「……きー、皐月、朝だぞ」
「んん……」
 体を揺さぶられて、ゆっくりと目を開ける。見慣れない天井に、寝ぼけた頭ながら疑問に思っていると。目の前に陽太の顔が現れた。
「うわっ」
「はは、起きた?」
「……あー、起きた」
 そうだった、昨夜――というかほんの3時間ほど前に、陽太の家に来たんだった。
 
 ――夜中の3時頃、オレたちは忍び足で陽太の部屋へと上がった。じゃあオレは床で寝ると言ったら、絶対ダメだと陽太は拗ねた。ダメって言ったって、と戸惑ったオレを陽太はベッドに引きずりこみ、ガードレールのところで話した時みたいに、また指先を握られて。あったけー、と笑って、陽太はすぐに寝てしまった。
 ひとりでいるとどうしても、思考は深い闇へと転がっていく。陽太に彼女ができたかもしれない、そうしたら、オレにとっての“いちばん”を失ってしまうのかもしれないと、昨夜はひどく怖かった。苦い想いを持て余して、ああ、このまま眠れない夜を過ごすんだな、と思っていたのに。
 強張っていた心が、途端にゆるむのが分かった。外は変わらず夜なのに、陽太の隣はいつだってあたたかい。暗闇に光が射す。陽太の寝息に引きずられるように、オレもすぐに瞳を閉じた――

「陽太、もう着替えてんじゃん」
「うん。ほら、皐月も着替えて」
「……まだ眠い」
「んー……母ちゃんに皐月がいるの言ってあるから、後で出てもいいけど。どうする?」
「……陽太と一緒に行く」
「じゃあ頑張れ。ほら」
 陽太に手を引かれて立ち上がり、借りていたスウェットを脱ぐ。陽太は慌てたように顔を逸らして、オレの学ランがかけられているハンガーのほうへと向かった。
 別に、着替えくらい見られたって気にしないのに。変なところ律義だよなと思いつつ、制服を受け取って手早く着替えを済ませる。
「着替えた?」
「うん」
「じゃあこれあげる」
「え、おにぎり? ってデカっ!」
 何か分からないまま受け取ったら、おにぎりだった。両手で持ってもずしりと重く、思わず目を見開く。俺が作った! と陽太は得意げだ。
「本当は一緒に下で朝ごはんって思ってたんだけど、皐月よく寝てたから。学校に着いてからでも食べてよ」
「マジか……めっちゃ嬉しい、ありがとな」
「へへ、どういたしまして。よし、学校行くか!」

 階段を下りると、音が聞こえたのか陽太のお母さんが顔を出した。夜中にこっそり家に上がったから、正直気まずい。
「おはよう」
「あ……おはようございます」
 だけど、陽太のお母さんは笑顔で迎えてくれた。そう言えばさっき、オレがいることは伝えてあるって陽太が言ってたっけ。
「ねえ皐月くん。よかったら今度、夜ごはんでも食べにおいで」
「え……」
「おにぎりはもうもらった? 陽太、皐月くんにもっと色々作りたかったみたいでね」
「ちょ、母ちゃん! 余計なこと言うなって!」
「はいはい。そういうわけだから皐月くん、遠慮しないで来てね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「皐月、早く行こ!」
「いってらっしゃい」
 陽太はちょっと顔を赤くして、急かすようにオレの手を引く。見送ってくれる陽太のお母さんに会釈して、陽太に続いて外へと出る。
「もー母ちゃんマジ最悪」
「オレはいいこと聞いたなって感じだけど」
「ええ、マジ? でも俺別に料理得意なわけじゃないからさ、特訓してから自分で誘いたかったのに」
「ははっ」
 がっくりと項垂れる陽太はちょっとかわいそうだが、オレのためにそんなに考えてくれているのかと思うと、どうしても喜びが勝ってしまう。陽太の短い髪をぽんと撫でると、恨めしそうな目が見上げてきた。
「笑ったな皐月ぃ……」
「ごめんごめん、でも楽しみにしてる」
「……マジ?」
「すげーマジ」
「じゃあ特訓頑張る!」
「おう」


「じゃあ朝練行ってくる」
「頑張ってな」
 学校に到着し、グラウンドへと向かう陽太を見送る。何度も陽太が振り返るので、オレも何度も手を振る。部室に入ったのを見届けてから、ようやく校舎へと歩き出す。
 こんなに朝早く学校に来たのは初めてだ。まだあまり人もいない中、少し離れた場所からグラウンドを見つめる女子の姿に気づく。忘れることはない、昨日陽太に告っていた後輩の子だ。
 横顔には、たっぷりと残る未練が見て取れる。可愛いらしいから、きっとモテるんだろう。そんな子が陽太を好きで、でも陽太は断った。安堵してしまった自分に、正直罪悪感はある。余程のことがない限り、恋愛のような終わりは友達にはないはずなのに。今までだって陽太が告られているのは知っていたのに、最近は妙に胸がザワつく。得体の知れないそれが、オレは煩わしい。
 
 教室につくと、まだ誰もいなかった。廊下側の自分の席を素通りして、窓際真ん中あたりの陽太の席に座る。ここからなら、グラウンドの様子がよく見えるからだ。
 トラックを走る大勢の中から、すぐに陽太を見つけられる。オレの特技のひとつだ。一周走るのを見届けて、リュックからおにぎりを取り出す。
「ふは、ほんとデカすぎ。いただきます」
 ラップをはがしかぶりつく。海苔で巻かれたおにぎりは塩味のシンプルなもので、ひとくちだけで美味い。グラウンドを眺めつつ食べすすめると、具が入っていることに気づく。
「え、唐揚げじゃん」
 好きなおかずと言ったら、オレは絶対に唐揚げだ。陽太もそれをよく知ってくれている。
「陽太のヤツ……最高」
 今更だけど、写真に撮っておけばよかった。悔やみつつ、ひとくちひとくち大事に味わう。食べ終わる頃には満腹になっていて、ごちそうさまと手を合わせ、机の上に肘をつく。
 グラウンドでは陽太たちが素振りやキャッチボールなどをしていて、大きな掛け声がここまで届いてくる。その中に混ざる陽太の声だってすぐ分かる、得意げな気分だ。だが視線を動かすと、あの後輩の女子が今もいることに気づき、みるみると暗い気持ちが襲ってくる。
 昨日の今日で諦められなくて、ただただ見つめているなんて健気だよな。それに、なんてったって男を見る目がある。陽太は良いヤツだし、かっこいいし。ふたりが並んで立ったら、お似合いだって言われたりするのかも。
「また告ったりすんのかな……」
 陽太がそばにいないと、オレはどこまでだって沈んでいく。親友でいられるのが不思議なくらい、オレと陽太は正反対だ。ひとりだと途端に暗い想像が襲ってきて、坂を転がるように簡単に落ちていく。陽太だけが引っ張り上げて、照らしてくれる。
 分かっている、陽太は彼女ができたって、友だちを大事にするヤツだ。だから大丈夫、ずっと親友でいられる、心配するほうがおかしいって。でもそれでも、いちばんが奪われるのは想像するだけで苦しい。
 気が重くなって、陽太の机に突っ伏す。
「ガキだな、オレ」
 誰もいない教室に自嘲はやけに響いて、そうだそうだと責め立てられるみたいだ。

 
「……つき、皐月ー、おーい」
「……ん?」
「あ、起きた。ただいま」
「…………」
 なんだかデジャヴだ。目の前に陽太の顔。陽太の家? 違う、学校だ。
 しゃがんでオレの顔を覗きこんでいた陽太が、オレの髪をくしゃっと撫でて前の席に腰を下ろした。
「マジか、寝てたわ。あー、おはよ」
「おはよ。おかえりも言って」
「……おかえり?」
「ただいま。あー、腹減った」
 辺りを見渡すと、いつの間にか人が多くなっている。全く気づかなかった。陽太の家に行くまで眠れなかったのが祟ったのかもしれない。
 ふと陽太を見ると、リュックからおにぎりを取り出しはじめた。朝ごはん食べたって言ってたのに、さすが球児の胃袋だ。オレがもらったそれよりデカい気がするおにぎりに、大きな口でかじりつく陽太。朝練は途中までしか見られなかったけど、一生懸命汗を流してきたのだろう。
「それはなんの具?」
「具? 入ってないよ」
「え、でもオレのには唐揚げ入れてくれてたじゃん」
「あ、食べてくれた? どうだった!?」
「すげー美味かった。ありがとな」
「マジ? やった」
 おにぎりを美味しそうに頬張っていた陽太の顔が、もっと嬉しそうに綻ぶ。こういうところ、素直でいいよな。つい眺めていると、おにぎりを食べすすめながら陽太が喋る。口いっぱいに入っているからちょっと聞き取りづらくて、顔を近づける。
「母ちゃんのおにぎりはさ、具は入ってないんだよ。ふりかけ混ぜこんでるタイプ」
「え? 自分で作ってんじゃねぇの?」
「違うちがう。いつも母ちゃん」
「オレのは陽太が作ったんだろ?」
「うん。母ちゃんは皐月のも作ろうとしてたけど、俺が作りたかったから。あんたが料理とか、明日雪降るわーとか言ってた。はは、失礼だよな」
「…………」
 胸の中でぽこぽこと、あったかいものが生まれている感じがする。なんだかくすぐったくて、うっかりすると顔がにやけそうで、オレはぎゅっと口に力を入れる。
 ついさっきまで、沈んでいく気持ちに身を任せるしかなかったのに。陽太がいると、やっぱり照らされる。まるでオレじゃないみたいに、明るい想いに自然と変わっていく。陽太と出逢えたことを、何度だって奇跡みたいに思う。
「ん? おにぎり食べる?」
「いらない。めっちゃデカいの食ったし」
 じっと見つめていると、陽太はオレが食べたがっていると勘違いしたらしい。そんな些細なことすら、嘘みたいに楽しい。
「あは、そっか」
 だらりと陽太の机に体を預け、手に当たった陽太の学ランの袖を握る。なんだかくっついていたかったから。食いづらいじゃん、と陽太は言うけど、ケラケラと笑っているから離してやらない。
 こんな時間が、ずっと続いたらいい。そう思ってしまうくらいに、オレは陽太といるのが心地いい。噛みしめていたら、
「あー、好きだわ」
 とつい声に出てしまった。すると陽太の体がびくりと跳ねたのが、掴んだ袖から伝わってきた。見上げると、陽太がなぜか焦っている。
「えっ、え!?」
「…………? どした、なに慌ててんの」
「えー、だって! 皐月が……うっ!」
「え、ちょ、陽太お茶は!?」
「リュック、の、中……」
 おにぎりを喉に詰まらせてしまった陽太に、急いで水筒を渡す。陽太がそれをごくごくと飲んで、息の通った様子にふたりで安堵して、なんだかおかしくなって一緒に吹き出す。
「陽太といると朝から楽しくて好きだわ」
「あー、そういう。うん、俺も皐月といるとすげー楽しい」
「そりゃどうも」
「こちらこそ?」
「ふはっ」
 騒がしい教室で、陽太とふたりで笑い合う。こんな朝を何度だって、陽太と過ごしていきたい。いつもの光景が、いつだってオレは嬉しいから。