心をこめ一番を歌いきり、一呼吸おいて目の前を見つめ、ゆっくりと今の現状を飲み込む。
恵太くんもフラン君も風見さんも私をきょとんとして見ている。
急に我に帰った私はまずいと思った。勢いとはいえ、知り合ったばかりの人の前で、いきなり歌い出すって……どうなのと思う。
静まり返る雰囲気になるのも頷けた。何やってるんだ病院でと、私は思わず三人から目をそらす。少し現実逃避したが、何とかこの状況を切り抜けなければと視線を戻すと、急に恵太君が私の足に抱きついてきて驚いた。
「菜穂!」
恵太くんの顔が見えない。戸惑いながら下を見る。恵太くんはぱっと顔をあげた。
「菜穂って……凄いんだな!」
「え?」
「凄く澄んで綺麗な声で感動した。俺、菜穂の歌声好き!」
笑顔で恵太くんは私にぎゅっとしがみつく。意外な反応に少し困惑してフラン君を見る。
思わず六才児の彼に助けを求めた。
私と目が合ったフランくんは、目を少しきょろきょろさせながらも
「えっと……僕もそう思ったよ」
と言った。目つきが鋭いままだが、ほんの少しその表情が緩んで、フランくんは照れたように俯いた。私は目をぱちぱちさせて、今度は風見さんを見る。風見さんは微笑んだまま、ゆっくりと一度だけ頷いた。その時に、フラン君も恵太くんの隣で私にぎゅっとしがみつく。二人を見てたら……風見さんが頷いてくれたから、何だか凄く嬉しさが込み上げてきた。
「……菜穂ちゃん」
三人とは違う声がして顔を上げる。声のした方に振り向くと、いつの間にか竹川先生が立っていた。
「竹川先生」
何故ここにいるのだろう。もしかして私に何か用事で探してたとか……でもさっき会ったばっかりだよねなんて考えていると、竹川先生は、私を見て微笑み、そっと言った。
「やっぱり……欲しくなっちゃったな」
「え……?」
私はその意味がよく分からず、首を傾げる。竹川先生は、風見さんを見た。風見さんはきょとんとして竹川先生を見ている。竹川先生はまた私を見る。
「また後でね」
竹川先生は背中を向けて、私がエレベーターから歩いてきた廊下の方へと行ってしまった。
「今日はおもちゃくれないのかな」
恵太くんは私に抱きついたまま、竹川先生が歩いていった方向をいなくなった今も見ていた。
「おもちゃ?」
「たまに買ってきて持ってきてくれるんだ。竹川先生はなかなかこの階に来ないから、てっきりそれで来てくれたのかと思ったんだけど」
「そうなんだ……」
「まあしょうがないか。忙しいのかもしれないし……それより、菜穂もう一回歌ってよ」
恵太くんはまっすぐ私を見た。
「うーん……ごめんね。ちょっと恥ずかしくなっちゃった」
「えー!」
私が謝ると、恵太くんは少し頬を膨らます。それが可愛くて私は少し笑ってしまった。私はもう一度、歌詞カードを見てみる。そして顔を上げた。
「風見さん」
「はい」
風見さんは優しい笑顔を浮かべ、落ち着いた様子で返事をする。
「このCD、私も欲しいです」
「え?」
「CDショップにありますよね?」
「え……うーん……」
風見さんは、私の言葉を聞き少し表情を曇らせる。CDショップに行けば手に入るんだと思っていたがそうではないのだろうか。
そんな風見さんを見て恵太くんは
「古い曲でもう買えないとか?」
と聞く。
「……古い?」
風見さんはきょとんとして聞き返す。
「菜穂から聞いたよ? 古い曲だって。俺全然知らなかったよ。フラン知ってた?」
「……知らない」
恵太くんと目が合ったフランくんも、私に抱きついたまま、淡々と返事をする。
「だよな」
恵太くんが振り返り、風見さんを見る。フランくんも同じように見ている。風見さんは少し黙りこんでから、納得するように頷く。
「そっか……菜穂さんくらいの若い年齢だと、一ヶ月前に出たCDも古いってなっちゃうんだね」
「一か月前?」
「うん」
「……全然古くないじゃん」
恵太くんが眉を寄せ、私を見る。何か返事を返さなきゃと思うけど、言葉が出てこない。フランくんはそっと私から手を離して、私の顔を覗きこむ。
「どうしたの? 菜穂お姉さん」
「そんな……そんなわけない。一か月前なんて……」
「え?」
「だって私はこの曲を昔から、小学三年の頃から……」
それを聞き恵太くんは、ぱっと私から離れ、声をあげる。
「小学三年!? え……いやだって、CDは一か月前に出たんだろ?」
「……うん」
「どういうことなんだ?」
恵太くんはフランくんを見る。フランくんはまた少し考える。
「……カバー曲とか?」
フランくんは、風見さんを見た。
「あ、カバー曲じゃないと思うよ。だって歌手名と作詞作曲の名前、一致してるから」
風見さんは、落ち着いた声でそう言う。
「歌手名……そうだ、風見さん。この曲歌ってる人って誰ですか?」
私は風見さんを見る。風見さんはすぐに口を開いた。
「二村樹」
「……え?」
「二村樹だよ」
どくんと心臓の音が鳴った。黙りこんだ私に風見さんは
「知ってる? デビューしたばかりだから、まだ菜穂さんは聞いたことない名前かもしれないけど」
と優しく問いかける。
「二村、樹……?」
私は再度、歌詞カードを見る。その時に見つけた。『流れ星行進曲』の歌詞の一番下にWords&Music 二村樹 と書かれているのを。
歌詞カードを持つ手に力が入って、風見さんの物なのに思わずシワをつけそうになり、いけないと手を緩める。歌詞カードに書いてある名前を何度も確認してしまう。きゅっと心がしまる。この名前は、本当に私の知る人物なのだろうか。内心戸惑いながらも、風見さんの話に耳を傾ける。
「二村樹は今高校一年生でどこかは分からないけど、名の知れた音楽学校に通ってるんだって」
話を聞くと一致してくる。私の頭に浮かぶ人物と。
「凄い人なんだね」
フランくんは呟く。風見さんは話を続ける。
「デビュー曲『流れ星行進曲』は、二村樹のOFFICIAL SITE 限定で予約販売されているCDなんだよ」
「OFFICIAL SITE 限定の予約販売?」
私が尋ねると、風見さんは頷く。
「でもね、この曲は今販売にストップかかってる。まだテレビで一度流れただけなのに、目に止めてる人多いのに」
「テレビに……出たんですね」
「うん。夜の音楽番組で、ラストに。CDはそこで歌う前にOFFICIAL SITE限定で販売するって言ってたから、僕はその後すぐに予約して購入できたんだ。SITEを見る限りだと、この楽曲が配信リリースされる予定もまだないみたい……。テレビの出演予定もないし。人気があると思うから、また予約販売が再開されるはずだけど……今のところ菜穂ちゃんが『流れ星行進曲』を買えるかどうかは、分からないかな」
「そう、ですか……」
購入できないことを率直に残念だと思う。けど風見さんがCDを忘れたことも含め、今は『流れ星行進曲』を聞けない環境であることに少しほっとした気持ちがある。
恵太くんに、風見さんがCDを持っていると聞いた瞬間は『流れ星行進曲』の歌手名を知ることと、可能ならCDを聞けたらと思っていた。だけど今は違う。
私の中で一番好きな曲がCM曲ではなくて、樹が作った曲だと知ってしまった。
恐らくこの曲を作ったのは、風見さんの話す二村樹の経緯からして、私の知らない二村樹なんてことは……ないのだろう。
……よかったのではないか。CDがここにあったら、私は真っ先に聞きたくなる。
あの日、自転車の二人乗りしていた帰り道、樹が口ずさんでいたあの時と同じ声を……。
そして知りたくなる。
何故樹はずっとあの曲をCM曲なんて言って嘘をついていたのか。
「ねえ菜穂さん。今度必ず持ってくるよ『流れ星行進曲』のCD。僕はボランティアでこの病院に来る日以外は仕事をしてるから来週になっちゃうけど……」
少し申し訳なさそうに風見さんが私に言った。その言葉は、先ほどから歯止めをかけようとしている私の気持ちを揺らす。内心で迷い続ける気持ちが隠そうとしても表面に少しずつ現れてしまう。でも分かっている。迷ってはいるけど、私は断れない。
聞きたい。樹がシンガーソングライターになった姿で。
「いいんですか?」
恐る恐る聞いてみると、風見さんは頷く。
「もちろん。今日貸せなくてごめんね」
私は首を振った。凄く感謝した。初対面の私に、細かな気を使ってくれたこと。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
風見さんが微笑んでそう言ってくれたとき、恵太くんは風見さんを見る。
「でもさ、何で二村樹は人気があるみたいなのに、CDに販売制限かかったり、テレビに出ないんだろう?」
「もしかしたら学業優先かもしれないよ。高校生だからね」
「忙しいのか?」
「そうかもしれないね」
風見さんと恵太くんはそう話し、フラン君はそんな2人の会話を黙ったまま聞いてから、私をそっと見た。私は勇気を振り絞るようにぎゅっと手のひらを握りしめた。
「風見さん、あの、また聞きにきてもいいですか?」
「え? ……うん」
「二村樹のOFFICIAL SITEって、今携帯で見ること……できますか?」
「うん、見られるよ」
「あの、もし良かったら今見せてもらえませんか? 私、携帯を持ってないので、OFFICIAL SITEを見られる環境がなくて」
風見さんはきょとんとした。今時、携帯電話を持ち合わせてないことに驚いたのだろう。けどすぐに微笑んでくれた。
「そうなんだ。いいよ。携帯鞄の中だから、ちょっと待ってて」
風見さんは再びリュックサックが置いてある棚まで行き携帯を手に取ると、その場で操作をしていた。風見さんは私のところに戻ってきて、私に見やすいように向きを変えて携帯を差し出す。
「はい。これがOFFICIAL SITEだよ」
差し出してくれた携帯に一瞬固まってしまいながらも両手でそっと受け取り、ドキドキしながら画面を覗いた。
二村樹OFFICIAL SITEと書かれたそこには、広げた『流れ星行進曲』の歌詞カードと同じ景色が映っている。
OFFICIAL SITEと歌詞カードの違いは一点だけ。
OFFICIAL SITEには木にもたれかかり優しい笑みを浮かべて夜空を見上げている人物が横向きに一人映っている。カーキ色のロングコートを着たその人物はアングルが少し遠いけど、そこに映る人物は間違いなく、私の知る二村樹だった。
カーキ色のロングコートを着ている樹は初めて見た。大人っぽい雰囲気で、樹に凄く似合っていると感じた。その写真の下にはNEWSと書かれた枠組みがあり、その中に文章が乗っている。記載を読むと風見さんの話してくれた通り、CDの予約販売は現在終了しており、受付再開については書かれていなかった。OFFICIAL SITEを眺め、私の中で朧気な実感から確かなものに変わる。
樹は夢を叶えたんだ。
言葉では言い表せないほどの温かな思いが込み上げる。
スクロールするとOFFICIAL SITEの一番下には、Civilization Musicと会社名が載っていた。
それを見つけた時に、小絵がくれた最後のメールを思い出す。
『二村が、Civilization Musicのオーディションやめるって言ってるよ』
あの日、樹は……オーディションに行ったんだ。迷いながらもしっかりと夢を追いかけたんだと思った。
『俺ね……将来シンガーソングライターになるんだ』
そう言っていた小学三年の樹が頭に浮かぶと私は目を閉じた。
温かな思いを感じながら、風見さんの携帯をそっと抱きしめた。
「樹……だ」
沸き上がった思いを噛み締めて、目を開ける。風見さんは私を見て、ほんの少し間を開け、口を開く。
「ねえ……もしかして菜穂さんは、本当に彼と知り合いだったりする?」
私は俯いて、言うべきか言わないべきか迷った後、小さく頷く。
「実は彼と私は幼馴染みなんです。物心つく前から一緒にいた……」
「え!?」
「今は、疎遠ですけどね」
私は何とか感情を押し込めて、顔を上げ、少し笑って携帯を風見さんに返す。
「ありがとうございました」
携帯を受け取った風見さんは、何故か少し心配な様子で私を見ている。恵太くんとフランくんも黙ったまま私を見ていた。まずい。またみんなを重い雰囲気にさせてしまっている気がする。引き上げよう。歌詞カードも返そうと開いたままのページを閉じる。そこで、目を見開く。歌詞カードの裏側中央には、夜空の景色を背景に、二村樹と名前が書かれていた。驚いたのはその名前が書いてある隣だ。
「……これ」
思わず人差し指でなぞる。二村樹の名前の隣には……。
「金鯱……だ」
小絵が教科書の裏に描いていた金鯱が、何故か同じ姿でそこにいた。
どうしてここに。
「二村樹のトレードマークになってるよ」
「トレードマーク?」
「何でサボテンだったのか僕には謎だけどね。何でも大切に育ててるらしいよ」
私は落書きのサボテンを見る。心は少し痛いままだ。
自分の気持ちなのにどうすればよいのか分からない。
これ以上、樹の場所に踏み込むべきじゃないと胸騒ぎがしている。でも……。
「風見さん、この歌詞カード貸してもらえませんか。風見さんが次に病院に来る一週間後まで……。期間が長すぎますか? だめですか?」
「ううん、大丈夫。どうぞ」
「良かった。ありがとうございます。……では、私はこれで」
そう言うと、恵太くんが私に歩み寄る。
「帰っちゃうのか菜穂」
「また来るね」
無理やり帰ろうと背を向ける。背を向けてから、せめて明るく手を振ってあげればよかったんじゃないかと思った。でも私は歩き始める。そこで風見さんの声がする。
「ねえ菜穂さん、待って!」
その声で思わず立ち止まり、戸惑いながらも私はゆっくりと振り返った。
「……はい」
「やっぱり今日の夜、『流れ星行進曲』のCD持ってきてあげるよ」
「え?」
「この保育ボランティア終わってから。遅くなるけどいいよね?」
「でも、風見さんはお仕事で忙しいんじゃ……」
「彼は……二村樹はきっと、菜穂さんの大切な人なんだよね?」
聞かれて私は黙りこむ。大切な人……そうだ。でも大事だなんて言える資格は今の私にあるのだろうか。
突然、樹のことが嫌いと酷いことを言った……私に。
何と言葉を返そうかと悩んでいると
「菜穂さんの病室どこ?」
と風見さんが聞く。
「どこって……」
「何階の何号室?」
根気よく聞いてくれる風見さんに、もはや抗う理由がない。
「……六階の六○三号室です」
「そう。菜穂さんの病室はCD聞ける環境ある?」
「いえ……」
「そう分かった。じゃあその機械も含めて持っていく。また後でね」
風見さんは手を上げた。その時に恵太くんは叫ぶ。
「菜穂、俺もまた遊びに行くからな!」
恵太くんがそう言い、フランくんは何も言わず恵太くんに賛同しているというように、私に向かってこくんと頷いた。
「うん……」
私はそっと微笑む。微笑むと恵太くんが手を振り、フランくんも手を振ってくれる。
何なのって失礼ながらに思う。
こんな私に風見さんも恵太くんもフランくんも優しすぎて、心に温かさが染みこんできた。