた瞬間でもあった。

 目覚めた後、カルト教団の拠点を明かしたことでヴェンダールの罪は帳消しとなり、教団のすみやかな壊滅をもって自由へと放たれた。

 未来を切り開く権利を得られたヴェンダールは帝に忠誠を誓い、軍の魔法使いとして訓練に明け暮れる日々を送っていた。