つい先刻まで賑やかだった中央ホールは静寂に包まれていた。かすかな魔法の残滓が入学式の盛り上がりを思い起こさせる。

 一卓だけ残されたテーブルの上には大きな籠が置かれ、ギムレットがたんまりと盛られている。隣には数冊の魔法書が用意されていた。

 三人はテーブルの前に並んで立つ。ドンペルが一冊の魔法書を手に取り開いてアージェに差し出す。

「さて、まずは儂が見本を示そうぞ。この魔導書基礎編に記されている標準魔法(コモンセンス)の中でも基本となる照光(イルミネーション)だ」

 籠のギムレットをひとつつまみ上げて握りしめ、魔法を詠唱する。ぱちん、とギムレットが音を立て魔法が発動した。ドンペルを中心とした床に波紋のような光の輪ができ、あたりが明るくなる。けれど床にドンペルの影は映っていない。

「これが魔法の光……不思議な光り方ですね」
「空間全体が光を発しているからそう見えるのだ」

 ドンペルは魔法を解き、炭化したギムレットの残骸を手から払い落とす。

「ではやってみるがよい。ところでアージェ殿は魔法文字、読めるじゃろうな」
「大丈夫です、義務教育は受けていますから。では挑戦させていただきます――」

 その数時間後。

「――はぁ、はぁ、はぁ。何で……何で発動しないんだッ!!」

 アージェはもはや精根つき果てる直前だった。詠唱は正確に行っているはずなのに、魔法が発動する気配はまるでない。それどころか、さきほどまでまばゆい光を放っていたギムレットの山は、すべてが黒に塗りつぶされていた。

ドンペルもリリコも、唖然として籠の中のギムレットを見つめるばかりだ。

「ぜんぶ使い切っちゃった……」
「むぅ、発動条件は満たされているはずなのだが。しかしギムレットが消費されているということは――」

 リリコとドンペルは顔を見合わせた。

「「ギムレットの魔力が吸収されているに違いないッ!」」
「はぁ!?」
「おぬしが何らかの魔法を発動させようとすると、その奇異な能力が先行して発動し、ギムレットの魔力を呑み込んでしまうんじゃ」
「つまりきみは誰でも使える標準魔法(コモンセンス)すら使えない特異体質ってことよ!」
「なんでっ!」
「その能力をコントロールできない限り、魔法の練習は資源(ギムレット)の無駄にしかならないわい。今日の修練は中止じゃ」

 どっと疲労が押し寄せてアージェは床に倒れ込んだ。リリコは呆れ顔でひれ伏すアージェの前にしゃがみ込む。

「まったく、魔法の才能があるんだかないんだか」
「だって勝手に消えちゃうんだからしょうがないじゃないか……」

 アージェは己の能力をはじめて恨めしいと思った。メメルが宝石の中で眠るようになってから、この能力はろくに役に立っていない。

「ところでアージェ殿よ。私的なことで申しわけないが、ひとつ尋ねたいことがある」
「……はい?」
「魔法の特性は遺伝するというが、おぬしは自身の親について知っていることはあるのか」

 この理解不能な能力の根源を探ることはドンペルに課せられた使命である。だから会話の流れに乗じてそれとなく尋ねた。

「遺伝、ですか。うーん……」

 アージェは思考を巡らせる。けれど記憶の中から手がかりを見つけることはできなかった。

「マザーの話では、俺は赤子の頃にポンヌ孤児院の前に置き去りにされていたらしいんです。『アージェをよろしくお願いします』というひとことが書かれた紙切れしか残されていませんでした。だから親の手がかりはありません」
「むぅ、おぬし自身も知らぬのか。これは困った……」
「困ったって……能力の由来がわからないと不都合なことがあるんですか?」
「いや、その……由来がわかれば解決法がわかるかもしれないと思ってのう」

 これではガーベラ学院長の処罰を受けたことにはならない。ドンペルのひたいに汗が浮かぶ。リリコは察してすかさず話題を切り替える。

「こうなったら魔法の知識だけでも補充しておきましょう。ここは生きる魔法辞典と言われた私の担当ね」
「誰が生きる魔法辞典だって? 初耳なんだけど」
「自称には個々の浪漫が詰め込まれているものよ! ほら寝てないで行くわよ!」

 リリコがアージェの髪をわしづかみにする。

「いてて……やっぱりリリコって扱いが容赦ないな。どんな育ちをしたのか知らないけど、これは厳しい戦いになりそうだ」

 アージェは渋い顔をして起き上がり、引きずられるようにリリコの後についていった。