ぽつ、ぽつ、ぽつ。雨が降り始めた。

 メメルは花壇の中にしゃがみ込み、指先で土に穴を開けて種を植え込んでいく。

 次第に雨は勢いを増してゆく。アージェは雨の中で立ち尽くしメメルを見守っている。メメルは手を止めることなく、ただ黙々と作業を続けていた。
 
 雨を避けて木陰から見守っていたセリアだったが、いよいよメメルがいたたまれなくなり庭に飛び出した。アージェの肩を掴んで揺さぶり訴える。

「ねえアージェ、なんでメメルちゃんにあんなひどいことするのよ!」

 怒りをあらわにするセリアにアージェはひとことだけ返す。

「黙って見ていろよ」
「だからなんでよ!」
「いいからッ!」

 有無を言わさないアージェの態度にセリアは閉口する。視線を移すと、花壇の中にしゃがみ込んだメメルの背中は、普段よりもずっと、ずっと小さく見えた。

 雨はついに土砂降りとなった。すると突然、メメルは泥の中に膝をついて天を仰いだ。まるで糸が切れた操り人形のように。

 メメルは泣いていた。

 鬱積した負の感情を全身から振り絞り出すように慟哭する。家族を失ったやるせなさ。戦争への怨み。そして無力な自分自身への怒り。

 やり場のない感情を叫びに変えて発しても、その(こえ)は雨が呑み込んでゆく。

 激しい雨に打たれて垂れる金色の髪が稲妻に瞬く。空が轟き、それはまるで龍の咆哮のようにも思えた。

 その姿を目の当たりにしたセリアは、アージェがメメルを雨の中へと追いやった意図にようやく気づく。同時に心臓がえぐり取られるような痛みを感じ、唇を噛みしめて悔し涙をこぼした。

「わたし、なんで気づいてあげられなかったんだろう……」

 メメルは孤児院に迷惑をかけたくない、誰にも気を遣わせたくない、そう思いけっして涙は見せなかった。天国から見守っている両親に対しても、幸せな姿だけを見せたいと思っていた。そうに違いなかった。

 だから孤児院に引き取られて以来、涙を流すことは許されなかった。誰でもなく、メメル自身が涙を許していなかった。笑顔でいなければならないのだと、ひたすら耐え続けていた。

「……アージェは気づいていたんだね」
「ああ、なんとなくだけどな」

 激しい雨はすべてを包み隠してくれる。胸の奥の怒りや悔しさをいくら吐き出しても、その鱗片すら残さず洗い流してくれる。心が壊れる前に、雨が救いの機会を与えてくれた。

「メメルってさ、昔のセリアと同じなんだろ? 俺はセリアを見てきたから、それがどれだけ辛いことか知っているつもりだよ」

 思えばセリアもまた、アージェの優しさに救われたひとりだ。悲しみの沼の中から這い上がることができたのは、彼が手を差し伸べてくれたからにほかならない。その救いの記憶は、あやうく時の流れに攫われるところだった。

「ごめん……たとえ一瞬でも、アージェを意地悪なひとだと思ったこと、許してくれるかな……」

 アージェは何も言わず、ただ柔和な微笑みで答えた。

 ほんとうに優しいひとは、心に沈む疼痛の(おり)に気づいて掬い取ることができるのだと、セリアはあらためて思う。かつての自分がそうして救われたように。

 しだいに雨は上がり、雲の間から光が差してくる。遠くの海面が輝き出し、流れるように近づいてきた。

 雨が上がった時には、いくつもの虹が海の上に浮かんでいた。ポンヌ島の崖から見える虹の橋は、乗って歩けるくらい明瞭に見えた。

 もう、メメルは泣いてなんかいなかった。ずぶ濡れの笑顔で空を見上げている。

 それから勢いよく振り向き、両手を広げて滑るようにふたりの元に駆け寄ってくる。本物の笑顔でセリアを見上げ、期待のまなざしで頼み込む。

「雨、あがったよ。これからグライダーの練習に連れて行ってくれる?」
「うん、そうしようか。今日はもっと高いところを目指そうよ」

 楽しそうに飛び跳ねるメメルの姿を見届け、アージェはうーんと両手を空に伸ばす。

 未来からの風が、メメルの紅く染まった頬に強く吹きつけていた。