ポンヌ島唯一の出入り口である『風の港』は多くの観客で賑わっていた。行われる試合は飛翔競技である『スカイ・グライダー選手権』予選会の決勝戦。

 若葉が茂る季節になると、ポンヌ周辺の上昇気流はきまって勢いを強める。だからスカイ・グライダー選手権は毎年、ポンヌ島で行われている。ポンヌは名産品のない辺境の島だが、この一大イベントの時期だけは賑わいを見せ、その観光収入がポンヌ島の経済を支えている。それぞれの浮遊島はいずれも生き残る手段を独自に見いだしていた。

 グライダーを背中に取り付けた選手が16人、島の絶壁に立ち並んでいる。翼の形に規定はない。メメルは海鳥の羽にも似た淡青色の翼を携えていたが、これはアージェが苦労して作り上げたものだ。

 眼下にはいくつもの救護艇が浮かんでいる。事故で墜落する選手も少なくないためだ。だが、万一多くの選手が同時に墜落すれば救援が間に合わず命に関わることになる。選手は危険なことを重々承知しているが、それでもこの戦いに勝利して得られるものの大きさの前には危機感など霞んでしまう。

 なぜなら本戦に優勝すれば、アストラル中央都市の特別永住権が与えられるのだ。特別永住者は手厚い生活保障を受けられるだけでなく、専用の飛行艇が贈呈され、アストラル全土へのアクセス権が付与される。

 メメルの夢は、ギムレット発掘隊となり世界を飛び回ることだった。そしてもしも未知のギムレッド鉱石を探し当てることができたのなら、莫大な謝礼の供与と高い社会的地位が約束される。そうなれば孤児院の子供たちにも希望にかなう将来を約束してあげられるのだ。

 ポンヌ音楽隊による演奏が始まり、予選会が幕を開ける。セリアは声を張り上げて応援を送る。

「メメルちゃーん、がんばってぇー!」

 気づいたメメルが振り向いてにこやかに手を振る。
 メメルは出場選手のうちで最年少なので、ひときわ小柄で、大きな翼は不釣り合いに見える。だが、この大会に全身全霊を賭けているだけに、気合は誰にも負けていない。

 パァーン!!

 号砲が鳴り響き16機のグライダーが空に飛び立った。歓声がいっそう賑やかになる。

 グライダーは動力源を持たないが、風を捉えて飛ぶことができる。スカイ・グライダー競技はグライダーを操作し、空中のエアゲートをくぐり抜けてコースを周回しゴールの順位を競う。島の上空から底層を5周回し、島上のゴールエリアにいち早く着地したものが勝利者となる。

 風の使い方はグライダーの操縦者によりまちまちで、だからライン取りには個性が出る。メメルはより高度をあげ、重力を使って一気に加速するスタイルだ。

 けれどメメルと同じ飛行スタイルで宙を舞うグライダーが一機。

 ロゴマークは富裕層が居住する、隣島パルメザソのものだ。メメルに追いつくほど高度を上げられるのは、グライダーの翼に最新の軽量素材を使っているからである。風を受けた瞬間の浮力がほかの機体とは明らかに異なっていた。

 風を捉えて十分な高度を得たら、いよいよ上空からの急降下が始まる。グライダーは速度を上げ、観客の目前を飛龍のごとき速さで通り過ぎてゆく。アージェとセリアは固唾を飲んで勝負の行方を見守る。

 選手の姿が島の底面に隠れると、崖から覗き込んでいた観客も身を引いて待つ。この視界に映らない時間がどれだけ不安を煽るのか、アージェはよく知っている。島の底面で舞う不安定な風は、選手をいとも簡単に試合から脱落させてしまうのだ。島への激突、という不幸な形で。

 選手が再浮上して姿を現すとふたたび大きな歓声が上がる。最初にパルメザソの選手、続いてメメル。けれど大きく引き離されていた。風に煽られたのかと心配したが、メメルは持ち前の身軽さを生かして距離を詰めてゆく。
 
 だが、アージェはメメルのグライダーが通り過ぎた瞬間、気づいたことがあった。すぐさま立ち上がりセリアにひとことを残す。

「悪い、ちょっと用を足してくらぁ」
「ええっ、こんな時に!?」
「しょうがないだろ、すぐに戻るからさ」

 むっとするセリアの表情に気づかぬふりをし、足早に観客席を立ち去る。

 アージェが向かったのは中央広場にある地下道への入口。足音を消して進んでいくと守衛がひとりいた。手にした金貨を眺めてにまにまとしている。素知らぬふりで通り過ぎようとするが、守衛は気づくと即座に槍を突き立ててアージェの進路を塞いだ。

「おい、大会期間中は立ち入り禁止だ!」

 この先には洞穴があるが、洞穴の最終地は島の外壁につながっている。空に向かってぽっかりと口を開けた洞穴は海や大陸が見渡せる絶景ポイント。だが、数年前に観戦の目的で観客が押し寄せ、墜落事故が起きてしまった。以来、大会の時は通行止めにされている。

 しかし、守衛が金貨を手にしていたということは――。

「パルメザソの連中に買収されたんですね」

 すると守衛は口元を非対称に歪め、金貨を握る手を背後に隠した。

「その金貨と仕事を失いたくなければ俺を通してください」

 守衛はためらったが、逡巡の時間はわずかだった。苦々しい表情で答える。

「……言わないと約束するならな」
「構いません。ところで、この先に行かせたのは何人ですか」
「ひとりだけだ」

 答えて槍を収めた守衛の前をアージェは悠々と通り過ぎていく。神経を研ぎ澄まし、枝分かれする洞穴の中、人の気配のある方向を目指して行く。
 
 すると洞穴の最終地――『空の窓』にたどり着いた。その端では若い男が小声で何かをつぶやいている。魔法の詠唱に違いない。左手を前に突き出すと手の中で光が弾け、幻影の弓が現れた。折りたたんだ右手には幻影の矢が現れる。ギムレットを消費して魔法を発動させたのだ。弓矢を構えて空に狙いを定めた。

 男はこの死角を利用してライバルを撃ち落とす狙撃手だ。メメルの翼から感じられた魔法の残滓(ざんし)はこれに違いないと、アージェはすぐに気づいた。

 風を切る音が近づいてきた。弓矢から立ち込める異様な気配はさらに色濃くなる。まるで悪意が具現化したような、おぞましい形の弓。背後からそっと忍び寄り、小声で魔法を詠唱する。

 ――『魔禁瘴・終焉の宴(ファイナルヴァンケット)!』

 アージェの手のひらに黒煙が立ちのぼり球状に固まる。矢を構えた者に向けてすっと放つと、漆黒の球体はその横をすり抜けてゆく。すれ違う瞬間、発動された弓矢の魔力を絡めとるように奪い去った。

「えっ、あっ……何だッ!?」

 不敵な侵入者は魔法の弓矢が消滅するという、予想外の事態に慌てふためく。あたりを見回し、振り向くとアージェと目が合う。ひっ、と小さく怯えた声を出した。アージェは怒りをあらわにし、手のひらを相手に向けて威嚇する。

 侵入者は胸元からギムレットを取り出そうとするが、手が震えて取り損じる。その刹那にアージェの両手には魔法が準備されていた。万物を吸い込んでしまいそうな、どこまでも深い黒を湛えた魔力の塊。

 魔法はギムレットを消費させることで発動が可能だが、ギムレットを用いなくても魔法が発動できる特異体質――生粋(ギフテッド)の魔法使い――は稀ながら存在する。アージェもそのひとりだった。

 アージェが発動できる魔法は――『魔禁瘴』。あらゆる魔法を打ち消す、負の作用を持つ魔法である。

「次はおまえ自身が消されるか、それともギムレットを置いて立ち去るか。どちらか好きなほうを選べ!」
「ひっ……ひゃいっ! 後者でお願いします!」

 恐怖に顔を歪めた侵入者はギムレットをぼろぼろと地面に落とし、這いつくばりながらアージェの横を通り過ぎて行った。

 アージェはギムレットを拾い集めながらつぶやく。

「……馬鹿だよな。この魔法に人間を消す能力なんてないのに」

 魔禁瘴はきわめて稀有な魔法ゆえ認知度は低く、アージェ自身も魔導古文書でしか目にしたことがない。少なくとも現在のアストラルの世界において、自分以外でこの魔法を使える者をアージェは知らない。

 けっして戦いで役に立つことのない魔法だが、アージェはこの能力を生まれ持ったことに感謝している。この能力のおかげでメメルは明日を生きることができるのだから。

「さて、戻るとするか」

 アージェはギムレットをポーチにしまうと立ち上がり、早足で試合会場の応援席へと戻っていった。