信一の緊急入院の翌日、有希は昼から病院を訪れた。病室に入ると、本家のおばさんとおじさんがソファーに並んで座っていて、部屋を間違えたのかとびっくりする。噂を聞きつけて、早速お見舞いに来てくれたようだった。
予想通りと言うべきか、救急車を呼んだおかげで、近所中に父が倒れたことが完全に広まってしまった。病院までをどうやって突き止めたのかと不思議に思ったが、以前に父本人が通院している病院名を話していたらしい。
何だかんだとぼかし続けて来た父の体調を、もう隠し通せなくなった。近所の人や親戚が次々に見舞いに来る光景が頭をよぎる。
戸惑いながらも二人に挨拶すると、有希は病室の隅にあった丸椅子の上に、母から頼まれて持って来た父の着替えの入った紙袋を置く。準備しておいたのに持って来るの忘れちゃったわと電話を受けて、慌てて届けに来たのだ。
その時、病室には父と母の姿は無かった。キョロキョロと両親の姿を探す有希に、おばさんが教えてくれた。
「お父さん、トイレにいかはったとこやわ」
――え?! 尿用の管を入れられて、オムツもしてるはずなのに?
しばらくすると、看護師二人に両肩を支えられながら、トイレのある方向から父達が戻ってきた。パジャマ姿の父は、かなりふらつきながらも自分の足で立って歩いていた。その後ろを心配そうな顔で母が付いている。
今回の発作は2度目で、出血も無かったので回復は少し早かったようだった。とは言っても、前回と同じく混乱状態はあって言語障害と認識力の障害は少なからずは出ていた。単語の言い間違えが多かったり、言葉の聞き取りがちゃんとできずにキョトンとする場面があったりという感じで、2歳前の姪っ子の方が分別はついてるといった方が分かりやすいかもしれない。
父本人には自覚がないのでご機嫌で喋っているようだったが、見舞いに訪れた親戚達は父が話していることが理解できず、完全に困惑していた。愛想笑いしながら適当に頷いてはいたが、「信ちゃん、ほんまに大丈夫なんか?」と思っているのが丸分かりな引きつった顔をしていた。この時にいろいろと察した人も多かったはずだ。
けれど、前回も混乱状態は1日ほどでなくなったので、きっと翌日にはいつもの父に戻ってくれるのだろう。夜になる頃には会話に対する反応もさらに良くなり、しっかりした言葉もちらほら出るようになってきた。今回は暴れたりすることも一切なく、ベッドに拘束されることは無かった。
そして何と言っても、有希達が一番ホッとしたのは、痛み止めや点滴がとても良く効いていることだった。昨夕に目が覚めた直後の薬は1時間半しか効かなかった。けれど今日は朝3時に入れてもらってから、有希が帰宅する20時までの間は1度も追加することは無かったらしいのだ。
万が一、今の薬が効かなければ、最後の手段のモルヒネ投与になってしまうので、痛み止めが長く効いてくれてるということは父の意識はそれだけ長くあってくれるということ。モルヒネを使えば痛みを感じることは無くなるが、父の意識も無くなってしまう。少しでも長く父が父らしくいてくれる時間が欲しい。
もし父に食事を取る気力が出てくれれば、一時的な退院もあるかもしれないと木下医師は言っていた。稀にそういった奇跡的回復をする人が居るんだという。
だから今日の父の様子なら、少しだけ期待しても良いんじゃないのかなと有希は密かに思っていた。また再び奇跡が起こってくれるのではないかと。
由依に、木下医師がこれが最後の入院になるよ、と言っていたと電話で伝えると、姉は凄い剣幕で怒って言った。
「まだ最後って決まった訳じゃないでしょ! そういうことを簡単に言わないでよ!」
「だって、先生がそう言ってたし」
きっと由依もまだ父に奇跡が起こるのを信じているのだろう。ただ、すぐ傍で父の様子をずっと見ていた有希は、姉に比べたら奇跡へ信頼度は低かったかもしれない。さすがにもう無理だろうという、諦めに似た感情も同時に存在していた。勿論、由依の気持ちもすごくよく分かるけれど……。
父の腹痛が和らいでるのは、点滴での水分補給と浣腸を用いた排便コントロールの成果だろうか。内臓を圧迫するように溜まっていた便が少しずつ減って来ているから痛みが軽減されたと考えられた。当初の入院目的である、痛みを取り除くということが十分に達成されているように思えた。
そして有希達家族にとって何よりも心強かったのは、非番だったはずの担当医と担当看護師のどちらもが、父を心配してわざわざ病室に顔を出してくれたことだった。担当する患者が急変する度に休みを返上していたらキリが無いだろうと思うのだが、それでもやはり患者の家族としてはとても嬉しかった。
昨日は朦朧としたままの対面だった父は、改めて自己紹介してくれた担当看護師が男性だったのに目を丸くしていた。父の世代ではまだナースマンには慣れていない。
そういう有希自身も最初に対面した時には、内科の医師だと普通に思い込んでいたが。医師のように白衣を着ていたから、間違えても仕方ない。
この日も母は病室に泊まると言っていたが、さすがに何日も続けての付き添いは今度は母の身体の方が心配になってくる。次は有希が代わると言うと、とても嬉しそうにしていた。
予想通りと言うべきか、救急車を呼んだおかげで、近所中に父が倒れたことが完全に広まってしまった。病院までをどうやって突き止めたのかと不思議に思ったが、以前に父本人が通院している病院名を話していたらしい。
何だかんだとぼかし続けて来た父の体調を、もう隠し通せなくなった。近所の人や親戚が次々に見舞いに来る光景が頭をよぎる。
戸惑いながらも二人に挨拶すると、有希は病室の隅にあった丸椅子の上に、母から頼まれて持って来た父の着替えの入った紙袋を置く。準備しておいたのに持って来るの忘れちゃったわと電話を受けて、慌てて届けに来たのだ。
その時、病室には父と母の姿は無かった。キョロキョロと両親の姿を探す有希に、おばさんが教えてくれた。
「お父さん、トイレにいかはったとこやわ」
――え?! 尿用の管を入れられて、オムツもしてるはずなのに?
しばらくすると、看護師二人に両肩を支えられながら、トイレのある方向から父達が戻ってきた。パジャマ姿の父は、かなりふらつきながらも自分の足で立って歩いていた。その後ろを心配そうな顔で母が付いている。
今回の発作は2度目で、出血も無かったので回復は少し早かったようだった。とは言っても、前回と同じく混乱状態はあって言語障害と認識力の障害は少なからずは出ていた。単語の言い間違えが多かったり、言葉の聞き取りがちゃんとできずにキョトンとする場面があったりという感じで、2歳前の姪っ子の方が分別はついてるといった方が分かりやすいかもしれない。
父本人には自覚がないのでご機嫌で喋っているようだったが、見舞いに訪れた親戚達は父が話していることが理解できず、完全に困惑していた。愛想笑いしながら適当に頷いてはいたが、「信ちゃん、ほんまに大丈夫なんか?」と思っているのが丸分かりな引きつった顔をしていた。この時にいろいろと察した人も多かったはずだ。
けれど、前回も混乱状態は1日ほどでなくなったので、きっと翌日にはいつもの父に戻ってくれるのだろう。夜になる頃には会話に対する反応もさらに良くなり、しっかりした言葉もちらほら出るようになってきた。今回は暴れたりすることも一切なく、ベッドに拘束されることは無かった。
そして何と言っても、有希達が一番ホッとしたのは、痛み止めや点滴がとても良く効いていることだった。昨夕に目が覚めた直後の薬は1時間半しか効かなかった。けれど今日は朝3時に入れてもらってから、有希が帰宅する20時までの間は1度も追加することは無かったらしいのだ。
万が一、今の薬が効かなければ、最後の手段のモルヒネ投与になってしまうので、痛み止めが長く効いてくれてるということは父の意識はそれだけ長くあってくれるということ。モルヒネを使えば痛みを感じることは無くなるが、父の意識も無くなってしまう。少しでも長く父が父らしくいてくれる時間が欲しい。
もし父に食事を取る気力が出てくれれば、一時的な退院もあるかもしれないと木下医師は言っていた。稀にそういった奇跡的回復をする人が居るんだという。
だから今日の父の様子なら、少しだけ期待しても良いんじゃないのかなと有希は密かに思っていた。また再び奇跡が起こってくれるのではないかと。
由依に、木下医師がこれが最後の入院になるよ、と言っていたと電話で伝えると、姉は凄い剣幕で怒って言った。
「まだ最後って決まった訳じゃないでしょ! そういうことを簡単に言わないでよ!」
「だって、先生がそう言ってたし」
きっと由依もまだ父に奇跡が起こるのを信じているのだろう。ただ、すぐ傍で父の様子をずっと見ていた有希は、姉に比べたら奇跡へ信頼度は低かったかもしれない。さすがにもう無理だろうという、諦めに似た感情も同時に存在していた。勿論、由依の気持ちもすごくよく分かるけれど……。
父の腹痛が和らいでるのは、点滴での水分補給と浣腸を用いた排便コントロールの成果だろうか。内臓を圧迫するように溜まっていた便が少しずつ減って来ているから痛みが軽減されたと考えられた。当初の入院目的である、痛みを取り除くということが十分に達成されているように思えた。
そして有希達家族にとって何よりも心強かったのは、非番だったはずの担当医と担当看護師のどちらもが、父を心配してわざわざ病室に顔を出してくれたことだった。担当する患者が急変する度に休みを返上していたらキリが無いだろうと思うのだが、それでもやはり患者の家族としてはとても嬉しかった。
昨日は朦朧としたままの対面だった父は、改めて自己紹介してくれた担当看護師が男性だったのに目を丸くしていた。父の世代ではまだナースマンには慣れていない。
そういう有希自身も最初に対面した時には、内科の医師だと普通に思い込んでいたが。医師のように白衣を着ていたから、間違えても仕方ない。
この日も母は病室に泊まると言っていたが、さすがに何日も続けての付き添いは今度は母の身体の方が心配になってくる。次は有希が代わると言うと、とても嬉しそうにしていた。