「ありがとうございました!」
 部活が終わり白い息と一緒に「腹減ったあ」と零すと、チームメイトたちが「俺もー!」とグッと伸びをする。毎日のことだが体はくたくたで、だがそれも大好きな野球をしたからだと思うと心地よくもある。
「コンビニでなんか食って帰らね?」
「賛成ー」
陽太(ようた)は? どうする?」
「俺も行く! 唐揚げ!」
 皐月(さつき)を夜中に俺の家に連れてきて、朝にはおにぎりを握って。あの日から二週間ほどが経ったけど、部活部活の日々で料理の特訓は一向にできていない。せめてもとひたすらに唐揚げを食べて、味の研究に勤しんでいる。
「陽太、最近そればっかじゃん」
「まあな」
 そうと決まればと部室に荷物を取りに行き、誰より早く外へ出る。前回とは違うコンビニに行って、味の違いを比べてみたい。そう思ったんだけど。
 俺の意識を全て、グラウンドの外に立つ人物が奪う。
 皐月だ。皐月がいる!
「っ! 俺やっぱコンビニパス!」
「は?」
「じゃあな! また明日!」
「ちょ、陽太!?」
 辺りはもう薄暗いけど、俺が皐月を見間違えるなんてない。近づくにつれハッキリとしていく輪郭が、俺の胸を逸らせる。あとほんの10メートルくらい。そこまで走ったところで、俺の足は急ブレーキをかけた。
 暗い影に服を掴まれたみたいに動けない。
「……は?」
 俺はどうにも皐月ばかりらしい。皐月がひとりじゃないことに、今の今まで気づかなかった。よそよそしい間隔が空いてはいるものの、隣に女子がいる。皐月が女子と話しているところなんて、出逢ってからこっちほんの数回しか見たことがないのに。
“明日皐月に彼女が出来るかもじゃん”
“いや、全然そんなイメージ湧かないわ。ずっとお前がいちばんだよ”
 胸に蘇るのは、夜中に電話した日の会話だ。皐月はそう言ってくれたけど、宝物にして何度も反芻しているけど――目の前の光景が俺を支配する。
 皐月の好きな人だったらどうしよう。今この瞬間に惚れていたらどうしよう。そうじゃなくたって、あの女子が皐月を好きで猛アタックを仕掛けてるのかも。
 皐月のいちばんは俺だって言ったのに。ずっとずっとそうだといいって、夢のように思ったのに。
「皐月!」
 部活中より大きな声が出たかもしれない。焦りが前面に出ていて、心の端っこに恥ずかしさが芽生える。でもそんなものはどうだっていい、皐月の視線を意識を、一秒でもはやく俺に向けたかった。
「あ、陽太。……お疲れ」
 皐月はすぐに俺を見た。なのにどこか窺うように、隣の女子へと視線を戻した。歯がゆく思いながらつられてそちらを見れば、女子はどこか気恥ずかしそうに顔を伏せる。
 ふたりがなにを話していたのかすら分からないから、焦りばかりが募る。いい雰囲気、なんて死んでも思ってやりたくないけど。突然現れた俺は、ただただ部外者のようだ。
「皐月、帰ろ」
 手首を掴むと、皐月の靴が躊躇したようにコンクリートをガリッと掻いた。引っ張れば女子のほうを振り返って、ここに留まろうとするみたいだ。
「あ、あの!」
 女子も困ったように引き止めてくる。
「あー、ごめん。皐月と俺、この後約束あってさ」
 だけど言葉を遮って、俺は嘘をつく。最低じゃんって、ハッキリ分かってる。余裕がなくて、顔はみっともなく歪んでるんだろう。でもそんなの、どうだってよかった。

「陽太! なあ、陽太ってば!」
 早足で歩いて、学校から百メートルは離れたところで立ち止まる。ずっと呼んでくれていたのは分かってたけど、あの子の前から少しでも遠くへ行きたかった。
「皐月……」
 振り返ると、運動が苦手な皐月は息を切らして片手を膝についていた。もう片手は俺が握ったままだ。離したくなくて、そのまま指先に手を滑らせる。びっくりするくらい冷たくて、躊躇うことなく握りこむ。
「陽太、あのさ」
「……うん」
 なにを言われるんだろう。引っ張ってきたことを責められるだろうか。触れている指先には、握り返すように力がこめられる。俯いているから、表情は見えない。
「やっぱさ、オレが喋ってると面白くねぇの?」
「……え?」
「その、さっきの子と」
 まさかの言葉に、思わず肩がびくりと跳ねた。まさに皐月の言う通りだからだ。
 それはつまり、バレているってことだよな。皐月が好きだって。だから女子と喋っているのが面白くないのかって、皐月は聞いてるんだ。
「な、なんで分かんの!?」
「なんでって……やっぱりそうなんだな。好きなんだろ」
「ひえ……」
 やっぱりだ、やっぱりバレている。
 いつからなんだろう。どうしよう。こうなったら告るしかないのかな。
 初めての恋だから、絶対に失くしたくない親友だから、どう動けばいいのか分からない。でも、違うとは言いたくない。皐月への想いは俺の中でとびきり大きなものだ、否定なんかしたくない。
 自ずと背筋が伸びて大きく息を吸うと、冷たい空気が鼻の奥を突き刺す。
「……う、うん。えっと、俺、実は……」
「っ、じゃあ! じゃあなんで振ったんだよ」
「……え?」
 振った? 誰を?
 頭がこんがらがる俺の手を振りほどいて、皐月のこぶしが俺の胸にトンと当たる。
「えっと、ごめん、俺全然分かってないかも。振ったって、俺が? 誰を?」
「誰をって……さっきの子に決まってんだろ。お前なに言ってんの」
「…………? マジでごめん、意味分かんない。さっきの子を俺が振ったってこと?」
「振っただろうが。告られたじゃん、ついこないだ」
「……え? あ、さっきの子、こないだの子なの? うわ、全然気づかなかった」
「は? ……マジ?」
「めっちゃマジ」
 皐月のことしかろくに見ていなかった。女子という認識しかできていなかった。
 大真面目に頷くと、皐月は脱力したようにその場にしゃがみこんだ。俺は慌ててそれを追う。皐月の顔が見たくて覗きこんでも、叶わなくて寂しい。代わりに、というわけじゃないけれど、膝に乗っている手を再び握った。
「あの時の子だって分かって、オレと話してんのが面白くなくて、ここまで引っ張ってきたのかと思った」
「そうだったんだ」
「……付き合わないって言ってたのに、今更妬いてんだなって」
「うん」
「なんなんだよ陽太のバカ、って、思った」
「うん、そっか」
 心を少しずつ渡してくれるみたいに、皐月は話してくれた。抱きしめたい衝動に駆られる。手は繋いじゃってるけど、それはさすがに駄目なんだっけ。親友の“普通”ではないんだっけ。
 ぐっと堪えながら繋いでいる手にもう片手を添えると、皐月がゆっくり顔を上げてくれた。
「なんかオレ、めっちゃハズイこと言ってるよな?」
「そうかな。嬉しいことの間違いじゃね?」
「なんだそれ」
「俺が嬉しいから」
「……人が勘違いで凹んでんのに喜んでんじゃねえよ」
「はは、ごめんって」
 そう言って皐月は、俺の額にデコピンをした。全然痛くないへなちょこなデコピンは、俺の胸をくすぐるだけだ。むにゅむにゅと緩むくちびるが、うまく誤魔化せない。

 すっかり暗い道をふたりで歩く。どさくさに紛れて繋いだままの手を、とがめないでいてくれることが嬉しい。あんなに冷たかった指先も、今じゃすっかり同じ温度だ。
「あれ、じゃあさっきのどういう意味?」
「ん? さっきのって?」
 腹が減っただとか、今日の部活での出来事とか。他愛もないことを話していたら、皐月が見上げてきた。首を傾げて問い返せば、皐月の目がすっと細められたのが暗がりの中でも見えた。
「オレがあの子と喋ってると面白くないのかって聞いたら、なんで分かんのって言ったよな」
「あ……」
「好きな人いそうな雰囲気だったよな。オレ、知らねえんだけど」
「あー、っと、それは……」
 しまった、そうだった。告白してしまいそうな寸前で、勘違いに気づいたんだった。あの瞬間は確かに告ろうと思ったけど、今はその勇気はどこかに引っこんでしまった。
 どうしたものかと悩んでいると、繋いでいる手の皐月の親指が、俺の袖に潜りこんできた。
「っ、皐月?」
「陽太もオレがいちばんだって言ってくれたけど、そうだよな。好きな子くらいいるよな。それが叶ったらそん時はマジで、いちばんは諦めなきゃ……なんだよな」
「……っ!」
「え……陽太? どうした?」
 あまりの衝撃に、俺は空いた手で顔を覆って夜空を仰いだ。
 可愛すぎる、さすがに可愛すぎる、皐月が。甘えるような指先も、尖ったくちびるも、俺の心臓ど真ん中に文句なしのストライクだ。
 好きだと言ってしまいたい。皐月の仕草ひとつひとつが、恋のせいだとしたらどんなにいいだろう。でもきっと、そんなんじゃないから。慎重でいることしか、俺にはできない。
「皐月~、ちょっと肩貸して」
「え? う、うん、いいけど……大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかも」
「ええ、どした? 座れるところ行くか?」
「いい、これが落ち着くから」
 大胆なことをしているなあと、よく分かっている。だけど、うっかりしたら好きだと言ってしまいそうな自分を押し留めなきゃいけない。それから、不安を抱いている皐月に、今渡せるだけの言葉を伝えたい。
「さっきの話だけどさ」
「うん」
「好きな人、は、いる」
「……へえ」
 皐月が息を飲んだのが、声からもくっついている体からも伝ってくる。顔を上げて、繋いでいる手の甲を親指で撫でる。逸らされてしまった顔に触れると冷たくて、なんだか泣きそうになる。
「でも、それでも皐月がいちばんだから。それは絶対に変わんない」
「そんなん嘘だろ」
「ううん、嘘じゃない。誓える」
「……んだよそれ」
「矛盾してるって思うよな、でもほんとなんだ。信じてほしい」
「…………」
 例えば勘のいい人だったら、これだけで恋心に気づかれてしまうのだろうか。皐月にも察してほしいような、そのまま分からずにいて、いちばんだということだけ受け取ってほしいような。相反する気持ちに俺もぐらぐらと揺れながら、ひたすらにまっすぐ皐月を見つめた。
「……わ、かった。信じる」
「っ、ほんと?」
「正直意味は分かんねえけど……陽太がそう言うんならそうなんだろ。だったらオレは、信じるしかねえもん」
「っ、うう、皐月~!」
「はは、分かった。分かったから、そんな顔すんな。な?」
 皐月はそう言って、俺の髪をくしゃくしゃと両手で撫でてくれた。そんな顔ってなんだろうと思ったのは一瞬だけで、ツンと痛んだ鼻を慌てて啜った。皐月が信じてくれること、笑顔が戻ってきたこと。それが感極まるほどに嬉しい。

「そうだ、コンビニ寄っていい? 俺、コンビニの唐揚げ食おうと思っててさ」
「うわ、オレも食いたい」
「決まりだな」
 気を取り直して、再び歩き始めようとした時だ。袖をツンと引かれる感覚があった。何事かと振り返ったのと同時、俺の指先を皐月の手が包んできた。一瞬だけ俺を見上げた皐月は、すぐに視線を逸らす。
「……さっきまで繋いでたから、急に離れると寒い」
「…………」
 あまりの可愛さに絶句する。どうしてこんなに可愛いのだろう。ほんとに、マジで。
 また心臓がぎゅうっとなって、体中に散らばるみたいに恋心が充満していく。
「……嫌だった?」
「っ、嫌なわけねぇじゃん! めっちゃ噛みしめてた」
「はは、なにをだよ」
 皐月が好きだ。すごく、すごく。これ以上はないってくらいに好きなのに、毎日毎日更新してしまう。
「皐月〜」
 じゃれるように肩をトンとぶつける。
「ふ、なんだよ。陽太ー」
 同じ仕草が返ってきて、顔を見合わせ笑い合う。
 本当は両想いになれたら最高だけど。今はこんな瞬間を、何度も何度も味わっていたい。さりげなく指先だけを恋人のように繋いで、またひとつ笑顔を重ねる。
「なー皐月、またお泊まり会したい」
「あ、オレもしたい」
「マジ!? 約束な!」