緑が丘図書館は来館者もまばらで穏やかな雰囲気に包まれていた。(お庭で読書)が売りのこの施設は中庭に読書テラスを構えた町で唯一の図書館だ。午前中は、近所に住む常連さん、午後になれば学校が終わった子どもたちでそれなりの賑わいを見せるのだが、どういうわけか今日はシーンと静まり返っている。隣でカウンター当番をしている田村さんの表情も心なしかのんびりしているように見える。しかし、とある人物が来館したと同時に、

「ほら見て川島くん。やっぱり来た。木曜日さん」

田村さんが俺に囁いた。どうやらずっと待っていたようだ。促されて目をやるとそこには、一人の女性が佇んでいた。館内に掲示してある図書館ボランティア募集中のポスターを食い入るように見つめている。

木曜日だけ来館することから、職員から木曜日さんと呼ばれている彼女の本名は、瀬奈木綿子。
色白で、ぱっちりとした目が印象的な美人だ。肩下まである髪をなびかせ歩いているのを見るたび、彼女の周りだけ爽やかな風が吹き抜けているのではないかという感覚に襲われるほどだ。

そんな彼女を上から下まで眺め回していた田村さんが口を開く。

「相変わらず清楚ねぇ。今日の服は可愛らしいワンピース。文学少女みたい」

田村さんこと田村あけみは、司書になって30年の大ベテラン、調べ物に関して彼女の右に出る者はまずいない。利用者からの信頼も絶大なのだが、有り余る探究心から気になることも多いらしい。

「今日も本の延長をしていくのかしら?いつも短い書籍しか借りないのに。私なら、30分あれば読み切れるけど。しかも気づいてる?彼女毎回1冊しか本を借りていかないの。不思議よね〜」

「田村さん、シーッ。彼女こちらに向かってきてますって」

「やだ、どうしよう。声大きすぎた?今日はほとんど人もいないし聞こえちゃったかしら?」

聞こえてはいないと思うが、俺は気持ちを切り替え、笑顔で業務にあたる。

「こんにちは。返却でよろしいですか?」

そう言うと木曜日さんこと、瀬奈木綿子は申し訳そうな様子で目を伏せた。

「ごめんなさい。実はまだ読み切れていなくて。延長お願いできますか?」

そう言って差し出された本には布製のブックカバーがかけられていた。

「可愛いですね」

気がつくとそう口にしていた。

「えっ!?」

そう言うと彼女はなぜか困ったような表情を浮かべ俺から目を逸らした。

これは、もしかして…

「素敵なブックカバーですね」

改めてそう告げると、状況を理解した彼女がほっとした様子でこう答えた。

「皆さんの物だから大事にしないと。それにこれ意外と簡単にできるんですよ。必要な材料は布と両面テープとボンドだけなので」

「縫わなくていいんですか?」

驚いている俺を後目にいたずらっぽく彼女が笑う。

「私工作は得意ですけど、お裁縫は苦手なんです」

「それで延長は可能でしょうか?この本」

話に夢中になり、すっかり忘れていた。

慌てて 確認してみると、現在のところ予約者はなし。延長決定だ。

「大丈夫ですよ。2週間後にお返しください」

そう言うと俺は、返却期限の書かれている紙の裏に
急いで、「木綿子も可愛いよ」と書いて彼女に渡す。

走り書きのようになってしまったが、彼女の頬が真っ赤になったところを見ると、どうやら解読できたようだ。

「まっ、また来ます。たぶん来週も。本日はどうもありがとうございました!」

深々と頭を下げる。どうやら、刺激が強すぎたらしい。

実は木綿子と俺、川島匠は付き合っている。もうすぐ2ヶ月目に入るところだ。

きっかけは、彼女の探していた本を俺が書庫から出してきたこと。そこから話が弾み連絡先を交換した。

本来なら、勤務時間中は、仕事に集中しないといけないのだろうが、本を手にした彼女のふんわりとした笑顔にやられてしまったのだ。

それから彼女は毎週木曜日に図書館に現れるようになった。木綿子曰く、来館者の少ない曜日を狙っているらしい。それが、カウンターにいる俺と会話を交わすためなら嬉しいのだが。真相はまだ聞けずにいる。

好きな人の事を全部知りたいというタイプではないが、知らないことはいくつかある。

俺のどこを好きになってくれたのか?それからなぜ1冊しか本を借りていかないのかも。緑が丘図書館は一人最大10冊まで貸し出し可能なのに。

考え込んでいると、またもや田村さんに声を掛けられる。

「川島くん、今日、おはなし会の当番よ。準備できてる?15時からだからね」

すっかり忘れていた。

「田村さん、申し訳ないんですけどカウンターお願いできますか?俺ちょっと本探してきます」

どうせなら、子ども達がとびきり喜ぶ本を見付けてやろう。そんな思いで俺は意気揚々と書架に向かった。

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「今日はありがとうございました。会えて嬉しかったです」

その夜、木綿子からきた電話にに思わず笑みがこぼれる。開催されたおはなし会で、無邪気な子どもに、おじさんと呼ばれた事や、急な残業で 帰宅時間が普段より3時間も遅くなったことなど、全てがどうでもよくなる。

「今日午後から結構ハードだったんだよね。実はさっき帰ってきたとこ」

「大変だったんですね。お疲れさまでした」

「もう、復活したから大丈夫」

「そんな急に…」

「ほら、好きな人の声聞くと元気になるっていうかさ」

「私の声、癒し効果でもあるのかな?」

満更でも無い様子だ。

「そうだ。今日の本読み終えた?実はその後ぜひ木綿子に読んでもらいたい本があるんだ。司書のおすすめ」

木綿子が一瞬黙り込んだ。配になった俺は慌てて彼女の名前を呼ぶ。

「木綿子?俺なにか気に障るようなこと…」

「ないです。ないです。大丈夫。ただ川島さんのおすすめ本てどんなのだろうと考えていたら、返事が遅れてしまって」

「匠でいいよ」

「えっ!?」

「俺たち付き合ってるわけだし、川島さんとか他人行儀じゃなくて、匠とかたくちゃんて呼んでほしいかな。その方が距離が近くなるような感じしない?」

「じゃあ、たく、たくちゃん」

「カミカミだな」

「まだ慣れてないので。練習します」

「それから…」

「なに?」

「毎週押しかけてたら迷惑ですよね?」

「その度に返却期限、延長してもらって。手間じゃないかなって」

「そんな事ないから、気にしなくて大丈夫。なんなら毎日来てくれてもいいし。じゃあ次の木曜日に向けて面白い本たっくさん用意しておくな」

「分かりました。よろしくお願いします」

しかし、この電話を最後に木綿子は音信不通になった。電話はおろかラインに既読もつかない。

避けられているのかもしれない。そう思ったが理由が分からない。

部屋を訪ねて行ったりもしたが、彼女が出てくることはなかった。

一方通行のメッセージだけが増えていく。

「このラインを読んだら連絡ください」

「無事か?木綿子!連絡待つ!」

しかしいくら待っても彼女から返信が来ることはなかった。

「今日も来ないわね。木曜日さん」

本に抗菌カバーを貼りながら田村さんが呟く。

「確か、先週も来なかったわよね。体調でも崩したのかしら?毎週来てた人が突然来なくなると心配になるじゃない?何かあったのかなって」

「川島くんもどんどん元気がなくなっていくみたいだし」

「そんな事ありませんよ。俺、元気しかないですから」

そう言うと、田村さんは真っ直ぐな視線を俺に投げてきた。

「見てられないのよね。シュンとしちゃって。川島くんあなた木曜日さんの事好きなんでしょ。もしかして…もう付き合っちゃってたりする?」

動揺している俺を後目に、田村さんはキッパリと言い切った。

「やっぱり。そんな気がしたの。私の勘よく当たるんだから」

「この仕事を何年もやっているとね、人の心の内が分かるようになるの。今、恋しているのかな?とか、文学作品に目覚めたのかな?とか」

「全部本が教えてくれる」

「そういうものですか?」

「突然ガラッと傾向が変わるから。みんな意外と素直なのよ」

田村さんがメガネの縁に手をかけながら、いたずらっぽく微笑む。

「川嶋くんは毎日会ってるから、ある意味面白くないけど」

面白くない…ここぞとばかりに、言ってくれるじゃないか。

「ただ、木曜日さんの心だけは読めなかった。借りていく本の系統もバラバラ。しかも1冊のみ」

「これの意味するところ分かる?」

「いいえ。まったく」

「だったらなおさら確認しなきゃ。そうだ。彼女の家まで行って確かめてきて。本の行方と彼女の思い」

「ちょっと待ってください田村さん。司書ってそんな事までするんですか?それじゃまるで…」

慌てふためく俺の様子など意に介さず田村さんテキパキと指示を出していく。

「そよ風号は今、館長が乗って行ってるから。川島くんて確か、自転車通勤よね。じゃあ自分の自転車使って」

ちなみに、そよ風号とは、公用自転車の名前だ。

「山本館長はどこに行かれたんですか?」

「なんか役場で会議だって。まだしばらく戻らないから」

館長は役場に入ってからずっと福祉科で仕事をしてきた。本人は定年まで移動する気はなかったようだが、打ち合わせの途中で偶然立ち寄った図書館の雰囲気に魅了され、自ら志願して移動してきたらしい。様々な花が咲き乱れる読書テラスが館長一番のお気に入りだ。春はチューリップ、夏には向日葵、秋にはコスモス、冬には水仙と、四季折々の花を楽しめるように手入れを怠らない。知的好奇心も旺盛で大学の通信過程で司書免許取得のための勉強をしている。穏やかで優しい人だ。

「いい?川島くん、彼女が家から出てきたら本を受け取る。延長が必要な場合は来館を促す。それから万が一留守の場合は、これ」

そう言って田村さんが渡してきた紙には、【図書館資料返却についてのお願い】という文字が綴られていた。

自転車置き場に向かおうとする俺に、田村さんの声が追いかけてきた。

「川島くんエプロン外さないと。エプロン!」

半ば追い出されるような形で俺は彼女の家に向かう。いつもなら、空も飛べそうな勢いのペダルが今日はやけに重く感じる。普段なら、5分とかからない道のりをたっぷり倍以上の時間をかけ、俺は木綿子の住んでいるマンションに着いた。

恐る恐るインターフォンを鳴らすと、木綿子がドアを開けた。

「木綿子…具合悪いのか?」

思わず声が漏れる、こまともに食事をしていないのか頬が痩け、心なしか目も落窪んでいるようだ。

そして服装も白シャツに黄色のカラージーンズというラフなものだった。普段の可愛らしい彼女とのギャップに俺は次の言葉を発せないでいた。

「これ、受け取りにきたんですよね。長い間お借りしてしまい申し訳ありませんでした。もうお手を煩わせることもないと思いますので」

そう言うと俺に本を手渡しドアを閉めようとする。

「待ってくれ木綿子」

「もう用事終わりましたよね。お帰りください」

ここで追い出された二度と彼女に会えない。何となくそんな気がして俺も必死に食い下がる。

「まだ終わってないんだ。俺と木綿子個人の問題がさ」

木綿子の力が一瞬緩む。その隙に俺はドアノブの前に立ちはだかる。どうやら、締め出しは免れたようだ。

「俺、この前の電話で気に障るようなこと言ったかな。あれから木綿子俺からの連絡避けてるみたいだし」

「俺が悪かったなら謝る。だから前みたいに」

「無理。無理だから」

驚くほどの速さで答えが返ってきた。これほど嫌われていたとは…ショックを通り越して笑えてくる。

「理由、教えてくれないかな?お兄さんに」

職場で小さい子に接するように、彼女と視線を合わせ、落ち着いた声で静かに尋ねる。

「おにいさん…」

「俺まだ23だし。ま、たまにおじさん!とか呼ばれたりもするけど」

「おじさんて…何歳からなんだろうね?」

「それは、気の持ちようだろ。絶対」

彼女が少しだけ微笑んだ気がした。しかしその瞳は憂いを称えていて、何か言いたそうにしている唇も小刻みに震えている。

俺は待った。彼女の言葉を。実際には数秒間の出来事だったかもしれないが、その時の俺には、一日にも匹敵する長さだった。

「私。川島さんの事好きよ。思いつきで行った図書館にこんなに素敵な人がいるなんて。そう思った。誰にでも親切で本のことも詳しいし」

「嫌われたくなかった。だって嫌いになられたらあなたの笑顔も見られなくなるし、本の話聞けなくなる。だから精一杯無理して…」

「ホントバカみたい私。身の丈に合わないってこういう事を言うのよね」

「もう、会わないと思うから、ハッキリ言うね。私本当はラフな格好も好きだし、それから…本はあまり読めない」

本が読めない。どういうことだ。訳が分からず突っ立っている俺に対し、木綿子が尋ねる。

「川島さんていうか司書さん、識字障害って知ってます?」

識字障害、確か研修で習った気がする。人によって症状は様々。文字が歪んだり、鏡文字のように見える人もいるという。たとえ読みたい本を手に入れたとしても、その後の労力を考えると、俺なら本を読むこと自体を、諦めてしまうかもしれない。

「木綿子…」

「理解してくれた?私は軽い方だから、ゆっくり時間をかければ読むことは出来る。大学の時は配慮が必要な学生の届けを出して、サポートしてもらってた。無事に卒業できたし、周りの方々には本当に感謝しかない。でも普通の人が本を読むスピードよりはたぶん遅いと思う。でも本は嫌いじゃない。むしろ好き。ううん。大好き」

「でもね、大好きなのに思うように進まない辛さ。ゆっくりでないと理解できない焦り、この気持ちあなたには理解出来る?多分人よりたくさん本を読める司書さんに」

「ごめんなさい。こんな事言っても分からないよね。当事者じゃないんだもん。ただあなたが見ていたのは偽りの私。それだけは確か」

これで謎が解けた。木綿子は本を読みたくても読めない体質なんだ。それなのに俺は…後悔の念に押しつぶされそうになるが、今の俺にできることを必死に探す。

「木綿子、その本まだ途中だろ?」

「どうして分かったの?」

彼女がが目を丸くする。

「それは、まだ感想を聞いていないから」

「気がついていないかもしれないけど木綿子本を返却する時、必ず感想を伝えてくれるだろ。楽しかった。とか、ドキドキしたとか。それで分かったんだ。まだ終わりまで行き着いていないのかな。って
そうだ木綿子。今日これから時間ある?少し話さないか。」

「でも仕事は…川島さんまだ勤務中ですよね」

俺はその場でスマホを取り出し、電話口に出た田村さんに、本は無事に戻ってきたこと、それから、午後は休みをもらいたい旨を彼女に伝えた。

最初は驚いていた田村さんだが、館長に伝えると約束してくれた。

「大丈夫なの?」

心配そうに木綿子が聞く。

「何とかなるだろ。それより今から秘密の場所にご案内したいのですが」

「秘密の場所?」

「大丈夫。怪しいとこじゃないから」

目的地まで並んで歩く。自転車のタイヤが地面に擦れる音だけが、聞こえる。

「はい。到着」

「ここは…」

「皆さまお馴染みの野川。ちなみに恋が成就する川としても有名」

「ウソ!?初めて聞いた」

「俺が今思いついたんだけどな」

「恥ずかしい。騙されちゃった」

そんな様子が愛おしく、思わず抱きしめたい衝動に駆られる。

「ごめん。ごめんて。木綿子が可愛いからつい」

「それより、ちょっとこっち来て。もう少し進んだところに階段があるんだ」

「そんな所があるなんて…ちっとも知らなかった」

木綿子が珍しそうに辺りを見回す。

「ちょうど死角だからな。人目にはつきにくいかも」

「俺、川が流れる音を聞いていると安心するんだよね。だから休みの日は、ここに来ていろいろしてる」

「ぼーっとしたり、水鳥を眺めたり、知ってる?ここたくさん鳥が集まるんだ。カモとかサギとか。たま〜にカワセミなんかも」

「カワセミ!見たことない」

「大丈夫。いつか会えるよ」

「あとは本を読んだり、昼寝したり」

「どう?気に入ってくれた?」

「とっても。でも大丈夫なの?そんな大事な場所を私に教えたりして」

「俺、好きな人と色んな事共有したいタイプなんだ。だから、この場所もいずれ紹介するつもりでいた。木綿子とだったら、2倍楽しめると思ってたから」

「ということで、始めようかな」

「始めるって何を?」

「おはなし会。ただし彼女限定」

「嘘…」

「嘘つくわけないだろ。本の読み方はひとつじゃないし、感じ方も人それぞれ」

「小さいころに絵本読んでもらったことあるだろ。
うちの親、ちょっと変わっててさ、即興で俺が主人公の物語を話して聞かせてくれたんだよ。俺あの時間大好きでさ、だって物語の中では、なんにでもなれたから」

俺は、木綿子が借りている本を取り出し読み始める緊張で声が震えているのが自分でも分かった。

木綿子は隣で俺の顔をこれでもかというくらい見つめてくる。その表情は穏やかで、物語の世界を楽しんでいるのが伝わってくる。

こんな日がずっと続きますように。

そして、誰もが気軽に本の世界の住人になれますように。

心の中でそう願わずにはいられなかった。

「それから、それからどうなるの?たくちゃん」

木綿子が目を輝かせて俺の顔を覗き込む。

「大丈夫。本も俺も逃げていかないから」

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翌日出勤すると、田村さんが目をキラキラさせながら、俺を待っていた。いつもは、お弁当作りや洗濯など一通りの家事をこなしてから出勤するので、俺より先に来ていることは滅多にない。好奇心というのは、家事のスピードにも影響するのだろうか。そして、その隣りには館長。俺を見つけると、申し訳なさそうにこう言った。

「川島くん。昨日はすまなかったね。大事な時に付き添えなくて。延滞本を返却するよう利用者の方に伝えにいってくれたんだって」

大元の理由は彼女の安否確認だとは口が裂けても言えないので、俺はとりあえず微笑んだ。

「で、どうだったのよ?成果は?成果」

田村さんが、俺をせっつく。調子を合わせて大丈夫なんだろうか?心配になり田村さんの顔を見ると、何回も小さく頷いている。あれは、(大丈夫。私に任せなさい)の顔だ。

「本は無事に戻ってきています。汚破損などもありません」

そう答えると、

「それは良かった。お疲れさんだったね。今度は一緒に行くから」

ホッとした様子で館長は、その場を離れる。しかし、もう一人はそうはいかない。

「で?結納?結婚?それとも同棲?結婚式には私も招待してくれるわよね。何着ていこう?その前に、ダイエットした方がいいかしら。川島くんどう思う?今のままでいい?でも少し絞らないとよね。やっぱり。筋トレの本借りて。あと必要なのは…と」

妄想はどんどん広がってく。

「そんなんじゃないですよ」

「じゃあ。昨日どうしてたの?本返してもらって、その後は?その後」

「二人で野川に行っておはなし会を」

「なにそれ!?」

俺は木綿子の特性を話して聞かせた。もちろん本人は了承済みだ。木曜日に会っているせいか、田村さんの人となりも何となく理解していたらしい木綿子も、あの人になら、秘密を教えてもいいと快諾してくれた。

「実は彼女、てか木綿子サン文字があまり読めなくて。ゆっくりなら大丈夫なんですけど、だから借りていく本も一冊だけみたいで。本当は、もっとたくさん読みたとは思うんですが…」


俺の話を黙って聞いていた田村さんだったが、話し終わると溜息とともにこう言った。

「そうだったのね。それなら」

しばらく考えていた田村さんだが、しばらくして俺にこう言った。

「ねぇ。川島くん木綿子さんが好きな色って分かる?」

いったい何を考えているんだろう。俺たちは今、木綿子が活字を読むのがゆっくりだと言う話をしているところなのに。突然彼女の好きな色を聞いてくるなんて視点がズレすぎではないだろうか。しかし戸惑っている俺の心を見透かしたかように、田村さんが言う。

「実は、一つ思いついたことがあって。だから木綿子ちゃんの好きな色が知りたいの」

「ごめんなさい。はっきりは聞いた事なくて」

申し訳ない気持ちで俺がそう告げると、こんな言葉が返ってきた。

「はっきり分からなくても、彼氏なんだから何となく察しなさいよ。これから大事になるわよこの能力。相手の気持ちを考える時にめちゃめちゃ役に立つんだから」

田村さんの言葉に改めて思い返してみると俺はどれだけ木綿子のことを知っているのだろうかと考えてしまった。分かっているのは、名前、年齢、住んでいる場所のみ。そういえば、好きな色はおろか、好きな食べ物、果ては血液型も知らないことに気付かされた。思わず顔が青ざめる、人のいや俺の気持ちは何て頼りないんだろうと。愛する人のことは誰よりも大切にしたいし、好きな物も共有できたら楽しいと思っていたはずなのに。俺の異変に気がついたのか田村さんが声をかけてきた。

「川島くん、こんなこと言うと矛盾してると思われるかもなんだけど。あなたたち、まだ付き合って間もないんでしょ?相手のことは、追々知っていけばいいの。最初から全部分かろうなんて思っちゃダメ。好きそうな色も今度聞いてみたらいいわ。寒色系か暖色系かだけでもね」

そう言われ、俺はまだ短い記憶の糸を手繰り寄せる。何か聞いていなかっただろうか。何か。

「確か、水色だと思います。夏の空の青みたいな青が好きだって聞いたような。聞かなかったような」

「OK水色ね!」

「田村さん」

「ん?」

「何か、企んでますよね」

「さぁどうかしら」

「教えてくださいよ」

「イヤよ。いくら川島くんといえどもこれは無理ね。ていうか今は無理。ほら、開館準備してきてちょうだい」

「開館準備、俺当番じゃないですよ」

「仕方ないでしょ。あれじゃ」

田村さんの視線の先を見ると、当番は電話中。だいぶ忙しせうだ。

「館長、手が離せないでしょ?だからお願い」

「じゃあ、一緒にやりませんか?」

「私も、今から手が離せなくなるの。それじゃよろしくね。川島くん」

逃げられた。

カーテンと窓を開け風を通す、ブックポストを開け返却処理をして元の棚まで戻す。それから館内を清掃したら、お客さんを迎える準備は完了。

今日も素敵な一日になるに決まってる。

ワクワクしながら入り口に向かうと、出勤時にはなかった虫カゴがぽつんと置かれていた。まるで見つけてくださいとでも言っているように、道のど真ん中に置かれている。

とりあえず中を 確認した方がいいだろう。覗きこんだ俺は虫カゴの中にいた生物と目が合い、思わず、

「ネズミー!!!!!」

と声が出た。

これは、館長に報告しなければ。開館はその後だ。俺は、虫カゴを抱えると司書室に向かって駆け出した。

「か、か、館長!これ見てください!これ!」

慌てふためいて司書室に駆けんだのだが、館長はまだ取り込み中。代わりに田村さんが俺に一言こう呟いた。

「ネズミー!ってドラえもんみたい。館内中に響いてたわよ。それからハムちゃんよその子。ネズミには違いないけど」

田村さんの言葉に俺は、改めて虫カゴの中身を確認する。

「つぶらな瞳に、ちょこんとしたシッポ。色は、ブルーグレイ。間違いなくネズミだよな。てか、お前ハムスターなのか?なんか思ってたのと違うんだけど。色も大きさも、ハムスターってもっとデカかったような気がするんだけど」

「今度はネズミかい?時々変わったお客さんがやってくるね。数年前には確か」

声のするほうを振り返ると館長がニコニコしながら立っていた。どうやら用事は終わったようだ。

まだ状況をあまり理解できていない俺に、館長が説明してくれた。公共施設にはたまに、飼いきれなくなった動物が捨てられる事例があること。このネズミは、ジャンガリアンハムスターという種類の可能性が高いこと。前回捨てられていたカメは、交番に届けた後、飼い主を探したが見付からず、図書館で新しい飼い主を見つけたこと。ちなみに、里親募集のポスターは館長が描いたそうだ。

「凄っ!意外な才能!あ、いえ。なんでもありません」

慌てて謝ったが、館長はそんな事は意に介していないようで、ネズミ、いや、ハムスターを観察するのに夢中になっている。

「とりあえず、届けを出さないといけないな。それから、川島くん引き取り手が見つかるまで、この子の飼育係になってくれないか?」

「俺が!?ですか?」

「交番だっていきなりハムスターを持ち込まれても困るだろうし。私が預かってもいいんだが、うちには猫がいてね。田村さんも犬を飼われているようだし」

そういえば聞いたことがある。館長の家には保護猫のモナカ。田村さんはの家には保護犬のあんみつが暮らしていると。もしかして2匹ともこの図書館に置き去りにされていたのだろうか。俺の気持ちを察したのか、館長は懐かしそうな顔をしてこう呟いた。

「カメの前は猫だったねぇ。なぜか1匹だけで捨てられていて。カラスや外敵に襲われるのも可哀想だし連れて帰ったんだ。その前は犬が繋がれていてね。もう何年も前の話だけど」

やっぱり。で、今度は俺の担当というわけか。しかしどうしてネズミ。

「じゃあそういう事で。よろしく頼むよ川島くん」

頼まれ事は嫌いじゃない。しかしネズミとなれば話は別だ。

「館長、俺」

「僕も猫が苦手でね。でも3日も一緒にいたら、家族同然としか思えなくなるから」

そういうものなんだろうか。

「開館するわよ!いい?」

田村さんの声で我に返る。そこから先は慌ただしく過ぎていった。午前中は、常連さんと本について語ったり、夕方からは、小学生の調べ物を手伝ったり。しかし、今日の俺は、これから始まるネズミとの同居について、思考の大半を奪われていた。やっと業務が終わり、これからどうしたらいいのか考えながら司書室でネズミを眺めていると

「川島くん。これプレゼント。こっちは、木綿子ちゃんに。それからこっちは、ハムちゃんに」

目の前にドサッと資料が置かれた。その上には、なぜが定規が1本。

「な、何ですかこれ?定規と、ネズミのトリセツ?」

すると田村さんはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、説明モードに突入した。ドヤ顔で俺に聞く。

「これ何に見える?」

「だから、プラスチック定規ですよね。15センチの。どこにでもあるような」

しかし田村さんは違う。違う。とばかりに首を横に振る。

「これはね。魔法の定規。木綿子ちゃんが文字を読む手助けになればと思って作ってみたの。ほらよく見て。定規の真ん中2センチくらい残して、周りを空の模様のマスキングテープで覆ったの。本の上に置いて使うのよ。これを使うと読みたい場所の文字だけが浮かび上がってくるの。何本か作ったから、カウンターにも置くわね。場所は老眼鏡と虫眼鏡の間でいい?それからハムちゃん、しっかり面倒みなさいよ。飼育方法まとめたから」

それだけ言うと田村さんは、さっさと帰っていった。いつもながら見事な引き際、いや退勤の仕方だ。俺が感心していると、館長が声をかけてきた。

「川島くんもおつかれ。今日はもう上がっていいよ」

「ホントですか!?じゃあお先に失礼します」

予定外に早く帰れることになったので、俺は、木綿子の家に急いだ。ネズミを理由にして木綿子の顔を見られるチャンスだ。はやる気持ちを抑えてインターホンを鳴らす。それと同時に俺の真後ろから

「どうしたの?たくちゃん?」

と声が聞こえ、俺は飛び上がるほど驚いた。

振り向くと木綿子が、食材を入れた袋を手に立っていた。今日はの服は目の覚めるような赤いワンピースだ。いろいろ眩し過ぎて彼女の姿を直視できないでいる俺に対して、彼女は興味津々といった様子で虫カゴを覗き込んできた。

「可愛い!ハムちゃんですね!どうしたんですか?この子」

「迷子というか、なんて言うか」

俺は、木綿子にハムスターを引き取ることになった経緯を説明する。黙って聞いていた木綿子だったが、買ってきた荷物を玄関先から部屋に投げ込むと、俺に言った。

「出かけましょう。このままじゃダメです」

「行くってどこに?」

「隣の市にあるホームセンターに」

ハムスターなんて、虫カゴに割いた新聞紙入れて、野菜でもあげときゃ飼えるんじゃないのか?

「田村さんが渡してくれた紙、見せてもらえませんか?必要な物を揃えないと」

そう言うと、木綿子は俺から資料を受け取る。

「俺、読み上げようか?」

そう尋ねるが彼女はキッパリとこう言った。

「大事なことだし、自分で確認したいから。別にたくちゃんを信用してないとかじゃないからね。大丈夫。読めるから大丈夫。大丈夫だから」

最後の方は、自分に言い聞かせるようだった。その姿を見て、俺は、田村さんから預かった定規の存在を思い出す。

「木綿子、もし良ければだけどこれ使ってみない?なんか田村さんが、文字を読む手助けになれば。って作ってくれたんだけど」

定規を資料の上に置く。すると田村さんが言った通り定規の真ん中にだけ文字が写し出された。これなら、一行づつ読みたい箇所だけに集中できる。

「たくちゃん、すっごく読みやすいよ!活字が頭に入ってくる!」

「やったー!木綿子!」

二人で手を取り合いその場でクルクル回る。

「木曜日に田村さんにお礼を言いに行かなくちゃ。仕事お休みだし」

木綿子の目が輝いている。彼女の人生をこれからをどんな本が彩っていくのだろう。俺は、それをずっと隣で見守っていきたい。しかしその前に

「木綿子、手間取らせて申し訳ないけど、買い物付き合ってれないか?ハムスター用品の」

「元々そのつもりでした。さっ早く行きましょう」

木綿子は俺の手を取ると弾むような足取りで駅に向かって歩いていった。

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朝食をすませ自転車に飛び乗る。いつも通りの朝。しかし出勤すると、司書室からは聞き慣れた声が響いている。それが木綿子の声だと確信した俺は急いで部屋に飛び込む。お礼をしに来るとは聞いていたが早すぎやしないだろうか。そう思ったが木綿子にはもう1つ別の目的があったようだ。その証拠に、館長が木綿子に尋ねる。

「図書館ボランティアをしてみたいと思った理由。教えていただけますか?」

木綿子が話し始めた。的確に志望動機を伝えていく。本が大好きなこと。しかし体質のため一度にたくさんは読めないこと。田村さんからもらった定規で読む速度が上がったこと。それをきっかけに図書館や司書の仕事に今まで以上に興味を持ったこと。一生懸命語ったせいで、最後の方は息が切れていた。

館長は、

「素敵ですね。分かりました。ボランティアをお願いしましょう」

そう言うと、木綿子に毎週木曜日に手伝いに来てほしいことを告げた。仕事は、書架の整理、本へのカバー掛け、カウンター業務の補助ということになった。

「楽しみね。川島くん」

気がつくと田村さんが、とろけそうな顔で俺と木綿子を見つめていた。

「よろしくね。木綿子ちゃん」

「こっ、こちらこそよろしくお願いします」

緊張でガチガチの木綿子見て田村さんが俺に言った。

「川島くん、木綿子ちゃんに館内を案内してあげたら?本の並び方とか説明してあげて」

「俺でいいんですか?田村さんの方がキャリアあるし」

「一番ふさわしい人にお願いしてるの」

「分かりました」

木綿子と館内を静かに回っていく、新聞の場所、絵本や紙芝居の置いてある児童コーナー新着図書の置いてある場所、一般図書のある書架、最後にカウンターそこで木綿子があっ!と小さく声を出した。そこには、例の定規が置かれていた。

「そう。あの定規さ、カウンターにも置いてみることにしたんだ。誰かの役に立つかもしれないと思って」

木綿子は、大きく頷きながら聞いている。

「どうかな?」

「いいと思う。私も誰かの役に立てるかな?」

「その気持ちがあれば大丈夫。それに」

「それに?」

「俺は木綿子がいるから頑張れてる。楽しいことは2倍になるし、そうでないことは半分になる。本気でそう思ってるんだ」

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木綿子が図書館でボランティアを初めてから、3ヶ月。ちょうど同じ時期に図書館前に置かれたハムスターは飼い主が見つからず、俺の家族となった。名前は大福。ケージの中で丸まっていると、食べ物の大福が落ちているように見えるのがその理由だ。今では、俺の生活になくてはならない存在となっている。ネズミ嫌いもすっかり直ってしまった。大福にメロメロになっているのは木綿子も同じで、福ちゃん、福ちゃんと可愛がっている。家に遊びに来る度に、新鮮な果物や野菜を持ってきて大福が食べる様子を目を細めて眺めている。そのおかげか大福はすくすく成長中。最近はヘソ天で寝るようになった。その姿がまた愛おしくてついつい木綿子に写真を送ってしまう。こんなこと数ヶ月前には予想もできなかった。だから人生って面白い。