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 いったん、切る作業に取り掛かると、睡眠時間を忘れて集中してしまう。

 つい先日、めまいで倒れたばかりで、ちゃんと寝てくださいとしぐれに怒られる毎日だったが、店番をしてくれる彼女のおかげで、新作は予定よりはやく仕上がった。

 台紙の上に乗せた切り絵をじっくりと眺める。

 黒の背景に、白の輪郭で浮かび上がるウェディングドレス。その中には、黄色の月見草が咲いている。そして、梔子(くちなし)色の雨が、ドレスの女性に降り注ぐ。

 朝晴は気に入ってくれるだろうか。下書きを見せたときは、「仕上がりが楽しみです」とだけ、笑顔を見せてくれたけれど。

 早速、未央はゴールドの額縁に切り絵をはめ込んだ。

 太陽のような朝晴には華美なものが似合う。彼をイメージして特注した額縁に、作品は想像通りの姿でおさまった。

「井沢さん、未央です。たったいま、作品が完成したので、お電話しました。……えっ、今からですか? だって今日は……」

 作品の完成をいち早く知らせようと、まだ仕事中かもしれないと思いつつ、朝晴に連絡したら、「ちょうど帰るところだったので、このまま寄ります」と一方的に電話は切れた。

 朝晴が切り雨にやってきたのは、それから10分後のことだった。

「出来上がったばかりで、まだ片付いてないんですけれど」

 未央は朝晴をアトリエへ案内し、道具を片付けながら話しかけるが、作業台の上に置いた切り絵をしげしげと眺める彼の耳には届いていないようだ。

 真剣な横顔には、やはりイベントコーディネーターとしての厳しさがある。作品を見る目は確かだろう。未央は黙って、彼を見守る。

「豪奢だけれど、物悲しい。しかし、希望も感じられる良い作品ですね」

 そう、顔をあげて笑顔を見せる朝晴は、いつもの快活な彼だった。

 未央はほっと胸をなで下ろす。満足してもらえる作品になっているようだ。

「作品名は、月の雨でしたね」
「はい。月を隠して降る雨のことです。晴れたら美しい月はそこにあるのに、雨が隠してしまう悲しみを表現しました」
「ウェディングドレスの女性は、未央さん?」
「そう思われますか?」
「そんな気がしただけですが」
「そうですね。私は花嫁にはなれなかったですけれど、悲しい出来事がなければ、綺麗なドレスを着られていたかもしれません」

 うらみごとを言ってしまうが、朝晴は穏やかな笑顔で受けとめてくれる。

「では、未央さんが俺のもとに来たがっていると、作品を通じて告白してくれたと受け止めますが、いいですか?」
「えっと……」

 飛躍した解釈だ。しかし、あながち間違いではない。戸惑ってしまうと、朝晴はおかしそうに笑う。

「いつもあなたは作品を見るものに解釈をゆだねますよね。そういうことにしておきます」
「あの……、はい」

 否定もできなくて、迷ったあげくにうなずくと、どういうわけか、朝晴は生真面目な顔をする。

「未央さん」
「なんですか?」
「月の雨を、展覧会に出してみませんか?」
「展覧会って、西島先生の? 最初からそのつもりで?」

 展覧会には出品しないと言ったのに。がっかりしたような気分になっていると、朝晴は小さく首を振る。

「そんな顔しないでください。そういうつもりがなかったとは言いませんが、純粋に未央さんの作品が欲しかったからオーダーしたんです。無理なら無理でいいんです。ただ、切り絵作家として活躍する未央さんの未来を俺は見てみたいと思っています」

 きっぱりと答える彼が望むものを、未央はどう受け止めたらいいかわからない。

 展覧会へ参加しても、今すぐには何も変わらないだろう。しかし、作家としての成功を目指すのなら、いずれ、東京へ戻ることになる。それは、清倉で静かに暮らしたいと願う未央の思いとはかけ離れたものになる。

 朝晴は違うのだろうか。彼は清倉での生活をやめ、東京へ戻り、イベントコーディネーターとして、ふたたび、活躍したいのだろうか。

 しぐれも最近は、調理師としての働き口を探し始めている。未央の周囲を取り巻く環境が、以前とは違うものになっていくのを感じている。

 朝晴もしぐれもいない清倉を想像したら、不安にはなる。変わらないものを求めるのは、取り残されるような気分にもなるのだ。

 ようやく、朝晴の思いに前向きになれると思っていた。しかし、そのときはあまりゆっくりと待っていてくれないのかもしれない。

「いつかは東京へ戻られるの?」
「戻りませんよ。なぜ、そんなふうに思うんですか?」

 朝晴はすぐさまそう答えた。

「イベントコーディネーターとして、私の活躍を見たいとおっしゃったのだと思って……」
「ああ、それはいいかもしれません」
「やっぱり、教師よりもそちらの仕事をしたいんですよね」
「そうは言ってませんよ。未央さん専属のコーディネーターもいいですね。それなら、教師をやりながらできますし」
「専属ですか……」
「公私混同は嫌ですか?」

 朝晴はにこやかに笑んで、そう言う。

「公私って……」

 なんでも手に入れたい。実際に手に入れる器量のある朝晴に戸惑っていると、彼は真剣な表情をする。

「聞きました。未央さんは八坂議員のお嬢さんだそうですね」
「公平さんから聞いたの?」
「ええ。未央さんはしかるべき家の男と結ばれる人だから、俺では無理だと言われましたよ」
「それは……」
「違わないと、正直思ってますけどね、俺はそんなことで簡単にあきらめる男でもないんですよ。どうしても付き合いたい。未来はどうなるかわかりませんが、そのときそのとき、ふたりにとって最良の選択をしていきましょう」

 その言葉は未央にとって心強かった。環境が変わっても、朝晴は自分を置いていかない。だからといって、歩むのをやめるわけでもない。それならば、自分ができることもあるはずだ。

「もし、仕事で井沢さんが東京へ行くことになったら、戻ってもいいですよ。そのときは一緒に行きたいです。ここには東京からでも通えますから」
「それは俺も同じですね。ここからでも、東京に通えますから。それじゃあ、そういうことでいいですか?」
「そういうことって?」
「お付き合いしてくれますか?」

 朝晴はまっすぐな目をしている。それは、彼がまっすぐな人だからだ。だから、すぐに迷いそうになる自分に必要な人だと思う。足りないものを分けてくれる、そういう人だから惹かれる。

「井沢さんを信じてみたいと思います」
「信頼は裏切りませんよ」
「わかってます。だから、好きになったと思うから」
「帰りたくなくなりますね」
「それは困ります」

 くすりと笑い合って、未央は月の雨を箱にしまう。紙袋に入れて朝晴に渡すと、彼はまだ帰りたくないような往生際の悪い顔をしたが、帰るようにうながす。

「次はいつ会えるかなぁ。教師って、本当に忙しいんですよ」

 朝晴はぶつぶつ言いながら、裏口へと向かう。

「いつでもいらしてくださいね」
「それじゃあ、もう少し……」
「今日はお祖母さんの誕生日だって、しぐれちゃんが言ってましたよ。お祝いするんじゃありませんか?」
「ああっ、そうだった。車にプレゼント乗せてたんだった。帰ります。……明日、また明日、来ますから」

 あわててドアを開ける朝晴が、ハッと空を見上げる。

「あら、雨ですね」

 いつの間に降り出したのだろう。今夜はきれいな満月が見られると思っていたけれど、真っ黒な空からは細かな雨が降り、月は雲に隠れてしまっている。

「未央さんは雨に好かれてますね」
「そうですか?」
「俺も好かれてるかも」
「そう言えば、井沢さんが帰られるときはよく降りますね」
「きっと、応援してくれてるんですよ。雨が降るたびに、未央さんと過ごせる時間が伸びるから」

 朝晴はドアを閉めると、身をかがめて未央の顔をのぞき込む。

「雨がやむまでここにいていいですか?」
「きっとすぐにやみますよ」
「キスをするにはじゅうぶんです」




【第五話 月の雨 完】