「気分は悪くないですか?」
 治癒行為を終えたとき、乃彩は必ずそう声をかける。
 乃彩の霊力を相手に流し込むため、その霊力に負け拒否反応が出るときもあるからだ。それは薬の副作用に似ている。
「はい。気分は悪くありません。抱いてみますか?」
 回復行為の間も、貴宏は片手で器用に娘を抱いていた。首も据わってきてしっかりしてきたところだと、聡美も言っていた。
 乃彩は恐る恐る赤ん坊に向かって手を伸ばした。
「あまり、赤ちゃんを抱っこしたことがないので怖いです」
 乃彩が本音を包み隠さず口にすると「大丈夫ですよ」と貴宏が穏やかに答える。
 きゃきゃと声をあげる赤ん坊が、貴宏から乃彩の腕の中へとうつる。赤ん坊はずっしりとしているのにやわらかくて、ぬくぬくとあたたかい。
「あ、ばぁ~」
「もう少し脇をしめて、ご自分の身体に寄せてください。そのほうが安定しますから」
 貴宏に言われたように赤ん坊を抱き寄せる。
「可愛いですね」
 自然と言葉が漏れ出た。
 そこで聡美に名を呼ばれた乃彩は、赤ん坊を貴宏に返そうとしたが、聡美のもとに娘を連れていって欲しいと言われたため、そのまま立ち上がる。
 すると赤ん坊は「ふぇ」と変な声を出して顔をゆがめる。
「すぐにお母様のところに連れていきますね」
 今すぐにも泣き出しそうな赤ん坊は、聡美に抱っこされると、ぐずぐず言いながら眠ってしまった。
「眠かったみたい。さあ、乃彩さんもどうぞ。お腹、空いていませんか? ここのクッキー、最近のお気に入りなの」
 乃彩のおかげで、貴宏は歩けるほどまで回復しており、医療術師の治療も受け始めている。最近では、親子三人で散歩をし、お気に入りの洋菓子店で菓子を買い、こうやって乃彩に振る舞ってくれるのだ。
 このクッキーは、昨日もお茶菓子として並べてあった。きっと散歩中の三人を見た人は、仲の良い夫婦だと思うだろう。だが貴宏と聡美は赤の他人。
「乃彩さん、本当にありがとうございます。こんな日が戻ってくるなんて思ってもいませんでした」
「いえ、わたくしは自分のできることしかやっておりませんから」
「乃彩さんは、本当に謙虚な方ですね」
 くすりと笑う聡美のその顔は、慈愛に満ちている。
 現在の清和家の家族構成は複雑だ。いや、彼らの愛に乃彩が土足で踏み込み、荒らしたようなもの。
 だというのに、貴宏も聡美もやさしく乃彩に接してくれる。
 春那の家族といるよりも、ここのほうが心穏やかに過ごせる。
「もう少しでわたくしの出番は終わりです。あとは、医療術師の方と相談して、治療方針を決めてください」
「寂しくなりますね」
 聡美の口からそのような言葉が出てきたのが意外だった。
「え?」
「こうやって乃彩さんとおしゃべりをするのが、実は楽しみでもあったのです」
「ありがとうございます。わたくしもここに来て、こうやって聡美さんとお茶を飲む時間は好きです」
 それは乃彩の偽りのない本心だ。
「乃彩さん。このようなことを言うのは図々しいかもしれませんが、よかったらこれからも遊びに来てください」
 目頭が熱くなり、喉の奥がツンと痛む。それを誤魔化すかのようにしてクッキーを頬張った。

 それから五日後、貴宏の霊力は八割ほどまで回復し、あとは自己回復力でなんとかなると判断された。
 これで、乃彩の役目は終わった。
 そして目の前には、貴宏との離婚届がある。すでに貴宏の名前は記入されており、あとは乃彩が書けばいいだけ。
 書類の記載を終えペンを置いた乃彩は、少しだけぼんやりとしていた。
 これで、一か月とちょっとの結婚生活は終わった。