オーストラリアの八月の平均気温は15℃程度、東京の晩秋ほどの気温しかなく暑さに弱い盲導犬のフェロッソにとっても過ごしやすい気候だ。

 毎日のように35℃を超えるような日が続けばフェロッソを連れて散歩にも行けず、運動不足になってしまう。
 それに限らず日射病で倒れてしまっては困るので、夏休みだけでも温暖化が進む日本を離れ、オーストラリアで過ごすことに迷いはなかった。

 オーストラリア大陸は東は太平洋、西と南はインド洋、北はアラフラ海に面していて、マリンスポーツも盛んだ。

 教育水準も日本に比べて高く、世界的に有名な大学がいくつもある。
 さまざまな国籍の人種が在籍していることでも知られていて、アジア圏の留学生は多く、日本人も約一万人が留学している。

 久しぶりに父と暮らしていた家に戻った私はブランクを埋めるため電子ピアノを毎日のように弾いて過ごした。

 オーディオブックを聞きながらの心地いいピアノ演奏。
 慌ただしい日々の生活から解放され、私は時を忘れて演奏に没頭した。

 物語の世界に思いを馳せながら指を動かして音をかき鳴らす。
 童話を聞くのが好きな私は特にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が好きで、それを聞きながら想像を膨ませ弾いていると至福の時間を過ごすこと出来た。


 一度覚えた楽曲でもこうしてオーディオブックを楽しみつつ演奏することで時が経っても自然と譜面を思い出せる。ピアノ好きになった私がよくするルーティーンだった。

 慣れ親しんだ楽曲を十分に弾いたところで新しい曲にも挑戦する。
 点訳者(てんやくしゃ)によって書かれた点字楽譜(てんじがくふ)をなぞり楽曲を覚えていく。
 耳コピでは足りない部分を私の場合は点字楽譜(てんじがくふ)で補っていて、これにより楽曲に対する理解が一層深くなる。

 目の見える健常者が一曲演奏できるようになるより私のような視覚障がい者の場合は膨大な時間を要する。

 視覚障がい者の多くが弱視で点字楽譜を必要としない場合が多いが、私は大変な作業量を引き受けてくれる点訳者のおかげで高難度のクラシック音楽まで挑戦することが出来る。

 これは実に感謝してもしきれないことで、私はプロの演奏家には遠く及ばないが点訳者の努力を無駄にしないためにも練習を続けている。


 こうした生活を一カ月半ほどオーストラリアで過ごし、私の夏休みは終わりを迎え、名残惜しくも後期の講義が始まる。
 ハイスクール時代の懐かしい再会にリフレッシュできた私は少し気持ちが楽になった。
 そして、フェロッソと共に再び日本に戻り、私は日常へとゆったり戻っていった。