郁恵が汗を流すため、シャワーを浴びている間、俺は清潔な香り漂う寮室をぼんやりと眺めていた。
全盲の郁恵にとって掃除は苦手なことの一つに当たるだろうが、ゴミを溜め込むことなく綺麗に保たれている。俺も苦労をしているからこそ分かるが、ヘルパーの手を借りているにしてもこれは立派なことだ。
それほど広い間取りでもない寮室を眺めていると、必然的に壁に飾られた二枚の絵が視界に入った。
額縁に入れられた、恐らく師匠が描いた大胆にも美しい描写をした”しだれ桜”。まだ思い出に新しいその姿につい見惚れてしまう。
桜の花びらが散りばめられ、未だ生気を宿しているような力強さがそこにはあった。
色盲の俺が見えて、もしオークションなどで競売に掛けられれば幾らの値が付くか想像が付かない完成度だ。
そして……その横に飾られているのは先程過ごした砂浜の背景をバックに白杖を手に立っている郁恵が描かれている砂絵だ。
恐らく郁恵はこの砂絵に影響されて海を目指したことに間違いないだろう。
だが、俺の違和感は別のところにあった。
そう……懐かしい記憶の中で俺はこの絵の制作過程を目にしたことがある。
確かな情景が記憶の片隅に残っているのだ。
師匠の絵画が灰色に見えているにも関わらず、この砂絵が色鮮やかに見えているのがその証拠だ。
黄色い砂浜も、複雑に色分けされた青い海と空の色も、白いワンピースを着た少女の姿にも、全てに生き生きとした色彩が広がっている。
それは今となっては、懐かしさが込み上げてきて、時と場所を超えて巡り会わせてくれているような……奇跡を目の当たりにしているような感覚だ。
「面影がある……あぁ、間違いない、あの時の既視感の正体はそういうことか。運命の人というのは、そういう意味だったのか」
出会った日に生じた妙な既視感。
あの時は母親以外に色彩を持っているから余計に運命を感じさせられて特別視しているだけだと思っていた。
しかし、全てに気付き、俺は一人納得させられた。
これは生前、母が制作していたものだ。
それも、あの事故が起こるほんの少し前。
まだ俺が大学生だった頃のことだ。
珍しく砂絵の制作に取り掛かっている母はとても機嫌良くしていて、普段は風景画を描いているのに人物画を描いていた。
今に繋がる面影を持った、前田郁恵という、儚さを纏いながらも幸せそうに砂浜で過ごす少女の姿を。
「まさか……母親の遺作がこんなところに眠っていたなんてな……」
確かに面影を感じる四年前の郁恵の姿を投影した砂絵。
丁寧に描き込まれた少女の姿は美しい白鳥のようだ。
俺が初めて郁恵と出会った時、心惹かれてしまったのが当然なほどにこの一枚の砂絵には因果が込められていたことに気付いた。
「往人さん、どうしたんですか?
今、壁に掛けてあるものを眺めていたんですよね?」
俺の独り言が聞えてしまっていたのか、シャワーから帰って来た郁恵が隣にやって来る。
バスタオルを濡れた髪に乗せて、不思議そうな顔を浮かべていた。
「よく分かったな。驚かないで聞いて欲しいのだが、この砂絵を描いたのは俺の母親なんだ」
俺の言葉に驚き絶句してしまう郁恵。
事情を説明するため、丁寧にその頃のことを俺は郁恵に話した。
「それじゃあ……この砂絵は私のお父さんが往人さんのお母さんに依頼して描いてもらったものってこと?」
「はっきりとそうとは言えないが、俺の母親が描いた砂絵が郁恵の下に渡ったことは間違いなさそうだ」
「それは……凄いことだね……胸がドキドキして止まらないよ……。
こんな偶然ってあるんだね」
俺には仕組まれた”運命”か”宿命”のように感じたが、いくつかはっきりしていないこともあった。
それから俺と郁恵はこのことをどう考えるか検討した結果、郁恵の父親に正直に事情を話すことにした。
―――お父さん、聞こえる? あのね、聞きたいことがあるの。四年前にプレゼントしてくれた砂絵のことで。
スマートフォンを手にしてオーストラリアに住んでいる郁恵の父親まで国際通話が繋がると、郁恵は耳にスマートフォンを当てて話し始めた。
俺の母親、桜井深愛と郁恵の父親、前田吾郎。
二人の関係とここにある砂絵の真相を追い求めて、運命の答え合わせが今始まった。
*
―――うん、それでね、私……桜井往人さんとお付き合いすることにしたの。
それで砂絵を往人さんに見せたら、これは往人さんのお母様が描いたものだって。
本当なの? お父さん。
俺との交際のお知らせはついでなのかと突っ込みを入れたくなったが、集中して会話を続ける郁恵を邪魔するわけにも行かなかった。
「往人さん……お父さんがスピーカーにしてもいいかって。
一緒にいること話したら、往人さんにも一緒に聞いて欲しいって」
思わぬ展開に嫌な予感がよぎったが、ここは堂々と振舞わなければならないと肝に銘じて承諾した。
「それじゃあ、覚悟はよろしい?」
「全然、本当は緊張しまくりで大丈夫じゃないけど、覚悟は決めたよ」
確認を取る言葉の選択が謎だったが、俺は気を落ち着かせて頷いた。
唇が渇き、今からでも逃げ出したくなる状況に追いやられる中、俺は郁恵の父親と思いがけない形で挨拶を交わした。
「まさか深愛さんの息子さんが郁恵の恋人になるなんてね……。
未だに信じられない気持ちだが、愛し合っているなら邪魔立てすることはない、よろしく頼むよ。
君ならば郁恵のことを深く理解してくれることだろう、私などよりもずっと」
ゆったりとした落ち着いた声色で納得してくれた郁恵の父親。
どう言葉を言い繕えばいいのか、俺にはよく分からなかったが、ただ遠い地球の反対側で聞いている相手に届くように、シンプルに感謝を俺は伝えようとした。
「郁恵さんは大学生になって何事にも精力的に頑張っておられます。
心惹かれてしまったことをお許しください」
郁恵はそんなに畏まらなくてもと横で苦笑いを浮かべるが俺は初対面で誤解を与えないようにするのに必死だった。
交際の許しが出たことに安堵する間もなく喉が渇いていくのを感じながら、挨拶を交わし、遠回りをして砂絵にまつわる事情を説明してもらえることになった。
「砂絵のことだったね……あれはね、お父さんが深愛さんの旦那さんに頼んだものなんだ。
その旦那さんとは学生時代からの知り合いでね、結婚記念日に画家をしている奥さんから絵画のプレゼントもしてもらった過去があって。
それがあまりに素晴らしく感銘を受けて、印象的に残っていたからね。
入院を続けている郁恵のためにプレゼントしたくてどうしてもとお願いしたんだ。少しでも勇気付けて欲しかったからね」
俺や郁恵と同じく弱視ではあるが視覚障がいを持っていた俺の父親。
その俺の父親と郁恵の父親は友人関係にあった。
そのことが砂絵に繋がる大きなきっかけだったようだ。
郁恵は興味深そうに話を聞き、砂絵に込められた想いを改めて受け取ったようだった。
俺は郁恵の父親、前田吾郎の郁恵に対する愛情を感じつつも、妙な距離感のようなものを同時に感じ取った。
それが男女の差によるものなのか、ただ俺が母親に抱いていた感情が強すぎたのか、この場では判断が付かなかった。
長い一日の果てに辿り着いた郁恵と俺に秘められた繋がり。
それは運命的に位置づけられたもののように俺には感じられたが、郁恵がどう感じているかは分からなかった。
俺の父親は視覚障がいを持ちながら母と結婚して俺が産まれた。
郁恵の母親については謎が残るが、郁恵もまた苦労をして父親の手を借りながらここまでの道のりを歩いてきた。
俺と郁恵、障がい者同士が手を取り合い、愛し合う関係になった以上、平坦な道のりではないことだけははっきりと自覚しなければならなかった。
大切であるがゆえに、時に傷つくこともある。
それを肝に銘じて、俺は郁恵の手を握った。
全盲の郁恵にとって掃除は苦手なことの一つに当たるだろうが、ゴミを溜め込むことなく綺麗に保たれている。俺も苦労をしているからこそ分かるが、ヘルパーの手を借りているにしてもこれは立派なことだ。
それほど広い間取りでもない寮室を眺めていると、必然的に壁に飾られた二枚の絵が視界に入った。
額縁に入れられた、恐らく師匠が描いた大胆にも美しい描写をした”しだれ桜”。まだ思い出に新しいその姿につい見惚れてしまう。
桜の花びらが散りばめられ、未だ生気を宿しているような力強さがそこにはあった。
色盲の俺が見えて、もしオークションなどで競売に掛けられれば幾らの値が付くか想像が付かない完成度だ。
そして……その横に飾られているのは先程過ごした砂浜の背景をバックに白杖を手に立っている郁恵が描かれている砂絵だ。
恐らく郁恵はこの砂絵に影響されて海を目指したことに間違いないだろう。
だが、俺の違和感は別のところにあった。
そう……懐かしい記憶の中で俺はこの絵の制作過程を目にしたことがある。
確かな情景が記憶の片隅に残っているのだ。
師匠の絵画が灰色に見えているにも関わらず、この砂絵が色鮮やかに見えているのがその証拠だ。
黄色い砂浜も、複雑に色分けされた青い海と空の色も、白いワンピースを着た少女の姿にも、全てに生き生きとした色彩が広がっている。
それは今となっては、懐かしさが込み上げてきて、時と場所を超えて巡り会わせてくれているような……奇跡を目の当たりにしているような感覚だ。
「面影がある……あぁ、間違いない、あの時の既視感の正体はそういうことか。運命の人というのは、そういう意味だったのか」
出会った日に生じた妙な既視感。
あの時は母親以外に色彩を持っているから余計に運命を感じさせられて特別視しているだけだと思っていた。
しかし、全てに気付き、俺は一人納得させられた。
これは生前、母が制作していたものだ。
それも、あの事故が起こるほんの少し前。
まだ俺が大学生だった頃のことだ。
珍しく砂絵の制作に取り掛かっている母はとても機嫌良くしていて、普段は風景画を描いているのに人物画を描いていた。
今に繋がる面影を持った、前田郁恵という、儚さを纏いながらも幸せそうに砂浜で過ごす少女の姿を。
「まさか……母親の遺作がこんなところに眠っていたなんてな……」
確かに面影を感じる四年前の郁恵の姿を投影した砂絵。
丁寧に描き込まれた少女の姿は美しい白鳥のようだ。
俺が初めて郁恵と出会った時、心惹かれてしまったのが当然なほどにこの一枚の砂絵には因果が込められていたことに気付いた。
「往人さん、どうしたんですか?
今、壁に掛けてあるものを眺めていたんですよね?」
俺の独り言が聞えてしまっていたのか、シャワーから帰って来た郁恵が隣にやって来る。
バスタオルを濡れた髪に乗せて、不思議そうな顔を浮かべていた。
「よく分かったな。驚かないで聞いて欲しいのだが、この砂絵を描いたのは俺の母親なんだ」
俺の言葉に驚き絶句してしまう郁恵。
事情を説明するため、丁寧にその頃のことを俺は郁恵に話した。
「それじゃあ……この砂絵は私のお父さんが往人さんのお母さんに依頼して描いてもらったものってこと?」
「はっきりとそうとは言えないが、俺の母親が描いた砂絵が郁恵の下に渡ったことは間違いなさそうだ」
「それは……凄いことだね……胸がドキドキして止まらないよ……。
こんな偶然ってあるんだね」
俺には仕組まれた”運命”か”宿命”のように感じたが、いくつかはっきりしていないこともあった。
それから俺と郁恵はこのことをどう考えるか検討した結果、郁恵の父親に正直に事情を話すことにした。
―――お父さん、聞こえる? あのね、聞きたいことがあるの。四年前にプレゼントしてくれた砂絵のことで。
スマートフォンを手にしてオーストラリアに住んでいる郁恵の父親まで国際通話が繋がると、郁恵は耳にスマートフォンを当てて話し始めた。
俺の母親、桜井深愛と郁恵の父親、前田吾郎。
二人の関係とここにある砂絵の真相を追い求めて、運命の答え合わせが今始まった。
*
―――うん、それでね、私……桜井往人さんとお付き合いすることにしたの。
それで砂絵を往人さんに見せたら、これは往人さんのお母様が描いたものだって。
本当なの? お父さん。
俺との交際のお知らせはついでなのかと突っ込みを入れたくなったが、集中して会話を続ける郁恵を邪魔するわけにも行かなかった。
「往人さん……お父さんがスピーカーにしてもいいかって。
一緒にいること話したら、往人さんにも一緒に聞いて欲しいって」
思わぬ展開に嫌な予感がよぎったが、ここは堂々と振舞わなければならないと肝に銘じて承諾した。
「それじゃあ、覚悟はよろしい?」
「全然、本当は緊張しまくりで大丈夫じゃないけど、覚悟は決めたよ」
確認を取る言葉の選択が謎だったが、俺は気を落ち着かせて頷いた。
唇が渇き、今からでも逃げ出したくなる状況に追いやられる中、俺は郁恵の父親と思いがけない形で挨拶を交わした。
「まさか深愛さんの息子さんが郁恵の恋人になるなんてね……。
未だに信じられない気持ちだが、愛し合っているなら邪魔立てすることはない、よろしく頼むよ。
君ならば郁恵のことを深く理解してくれることだろう、私などよりもずっと」
ゆったりとした落ち着いた声色で納得してくれた郁恵の父親。
どう言葉を言い繕えばいいのか、俺にはよく分からなかったが、ただ遠い地球の反対側で聞いている相手に届くように、シンプルに感謝を俺は伝えようとした。
「郁恵さんは大学生になって何事にも精力的に頑張っておられます。
心惹かれてしまったことをお許しください」
郁恵はそんなに畏まらなくてもと横で苦笑いを浮かべるが俺は初対面で誤解を与えないようにするのに必死だった。
交際の許しが出たことに安堵する間もなく喉が渇いていくのを感じながら、挨拶を交わし、遠回りをして砂絵にまつわる事情を説明してもらえることになった。
「砂絵のことだったね……あれはね、お父さんが深愛さんの旦那さんに頼んだものなんだ。
その旦那さんとは学生時代からの知り合いでね、結婚記念日に画家をしている奥さんから絵画のプレゼントもしてもらった過去があって。
それがあまりに素晴らしく感銘を受けて、印象的に残っていたからね。
入院を続けている郁恵のためにプレゼントしたくてどうしてもとお願いしたんだ。少しでも勇気付けて欲しかったからね」
俺や郁恵と同じく弱視ではあるが視覚障がいを持っていた俺の父親。
その俺の父親と郁恵の父親は友人関係にあった。
そのことが砂絵に繋がる大きなきっかけだったようだ。
郁恵は興味深そうに話を聞き、砂絵に込められた想いを改めて受け取ったようだった。
俺は郁恵の父親、前田吾郎の郁恵に対する愛情を感じつつも、妙な距離感のようなものを同時に感じ取った。
それが男女の差によるものなのか、ただ俺が母親に抱いていた感情が強すぎたのか、この場では判断が付かなかった。
長い一日の果てに辿り着いた郁恵と俺に秘められた繋がり。
それは運命的に位置づけられたもののように俺には感じられたが、郁恵がどう感じているかは分からなかった。
俺の父親は視覚障がいを持ちながら母と結婚して俺が産まれた。
郁恵の母親については謎が残るが、郁恵もまた苦労をして父親の手を借りながらここまでの道のりを歩いてきた。
俺と郁恵、障がい者同士が手を取り合い、愛し合う関係になった以上、平坦な道のりではないことだけははっきりと自覚しなければならなかった。
大切であるがゆえに、時に傷つくこともある。
それを肝に銘じて、俺は郁恵の手を握った。