文彦に伝えなかった何かを、未央は後悔しているようだ。その彼女がどういう女性かは知らないが、しぐれに聞けば、何があったかはわかる。いま、未央を傷つけてまで聞く必要を感じなくて、朝晴は黙ったまま、未央の話に耳を傾ける。

「文彦さんの気持ちが私から離れてるって気づいたとき、ちゃんと言えばよかったです。きれいごとでも、ただ一緒にいたいんだって」
「それが、未央さんの本心なんですね」

 胸がちくりと痛む。未央にそう思わせたほどの男への嫉妬だろうか。同時に、もどかしさもある。勝負したくても、その男はもうこの世にいない。

「文彦さんも一緒にいたいって言ってくれたとしても、私は別れを選んだと思います。裏切られたことはどうしても許せなかったから。でも、ちゃんと気持ちを伝えていたら、文彦さんは死ななかったかもしれません」
「生きていてほしかったですね」
「はい。私とは別の世界でずっと生きていてくれたら、それでよかったんです」
「大切な人の幸せを願える未央さんは優しいです」

 たとえそれが、自分を裏切った相手だったとしても。

「優しくないです。全然。愛した人を憎らしく思ってた私は、きっと文彦さんから醜く見えていたと思います」
「違いますよ、それは」

 すぐに否定すると、未央は柔らかな笑みを浮かべる。ありがとうと言われたみたいだった。

「いつだったか、しぐれが言ってました」
「しぐれちゃんが、なんて?」
「未央さんは誠実な世界に生きてる感じがするんだって。きっと、文彦さんとは違う世界で生きることを選んだときに、未央さんはちゃんと別れるべき人と別れられたんですよ。だから、しぐれはそう感じたんじゃないかな」
「しぐれちゃんがそんなふうに……」
「俺もそう思いますよ。未央さんはもう傷つく必要はないし、後悔もしなくていい。新しい幸せに目を向けていったらいいんですよ。作家としても、ひとりの女性としても」

 未央の手に、朝晴はそっと手を重ねる。彼女もまた、優しく抱くように、もう片方の手を重ねてくるが、その瞳はどこかさみしそうに揺れている。

 まだ心を通わせるには早いのか。そう思ったとき、未央はつぶやくように言う。

「私はもう、欲深に生きるのはやめたんです」
「欲があるのは、悪いことではないですよ」
「そうですね。私はこのまま、清倉で静かに自分らしく生きていきたいです。婚約を機に、作家としての成功に執着するのは終わりにしました。婚約も解消して、いろいろなものを手放しました。今は残った幸せに満足しています。ですからもう、作家として名を馳せることも、誰かと幸せな結婚を得ることも望んでないんです」

 今の未央は、公平と結婚する気はない。しかし、朝晴と結ばれる気もない。

 その選択は、未央がいまだに傷ついている証拠に思えたが、朝晴は優しく手を握り、「少し休みましょう」と、説得したい気持ちをこらえて促した。

 程なくして眠りについた未央を残し、朝晴が階段を降りていくと、「いらっしゃいませー」と客を迎えるしぐれの声がした。

「あれっ、お客さん、たしか、未央さんの?」

 常連客だろうか。しぐれが気安く話しかけたから、朝晴は、誰だろう? と店内へと顔を出す。

「財前です。今日は未央さんに話があってきたんですが、いま、どちらに?」

 カウンターの前に立つ青年がそう言ったのと、目が合ったのは同時だった。

「井沢さん、でしたっけ?」
「ええ。お久しぶりです」

 丁寧にあたまをさげたつもりだが、公平は不服そうな顔をした。

「またアトリエに来てたんですか?」

 責めるような言い方をされて、閉口する。どうにも、この男が苦手だ。若さゆえのとげとげしい攻撃性に対する嫌悪と、同じ女性を思うライバル心からか。

「未央さんの体調が良くなくて、私が呼んだんです。ご用件でしたら、私がうかがいます」

 不穏な空気を感じたのか、しぐれが間に割って入ってくる。

「体調が? だから、ひとりで店を切り盛りするのは大変だって言ったのに。俺がもっと早く気づいていれば……」

 驚いてまばたきをした公平は、すぐにいらだちと後悔をにじませてつぶやく。

「ちょうどいま、休まれたところです。しぐれ、様子見に行ってやってくれないか」

 朝晴がそう言うと、しぐれは「あっ、うん」と、困惑しながら、のれんをくぐり出ていく。

「未央さん、どんな様子ですか?」
「疲労と睡眠不足みたいです。今から店を閉めて、病院へ行くところです。妹も、普段はあんなに動ける身体じゃないので心配もありまして」
「妹? ああ、そうか。妹さんがアルバイトしてるって言ってましたね。そう言えば、彼女、先日は車椅子に。妹さんと病院に行くなら、未央さんは俺が……」
「いえ、ふたりとも俺が連れていきます。申し訳ありません。急用でなければ、お帰りいただいてもいいですか? 今日は未央さんも話せる状態じゃないですので」

 遮ってそう言うと、彼はあからさまに不機嫌になった。

「従業員のご家族がそこまでする必要ないでしょう。俺は婚約者ですよ」
「婚約者とは言いますが、未央さんは婚約に納得してるんですか?」

 公平がどう言おうとも、納得してないのは知っている。強気の態度を見せると、彼も黙ってられないとばかりに剣呑とした声を出す。

「一方的に俺が言ってるだけとでも?」
「少なくとも、未央さんは婚約を承知してないですよね」
「未央さんがなんて言ってるかは知りませんが、そうだとしても、あなたは未央さんとは結婚できないですよ」
「決めつけないでもらいたい」
「俺が嫉妬だけで言ってると思ってるんですか? 未央さんとあなたとでは、つり合いが取れないって言ってるんですよ」
「そんなのわからないでしょう」

 つい、感情的に言い返してしまったが、公平は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「ご存知じゃないようだから教えてあげます。未央さんは八坂議員の娘なんですよ。そこらの男と結婚するようなご令嬢じゃないんです」
「八坂議員?」

 朝晴が眉をひそめると、得意げに公平は続けた。

「政治に関心のない人でも知ってるでしょう。若くして大臣を経験した八坂尚幸(なおゆき)議員です。将来は総理大臣になるかもしれないとうわさされる有望な国会議員ですよ」

 八坂議員なら、テレビや新聞でよく見るからもちろん知っている。注目されている議員の一人だ。しかし、未央が彼の娘だなんて、にわかには信じられない。

「本当ですか?」
「もちろん、本当です。八坂の家につり合うのがどちらか、あなたならわかりますよね。未央さんだって、今は迷ってるかもしれませんが、最後は財前と結婚するのが一番幸せだってわかってくれます」

 公平は自信に満ちた表情で、断定するようにそう言った。