未央からイベントに参加したいと電話がかかってきたときは、正直驚いた。どれほど誘っても頑として首を縦に振らなかった彼女に何かあったのは間違いないだろう。電話では詳しく聞けなかったが、直接会えば、心変わりの理由を聞けるだろうか。

 切り雨に着くと、ちょうど未央が店先の掃き掃除をしているところだった。

 清楚な無地のワンピースをまとう品の良い後ろ姿をまじまじと眺める。後ろで束ねた髪からのぞく真っ白なうなじが綺麗で、思わず見とれそうになるのは、どんな男であってもそうだろう。垢抜けた女の人にあまり出会えない町だからこそ、彼女自身は控えめなのに、うわさになるのも仕方ないほどやけに目立つ。

「おはようございます、八坂さん」

 いつまでも後ろ姿を見つめていると、あらぬうわさを立てられかねない。声をかけると、未央は驚いて振り返る。

「井沢さん、いつからそこに? 全然気づかなくてごめんなさい」
「いえ、いま着いたばかりです」

 嘘ばっかりだが、笑顔でそう言うと、彼女はなんの警戒心もなくほほえんで、店の引き戸を開く。

「中へどうぞ」
「開店前に入っては、ご迷惑では?」

 しぐれの忠告が脳裏をよぎって、そう尋ねる。

「大丈夫ですよ。お呼び立てしたのは私ですから」
「いえ、そうではなくて」
「そうではなくて?」

 未央は不思議そうに首をかしげる。

 うわさされていることを知らないのだろう。どこか浮世離れした雰囲気を持っているし、普段から下世話な話などしないように見える。

「お付き合いしている方に誤解されませんか?」

 はっきりと尋ねると、彼女はびっくりしたようにまばたきをした。

「そのような方はいませんから、ご心配なく」

 そう言って、くすりと笑う。

「俺もいませんよ」

 聞かれてもないのに答えて、店内へと入る。

「井沢さんはご結婚されてないんですか? 落ち着いていらっしゃるから、てっきり」
「もう32になりますが、まったく縁がなくて」
「私より5つ年上なんですね」
「八坂さんはお若いですね」

 妹のしぐれより2つ年上のようだが、年不相応に落ち着いている。いや、しぐれが子どもっぽいだけかもしれないが。

「井沢さんだって」

 軽口をきくように話したあと、未央はカウンターの前に置かれた椅子に案内してくれる。

「昨夜は遅くにお電話して申し訳ありませんでした。今日もいらっしゃるっておっしゃっていたから、わざわざお電話しなくてもよかったですよね」
「いえ、イベントの書類を持ってきたので、二度手間にならずにすみました」

 バッグから書類を取り出して、カウンターに広げる。イベントの計画書や安全に関する契約書、会場のレイアウトなど、さまざまな書類だ。

 未央はそれらを一枚ずつ手に取り、入念に確認していく。切り絵作家だからか、それとも、彼女の所作が美しいだけなのか、指先の動きひとつ取っても丁寧で、品の良さが漂っている。

「どうして、参加してくれる気になったんです?」

 参加申請書にサインする彼女にそう尋ねる。

「昨日、有村さんがいらしたでしょう?」
「有村くんが何か?」
「有村さんとお話していたら、切り絵体験をやってみたくなったんです」

 有村は教師の手をわずらわせることのない平凡な生徒で、未央の心を動かしたと聞けば、少々驚く。

「そう言ってましたね。無料の体験コーナーをやりたいと」
「有村さんが切り絵の飾りを探していたので、いっそのこと、ご自身で作られてみては? と思ったんです」
「へえ、有村くんが切り絵の飾りを。またどうして?」
「お母さまにプレゼントしたいそうです。あ、内緒ですよ、この話。井沢さんは主催者だからお話してるんです」

 人差し指を立てた唇に、年相応の愛らしさを感じて、なぜだかホッとする。

「学生のために決断してくれたんですね。ありがとうございます」

 頭を下げると、未央はいえいえと首を振り、両手のひらを胸の前で合わせる。

「井沢さんにお願いがあるんですけれど」
「何か?」
「有村さんにお祭りに参加するように伝えてくれませんか? 井沢さんにご相談してからと思ったものですから、有村さんにははっきりとまだ伝えられてなくて」
「お安い御用ですよ。イベントの案内は学生たち全員に配布しますから、そのときに声をかけておきますよ」

 そう言うと、未央は安堵したのか、胸に手を当てた。