「それにしても、本当にもう、私に恥をかかせましたね。黙っているなんて酷いです。華鈴さんなんて私のことを見てずっと爆笑されてたんですから」
「それは俺も同じだよ。大体、あの人が大変なことになる前に助けに行った方がいいんじゃない?ってしつこく言って来てなかったら……」
「そういうことは聞きたくありません!
それより、大学入試の日のお礼をさせて下さい。
今日の分は私のことを知っててずっと黙って見ていたので帳消しですから。
お願いします、何なりと私めにお申し付けください!」
私はずっと胸に秘めていた言葉をやっと届けた。
もう大学入試の日から随分と月日が過ぎてしまった。
だけど、あの日の出来事を忘れた日はなかった。
「そう言われると迷うなぁ……。
そうだ、うちのアトリエで君のことを描かせてくれないか?」
「そ、そんなことでいいんですか? 噂によると普段ピアノを弾いてる私のことをスケッチしてるみたいなのに」
「キャンパスに描いてみたいんだよ。ちゃんと正面から君を見ながら」
この時、私には往人さんの提案は実にシンプルで簡単なものに思えた。
それほどに、あの日の出来事を私はずっと感謝していたのだ。
「分かりました、お安い御用ですよ! 往人さん」
私は頭の中でその情景を思い浮かべ、恥ずかしい気持ちを隠すように勢いに任せて返事をした。
「そうか……そこまであの日のことをずっと覚えていてくれていたなんてな。
君の律義さには驚かされるよ」
「覚えていたのは、往人さんだって同じでしょう。
そう思ってくれるなら、君って呼ぶのはそろそろやめて欲しいですね」
「思っていたより積極的だな……次に会う日までに考えておくよ」
往人さんがそう返答したのに対して、私は”検討お願いしますよ”と軽く返した。
信じられないくらいに自然に会話が続けられて楽しい時間が過ぎていく。
異性に対して、こんなにも積極的に会話をしている自分が信じられなかった。
日本に帰って来て、大学生活を始めてミスコングランプリにも参加して、人
と会話する機会が増えて慣れてきたのかもしれない。
「……着いたよ」
唐突に往人さんの足が止まって、優しい声色でそう言った。
着いてしまったのだ、話しているとあっという間の出来事だった。
不思議なことが多すぎて、知りたいことが多すぎて、話しに夢中になっていた自分がいた。
そして……繋いだ手を離したくない自分が……。
「今日の最後に聞いてもいいですか?」
「何をだい?」
「気になっていたことの答え合わせです」
寂しい顔をしているのを見られたくなくて、俯いたまま言葉を交わす。
そして、私は勇気を出して確かめたかったことを聞いた。
「往人さんに私が見えていることはもう疑いようのないこととして分かっています。だとしたら、往人さんには世界はどんな風に見えているんですか?」
答えを知るのが怖かったわけではない、ただ自分から聞くのが怖かったのだ。
―――俺は色覚異常を持っていてね、色の判別が出来ないんだよ。
はっきりとした言葉で、往人さんはそう答えた。
私は確かに知りたいと心から思っていたが、いざ聞いた瞬間、鳥肌が立ってしまった。
ノーマライゼーション絵画展に絵が飾ってある時点で何らかの障がいを持っていることは予想できた。
そして、坂倉さんは私達のことを同じ障がいを持つ者同士と言っていた。
だからそう……出会った日の別れ際、空耳のように聞こえた”色が判別できない”という言葉は文字通りの意味だったのだ。
優しいそよ風を受けながら私は往人さんの抱えている一番大切なことを知った。
私は往人さんがそれでも絵を描きたい理由が何なのか。
さらに謎が深まったが、今聞くことではないと思い踏みとどまった。
私は今日という日が二度は来ないことを名残惜しく思いながら手を離し、思いがけない邂逅を果たした往人さんに別れを告げて学生寮に入っていった。
「桜井往人さんか……大学生にもなって、こんな出会いがあるんですね……」
自分の寮室に入った途端、両足の痛みや肩の痛みを感じ、どっと強い疲労感に襲われる。
私はフェロッソのお世話をして一息付いて、思い出に残る長い一日を終えたのだった。