アージェの部屋の扉が勢いよく開き、リリコが飛び込んでくる。

「アージェ君、ひとつ提案があるんだけど! ――って、ひゃあ!」

 そこでリリコが目にしたのは、綺麗な顔を崩して涙するセリアと、そんなセリアを抱きとめて慰めるアージェの姿だった。リリコは顔を赤らめ、手のひらで目を覆って尋ねる。

「ノック忘れてごめんなさい! 見ていないから、その抱擁、あと何分くらいで終わらせられるか教えて!」
「……あのなぁリリコ、この様子を見て、あと何分とか断言できると思うか?」

 アージェは呆れ顔でリリコの問いを突っぱねる。

「アハハ、そうよね、大変失礼しましたぁ~」

 セリアはアージェから離れ、涙を拭いて顔を上げる。

「……いつまでもごめん。わたし、迷惑を重ねちゃうばかりだね」
「そんなこと気にするなよ。何度も言うけど、俺はセリアのせいだなんて思っていないから」

 アージェは視線をリリコに移して正視する。リリコは指の間からふたりの様子をうかがっていた。

「――それでリリコ、慌ててどうしたんだよ」
「じつはアージェ君に聞きたいことがあって!」
「聞きたいこと?」
「アージェ君ってさ、このあと負け犬状態でおずおずとポンヌ島に逃げ帰る予定?」

 えぐいひとことにアージェの顔色がずんと沈み込む。

「なんだよ、その傷に塩を塗り込むような尋ね方は」
「いいから答えなさいよ。一宿一飯の恩を忘れたの?」
「一宿一飯ってたしかにそうだけど、リリコから言うことか?」

 なんかズレてるんだよなぁリリコって、とアージェはひそかにため息をつく。

「まぁ、このまま戻れるわけもないからさ、どこかで日銭を稼ぎながら旅をしようと思っている」

 聞いたリリコの顔がぱっと明るくなる。

「それじゃあ、ひとついい話があるんだけれど!」

 その表情を見たアージェは即座に警戒心を発動させた。

「ちょっと待て、この流れは俺を召し使いにしようっていう魂胆だろ」
「さすが察しがいいね! 三度のご飯と住み込みの宿付きで、給与だって多少は出るよ。月に150ホープルくらいだけど、庶民にしては悪くないでしょ?」
「それでリリコの下僕か……いや、それいろんな意味できつそうだから、ほか当たるわ」

 アージェはまとめた荷物を背負い、部屋を出る準備を整える。

「まぁ、世話になったな。それじゃセリアのことを頼むよ」
「ちょ、ちょっとは私の提案、考えてみなさいよ!」

 その時、部屋の扉が開いてひとりの男が姿を見せる。

「待ちたまえアージェ・ブランクよ」

ドンペルだ。アージェは意外な来客に驚き舌がもつれる。

「シュッ、シュバ、シュバツゥ……ガフッ!」

 アージェは思いきり舌を噛んでしまった。口の端から一筋の血を滴らせ悶絶する。

「無理もない、儂のファミリーネームは難易度高めだからな。――ドンペルで構わんよ、皆そう呼んでおる」
「そうさせてもらいます……イテテ」

 ドンペルはアージェが血を拭うのを見届けて続ける。

「リリコ殿の提示した条件に加え、儂からもひとつ提案をさせてもらいたいと思ってな」
「提案……ですか?」
「うむ。正直、儂はおぬしに礼を言わねばならん立場じゃ。だから特段の配慮をさせてもらいたい」
「特段の配慮って、どういう意味でしょうか?」

 ドンペルはひとつ咳払いをしてから、あらたまった態度で続ける。

「儂とリリコ殿がおぬしの専任の教員となり、魔法に関する技術と知識を教え込む。無論、魔法の原動力となるギムレットも準備しよう。それで十分な鍛錬を積み、来年の受験に挑むというのはどうかね」

 ――ドンペル先生が俺の専属教師に!? 

 ドンペルはかつて大陸で魔族と戦っていた精鋭部隊(クーケンス)のひとりだ。魔法使いとしての実績は申し分ない。一方でリリコの魔法の能力はさっぱり不明だが、管理人なのだから書物の調達は頼れるに違いない。

 思い返すと、魔法の勉強はセリアに頼りきりだったし、ギムレットによって発動できる標準魔法(コモンセンス)を習得する機会はなかった。ギムレットの入手には少なからず金が要るからだ。

 日銭を稼ぎながら自力で魔法の勉強に勤しんでも不利なのは目に見えている。それなら一年間、集中的に勉強し鍛錬したほうが――。

 逡巡は一瞬だった。その場で決心を固めて答える。

「それほどの好条件の提案ですから、喜んでお受けしたいと思います!」

 アージェはドンペルに頭を下げる。リリコもアージェを見上げて嬉しそうな顔をした。アージェはリリコの顔をちらと見やり、言葉を付け足す。

「たとえ屈辱と辛苦に満ちた日々でも、俺は耐え忍んで見せます!」

 リリコは瞬時に笑みを消した。

「私はサディストじゃないし! むしろきみみたいな危険人物(・・・・)を引き受けるこの私の寛大さに感謝しなさい!」

 アージェもひるむことなく言い返す。

「俺のどこが危険人物なんだよ! セリア、こいつ(・・・)になんとか言ってくれよ」
「あーっ! 私のことをこいつ(・・・)呼ばわりしたなっ! 信じられない、何様のつもりっ!?」
「アージェもリリコさんも、ちょっと落ち着いてよ!」

 エスカレートする雰囲気を諌めようとセリアが間に割って入る。

「わたしはどんな形であれ、アージェが一緒にいてくれるのは嬉しいです。だからドンペル先生、リリコさん、アージェのことをどうぞよろしくお願いします!」

 セリアはみずからおじぎをしつつ、アージェの頭をふたりに向かってぐいと押し下げる。アージェが従順に腰を折るとリリコが茶々を入れた。

「あっ、悪い口が急におとなしくなった。セリアちゃんには逆らえないのね~」

 アージェはすぐさま身を起こし、からかうリリコを睨みつける。

「うるさいな! だいたい、年輩の教師にさえ偉そうな顔をするリリコのことだから、どうせ俺をゴミ同然に扱うつもりなんだろ?」
「へー、そこまで言うなら、お望み通りゴミクズ扱いして差し上げましょうか?」
「遠慮はしないってことか。じゃあこっちだって遠慮なく言わせてもらうぜ、このへちゃむくれの断崖絶壁がッ!」
「あーっ、意味不明だけどなんだか屈辱的な響き! アージェ君の口の悪さ、一生忘れないからね!」
「絶対忘れるなよ。意味を知った時、さらなる屈辱に襲われるだろうからな!」
「まあまあ、おふたりともお若いですなぁ」

 今度はドンペルが言い合うふたりをなだめる。

「ちなみにアージェ殿、この学院で仕事をする際に、条件と言うべきか――絶対に守っていただきたい制約(・・)がございます」
「制約……ですか? いったい何ですか」

 やけに言いにくそうに口をモゴモゴさせているので、アージェは妙に不安になった。しばらくしてから、ようやっと言葉が音になって発せられた。

「つまり、その……間違ってもリリコ殿と恋仲(・・)になることのないよう、ご自身を律していただきたいのです」
「こ、こいな……」

 アージェは沈黙した。まさか自分はそういう意味で危険人物(・・・・)と思われていたのか、と。秒で反論する。

「あの、俺、ロリコンじゃありませんから」

 そう返すとリリコは両腕を組んでむっとした顔をし、アージェからぷいと顔をそらした。

「私を子供扱いするなら、あなたはゴミ扱い確定ね!」
「いや、だってどこから見たって子供じゃんか!」
「黙りなさい! 今日の最大の収穫は、あなたが人を外見で判断するゴミだってわかったことだわ!」

 明後日のほうに飛んでいくふたりの会話。それを聞くセリアは、いつのまにか笑みを取り戻していた。心の支えを失わずに済んだセリアには、もう涙など不要となったのだ。

 そうしてアージェはリリコの『補佐役』として下働きを請け負うこととなり、魔法学院の生活が幕を開けた。