「ほら見て川島くん。やっぱり来た。木曜日さん」
一緒にカウンター当番に入っている田村さんが俺に囁く。
彼女に促され目をやるとそこには、一人の女性が佇んでいた。どうやら館内に掲示してあるポスターを眺めているようだ。
俺が勤務している町立緑が丘図書館に木曜日だけ来館することから、職員から木曜日さんと呼ばれている彼女の本名は、瀬奈木綿子。
色白で、ぱっちりとした目が印象的な美人だ。肩下まである髪をなびかせ歩いているのを見るたび、彼女の周りだけ爽やかな風が吹き抜けているのではないかという感覚に襲われるほどだ。
そんな彼女を上から下まで眺め回していた田村さんが口を開く。
「相変わらず清楚ねぇ。今日の服は可愛らしいワンピース。文学少女みたい」
田村さんこと田村あけみは、司書になって30年の大ベテラン、調べ物に関して彼女の右に出る者はまずいない。まさに緑が丘図書館に田村ありだ。
職員からも(お母さん)と呼ばれ、その信頼は絶大なのだが、有り余る探究心から利用者のプライベートも気になるらしい。
「今日も本の延長をしていくのかしら?いつも短い書籍しか借りないのに。私なら、30分あれば読み切れるけど。しかも気づいてる?彼女毎回1冊しか本を借りていかないの。不思議よね〜」
「田村さん、シーッ。彼女こちらに向かってきてますって」
「やだ、どうしよう。声大きすぎた?今日はほとんど人もいないし聞こえちゃったかしら?」
聞こえてはいないと思うが、俺は気持ちを切り替え、笑顔で業務にあたる。
「こんにちは。返却でよろしいですか?」
そう言うと木曜日さんこと、瀬奈木綿子は申し訳そうな様子で目を伏せた。
「ごめんなさい。実はまだ読み切れていなくて。延長お願いできますか?」
そう言って差し出された本には布製のブックカバーがかけられていた。
「可愛いですね」
気がつくとそう口にしていた。
「えっ!?」
そう言うと彼女はなぜか困ったような表情を浮かべ俺から目を逸らした。
これは、もしかして…
「素敵なブックカバーですね」
改めてそう告げると、状況を理解した彼女がほっとした様子でこう答えた。
「皆さんの物だから大事にしないと。それにこれ意外と簡単にできるんですよ。必要な材料は布と両面テープとボンドだけなので」
「縫わなくていいんですか?」
驚いている俺を後目にいたずらっぽく彼女が笑う。
「私工作は得意ですけど、お裁縫は苦手なんです」
「それで延長は可能でしょうか?この本」
話に夢中になり、すっかり忘れていた。
慌てて 確認してみると、現在のところ予約者はなし。延長決定だ。
「大丈夫ですよ。2週間後にお返しください」
そう言うと俺は、返却期限の書かれている紙の裏に
急いで、「木綿子も可愛いよ」と書いて彼女に渡す。
走り書きのようになってしまったが、彼女の頬が真っ赤になったところを見ると、どうやら解読できたようだ。
「まっ、また来ます。たぶん来週も。本日はどうもありがとうございました!」
深々と頭を下げる。どうやら、刺激が強すぎたらしい。
実は木綿子と俺、川島匠は付き合っている。もうすぐ3ヶ月目に入るところだ。
きっかけは、彼女の探していた本を俺が書庫から出してきたこと。そこから話が弾み連絡先を交換した。
本来なら、勤務時間中は、仕事に集中しないといけないのだろうが、本を手にした彼女のふんわりとした笑顔にやられてしまったのだ。
それから彼女は毎週木曜日に図書館に現れるようになった。木綿子曰く、来館者の少ない曜日を狙っているらしい。それが、カウンターにいる俺と会話を交わすためなら嬉しいのだが。真相はまだ聞けずにいる。
好きな人の事を全部知りたいというタイプではないが、木綿子について気になる事は山ほどある。
俺のどこを好きになってくれたのか?それからなぜ1冊しか本を借りていかないのかも。緑が丘図書館は一人最大10冊まで貸し出し可能なのに。
考え込んでいると、またもや田村さんに声を掛けられる。
「川島くん、今日、おはなし会の当番よ。準備できてる?15時からだからね」
すっかり忘れていた。
「田村さん、申し訳ないんですけどカウンターお願いできますか?俺ちょっと本探してきます」
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「今日はありがとうございました。会えて嬉しかったです」
その夜、木綿子からきた電話にに思わず笑みがこぼれる。あの後、おはなし会で、子どもに、おじさんと呼ばれた事や、急な残業で 帰宅時間が普段より3時間も遅くなったことなど、全てがどうでもよくなる。
「今日結構ハードだったんだよね。実はさっき帰ってきたとこ」
「大変だったんですね。お疲れさまでした」
「もう、復活したから大丈夫」
「そんな急に…」
「ほら、好きな人の声聞くと元気になるっていうかさ」
「私の声、癒し効果でもあるのかな?」
満更でも無い様子だ。
「そうだ。今日の本読み終えた?実はその後ぜひ木綿子に読んでもらいたい本があるんだ。司書のおすすめ」
木綿子が一瞬黙り込んだ。配になった俺は慌てて彼女の名前を呼ぶ。
「木綿子?俺なにか気に障るようなこと…」
「ないです。ないです。大丈夫。ただ川島さんのおすすめ本てどんなのだろうと考えていたら、返事が遅れてしまって」
「匠でいいよ」
「えっ!?」
「俺たち付き合ってるわけだし、川島さんとか他人行儀じゃなくて、匠とかたくちゃんて呼んでほしいかな。その方が距離が近くなるような感じしない?」
「じゃあ、たく、たくちゃん」
「カミカミだな」
「まだ慣れてないので。練習します」
「それから…」
「なに?」
「毎週押しかけてたら迷惑ですよね?」
「その度に返却期限、延長してもらって。手間じゃないかなって」
「そんな事ないから、気にしなくて大丈夫。なんなら毎日来てくれてもいいし。じゃあ次の木曜日に向けて面白い本たっくさん用意しておくな」
「分かりました。よろしくお願いします」
しかし、この電話を最後に木綿子は音信不通になった。電話はおろかラインに既読もつかない。
避けられているのかもしれない。そう思ったが理由が分からない。
部屋を訪ねて行ったりもしたが、彼女が出てくることはなかった。
一方通行のメッセージだけが増えていく。
「このラインを読んだら連絡ください」
「無事か?木綿子!連絡待つ!」
しかしいくら待っても彼女から返信が来ることはなかった。
「今日も来ないわね。木曜日さん」
本に抗菌カバーを貼りながら田村さんが呟く。
「確か、先週も来なかったわよね。体調でも崩したのかしら?毎週来てた人が突然来なくなると心配になるじゃない?何かあったのかなって」
「川島くんもどんどん元気がなくなっていくみたいだし」
「そんな事ありませんよ。俺、元気しかないですから」
そう言うと、田村さんは真っ直ぐな視線を俺に投げてきた。
「見てられないのよね。シュンとしちゃって。川島くんあなた木曜日さんの事好きなんでしょ。もしかして…もう付き合っちゃってたりする?」
動揺している俺を後目に、田村さんはキッパリと言い切った。
「やっぱり。そんな気がしたの。私の勘よく当たるんだから」
「この仕事を何年もやっているとね、人の心の内が分かるようになるの。今、恋しているのかな?とか、文学作品に目覚めたのかな?とか」
「全部本が教えてくれる」
「そういうものですか?」
「突然ガラッと傾向が変わるから。みんな意外と素直なのよ」
田村さんがメガネの縁に手をかけながら、いたずらっぽく微笑む。
「川嶋くんは毎日会ってるから、ある意味面白くないけど」
面白くない…ここぞとばかりに、言ってくれるじゃないか。
「ただ、木曜日さんの心だけは読めなかった。借りていく本の系統もバラバラ。しかも1冊のみ」
「これの意味するところ分かる?」
「いいえ。まったく」
「だったらなおさら確認しなきゃ。そうだ。彼女の家まで行って確かめてきて。本の行方と彼女の思い」
「ちょっと待ってください田村さん。司書ってそんな事までするんですか?それじゃまるで…」
慌てふためく俺の様子など意に介さず田村さんテキパキと指示を出していく。
「そよ風号は今、館長が乗って行ってるから。川島くんて確か、自転車通勤よね。じゃあ自分の自転車使って」
ちなみに、そよ風号とは、公用自転車の名前だ。
「館長はどこに行ったんですか?」
「なんか役場で会議だって。まだしばらく戻らないから」
「いい?川島くん、彼女が家から出てきたら本を受け取る。延長が必要な場合は来館を促す。それから万が一留守の場合は、これ」
そう言って田村さんが渡してきた紙には、【図書館資料返却についてのお願い】という文字が綴られていた。
自転車置き場に向かおうとする俺に、田村さんの声が追いかけてきた。
「川島くんエプロン外さないと。エプロン!」
半ば追い出されるような形で俺は彼女の家に向かう。いつもなら、空も飛べそうな勢いのペダルが今日はやけに重く感じる。普段なら、5分とかからない道のりをたっぷり倍以上の時間をかけ、俺は木綿子の住んでいるマンションに着いた。
恐る恐るインターフォンを鳴らすと、木綿子がドアを開けた。
「木綿子…具合悪いのか?」
思わず声が漏れる、こまともに食事をしていないのか頬が痩け、心なしか目も落窪んでいるようだ。
そして服装も白シャツに黄色のカラージーンズというラフなものだった。普段の可愛らしい彼女とのギャップに俺は次の言葉を発せないでいた。
「これ、受け取りにきたんですよね。長い間お借りしてしまい申し訳ありませんでした。もうお手を煩わせることもないと思いますので」
そう言うと俺に本を手渡しドアを閉めようとする。
「待ってくれ木綿子」
「もう用事終わりましたよね。お帰りください」
ここで追い出された二度と彼女に会えない。何となくそんな気がして俺も必死に食い下がる。
「まだ終わってないんだ。俺と木綿子個人の問題がさ」
木綿子の力が一瞬緩む。その隙に俺はドアノブの前に立ちはだかる。どうやら、締め出しは免れたようだ。
「俺、この前の電話で気に障るようなこと言ったかな。あれから木綿子俺からの連絡避けてるみたいだし」
「俺が悪かったなら謝る。だから前みたいに」
「無理。無理だから」
驚くほどの速さで答えが返ってきた。これほど嫌われていたとは…ショックを通り越して笑えてくる。
「理由、教えてくれないかな?お兄さんに」
職場で小さい子に接するように、彼女と視線を合わせ、落ち着いた声で静かに尋ねる。
「おにいさん…」
「俺まだ27だし。ま、たまにおじさん!とか呼ばれたりもするけど」
「おじさんて…何歳からなんだろうね?」
「それは、気の持ちようだろ。絶対」
彼女が少しだけ微笑んだ気がした。しかしその瞳は憂いを称えていて、何か言いたそうにしている唇も小刻みに震えている。
俺は待った。彼女の言葉を。実際には数秒間の出来事だったかもしれないが、その時の俺には、一日にも匹敵する長さだった。
「私。川島さんの事好きよ。思いつきで行った図書館にこんなに素敵な人がいるなんて。そう思った。誰にでも親切で本のことも詳しいし」
「嫌われたくなかった。だって嫌いになられたらあなたの笑顔も見られなくなるし、本の話聞けなくなる。だから精一杯無理して…」
「ホントバカみたい私。身の丈に合わないってこういう事を言うのよね」
「もう、会わないと思うから、ハッキリ言うね。私本当はラフな格好も好きだし、それから…本はあまり読めない」
本が読めない。どういうことだ。訳が分からず突っ立っている俺に対し、木綿子が尋ねる。
「川島さんていうか司書さん、識字障害って知ってます?」
識字障害、確か研修で習った気がする。人によって症状は様々。文字が歪んだり、鏡文字のように見える人もいるという。たとえ読みたい本を手に入れたとしても、その後の労力を考えると、俺なら本を読むこと自体を、諦めてしまうかもしれない。
「木綿子…」
「理解してくれた?私は軽い方だから、ゆっくり時間をかければ読むことは出来る。ただね、普通の人が本を読むスピードよりは遅いと思う。でも本は嫌いじゃない。むしろ大好き」
「でもね、大好きなのに思うように進まない辛さ。ゆっくりでないと理解できない焦り、この気持ちあなたには理解出来る?多分人よりたくさん本を読める司書さんに」
「ごめんなさい。こんな事言っても分からないよね。当事者じゃないんだもん。ただあなたが見ていたのは偽りの私。それだけは確か」
これで謎が解けた。木綿子は本を読みたくても読めない体質なんだ。それなのに俺は…後悔の念に押しつぶされそうになるが、今の俺にできることを必死に探す。
「木綿子、その本まだ途中だろ?」
「どうして分かったの?」
彼女がが目を丸くする。
「それは、まだ感想を聞いていないから」
「気がついていないかもしれないけど木綿子本を返却する時、必ず感想を伝えてくれるだろ。楽しかった。とか、ドキドキしたとか。それで分かったんだ。まだ終わりまで行き着いていないのかな。って」
「そうだ木綿子。今日これから時間ある?少し話さないか。」
「でも仕事は…川島さんまだ勤務中ですよね」
俺はその場でスマホを取り出し、電話口に出た田村さんに、本は無事に戻ってきたこと、それから、午後は休みをもらいたい旨を彼女に伝えた。
最初は驚いていた田村さんだが、館長に伝えると約束してくれた。
「大丈夫なの?」
心配そうに木綿子が聞く。
「何とかなるだろ。それより今から秘密の場所にご案内したいのですが」
「秘密の場所?」
「大丈夫。怪しいとこじゃないから」
目的地まで並んで歩く。自転車のタイヤが地面に擦れる音だけが、聞こえる。
「はい。到着」
「ここは…」
「皆さまお馴染みの野川。ちなみに恋が成就する川としても有名」
「ウソ!?初めて聞いた」
「俺が今思いついたんだけどな」
「恥ずかしい。騙されちゃった」
そんな様子が愛おしく、思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
「ごめん。ごめんて。木綿子が可愛いからつい」
「それより、ちょっとこっち来て。もう少し進んだところに階段があるんだ」
「そんな所があるなんて…ちっとも知らなかった」
木綿子が珍しそうに辺りを見回す。
「ちょうど死角だからな。人目にはつきにくいかも」
「俺、川が流れる音を聞いていると安心するんだよね。だから休みの日は、ここに来ていろいろしてる」
「ぼーっとしたり、水鳥を眺めたり、知ってる?ここたくさん鳥が集まるんだ。カモとかサギとか。たま〜にカワセミなんかも」
「カワセミ!見たことない」
「大丈夫。いつか会えるよ」
「あとは本を読んだり、昼寝したり」
「どう?気に入ってくれた?」
「とっても。でも大丈夫なの?そんな大事な場所を私に教えたりして」
「俺、好きな人と色んな事共有したいタイプなんだ。だから、この場所もいずれ紹介するつもりでいた。木綿子とだったら、2倍楽しめると思ってたから」
「ということで、始めようかな」
「始めるって何を?」
「おはなし会。ただし彼女限定」
「嘘…」
「嘘つくわけないだろ。本の読み方はひとつじゃないし、感じ方も人それぞれ」
「小さいころに絵本読んでもらったことあるだろ。
うちの親、ちょっと変わっててさ、即興で俺が主人公の物語を話して聞かせてくれたんだよ。俺あの時間大好きでさ、だって物語の中では、なんにでもなれたから」
俺は、木綿子が借りている本を取り出し読み始める緊張で声が震えているのが自分でも分かった。
木綿子は隣で俺の顔をこれでもかというくらい見つめてくる。その表情は穏やかで、物語の世界を楽しんでいるのが伝わってくる。
こんな日がずっと続きますように。
そして、誰もが気軽に本の世界の住人になれますように。
心の中でそう願わずにはいられなかった。
「それから、それからどうなるの?たくちゃん」
木綿子が目を輝かせて俺の顔を覗き込む。
「お前急ぎすぎ。大丈夫。本も俺も逃げていかないから」