野球部の活動で毎日くたくたの俺は、今日も今日とて日付が変わる前に布団へ潜りこんだ。その瞬間から記憶は途絶えているから、ものの三秒で眠ったのかもしれない。ふと目が覚めたが、窓の外はまだ真っ暗だ。
 目覚ましがわりのスマートフォンを確認すると、午前2時。このくらいの時間に一度起きると、たっぷりと二度寝が味わえるようで得した気分になる。
 
 さあ、もう一度夢の中へ。そう思った時、手のひらの下のスマートフォンが光った。指のすき間から、緑のアプリアイコンが見える。LINEメッセージを受信した報せのようだ。
 こんな時間に一体誰だろう。ロック画面を確認すると、友人の名前と共に、“電話してもいい?”のひと言。
皐月(さつき)……?」
 俺は思わず、体を半分起き上がらせた。ロックを解除しアプリを開けば、だがそこにメッセージはない。俺はこの数秒だけ寝落ちていて、都合のいい夢でも見ていたのだろうか。
 いや、そんなはずはない。他の誰かならまだしも、俺が皐月のことで見間違うなんてあるわけがない。
 ベッドの上であぐらを掻き、電話マークの上へ指をかざす。だが、左上の2:05の表示が目に入り、つい躊躇う。
 こんな夜中にかけていいものだろうか。いや、だからこそだろう。皐月はイタズラであんなメッセージを送ったりしない。悩みに悩んで送って、やっぱりやめておけばよかったと悔いて削除したのだ。余程のことがあったに違いない。
 
 さっさとかければよかった。数秒悩んだ自分に舌を打ち、音声通話へと進む。1コール、2コール。プツンと途絶えたコール音を追い越すように、皐月、と呼びかけた。
陽太(ようた)……なんで』
「さっきLINEしたろ?」
『……ごめん。起こした?』
「たまたま目が覚めたとこだったから平気」
『マジか。すぐ消したのに』
「一瞬で消したろ?」
『うん。血迷ったと思って』
「はは、血迷った」
 ベッドに再び寝転がる。常夜灯のほのかな明かり、窓の外は静かで、耳元に皐月の呼吸だけがある。
「皐月は血迷ったのかもだけどさ」
『ん?』
「すごくね? あの一瞬に気づけたの」
『うん。電話かかってきてビビった』
「さすが俺?」
『うん、さすが陽太』
「まあなあ」
 笑っているけれど、そこに潜むさみしい色に俺は気づいている。隣にいられたら、ただただ馬鹿を言ってじゃれついて楽しませるのに。この夜を越えて会いに行くのは、さすがに現実的ではない。歯がゆさを飲みこんで、天井へと手を伸ばす。
「皐月」
『んー?』
「怖い夢でも見た?」
『……ううん』
「明日の時間割忘れた?」
『はは、ちげぇよ』
「じゃあ、俺に会いたくなっちゃった? なーんて……」
『正解』
「……っ!」
 勢いよく起き上がったせいで、傍に置いてあったクッションが床に落ちた。それにも構わず立ち上がり、大きく深呼吸をする。
「今からそっち行っていい?」
『は!? いや無理だろ。てか来んな、何時だと思ってんだよ』
「今皐月の顔見ないほうが無理なんだけど」
『……駄目。明日も朝練だろ。風邪ひくし、下手したら補導されるぞ』
「えー……」
『えーじゃない。な?』
「じゃあ……一個教えてくれたら行くのやめる」
『なに?』
 拒まれてしまったけれど、横になる気にはなれなくてベッドに腰を下ろす。あぐらの上で右手の指先を遊ばせながら、そっと下くちびるを噛む。
「なんで俺に会いたくなったんだ?」
『それは……』
 皐月とは中学からの親友で、褒め言葉なのか呆れなのか、クラスメイトにしょっちゅう「お前らいつも一緒にいるよな」と言われるくらい仲がいい。
 そんな皐月を、俺はいつの間にか好きになっていた。
 野球一筋のオレと、ピアスバチバチで見た目はチャラいけど優しい皐月。正反対だけど不思議と馬が合い、友情はなだらかに恋へと移ろって、高校生になった今も毎日想いを更新している。
『陽太さ、放課後告られてただろ。後輩の子に』
「え、見てた?」
『うん。可愛かったな』
「あんま覚えてないけどそうかも」
『……付き合うのか?』
「付き合わないよ」
『はー……そっか』
「……え、それが理由? 俺に会いたくなった」
『……ん』
「やっぱりそっち行く」
『は!? だから無理だって!』
「うるさい。無理じゃない」
 スマホを肩で挟んで上着に腕を通す。ジャージを寝間着にしてるから、それだけで構わない。家族を起こさないようにゆっくりと部屋のドアノブを回すと、それが聞こえたのか皐月の諦めたようなため息が聞こえた。
『オレも出る』
「いいのに」
『良くないだろ。オレのせいじゃん』
「皐月のおかげの間違いじゃね?」
『はあ? なんで』
「こんな時間に皐月に会えるとか、嬉しいし」
『…………』
 静かに玄関を出て、自転車に跨る。通話はワイヤレスイヤホンに飛ばして、念のために片耳だけ。皐月のほうからも外の気配が漂ってくる。速度を上げる鼓動に後押しされるように、問いかける。
「皐月」
『なに?』
「俺が誰かと付き合ったらイヤ?」
『……ごめん、イヤって思っちゃった』
「っ、なんで?」
『……すげー変なこと言うけど、いい?』
「うん、いいよ」
 人通りはゼロ。信号が点滅する道を急ぐ。冷えた耳がジンジンと痛むけど、それすらもただ皐月に会えるのだという実感になる。
『陽太のこと、親友だと思ってる』
「うん、俺も思ってる」
『中学の時からいちばん一緒にいるし、いちばん仲良いし、いちばん陽太のこと知ってるのはオレ……って思ってて』
「うん」
『でも付き合ったらさ、それ全部オレじゃなくなるじゃん。それ、すげーイヤだな、って……思った』
「皐月……」
 ペダルを漕いでも漕いでも、皐月の家まではまだ少し距離がある。なんで離れたところに暮らしているんだろう。なんで今、傍にいないんだろう。
 なんで俺と皐月は、別々の人間なんだろう。
 訳の分からない思考は深夜だからなのか、恋心が俺を惑わせるのか。いや、そんなもの、どっちでもいい。皐月が俺をいちばんに置いてくれているのなら、もう何でもよかった。
「皐月」
『うん』
「俺も皐月がいちばんだし、他の誰かが皐月のいちばんになるの嫌だ」
『ならねぇよ、絶対ならない』
「分かんないじゃん、明日皐月に彼女が出来るかもじゃん」
『いや、全然そんなイメージ湧かないわ。ずっとお前がいちばんだよ』
「皐月……」
 
 無言のまま自転車のスピードを上げる。角を曲がると道の先に、皐月の姿が見えてきた。投げ捨てるように自転車を降り、皐月の目の前で膝に手をつく。皐月も走ってきたようで、途切れ途切れの呼吸が頭上に聞こえる。
「バカ陽太。駄目って言ったのに」
「うん。でも会いたくなっちゃったし」
「……うん」
 顔を見合わせると、何だか可笑しくなってふたり同時に吹き出した。ガードレールに並んで腰掛け、肩がぶつかったけど離れる気にはなれない。
「あー、なんか恥ずかしくなってきた」
「なんで?」
「だって陽太にすげーこと言った気がする」
「俺すげー嬉しかったからそうかもね」
「あんな一瞬のLINE気づくなよなあ……」
 当たった手に、思い切って指を引っかける。振り払われないのをいい事に、寒いとうそぶいて皐月の指先を全部握りこむ。するとひくんと跳ねて、きゅっと握り返された。なんだこれ。嬉しくて、苦しくて、うっかり泣いてしまいそうだ。
「いーや、俺は気づいてよかったね。むしろ取り消さないでくれてよかったのに。いや、あの一瞬に気づけたのが最高だよな」
「バカ陽太」
「バカでいいですよー、今楽しいし」
「……うん。オレも楽しい」
 肩を交互にぶつけ合って、夜空を仰いでケラケラと笑う。本当に、体中が叫び出しそうなほどに楽しい。特別な瞬間は、間違いなく皐月がくれたものだ。
 
「あーあ、俺帰りたくないんだけど。なぁ、皐月んち泊まっていい?」
「朝練あるだろ」
「そうだけどさー……離れがたいっつうか」
 うっかり恋心が滲まないように慎重に、でも素直な想いを打ち明ける。まだまだこの夜を、皐月と共有していたかった。
「じゃあさ、オレんちは駄目だけど……」
「ん?」
 拗ねてしまいそうな己と戦っていると、皐月が俺の前に立った。繋がれたままの手を握り直すようにして、皐月はそっと視線を逸らす。
「陽太んち、行っていい?」
「……え」
「お前、帰りたくないって言い出すと思ったから。制服持ってきた」
「え、あ、そのリュックもしかしてそういうこと!?」
「ん……そしたら陽太、朝練行けるだろ。同じ時間にオレも出る。いい?」
「う〜、皐月ぃ! めっちゃ嬉しい!」
「分かった! 分かったからちょっと力緩めろ、苦しい」
「へへ、ごめん」
 思わず抱きつくと、火照った頬同士がぶつかった。俺の心はもちろんドコドコとうるさいほどに心拍を上げるが、それを誤魔化しながら自転車に跨る。
「はい、後ろ乗って」
「安全運転な」
「もちろん。大事な皐月くん乗せてますんで」
「おう、丁重に漕ぎたまえ。あー、風寒ぃ……」
 俺の背中で暖を取る皐月に好きだと叫びたいのを堪えて、ひとり分重たくなったペダルをグッと踏みこむ。
 
 誰もいない暗い道は、まるで俺たちだけの世界みたいだ。このままずっと走っていたい、だけど早く帰って皐月と眠るのもきっといい。贅沢な悩みを天秤に乗せて、ゆらゆらと星夜を漂う。
「皐月、今日はありがとうな」
「オレの台詞」
「……ずっと皐月のいちばんでいたいな」
「ん? ごめん、今のよく聞こえなかった」
「なんでもなーい!」
「ちょ! 陽太立ち漕ぎやめろ離れんな! 寒い!」
 この想いは届かなくたっていい。ただ、こんな夜を何度だって、また皐月と過ごせますように。それだけは願わずにいられなかった。