※※
家に着く頃には陽が落ちて夜空に星が浮かんでいた。僕の家に夏希が来るのは当たり前だが二年ぶりだ。
「ただいま」
「お邪魔しま~す」
夏希もそう言って玄関で靴をぬぐと、いつものようにきちんとそろえた。そして僕と一緒にリビングに入ったが、出迎えた母さんにはやはり見えていないようだ。
「理一、遅かったわね、ご飯できてるわよ。私はさっき食べたから」
ダイニングテーブルには美味しそうなオムライスがおいてある。
それをみて夏希が母さんのそばに駆け寄り、「わぁ~おばさんのオムライスが一番大好き」なんていうもんだから、僕は反射的にドキッとしたが母さんは知らん顔だ。
「オムライスだけど、もうあたためる?」
「あ、自分でやるよ。あと全然いいんだけどさ。今日から揚げって言ってなかった?」
「そうなのよ、なぜだかスーパー二軒回ったのにモモ肉が売れ切れてたのよ」
「え? 二軒とも?」
「ええ。だからお肉買わずに特番の卵だけ買って帰ってきたの。うちはオムライスは元々ベーコンだからお肉使わないしね」
「ふうん」
スーパーに鶏もも肉がないなんてそんなことがあるのだろうか。なんだか目の前の幽霊の彼女が関係している気がしてならないが、夏希が「ラッキー」と飛び跳ねて喜んでいる」
どうやらクリームソーダで味をしめた夏希は母さんのオムライスも食べる気満々らしい。
(幽霊の食欲ってすごいんだな……)
僕はそんなことを考えながらまだ少しだけあたたかいオムライスを電子レンジに入れた。
「そういや父さんは?」
「今日は珍しく商談で出張よ、もう昨日も言ったでしょ」
「そうだっけ」
「もう、しっかりしてよ」
「はいはい」
母さんの呆れた声に返事をすれば電子レンジからあたため完了の音がなる。
「オムライス部屋で食べていい?」
「え?」
「夏休みの課題したいから」
僕は母さんの様子を伺いながらそう嘘を吐いた。別に母さんに夏希のことを話しても良かったが、見えず聞こえない存在に理解を示してもらうのは難しいと思ったからだ。
「いいわよ。冷蔵庫のサラダも持って行ってね」
「うん」
(母さんも……見えたら喜んだだろうな)
夏希のことを娘のように可愛がっていた母さんにも夏希の姿と声を聞かせてあげたかったが、仕方がない。
僕はオムライスとサラダをお盆にのせると、夏希に目だけで合図をして二人で二階の自室へと階段を登った。
「んん~、オムライスおいし~」
夏希はお腹が減っていたのかベッド下のラグの上に座ると母さんの作ったオムライスをパクパクと頬張っている。
「全部食べていいよ」
「え、それは悪いよ」
「全然。僕あんまお腹減ってないし」
「そうなの? ほんとに?」
嘘はついてない。本当にお腹は減ってなかった。多分、胸が一杯とはこういうことをいうんだろうな、なんて思う。
「うん。僕、もともと小食な方だしいつでも食べれるからさ、夏希に食べて欲しい」
「ありがと」
夏希はそういうと残り半分になったオムライスをさっきまでと同じスピートで平らげていく。
「ふぅ~ごちそうさまでした」
夏希は両手をあわせてご馳走様をすると食器を綺麗にお盆の上に戻し、僕の部屋の本棚をじっとみつめた。
「どうかした?」
「理一の部屋、久しぶりに来たけど相変わらず本が一杯だね」
「まぁ。本読むくらいしか暇がつぶれないし」
僕は夏希がいなくなってから以前よりも読書量が増えた。本屋に行って目についたものを適当に買って、どうしようもなく苦しい時を本の世界に没入することで紛らわせてきた。そうでもしないと夏希のいない世界なんて、息苦しくてたまらなくなって、いっそ消えてしまいたいなんて思ってしまうから。
「……司書なりたかったなぁ……」
夏希は百冊以上はある本をひとつずつ指でなぞっていく。
僕も夏希の隣に並んだ。
「夏希の夢だったもんな」
「うん。だって本の世界って無限じゃない? そんな沢山の世界が詰まってる図書館で、毎日いろんな世界に触れられる仕事なんて司書くらいだもん」
「…………」
僕は何か上手に返事がしたかったけど適当な言葉が浮かばない。沢山本を読んでるくせに言葉の語彙が少なすぎて、どうしようもない自分にがっかりしてしまう。
「なんか……ごめん。いい返事できなくて」
「ううん、全然。ね、理一。私が司書になりたかったいちばんの理由、理一なんだよ」
「え? 僕?」
「言ったでしょ? 私、理一が書く物語が好きなの。なんか今の自分たちを切り取ってそのままの自然な姿を言葉で表現できてて……、いつか図書館で理一の小説を『おすすめの図書コーナー』に並べるのが夢だったんだよ」
「ええっ! そ、そうなの?!」
「うんっ」
夏希の小さな頃と変わらない無邪気な笑顔に僕の心臓がきゅっとなる。
「……すごい嬉しいけど……なんか照れるかも……青春ジャンルしか書けないし……秀でた才能があるとかでもないし」
「もう! 才能があるとかないとか関係ないじゃない。それに何かを『好き』だと思えることも才能でしょ?」
「夏希……」
「理一には好きなことを続けられる才能があるの。書くことって理一にすっごく向いてると思う。理一のこと誰よりも知ってる私が言うんだから自信もって」
胸がいっぱいだ。好きなことを続けられる才能なら確かに僕にもあると思う。それは小説を書くこともだけど、夏希を好きなことも僕はきっと生涯続けるから。
「……ありがとう」
「どういたしまして。ちなみにこれオムライスのお礼ね」
「おい。こら」
僕らは向かい合ったままクスクスと笑い合う。
「あ。ねぇ、前に読ませてくれた小説、完成してる?」
「ヒロインが幽霊になった話?」
「それそれ」
僕は眉を下げた。
「実は……夏希がいなくなってから放置」
「ええっ、嘘でしょ?! 続き読ませてもらおうと思ってここ来たのにー」
「いやいや、だって僕がそもそも小説書いてたのはさ……」
「なに?」
「えっと」
大きな瞳でじっと覗き込まれて僕は思わず視線を逸らしそうになったが、浅く呼吸をしながら夏希の瞳を真っすぐに見つめる。この瞬間を逃すわけにはいかない。
「一番の理由が……夏希が楽しみにしてくれるから、なんだよね。夏希が喜んでくれるから……」
ちゃんと伝えた言葉に夏希の頬がほんのり赤く染まった。
「えぇっと……そう、なんだ。ありがとう、嬉しい」
「うん……えと、良かった」
僕が照れ隠しに頬を掻けば夏希も恥ずかしそうにしている。思えばあれほど長く一緒にいたのに大事なことほど僕は夏希に伝えてこなかった。
(えっと……つぎ、なにか話題……)
僕は脳みそをフル回転されると、夏希にずっと返したかったモノについてふいに思い出す。
「あ、そうだ……」
「なに?」
「ちょっと、待ってね」
僕はずっとポケットに突っ込んでいた二年間、肌身離さず抱えているそれを取りだした。
「それ……」
「うん、ずっと返せなくてごめん」
僕は夏希からずっと借りたままになっていた小説を夏希に差し出した。
「ふふ。これ何回読んでも大好きなんだ。切ないけどなんか青春って感じがして胸がぎゅっとなるの」
そう言って夏希は僕から小説を受け取ろうと手を伸ばす。
が──夏希のその手は小説を掴むことなく本の向こう側へとすり抜けてしまった。
「え……っ」
驚いた僕を見ながら夏希が肩をすくめた。
「あ。理一、もうあんまり時間ないや」
「夏希?! どういうこと……?!」
僕の心臓は途端にどくどくと嫌な音を立てていく。
「そんな顔しないで。言ったでしょ私は幽霊で、私がここに留まっていられるのも……限りがあるって……それにここに来た目的はほとんど全部果たしちゃったし」
「目的?」
「そう。私がこに来た目的はもう一回理一に会いたかったの。会って……たわいないことで笑ったり美味しいもの食べたりもう一度、理一と日常を過ごしたかった……あとね。なにも言えずに旅立ったこと謝りたかったの」
「そんなこと……っ」
「ごめんね理一。黙って急にいなくなったりして」
「ううん……っ、そんなのいいから。お願いだからこれからも僕のそばにいてよ……」
「それは難しいよ……幽霊は天国に帰らなきゃ」
夏希は困ったように小さな声でそう言うと僕の両頬に手のひらを添えた。冷たさに僕の身体が僅かにビクッと震えた。
「ごめん、冷たかったね」
いつものように大きな目を細めて見せる夏希の顔がぼやけている。
夏希は大きく深呼吸すると僕を真剣な目で見つめた。何か覚悟を決めるように。
「理一……私ね……」
「待って。僕に言わせて」
「え?」
「ずっと……後悔してた……いつもそばにいるから……夏希がいてくれるのが当たり前だったからいつでも言えるなんて思って、臆病な自分を誤魔化してた」
僕は夏希の頬にそっと手を伸ばした。透き通ってしまうからその頬の輪郭ギリギリにそっと手を伸ばす。
「……理一、あったかい」
夏希の目から涙がこぼれて絨毯に丸いシミになる。
神様はやっぱり意地悪だから嫌いだ。こんな風に僕と夏希をまた会わせたくせに結局ずっと一緒には居させてくれない。
だから言わなきゃいけない。もう後悔しないように。『いま』は今しかないから。夏希にちゃんと自分の想いを自分の言葉でありのままに伝えたい。
「好きだよ。夏希がずっと好きだった」
ちゃんと泣かずに言いたかったのにきっと僕の顔は情けないほどに涙でぐちゃぐちゃだ。
「私も……っ、ずっと理一が大好きだった……」
もう夏希の全身はほとんど透き通ってしまって目をこらすのに必死になってくる。
「ねぇ、理一。約束してよ。もしまた会えたらきっとまた私と恋をするって」
「そんなの……当たり前じゃん……っ」
僕は頬に触れている冷たさがなくなっていくのを感じて気が触れそうになる。
「お願い……夏希……もうちょっとだけでいいから」
分かっているのに、そう言葉にせずにはいられない。やっと会えたのに。もう別れるなんて嫌だと子供みたいに泣いて駄々をこねたくなってくる。
夏希はそんな僕を見ながら小さく首を振った。
「もう時間切れかな。っていうか私の心残りの全部なくなったから。これからは……寄りそって生きていくの」
「寄り添う? それは……僕に?」
「どうでしょう?」
夏希は消えそうになっても、なおいつものようにおどけてみせる。
「頼むって……」
「大丈夫。信じてるよ、理一」
夏希の声が少しずつ遠くなっていく。もっと早くに想いを伝えて一度くらい夏希を抱きしめていたら良かった。もう抱きしめることすら叶わない。
「……約束する……っ、もしまた会えたら夏希と恋するって」
「うん、約束ね」
背の低い夏希が背伸びをして僕は少しだけ屈む。
そして僕の唇に雪の粒のように小さな冷たさを残して彼女は消えた。
家に着く頃には陽が落ちて夜空に星が浮かんでいた。僕の家に夏希が来るのは当たり前だが二年ぶりだ。
「ただいま」
「お邪魔しま~す」
夏希もそう言って玄関で靴をぬぐと、いつものようにきちんとそろえた。そして僕と一緒にリビングに入ったが、出迎えた母さんにはやはり見えていないようだ。
「理一、遅かったわね、ご飯できてるわよ。私はさっき食べたから」
ダイニングテーブルには美味しそうなオムライスがおいてある。
それをみて夏希が母さんのそばに駆け寄り、「わぁ~おばさんのオムライスが一番大好き」なんていうもんだから、僕は反射的にドキッとしたが母さんは知らん顔だ。
「オムライスだけど、もうあたためる?」
「あ、自分でやるよ。あと全然いいんだけどさ。今日から揚げって言ってなかった?」
「そうなのよ、なぜだかスーパー二軒回ったのにモモ肉が売れ切れてたのよ」
「え? 二軒とも?」
「ええ。だからお肉買わずに特番の卵だけ買って帰ってきたの。うちはオムライスは元々ベーコンだからお肉使わないしね」
「ふうん」
スーパーに鶏もも肉がないなんてそんなことがあるのだろうか。なんだか目の前の幽霊の彼女が関係している気がしてならないが、夏希が「ラッキー」と飛び跳ねて喜んでいる」
どうやらクリームソーダで味をしめた夏希は母さんのオムライスも食べる気満々らしい。
(幽霊の食欲ってすごいんだな……)
僕はそんなことを考えながらまだ少しだけあたたかいオムライスを電子レンジに入れた。
「そういや父さんは?」
「今日は珍しく商談で出張よ、もう昨日も言ったでしょ」
「そうだっけ」
「もう、しっかりしてよ」
「はいはい」
母さんの呆れた声に返事をすれば電子レンジからあたため完了の音がなる。
「オムライス部屋で食べていい?」
「え?」
「夏休みの課題したいから」
僕は母さんの様子を伺いながらそう嘘を吐いた。別に母さんに夏希のことを話しても良かったが、見えず聞こえない存在に理解を示してもらうのは難しいと思ったからだ。
「いいわよ。冷蔵庫のサラダも持って行ってね」
「うん」
(母さんも……見えたら喜んだだろうな)
夏希のことを娘のように可愛がっていた母さんにも夏希の姿と声を聞かせてあげたかったが、仕方がない。
僕はオムライスとサラダをお盆にのせると、夏希に目だけで合図をして二人で二階の自室へと階段を登った。
「んん~、オムライスおいし~」
夏希はお腹が減っていたのかベッド下のラグの上に座ると母さんの作ったオムライスをパクパクと頬張っている。
「全部食べていいよ」
「え、それは悪いよ」
「全然。僕あんまお腹減ってないし」
「そうなの? ほんとに?」
嘘はついてない。本当にお腹は減ってなかった。多分、胸が一杯とはこういうことをいうんだろうな、なんて思う。
「うん。僕、もともと小食な方だしいつでも食べれるからさ、夏希に食べて欲しい」
「ありがと」
夏希はそういうと残り半分になったオムライスをさっきまでと同じスピートで平らげていく。
「ふぅ~ごちそうさまでした」
夏希は両手をあわせてご馳走様をすると食器を綺麗にお盆の上に戻し、僕の部屋の本棚をじっとみつめた。
「どうかした?」
「理一の部屋、久しぶりに来たけど相変わらず本が一杯だね」
「まぁ。本読むくらいしか暇がつぶれないし」
僕は夏希がいなくなってから以前よりも読書量が増えた。本屋に行って目についたものを適当に買って、どうしようもなく苦しい時を本の世界に没入することで紛らわせてきた。そうでもしないと夏希のいない世界なんて、息苦しくてたまらなくなって、いっそ消えてしまいたいなんて思ってしまうから。
「……司書なりたかったなぁ……」
夏希は百冊以上はある本をひとつずつ指でなぞっていく。
僕も夏希の隣に並んだ。
「夏希の夢だったもんな」
「うん。だって本の世界って無限じゃない? そんな沢山の世界が詰まってる図書館で、毎日いろんな世界に触れられる仕事なんて司書くらいだもん」
「…………」
僕は何か上手に返事がしたかったけど適当な言葉が浮かばない。沢山本を読んでるくせに言葉の語彙が少なすぎて、どうしようもない自分にがっかりしてしまう。
「なんか……ごめん。いい返事できなくて」
「ううん、全然。ね、理一。私が司書になりたかったいちばんの理由、理一なんだよ」
「え? 僕?」
「言ったでしょ? 私、理一が書く物語が好きなの。なんか今の自分たちを切り取ってそのままの自然な姿を言葉で表現できてて……、いつか図書館で理一の小説を『おすすめの図書コーナー』に並べるのが夢だったんだよ」
「ええっ! そ、そうなの?!」
「うんっ」
夏希の小さな頃と変わらない無邪気な笑顔に僕の心臓がきゅっとなる。
「……すごい嬉しいけど……なんか照れるかも……青春ジャンルしか書けないし……秀でた才能があるとかでもないし」
「もう! 才能があるとかないとか関係ないじゃない。それに何かを『好き』だと思えることも才能でしょ?」
「夏希……」
「理一には好きなことを続けられる才能があるの。書くことって理一にすっごく向いてると思う。理一のこと誰よりも知ってる私が言うんだから自信もって」
胸がいっぱいだ。好きなことを続けられる才能なら確かに僕にもあると思う。それは小説を書くこともだけど、夏希を好きなことも僕はきっと生涯続けるから。
「……ありがとう」
「どういたしまして。ちなみにこれオムライスのお礼ね」
「おい。こら」
僕らは向かい合ったままクスクスと笑い合う。
「あ。ねぇ、前に読ませてくれた小説、完成してる?」
「ヒロインが幽霊になった話?」
「それそれ」
僕は眉を下げた。
「実は……夏希がいなくなってから放置」
「ええっ、嘘でしょ?! 続き読ませてもらおうと思ってここ来たのにー」
「いやいや、だって僕がそもそも小説書いてたのはさ……」
「なに?」
「えっと」
大きな瞳でじっと覗き込まれて僕は思わず視線を逸らしそうになったが、浅く呼吸をしながら夏希の瞳を真っすぐに見つめる。この瞬間を逃すわけにはいかない。
「一番の理由が……夏希が楽しみにしてくれるから、なんだよね。夏希が喜んでくれるから……」
ちゃんと伝えた言葉に夏希の頬がほんのり赤く染まった。
「えぇっと……そう、なんだ。ありがとう、嬉しい」
「うん……えと、良かった」
僕が照れ隠しに頬を掻けば夏希も恥ずかしそうにしている。思えばあれほど長く一緒にいたのに大事なことほど僕は夏希に伝えてこなかった。
(えっと……つぎ、なにか話題……)
僕は脳みそをフル回転されると、夏希にずっと返したかったモノについてふいに思い出す。
「あ、そうだ……」
「なに?」
「ちょっと、待ってね」
僕はずっとポケットに突っ込んでいた二年間、肌身離さず抱えているそれを取りだした。
「それ……」
「うん、ずっと返せなくてごめん」
僕は夏希からずっと借りたままになっていた小説を夏希に差し出した。
「ふふ。これ何回読んでも大好きなんだ。切ないけどなんか青春って感じがして胸がぎゅっとなるの」
そう言って夏希は僕から小説を受け取ろうと手を伸ばす。
が──夏希のその手は小説を掴むことなく本の向こう側へとすり抜けてしまった。
「え……っ」
驚いた僕を見ながら夏希が肩をすくめた。
「あ。理一、もうあんまり時間ないや」
「夏希?! どういうこと……?!」
僕の心臓は途端にどくどくと嫌な音を立てていく。
「そんな顔しないで。言ったでしょ私は幽霊で、私がここに留まっていられるのも……限りがあるって……それにここに来た目的はほとんど全部果たしちゃったし」
「目的?」
「そう。私がこに来た目的はもう一回理一に会いたかったの。会って……たわいないことで笑ったり美味しいもの食べたりもう一度、理一と日常を過ごしたかった……あとね。なにも言えずに旅立ったこと謝りたかったの」
「そんなこと……っ」
「ごめんね理一。黙って急にいなくなったりして」
「ううん……っ、そんなのいいから。お願いだからこれからも僕のそばにいてよ……」
「それは難しいよ……幽霊は天国に帰らなきゃ」
夏希は困ったように小さな声でそう言うと僕の両頬に手のひらを添えた。冷たさに僕の身体が僅かにビクッと震えた。
「ごめん、冷たかったね」
いつものように大きな目を細めて見せる夏希の顔がぼやけている。
夏希は大きく深呼吸すると僕を真剣な目で見つめた。何か覚悟を決めるように。
「理一……私ね……」
「待って。僕に言わせて」
「え?」
「ずっと……後悔してた……いつもそばにいるから……夏希がいてくれるのが当たり前だったからいつでも言えるなんて思って、臆病な自分を誤魔化してた」
僕は夏希の頬にそっと手を伸ばした。透き通ってしまうからその頬の輪郭ギリギリにそっと手を伸ばす。
「……理一、あったかい」
夏希の目から涙がこぼれて絨毯に丸いシミになる。
神様はやっぱり意地悪だから嫌いだ。こんな風に僕と夏希をまた会わせたくせに結局ずっと一緒には居させてくれない。
だから言わなきゃいけない。もう後悔しないように。『いま』は今しかないから。夏希にちゃんと自分の想いを自分の言葉でありのままに伝えたい。
「好きだよ。夏希がずっと好きだった」
ちゃんと泣かずに言いたかったのにきっと僕の顔は情けないほどに涙でぐちゃぐちゃだ。
「私も……っ、ずっと理一が大好きだった……」
もう夏希の全身はほとんど透き通ってしまって目をこらすのに必死になってくる。
「ねぇ、理一。約束してよ。もしまた会えたらきっとまた私と恋をするって」
「そんなの……当たり前じゃん……っ」
僕は頬に触れている冷たさがなくなっていくのを感じて気が触れそうになる。
「お願い……夏希……もうちょっとだけでいいから」
分かっているのに、そう言葉にせずにはいられない。やっと会えたのに。もう別れるなんて嫌だと子供みたいに泣いて駄々をこねたくなってくる。
夏希はそんな僕を見ながら小さく首を振った。
「もう時間切れかな。っていうか私の心残りの全部なくなったから。これからは……寄りそって生きていくの」
「寄り添う? それは……僕に?」
「どうでしょう?」
夏希は消えそうになっても、なおいつものようにおどけてみせる。
「頼むって……」
「大丈夫。信じてるよ、理一」
夏希の声が少しずつ遠くなっていく。もっと早くに想いを伝えて一度くらい夏希を抱きしめていたら良かった。もう抱きしめることすら叶わない。
「……約束する……っ、もしまた会えたら夏希と恋するって」
「うん、約束ね」
背の低い夏希が背伸びをして僕は少しだけ屈む。
そして僕の唇に雪の粒のように小さな冷たさを残して彼女は消えた。