ふっと目が覚めると真っ白な天井が見えた。
時計を見ると朝の七時だった。
カーテンを開けると秋晴で、住宅街の向こう側に海が見えた。
樹のことは考えないようにしていた。なのに何故あんな夢を見たのか分からない。
病院に変えてから半年が経ち、樹や青山や小絵ともあの日から連絡を取っていないままだ。
携帯電話を持たなくなったのは、この病院にきた次の日。
私が見た最後のメールは小絵からで、内容は
「二村がCivilization Musicのオーディションやめるって言ってるよ」
というものだった。返信は、しなかった。
空を見上げた。
さっき見た夢のせいで忘れていた記憶が蘇る。自転車を二人乗りしていた時に歌っていた姿も思い出した。
「遠くまで行ける靴を履いて
あの流れ星を見に行こう」
私ははっとした。歌わないようにしていたのについ口ずさんでしまった。
忘れよう、思いと矛盾するように窓側に置いてあるものがある。
それは小さくて、トゲだらけで……可愛いもの。
時を経て少しずつ成長している、あの日貰った金鯱を見てしまっていて、ため息をつくと
「菜穂ちゃんって綺麗な声なんだね」
と声がして振り返る。
「……竹川先生」
竹川幹也先生は僅かにもたれるようにして扉近くに立ち、微笑んで私を見ていた。
「驚いたな。菜穂ちゃんの歌声、透き通ってる」
「そうですか」
適当に相づちすると
「本当にそう思ったよ。ねえ、もう一度歌ってくれない?」
と言うので、私は首を振る。
「嫌です」
はっきりとした理由は言わずに再度断ると、竹川先生は笑った。
「そっか、残念だな」
静寂が訪れて、私はちらりと竹川先生を見た。
「俺は昔から声が綺麗な人が好きなんだよね」
それを聞き、私は眉を寄せて、柔らかく微笑む竹川先生をじっと見た。
「先生……ナンパですか?」
「だったらどうする?」
「ちゃんとお仕事してください」
「菜穂ちゃんは手厳しいね」
「そんなこと言ってるから、先生は軽いなんて変な噂が広まるんですよ」
「火のないところに煙は立たぬだもんね」
「……自分で言うんですね」
少し呆れていると、竹川先生はくすりと笑った。
ふと二人で空を見上げた。
「菜穂ちゃんがここにきて半年か」
これまでのこと、思い返せば色々ある。
「私は、いつか死にそうです」
「菜穂ちゃん」
「でも今後も乗り越えて見せますよ」
なるべく、過去は振り返らないようにして。
「強いな、菜穂ちゃんは」
私はそれを聞いて、頷く。
「強いですよ、私は」
「……検診してもいい?」
「はい」
聴診器を私の体に当て検診して、竹川先生は
「大丈夫だね。じゃあ菜穂ちゃん、何かあったらすぐ呼んでね」
と言って軽く手を振り、病室を出ていった。
出ていった……かと思うと、すぐにひょこっと竹川先生は顔を出した。
「何ですか」
少し笑って、竹川先生を見る。
「忘れたことがあって」
「忘れたこと?」
「さっき菜穂ちゃんが口ずさんでた曲のタイトルって何?」
竹川先生は微笑んだまま私の回答を待っていたが、私が黙ったままなので、少し目をぱちぱちさせて首を傾げた。いけないと私は口を開く。
「実は分からないんです。……でも、何かのCM曲みたいです」
それを聞くと、竹川先生は何度か頷く。
「なるほど。……だから何か聞いたことあるって思ったのか」
「知ってるんですか? この曲」
「うん」
「……古い曲ですけど」
「凄く朧気で、どこで聞いたのかは忘れたけどね。ちなみにどれくらい前の曲なの?」
「曖昧な答えになりますが、私が小学三年生の時点で知ってた頃の曲です」
「小三……つまり七年前の曲で、僕が二十六才の時のだ? そんな古いんだ」
「そうなりますね」
私がきょとんとしてそう言うと、竹川先生はまた笑う。
「教えてくれてありがとう」
「お役にたてなくて、すみません」
「いいよ。じゃあね」
竹川先生はそう言うと、顔を引っ込めて行ってしまった。
竹川先生が去った後、私は手帳を手に取るが、ためらって閉じ、引き出しからノートを取り出した。
赤のノートは英語の書き込み用、青のノートは以前樹に借りた英語ノートを写したものだ。
入院で返すのが遅れ、お母さんに頼んで、樹のノートは樹の家のポストに入れてもらった。
返すのが遅れたことや直接返せなかったことを悔やむことがある。
『勝手にしろよ!』
あの日の声。
樹とさよならできたのに、何故痛むのだろう?
未だに心は矛盾を繰り返している。
「大丈夫」
誰かが言っていた。
思い出は、いつか色褪せる。
それを待とうと思った。
気持ちを切り替えて英語の勉強をしようとしたが、名前の隣に小絵が描いた金鯱を見てしまう。
一瞬で目をそらし、隠すようにノートを広げる。
ため息をつくと、病室の外から足音が聞こえ、扉の方を見ると、お母さんが手提げの紙袋とビニール袋を片手に持って私を見た。
「菜穂、着替え持ってきたよ」
笑顔を浮かべるお母さんに、私も微笑む。
「ありがとう、お母さん」
「梨を買ってきたんだけど、食べない?」
お母さんはビニール袋を軽くあげ、私に見せる。
「……食べる」
笑って頷くと
「良かった」
とお母さんはベッドの近くの椅子に座る。
ビニール袋を膝の上に置きゴミ箱がわりにして梨の皮をむきはじめた。私もベッドに体育座りしてお母さんの姿を何となく見ていると
「今日で、半年なんだよね」
とお母さんは突然そう呟いた。
さっきのやり取りを思い出して、少し笑う。
「竹川先生と同じこと言うね」
「え、そうなの?」
お母さんは、目を丸くした。
「うん」
ふと視線を下に落として、ノートを見るとお母さんもノートを見る。
「英語の勉強、頑張ってるね」
「全然覚えてないけどね」
「樹くん、今何してるのかな」
「……何してるんだろうね」
返す言葉が思い付かなくて、お母さんの会話をそのまま繰り返す。
「実は今日ね、お母さんの夢に樹くんが出てきたの」
「樹が?」
「うん。菜穂が二回目の入院した時。小学生五年の樹くんだった」
「……それ、どんな夢だったの?」
少し前のめりに聞いてしまっていた自分に気づき、すぐに姿勢を戻す。お母さんは、少し目線を下に落としてから言う。
「ごめんね、菜穂」
「え、何が?」
「『もし菜穂がどっかいっちゃったら、どうする?』」
「え……?」
「菜穂が入院して二日後に家で病院に持っていく荷物を整理してた時、樹くんが学校のプリントを届けに来てね、受け取った玄関先で帰ろうとした樹くんに思わず聞いてしまったことが一度だけあるの。……今日見たのは、その夢だった」
「そう……なんだ」
戸惑いを隠せない。
「ごめんね。菜穂の入院のこと気づかれるって分かるのに、あの時、菜穂が入院した不安から思わず口に出ちゃって……まずいと思ったけれど、でも樹くんからそんな様子は感じられなくて……言ってた。まあ、菜穂はすぐ迷子になるから、おばさんのその不安はわかるって」
「……樹め。迷子になったことなんて、過去に一回もないのに」
そう呟き、少しむっとすると、お母さんは少し微笑んだ。
「樹くん言ってたよ。もし菜穂が目の前からいなくなったら、俺はすぐ探しにいくって」
「え……?」
「絶対見つけるって」
「そう……なんだ」
樹の言葉を想像すると、温かな気持ちが徐々に染みてくる。単純に嬉しい。そして……少し苦しい。
お母さんは話を続ける。
「……それでももし見つけられなかった時は、一つだけ菜穂にかけたおまじないがあるから大丈夫って」
「おまじない?」
「おまじないの内容については教えてくれなかったけど、菜穂なら分かるのかな?」
「おまじない……」
考えてみる。でも思いあたることがない。そもそも樹とおまじないの話をしたことが過去にあっただろうか。
「何だろう?」
「ねえ、菜穂。お母さん、夢の中で樹くんに呼ばれたのかな?」
「え……?」
お母さんは唐突にそんなことを言い出し、どういう意味かと考えていると
「気になるなら、樹くんに直接聞いてみたら?」
「え?」
「連絡とってみればいいんじゃない?」
お母さんは微笑みながらも、何故か少し真剣な表情を浮かべ、真っ直ぐ私を見た。
それを聞き少し戸惑いながらも、私は首を振ってから、口を開く。
「知ってるでしょ? 私は携帯を解約したの。樹の電話番号だって覚えてないし……連絡はとれないよ」
「もし菜穂が樹くんに会いたいと思うなら、手紙でも出せばいいじゃない。住所覚えてるでしょ? お隣だからうちとあまり変わらない住所だし」
「だめなの」
「だめ、なの?」
「もう樹には会わないって決めたから。迷惑かけたくない。それに樹も、私のことなんて……もう忘れてる」
「菜穂……」
お母さんの表情が、少し曇る。でも私は意見を変えない。
「連絡はしない。今は泣かずに向き合って病気直すことのが大事だし」
「……そう」
お母さんはまだ何か言いたそうに見えたが、視線を梨に向けた。私は口をきゅっと閉じる。
「……むけた」
お母さんはペティナイフで慎重に食べやすいように切り分け、お皿の上に乗せた。
「さあ食べよう。この梨は甘いと思う」
お母さんは表情をぱっと切り替え、また微笑んだ。
「うん」
私はまだ少しもやもやしながら、お母さんが切り分けてくれた梨のひとつを手に取り、一口かじってみた。
「美味しい」
口をもぐもぐさせている私を優しくお母さんを見てると、さっきまで感情的になりそうだった気持ちはすっとなくなる。
「お母さんの分は気にせずに、菜穂がたくさん食べてね!」
「……うん」
お母さんは笑顔で頷いた。きっと色々と不満を思っただろうに。でも私に心配かけないように笑って、そして私の気持ちを受け入れてくれる。本当上手いよね、私を扱うのが……なんて思う。
「何菜穂、じろじろお母さんの顔見て」
「いや……何でも」
口には出せなかったけど、内心で呟いていた。……いつもありがとう、お母さん。
その時ヴーと音がして、お母さんはポケットから携帯を取り出す。人差し指で画面をタップした。
「どうしたの?」
「パート先から。急な欠勤でたから入れないかって。菜穂との時間が減るのは嫌だけど、また明日の朝来るから」
「うん」
お母さんは立ち上がる。
「じゃあまたね。菜穂」
「頑張ってね。仕事」
「うん!」
お母さんは病室を出ていった。
「……片付けよう」
そっと立ち上がる。流し場はこの病室内の入り口近くにある。すぐに洗い終え、お皿とまな板を拭き終えると、あった場所に戻して、ふうと息をはく。
そうしたら、何だか急に喉が乾いてきた。
「買いにいくか」
私は財布を持ち、エレベーターに向かう。
七階立てのこの病院で私の病室は六階。自販機は一階にもあるが三階にもある。
エレベーターに乗り三階のボタンを押す。チンと音が鳴って、すぐ降りた。
後ろでエレベーターの扉がしまったところで、私は目をぱちぱちさせる。
三階の自販機はまっすぐと続く廊下を歩くと、突き当たりに見えているはずなのに、長い廊下の突き当たりは壁で何もない。
「あれ?」
私は振り返る。二台あるエレベーターの間の壁に、大きく四の数字を見つけて状況を理解する。
四階でうっかり降りてしまっていた。
「あー……」
ちゃんと見れば良かったと思いつつ、もう一度エレベーターを呼ばなくてはとボタンに手を伸ばす。けれどやめた。そういえば、入院してから四階を訪れたのは初めてだった。何となくの好奇心で私は廊下を進んでみることにした。
一本道の廊下を進み突き当たりにさしかかる。そこを右に曲がると、私は驚いた。
車がすれ違えるくらいの広さがある廊下。一○○メートルほど先の突き当たりに大きな吹き抜けの窓が広がっているのが見えた、光が差し込んでいる。
「すごい」
特に何かあるってわけじゃない。両側に病室の扉が同じ間隔をあけて向こうに続いているだけだ。でも、私の階の廊下は人がすれ違える程度の廊下なので、この開放的な空間には少し感動する。
「へえ……」
きょろきょろしながら歩いていると、この廊下の突き当たり近くの曲がり角から、保育園の年長くらいの子が赤色の風船を繋いだ紐を持ち、ふわふわとさせてこちらに向かってくる。
くりっとしたその目と視線が合う。
髪型もショートで、男の子か、女の子なのかどっちなんだろうと思っていると、その子は少し笑って、風船を持つ手とは逆の手をあげ、私に手を振ってくれた。私は少し戸惑いながらも手を振り返すと、その子はさらに笑顔をこちらに向けてくれた。
「何ていう名前なんだー?」
こちらに向かって歩きながら唐突にその子が叫び、私は少しきょとんとしながらも笑う。そしてその声でようやくこの子が男の子だと分かった。
「私?」
「うん!」
「菜穂だよ。澤田菜穂」
少し声を張り、答えると
「菜穂ー!」
大きく手を振って、風船をさらに揺らして走ってきた。呼び捨てされたのが気にならないくらい、明るく澄んだ声で私の名前を呼ぶのを見て、可愛いと思った。
「菜穂って、どういう字なのー?」
「字?」
唐突に聞かれた言葉に、私はきょとんとする。
「漢字ー。どう書くのー?」
「漢字? うーんとね」
何故そんなこと聞くんだろうかと思いつつも、目の前まで来た彼に目線を合わせるように屈み、左の手のひらに右手の人差し指で書く。
「こう……かな」
男の子はうんうんと頷く。そして自分の手のひらに指先で書いて覚えようとしている。まだ幼いのに漢字に興味があるようだ。
「俺はね、くのけいた。漢字はね……」
私の手をとり、恵太くんの人差し指が当たる。滑らかに動かす指先から、久野恵太という漢字だと分かった。
「宜しくな、菜穂」
私の手を離し、にっと笑う恵太くんが、本当に憎めない。
「うん、宜しくね」
四階なんて普段は来ないからまた会えることはないだろうと思いながらも、私はそう答える。
「これから病院探索にいってくるとこなんだー。またなー菜穂!」
そう言い鼻唄を歌いはじめる恵太くんが立ち止まったまま私に手を振る。
病院探索なんて、恵太くんはどうやら私と同じことをしているようだ。
それにしても凄いなと思った。
恵太くんは人見知りが全然ない。
犬や猫など動物の絵がついている可愛いパジャマを着ているからここに入院している子なんだろうけど、明るく元気そうに見える。
恵太くんは鼻唄混じりに歩き出した。
私もこのまま真っ直ぐ病院探索しようと歩き出す。
でもすぐに、あれ? と思い振り向く。鼻唄を歌う恵太くんの背中を見た時、風船をゆらゆらさせながら、恵太くんは歌い出したのだ。
「遠くまで行ける靴を履いて
あの流れ星を見に行こう」
一瞬時が止まったのかと思った。何故か動けなくなった。何が起きたか少し混乱する。けど、すぐに状況を飲み込む。
歌った。今、恵太くんは確かに歌った。あの曲を。