※※
「着いた」

「ありがと」

僕は夏希が後ろから降りるのを確認してから喫茶店“本の虫”の入り口横に自転車を停めた。

「ひさしぶりだな~」

「僕も」

「え、そうなの」 

「うん」

ここ喫茶店“本の虫”は僕らの行きつけの喫茶店だったのだが、店名通り、マスターが昔、小説家を目指していたとかで店内のいたるところに本棚が設置してあり、置いてある本は自由に読むことができる。

小説家を目指していた僕は本好きの夏希に教えてもらい、この喫茶店に足を運ぶようになったが、夏希が死んでからは一度も来たことがなかった。

ここに来ると嫌でも思い出してしまうからだ。夢も。夏希も。楽しかった日々も。

扉を開ければカランと鈴の音が鳴って、中に入ればすぐにマスターが見えた。夏休み、しかもお盆の真っ只中だからなのもあるだろう。店内にお客さんはひとりも居ない。

「理一くん、いらっしゃい。久しぶりだね」

白髪頭に丸いメガネをかけたマスターが読みかけの小説を裏返しながらこちらに向かってやってくる。僕は僕のあとから入ってきた夏希が隣に並ぶのをみながら口を開いた。

「ご無沙汰しております、えっと。今日は彼女と一緒に……」

「ん? 彼女?」

マスターは僕の隣にいる夏希の姿が見えていないのか、きょとんとしている。

(あれ?)

「えぇっと……」

(もしかして……夏希って僕にしか見えてない?)

マスターにどう説明しようか悩んでいた僕に夏希が肘で痛くない程度に突いた。

「ね。私もよくは知らなかったんだけど……理一以外には見えないみたいだね」

「え、やっぱそうなんだ」

こんな小説や漫画みたいなことがおこるなんてやっぱり信じられない気持ちがまた湧き上がって来る。

「理一くん?」

(あ、やば……っ)

焦る僕を見ながら夏希がぷっと笑いつつも、夏希は僕に平然と話しかけてくる。

「ねぇ理一、とりあえずさ、マスター驚かせてもあれだし。あそこ、カウンターから一番遠いし久しぶりに座らない?」

「うん、そうしよっか」

そう返事をしてから、しまったと口を手のひらで押さえるがあとのまつりだ。

「……さっきから大丈夫かい? 理一くん?」

こんなにすぐ近くで夏希とやり取りしているのにマスターには全く聞こえないらしく、マスターの眉間には皺が寄っている。

「あー、マスターすみません。ちょっと暑さでそのぼんやりっていうかそのー……休憩したら落ち着くと思うので」

「無理してないかい?」

「ほんとに大丈夫です。あそこの席いいですか?」

僕はマスターに向かってカウンターからは本棚を挟んだ一番奥の席を指さした。ちょうどその席はいつも僕と夏希がお気に入りで座っていた席だ。

「それは構わないけど……」

マスターの返事を聞くとすぐに夏希が「わぁい」とその席へ向かって駆けていく。

「ちょっと待って……っ」

「こら理一、シーッ!」

(あっ……)

夏希はこちらを振り返りながら人差し指を自身の唇に添える。

(あー、これは絶対慣れないな……)

僕は度重なる失態に自身の前髪をくしゃっと握った。

(声出さずに夏希と意思疎通とかできないし……声出すしかないじゃん……)

僕がはっと顔をあげればマスターがポケットからスマホを取りだしている。

「……お盆でもやってる病院探そうか?」

「いや、全然っ大丈夫です。それよりマスター、僕めちゃくちゃ喉乾いてるんでクリームソーダ二つください」

「えっ、二つ?!」

マスターが驚くのも構わず僕は大きく頷いた。

「いいのかい? 理一くんはいつも夏はアイスティーのイメージだけど」

「はい、今日はクリームソーダがすっごく飲みたい気分なんでお願いします」

僕はそう言ってようやくマスターに注文を終えると、こちらに向かって手招きしている夏希の元へと向かった。

「はい、おまちどうさま」

マスターによって僕の目の前に置かれたふたつのクリームソーダに夏希がぱっと目を輝かせる。

「今日は特別、クリーム多めにサクランボもふたつね」

「ありがとうございます」

「ありがとう~マスタ~」

マスターは僕に向かって「じゃあごゆっくり」と告げるとカウンターへと戻っていく。

僕は目の前に置かれたふたつのクリームソーダのうちの一つを夏希の前に移動させた。

「わぁ。すっごくおいしそ~、飲んでいい?」

「勿論……てか今更だけどさ。夏希って飲食できんの?」

僕の言葉に夏希が「あっ」と声を出した。

「確かにー、私って飲めるのかな? 喉は乾いてるんだけど」

「いや僕に聞かれても……幽霊の飲食事情って全く想像つかないんだけどさ……」

「あはは。だよね~、女も幽霊も度胸! よし、飲んでみちゃお」

夏希はそう言うと桜色の唇でストローをそっと口に含む。そして小さな口をすぼめた。すると、夏希のクリームソーダのかさが少しづつ減っていく。

(!!)

「おいし~!! 理一っ! 見た?!」

「見た……すごっ!」

無意識に出てしまった僕の驚きの声に、本棚の向こうからマスターの声が聞こえてくる。

「理一くん、どうかした?」

「あっ、すみません! 美味しすぎただけです!」

目の前の夏希が腹をかかえて笑っている。

(誰のせいだよ……)

僕の盛大なため息が聞こえたのかマスターの声がまた聞こえてくる。

「理一くん、なにかあったら遠慮なく言ってね」

「はい!」

(気をつけて小声にしなきゃ……)

僕がふうっと静かに一息つくのをみながら夏希がにんまりしている。

「もう夏希のせいだからな」

「ごめんごめん。だってまさかクリームソーダ飲めるなんてびっくりでしょ?! 幽霊って飲食できるって証明しちゃった」

「……いまふと思ったんだけど、これ傍からみたら、勝手にクリームソーダが消えてるってこと?」

「あはは、そうだね~、すごい! 怪奇現象じゃん」

「それ自分で言う?」

確かに怪奇現象かもしれないが、それよりも一人でブツブツと小声で話しながらクリームソーダを二つも頼んでいる僕の方が怪奇かもしれないなとも思う。

僕は嬉しそうにしている夏希を見ながら、はじめて頼んだクリームソーダをようやく口に含む。

シュワっとしたメロンソーダの炭酸が舌先と喉をピリッとさせるが、じんわりやってくる独特の甘さがクセになりそうだ。

「どう、はじめてのクリームソーダは?」

夏希がおどけたように右の拳をマイクに見立てて僕の方に突き出してくる。

「う~ん。なんか夏希みたい」

「私?」

「そう。いつも振り回されてばっかだけど何か新鮮で刺激的でさ。でも時折、その……気遣ってくれたりとか……僕のこといつだって応援してくれたりさ……」

夏希のふと見せる優しさはクリームソーダのクリームみたいに甘い。って、そんな恥ずかしいこと言えるはずはなく僕は言葉尻を濁した。

「当たり前じゃん。どれだけ一緒にいると思ってんの」

「まあね」

その時、夏希がふいに窓の外に視線を向けた。

「あ……」

「ん?」

見れば小さな女の子が兄と思われる小学校高学年くらいの男の子におんぶされながら、仲良さげに商店街を歩いていくのが見えた。

「……中二の夏祭りの帰り道おぶってもらったことあったよね」

「ああ、うん。今だから言えるけど僕人生で一番必死だったかも」

「あはは、重かった?」

「そうじゃなくて。夏希があんまり謝るから泣き出すんじゃないかって」

あの時、内心気になっていたことを口に出すと、夏希が困ったように肩をすくめた。

「……確かにちょっと泣きそうだったかも。というか泣いてた。理一に迷惑かけすぎて」

「なんだよそれ。あの日も思ってなかったし今までだって全然迷惑なんて思ったことないし……なんなら僕の夏の思い出ナンバースリーに入るし」

「ぷっ。なにそれっ、理一の夏の思い出の一つが私をおぶったことなの?!」

「そうそう」

僕らはクリームソーダを吸いながら顔を見合わせて笑う。
勿論、僕は声を抑えて。

それから僕が夏希とずっとこうしていたくて、ゆっくりクリームソーダを飲んでいるのに対して、夏希はあっという間にクリームソーダを飲み干しサクランボを食べ終わると、テーブルに肘を突いて僕をじっと見つめた。

「ねぇ、理一」

「ん?」

「小説書くのやめたの?」

「なっ……」

夏希はいつだって唐突だ。こうして急に質問されてなんて答えようか思案したことなんて数え上げたらキリがない。

「その顔そうなんだ。ねえ、どうして?」

「…………」

僕はすぐに答えることができずに下唇を湿らせた。

できれば聞かれたくなかった。でも夏希なら聞いてくるだろうなとは予想はできた質問だ。

けれどいくら予想していても実際にこうして向かい合った状態でそれも夏希の真剣で綺麗な瞳で問われれば、僕はただ口を噤むしかなかった。

「理一の夢だったでしょ」

「それは……」

僕が小説を書くのをやめた理由は一つだけ。
それは──夏希がいないから。
ただそれだけ。

僕は小説は書いていたがどこかのサイトに掲載することはしていなかった。だって僕にとって読んでほしいのも感想を聞きたいのも夏希だけで十分だったから。

夏希のいない世界で僕が小説を書くのなんてなんの意味もない。そう思った僕は小説を書くことも小説家になりたい夢も手放してしまった。

「理一?」

「うん……」

かと言って、これらの言葉を口にすればまるで自分の身勝手な弱さを夏希のせいにするみたいで僕は何も言えない。

このままどうにかやり過ごせないかなと思うが夏希は僕から視線を外さない。


「そろそろ……家の……手伝いしようかなって」

絞り出すようにして答えた僕の言葉に夏希が片眉を上げた。

「実家の会社、継ぐことにしたの?」

「うん、まぁ。一人っ子だし。長男だし」

「そうなんだ。でも別に書くことは続けられるでしょ? 私、理一の書く小説好きだよ」

うまく話の矛先を変えたはずがまた戻ってくる。

「もういいじゃん、この話は」 

「良くないよっ」

夏希にしては珍しく語気を強めた言い方に僕は心臓がどきんとした。

「諦めて欲しくない。私知ってるもん、理一が小説書くの好きなこと……それに嘘ついてることも……」

「別に嘘なんて……」

「……ごめんね」

「え?」

見れば夏希の綺麗な目にはうっすらと涙が滲んでいる。

「え……っ、ごめん、えっと俺……」

僕は突然の夏希の涙に酷く狼狽する。

「理一は全然悪くない。私が悪いんだよ。私が……死んじゃったから……っ」

夏希の目からゆっくりと涙の粒が落下してテーブルの上に丸くシミを作った。

「夏希……」

咄嗟にポケットを探るがポケットには財布と小説が入ってるだけ。

「ごめん、ハンカチなくて。あと……やっぱり僕こそごめん」

僕はそういうと増えていくテーブルの丸い涙のシミを見つめた。夏希は僕が小説を書かなくなった理由をきっと察してる。

「ずっと……理一を応援するって言ったのに……」

「……僕こそ……ごめん……ずっとごめん」

「理一が謝ることないよ」

「ううん。だってあの日……僕が……」

「違う。理一のせいじゃない!」

夏希が顔をぶんぶんと振ると頬につたう涙を手のひらで拭った。

「僕のせいだよ……だって……っ」

そう誰がなんと言おうと僕のせいだ。
あの日──夏希が死んだ日。僕と夏希はいつものように近所の図書館に行っていた。

僕が調べものをしながら小説を書いてる隣で夏希は新刊の恋愛小説を読んでいた。

いつもの光景だった。何ひとつ疑っていなかった。夏希のいる日々が当たり前すぎて。僕の隣から夏希がいなくなるなんて頭の片隅にもなかった。

図書館にきて一時間ほどたったときだった。

僕は窓の外に雨がぽつりぽつりと降り出してきたのを見て、夏希に先に帰るよう言ったのだ。

「あの日、僕が……夏希と一緒に帰ってれば……夏希は……」

僕はあの頃、夏希の勧めもあり初めてコンテストに挑戦しようと暇さえあれば図書館に入り浸っていた。僕が小説なんか書いてなかったら。コンテストに出してみようだなんて柄にもないことしようとしなければ。
そしてちゃんと出掛けに天気予報をチェックして雨具を持っていたら。

後悔はいつだってあとから遅れてやってくる。
どうせ過去は変えられないのに。

そして、たらればなんて意味がないと思いながらも、そう思わずにはいられない。

僕はずっと僕自身がゆるせなかった。
何よりも大切な夏希を守ってあげられなかった僕を。

「……理一……私はね、もし一緒に帰ってても運命は変わらなかったと思う」

「なんで……そんなことわかんないじゃんっ」

怒りを含んだような言い方をした僕に向かって夏希が眉を下げた。

「わかるの。いまこうして幽霊になってみて……うまく言えないけどわかるの。私は誰かを助けて命を落とす運命だったんだって」

「でも……っ、僕は」

「理一も誰も悪くない」

夏希は力強くそう言うと涙に濡れた目で僕に微笑んだ。

「それに私、誰かの命を救えたこと後悔してない。死んじゃったのは予想外だったけど……死んだ後も役に立てたしね」

「…………」

僕の心の中に黒いモヤがあっという間に増殖していく。顔も知らない誰かなんてどうでもいい。夏希さえ生きて笑ってくれていたらそれだけで良かった。

こんな醜い僕のことを知ったら夏希は僕を軽蔑するんだろうか。

夏希は川で男の子を助けた後、心肺停止で病院に運ばれ、懸命な治療も虚しく脳死と判定された。そして鞄の中の財布から出てきた臓器提供カードから夏希のご両親は悩んだ末、臓器提供を決めた。僕はそれを聞いたとき、悲しさよりも怒りが沸き上がったのを覚えている。

世の中はいつだって理不尽で不平等だ。 

いま目の前に神様がいるなら僕は掴みかかっていると思う。僕には夏希だけだったのに。
人の命を危険を顧みず助けた夏希の命まで奪う必要なんてあったのだろうか。いまだに受け入れられなければ到底、納得も理解もできない。
僕の時間は止まったままだ。


「……なんで夏希じゃなきゃだめなんだよ……っ」

「…………」 

「夏希じゃなくても……よかっただろっ」

「そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。人の生死に正解なんてないんだよ、きっと」

「それでも……僕は……納得なんかできない……僕は……わかったなんて言いたくない」

いうべきじゃないのかもしれない。

でもいましか感情のおもむくままに夏希に伝える機会がないかもしれない思うと、押し込めてきた思いが黒いモノが涙と一緒に溢れていく。

「苦しい……苦しくてたまらないっ、あの時から僕はどこにも行けない……っ」

「理一……」

「ただ夏希がずっと一緒にいてくれたらそれでよかったのに……っ」

感情がぐちゃぐちゃになる。夏希との思い出や夏希への想いが溢れて、変えられない過去と現実に気が狂いそうになる。

「……ごめんね。ごめんね、理一。でも私はこれで良かったって思ってる……川に飛び込んだ時は苦しかったけど男の子も助けられたし……死ぬ前に多くの人を救うお手伝いできたから」

「……いいって」

「聞いて。心臓は男の子に、腎臓は家族がいるまだ若いサラリーマンの男の人に、角膜は私と同じくらいの女の子にあげて……誰かのより豊かな人生を送るお手伝いができたの」

「やめろって……そんなこと聞きたくない……っ」

「大事なことだよ。私は私の意思で選んだ人生の終わりを納得してるの、満足してるの」

「そんなのあとからいくらでも理由付けれるだろ……夏希だって本当は……っ」

それ以上は言うことができなかった。言ってしまえば夏希の死を否定してしまうから。それに僕だってそこまで馬鹿じゃない。

──生きたかっただろ?

そんなこと言葉にしなくたって夏希もわかってるし僕だってちゃんと本当はわかってる。

ただあの日から僕はずっとあの川辺に立ちすくんでる。夏希がいなくなってからずっと。

隣に夏希がいなきゃ一人でなんてどこにも行けやしないんだ。

一人で夢なんて追ったってなにも心に得られない。楽しくない。笑えない。生きるのが辛い。

空しいんだ。
寂しいんだ。
苦しいんだ。

鼻の奥がツンとして頬に温かいものが流れていく。僕はそれを手の甲で雑に拭うと夏希から視線を逸らした。

「……ごめ、ん……っ」

「ううん。私こそ自分勝手でごめんね」

僕は悲し気な顔でそう呟いた夏希に首を振った。

僕の前には夏希が確かにいて、その距離はテーブルを挟んで僅か三十センチほどなのに僕らの間には大きな川が横たわっているような感覚になる。

夏希はやっぱりずっと遠い場所に行ってしまったんだと胸が押しつぶされそうになる。

「……ねぇ、今日こうして理一に会いにこれたのは神様がこの世で頑張った私にご褒美をくれたからなんだよ」

「え? ……神様?」

突然でてきた呼称に目を丸くした僕に向かって夏希はなにやら自慢げに、へへっと笑って見せる。

「すっかり言うのが遅くなっちゃったけどさ、あの世に行った誰もが幽霊になって会いたい人に会えるわけじゃないの」

「……どういう、こと?」

そう言いながら僕はすぐに夏希の言葉の後半が気になった。

(さっき会いたい人って……言った?)

夏希は一瞬だけ目を宙に泳がせてから、長いストレートの黒髪を右耳にかけた。

「うーんと、つまりね。前世っていうか、生きてるときの徳ってものが人よりも大きいとちょっと優遇してもらえるっていうか、早めに生まれ変われるっていうか、転生っていうか……あ。これあの世の機密情報だから言わないでね」

「誰に?!」

思わず突っ込んだ僕に夏希がいつものように大きな口を開けて笑う。

夏希は本当にいつも唐突で、それでいて場の空気の変え方がうまい。暗い顔してもいくら後悔の念を口にしても泣いてもなにも変わらない。

夏希が死んでしまったという耐え難い事実はどうしたって変えられない。それなら夏希はきっと僕に笑ってて欲しい。

夏希はそう思ったから、いまこんな嘘か本当かわからない話で僕を少しでも慰めようとしてくれてるんだろう。

「……そのさ……生まれ変わるとか転生ってどういうことなの?」

僕が訊ねた質問に夏希はうーんと首を傾げる。

「実は私もうまく説明できないんだよね。あの世の仕組みって日本経済よりもずっと複雑だから」

「え、経済って……夏希そういうの疎かったじゃん」

「もう、理一ってほんと余計な事ばっか覚えてるのね」

夏希が頬を膨らませるのを見ながら僕はふっと笑った。

違うよ。夏希だから。夏希の良いところも悪いところも楽しかった思い出もつらかった記憶も忘れられない。ううん、忘れたくない。

「僕さ夏希のこときっと一生忘れないから」

真顔でそう言ったつもりだが、夏希は照れ笑いのような顔を浮かべた。

「大袈裟だな~理一くんは~ときどき思い出してくれるぐらいでいいのに」

「……毎日思い出すに決まってんじゃん」

「えぇっと……そんなに私のこと気になるんだ~」

「茶化さないでよ」

「あ……えと。ごめん……」

そう呟くと夏希が僅かに下唇を噛むのが見えた。僕はまた変に夏希に気を遣わせないようすぐにフォローに入る。

「別に怒ってないからさ」

「うん……」

夏希だって僕に言わないだけできっと葛藤も後悔も未練もあったと思う。ないわけないのだ。
でも過去は変えられない。変えられるものってなんだろう。

少しの間、僕らの間に沈黙が流れた。そして先に口を開いたのは夏希だった。

「さっきの……嬉しかったよ」

「え、さっき?」

「一生忘れないって言ってくれたこと……私もさ、理一のこときっと一生……生まれ変わっても忘れない」

そういうと夏希が僕の手のひらにそっと触れた。その掌は驚くほどに冷たい。


「理一。夢、諦めないでよ。私、理一の小説はきっといつか沢山の人の心を動かすって信じてる」

「夏希……」

「はい。約束して。夢追いかけるって。私のためにも私の分も諦めないで」

「なんだよ、ずるい言い方だな」

夏希はふふっと笑ってから僕に向かって小指を差し出した。

「はい」

「懐かしいな」

「でしょ、よく子供の頃はゆびきりしたよね」

「だね。いつも約束させられてるのは僕だったけど」

僕もそう言いながら右手の小指を夏希の小指を絡める。

「理一約束だからね。もしやぶったら──」

「どうなるの?」

「もう二度と会いにきてあげない」

「嘘だろ……それきっつ」

「あはは」

夏希らしい罰だなと思いながらも僕の心の真ん中からはいつの間にか黒いモノがいなくなっていることに気づく。

今日の明日でまたすぐに小説が書けるとは思わない。でも夏希がここまで言ってくれるなら、また夏希に会えるかもしれないなら筆をとってもいいかな、なんて思い始めている現金な自分が確かに心に芽生えている。

「はい、ゆびきった」

夏希は満面の笑みでそう言うとテーブルから急に立ち上がった。

それをみて僕はあわてて氷で薄くなった残りのクリームソーダを飲み干す。

「え。夏希、どこ行くの?」

「そろそろ帰ろうかなって、日も落ちてくるし」

「え? どこに?」

「理一ん家に決まってるじゃない」

「えぇっ……」

「じゃあ幽霊って財布持ってないんで、お会計よろしく~」

そういうと夏希はさっさと店先にとめている僕の自転車へと歩いていく。

(ったく……)

いつもいつも気づけば僕はこうやって、夏希に振り回されてばっかりだ。
でも胸が躍るほどに嬉しいし、なによりも心があったかくて居心地がいい。なんて、照れくさくて夏希には絶対言えないけれど。
僕は店のガラス窓越しに手を振ってくる夏希に軽く手をあげると、伝票を持って会計しに向かった。

マスターはトレードマークの丸いメガネを外し、肩肘をついたまま珍しくうたた寝をしていた。

(良かった……マスター寝てたんだ)

マスターの年は聞いたことないが確か昭和三十年生まれだと以前話してくれたことを思い出す。

(それにしてもマスター白髪増えたな)

マスターは早くに奥さんを亡くし、奥さんとの思い出がつまっているこの地で喫茶店を始めたと聞いたことがある。

そして僕と夏希がはじめてこの店に足を運んだのキッカケはたしか五年前、商店街の福引で当たったドリンクチケットだった。そして夏希がいなくなって二年。

月日が経つのは長いようで早い。あと何年経てば僕は僕を許せる程度には変われるだろうか。それとも望まなくても意図せずとも川の流れに身を任せるように、日々を過ごす中でいつしか僕が見たい景色へと変わっていくのだろうか。

──コンコンッと窓ガラスを叩く音がして振り返れば、夏希がマスターを見ながら微笑んでいる。僕は夏希に向かって首をすくめた。

ひとりなら本でも読んで起きるのを待つところだが、僕は夏希を待たせているのが悪いと思い、財布から千円札を二枚出してカウンターに置いた。

そして立ち去ろうとした時だった。マスターの瞼が開くと、はっとした顔をする。


「……あ、理一くん。すまないね……いつもならこんなことないんだが……眠ってしまってたようだ」

「いえ、ついさっきお会計にきたんで大丈夫です」

マスターはすぐに丸メガネをかけると目尻を下げた。

「今日はなんだか不思議な日だ」

「え?」

「……夢を見たんだ。なぜだかうちの妻と夏希ちゃんが楽しそうにおしゃべりをしててね。妻と夏希ちゃんは会ったこともないのに。僕は遠くからそれを見てるんだが……とても幸せな気持ちになったよ」

マスターはさっと目じりを親指の腹で拭うと僕が置いていたお札を手に取りふわりと笑った。

「お代は結構」

「でも……」

「そのかわりまた時々きてくれないかい? 理一くんの小説も良かったら読ませてほしいしね」

「え、どうしてそれを?」

「随分前に夏希ちゃんがいってたよ。理一は絶対小説家になる。私は理一のファン第一号なのってね」

マスターが皺皺の目元をくしゃっとさせながら笑った。

(ほんと夏希って……)

僕は猫背気味の背中をしゃんとさせた。

「じゃあお言葉に甘えて、ごちそうさまでした。あとこちらこそ良かったら読んでください」

「ああ。楽しみにしてるよ」

僕は手を振るマスターに笑顔を返すと、カランという鈴の音を心地よく聞きながら店をあとにした。

僕はすぐに夏希のところへいくが、夏希の視線は店内に向けられていて夏希がぺこりとお辞儀をするのが見えた。
もしかして夏希の姿がマスターにも見えたのかと思い店内に目を遣るが、マスターは再び読書を楽しんでいる。


「夏希?」

夏希はカウンター方に向かって窓越しに今度は小さく手を振ってから僕の方を振り返った。

「えっと……誰に挨拶してたの?」

「ちょっとね……、まぁ幽霊仲間かな」

「え?! 仲間って……」

「まあまあ。そこは詮索しないで」

僕は思い切り詮索したかったが、きっと僕にはその友達と会うことも話すこともできないと悟り、自転車の鍵を鍵穴に差し込んだ。


「……それにしてもやっぱ外あつ……っ」

店内は冷房がかかっていて快適だったが外は陽が落ちる時間とはいえまだ暑い。

「待たせてごめん、夏希暑かったよね?」

僕はそう言いながら自転車を押すと先に自転車にまたがった。

「残念でした〜私は幽霊よ、暑さは感じないの」

「え?! そうなの?!」

夏希がクスッと笑うと僕にグッと顔を近づけてコツンと額をくっつけた。

「……わっ」

「どう?」

額に冷たい感触が走ったのもあるが、夏希との距離の近さに僕の心臓がはち切れそうになる。

「つ、冷たい……あと……なんかえっと涼しい」

「でしょ? 接触冷感の術〜」

「な、なんだよそれ」

さっき自転車を漕いでいる時は気づかなかったが僕は店に着いた時、汗ひとつかいてなかったことに気づく。

「あれれ? 理一の顔あかーい、なんでだろ〜」

「……そ、それは、術の効果薄くて……暑いからだよっ」

夏希がクスッと笑いながら僕から顔を離すと、いたずらっ子のように白い歯を見せて笑った。