夜はとっぷりと深まり、もうすぐ日が変わる時分となった。魔法学院はようやっと落ち着きを取り戻した。

 リリコは部屋にアージェを招き入れる。こぢんまりとしているが、魔法のイルミネーションが幻想的で、飾られたさまざまなアンティークがお洒落な部屋だ。もとは王室にあった値打ち物なのだろうと察する。リリコはベッドに腰をかけて申しわけなさそうにつぶやく。

「……私のせいでみんなに迷惑をかけてしまった。それに、ここにいることを知られてしまった以上、帝都に戻るほかないな」

 たおやかな仕草は少女の姿だった時とは別人のようだ。

「行方不明って報道されていたけど、みずから帝都を抜け出したのか」
「うん。複雑な事情があったんだ」
「話してもらえないか」

 恨めしそうに上目遣いでアージェを見やる。

「伝えたからって、きみに何ができるの? それにもう、きみは私の補佐役ではないのよ。学院のことをよろしく頼むわね」
「もしかして俺が管理人を引き継ぐことになるのか? そうだとしたらなおさら理由を聞かなくちゃ納得できないよ」
「あら強気ね。きみは私が王女だと知ってしまった以上、今までみたいに軽率な口は叩けなくなるんじゃないかしら?」

 つんとすました顔で突き放すように言った。

 思えばリリコの態度はアージェだけでなく、教員たちに対しても横柄なように見えた。けれどリリコが王女だと教員たちが承知しているのならば納得できる。すくなくともドンペルはリリコの正体を知っていたはずだ。『間違ってもリリコ殿と恋仲(・・)になることのないよう』と忠告したのだから。

 アージェは指で頬をちょいちょいと搔きながら困った様子で答える。

「たしかに驚いたには驚いたんだけど……俺、田舎者だから、王女様ってどれくらい偉いかよくわからないんだよなぁ。中身がリリコだと思うと普通の女の子なんだって気がするし」
「はぁ? きみはこの私の姿を見て平身低頭になったりしないのか?」
「平身低頭? リリコに?」
「アナスタシアよ。リリコは偽名なの」
「いや、俺的にはリリコはリリコなんだけど。あの生意気でいたずら好きで、先生としても頼りになる、さ」

 リリコは目を丸くし、それから顔を伏せた。しばらく思考を巡らせてから返事をする。透き通る瞳は潤んでいた。

「……正直、告白するよ。私はきみと言い合いをしている時、ほんとにすごく楽しかった」
「そうだったのか? ぷんすか怒っているようにしか見えなかったけど」
「私は王女という立場で生きてきた以上、同じ目線で話せる友など皆無だった。だからきみを引き受けてからというもの、騒々しい毎日にわくわくしていたよ。はじめて友人ができた気がしたんだ」

 聞いたアージェは呆れたように鼻から息をもらした。

「友達でいいだろ? 言いたいことを言える間柄なんだからさ」

 驚いた顔をし、それから目を細めてふふっと笑うリリコ。

「たしかにきみは遠慮なかったものな。だからきみはアストラルの中で唯一無二の存在だ。もちろん悪い意味でだよ」
「わかったわかった、少しは自重しろってことだよな」 

 けれどリリコは首を横に振った。今までの関係を壊さないでほしいという願いが込められているんだなとアージェは感じ取った。

 リリコはすっくと立ち上がって身を翻す。完璧ともいえる比率の体幹がしなやかな弧を描く。少しばかり怒った顔でアージェを見つめて言う。

「ところできみの言動でひとつだけたしかめたいことがある。――私は『へちゃむくれの断崖絶壁』だったか?」
「あ――」

 アージェは少女姿のリリコにそう言い放ったことを思い出し、気まずさから目をそらす。何と言おうかと逡巡したけれど、結局、素直に謝るのが最善だと腹をくくった。

「言い過ぎてごめん。綺麗なレディーでちゃんと凸凹凸(ぽっきゅんぽん)がありました……」
「よろしい。許してしんぜよう」
「ははぁー、ありがたき幸せでございまするぅ~」

 仰々しく頭を下げて平身低頭の姿を見せたが、ちらりと顔を上げるともろに目が合った。ふたりはぷっと吹き出した。

「きみはやっぱり困った教え子だなぁ」
「結局、ひとつも魔法を覚えられなかったしな」
「きっときみには無理なんだよ。だから――かわりに教えるよ」
「え? 何を?」
「私がここに逃げてきた理由。これは王都の秘密に関することだ。だけどきみは信頼できる。だから一蓮托生だと思って伝えたい」

 桃色の唇の前に人差し指を立ててみせる。

「大事なことって、ほんとうにいいのか」
「うん。もしかしたらきみは聞いたほうがいい話なのかもしれないから」

 そう前置きをしてから、リリコは王都を逃げ出した理由について語り始めた。